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2018年6月13日 (水)

我が身さへこそ動がるれ

 遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば
 我が身さへこそ動がるれ
   (この歌謡は『梁塵秘抄』巻二 四句神歌・雑に収められている;四句神歌は,平安後期の雑芸 <ぞうげい> の一つで,神楽から世俗の流行歌謡に移行したものである;「動がるれ」は「ゆるがるれ」と読む <佐々木信綱の校訂による> )
 
 上の今様は『梁塵秘抄』の中で最もよく知られている歌である.どれ程知られているかというと,YouTube に初音ミクが歌っている動画があるくらいだ.若い人がやってしまいそうな誤字があるけれど.w
 
 山中恒『児童読物よ、よみがえれ』は本ブログの連載記事《母子草》で紹介した書籍だが,その最初の節「子ども観の歴史を越えて」の冒頭に,この「遊びをせんとや……」が引用され,続いて次のように書かれている.
 
これについて最近読んだ月刊幼児教育雑誌の中の一文が、やはりこの歌を冒頭に引いて、
 
  遊び戯れながら育ってゆく子らによせる限りない愛と期待、無常の世を生きる親の、子の将来に対する不安と希望、その微妙なゆれ動きが「我が身さへこそ動がるれ」という、結びの言葉に集約されています。/子どもたちの心や体が、無心の遊びの中でより美しくたくましく育って行くことを願う、いつの世にも変わらぬ親心といえましょう。
 
と、かなり調子よく、まさに後者の所論
[ブログ筆者註;子どもは純真であり,親が子を思う心は深いものだとする説] を代表するように親心を讃えていた。ところが、ここに歌われている「我が身」とは、「遊び戯れ」ている子どもたちとは何の関係もない、遊女なのである。つまり「遊び戯れるためにこそ生まれてきたものであろうか」という子ども観が、その子どもの声で罪障に汚れはてて済度し難いとされる遊女の心までおさえ難くさせるというのである。「声」に象徴される童心世界への思い入れ、もしくは憧憬が浄化作用をもたらすという、かなり宗教的な色合いを含むもので、この歌の構成をなす主体と客体の対比のうちには、罪障に汚れたものと純真無垢なものというパターンがあり、子どもは純真無垢なものとしている。これとても、果たして純真無垢なものかどうか……。意地悪な観方をすれば、「遊び戯れる」内容はわかっていない。ことによると、餓鬼どもはひきがえるをたたき殺して遊んでいたかも知れないのである。逆に言えば、子ども期から離脱してからの時の流れの無常感へのモチーフとしての「声」への思い入れである。ということになれば「いつの世にも変わらぬ親心といえましょう」というのは見当違いだし、ちょっと困惑せざるを得ない。
 
 上の引用部分に示した山中恒の「子ども観の歴史を越えて」が書かれたのは昭和五十一年 (1976年) である.
 その当時の大学受験生にとって入試国語の神様の一人は,日本学士院賞受賞者にして,受験参考書界におけるロングセラーの名著『古文研究法』(洛陽社<初版,再版,改訂版>;ちくま学芸文庫,2015年) の著者,小西甚一先生 (当時の東京教育大学教授,のちに筑波大学副学長;旺文社大学受験ラジオ講座の講師) であった.小西先生は梁塵秘抄の研究が有名であり,先生が私たちに示した「遊びをせんとや生れけむ」の歌の解釈は「罪深き生活を送っている遊女が,身をゆるがす悔恨をうたったものである」であった.(『梁塵秘抄考』 <昭和十六年>;うろ覚えでなく正確に引用しようと思って古書の『梁塵秘抄考』を検索したら,とても高価だった.横浜市立図書館に所蔵されているようなので,近々借りて読もうと思う)
 
 すなわち山中恒が「子ども観の歴史を越えて」に書いた「遊びをせんとや生れけむ」の解釈は,小西甚一『梁塵秘抄考』を踏まえたものである.昭和四十年代に大学受験をした団塊世代の老人諸兄も,この歌は,遊女の身をよじるような (←「我が身さへこそ動がるれ」) 悔恨の歌であるとの解釈に異論はなかろうと思う.
 
 だが『梁塵秘抄考』以後,色々な解釈がこの歌に行われた.
 今,ネット上のブログを探すと,現在容易に入手できる植木朝子氏の著作から現代語訳を引いて,純真無垢な童心を歌ったものだとする明るい解釈ばかりになっている.遊女の哀しい心境とは無関係だというのである.
 老人としては,なんだか納得し難い.
 初音ミクの歌唱を聴くと,明るいポップスのような気がするが,しかし例えばもし森田童子が歌ったとしたら,「遊びをせんとや生れけむ」は悔恨の調べであったに違いない.
 梁塵秘抄は歌詞しか残っていない.だが,歌は歌詞だけではわからない.
 童心を歌うポップスなのか,悔恨なのか.こればかりは,時間旅行して遊女の歌いぶりを聴いてみるしかないのだろう.
 
 森田童子の訃報を聞いて,これを書いた.

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