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2018年6月

2018年6月29日 (金)

有意義な生活

 msnニユースに下の記事が掲載された.
 
図書館:本に付箋を貼らないで 「恐怖写真」ネットで反響  》 (掲載日 2018/06/28 10:16)
 
 転載ソースは毎日新聞の下の記事.
 
図書館:本に付箋を貼らないで 「恐怖写真」ネットで反響  》 (2018/6/28 10:16,最終更新6/28 12:14)
 
 私は最近,神奈川県立図書館や横浜市立図書館で,昭和の中頃の古い図書を借りることが多いのであるが,その本の半分くらいは製本状態が崩壊寸前である.
 そのような未修理本を見て,修理ボランティアを志したのであるが,素人には先ず修理方法の講習をしなければいけないわけで,それが面倒なのか,県立図書館はボランティア募集をしていない.横浜市立図書館は,現在登録済のボランティアの活動報告はしているが,新たな募集はしていない.
 ほとんどの団塊世代が社会からリタイアし,テレビ漬けの日々ではなく何か意味のあることをしたいと思っている今こそ,図書館は修理ボランティアを募集したらどうだろうか.
 私はもちろんのこと,爺さん婆さんが怒涛のごとく押し掛けると思うのだが.
 
 青空文庫のボランティアをしたいと思ったこともあるが,こちらは敷居が高い.生半可な気持ちではだめなようである.
 点字入力のボランティアは,日本点字図書館が窓口だが,これは定員制であり,現在は定員に達しているので受け付けてもらえない.どうしてそんな狭き門にしているのかわからないが.
 
 というわけで,私がやりたいボランティアは,すべて門前払い状態なのである.
 それならそれでよし.徒党を組まず,著作権切れしている文学作品を勝手にテキスト化してみようかなと思っている.

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2018年6月28日 (木)

すなおな女

 夏風邪をひいた.
 発熱して,一日中,寝床に横になっているが,体がダルくて仕方ないのに,ピンポーンと誰かが玄関に来たらしい.
「どなたですか」と訊くと,「○○でーす」と若い女の声がいう.
「○○」には全く心当たりがない.

 某宗教の場合は単独では行動しないし,誰ですかと訊くと「ボランティア活動をしている者です」と答えるのが普通だから,それではなさそうだ.
 よくわからんが玄関ドアを開けてみたら,二十代と思われる女が立っている.
 以下は,その女との会話.

私「○○ってなんですか」
女「御主人が不要になったネックレスとか電器製品がありましたら,現金で買い取りしまーす」
私「ああ,査定するとか言って勝手に家に入ってきて,勝手に持ってく業者ですね.警察が注意するよう呼び掛けているアレね.社会問題になっているやつ」
女「はい」
私「はい,ってあなた,すなおだな w とにかく私はネックレスとか貴金属は持ってないからお引き取りください」
女「はーい,またよろしくお願いしまーす」

 なんだか素っ頓狂なものを見て,夏風邪が一段と酷くなったような気がする.ww

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2018年6月26日 (火)

初めての台湾 (八)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (七)
 
 ツアー三日目は,台湾鉄路管理局平渓線の終着駅である菁桐駅 (Wikipedia【菁桐駅】) まで団体バスで移動し,ここからローカル線の乗車体験をする企画だ.
 
20180626a
 
 行先は十分駅だ.九份は「份」で,十分は「分」だが,意味というか歴史というか地名の由来的に関係があるらしく,現地ガイドRさんが説明してくれたが,忘れてしまった.ヾ(--;)
 十分駅で何をするかというとランタン飛ばし (天燈上げ) だ.平渓線は運行がまばらなので,観光客は線路に立ち入り,ランタンを飛ばして遊ぶのである.
 十分駅の線路沿いには商店が立ち並んで,Wikipedia【十分駅】 に
 
線路沿いの飲食店・民芸品店・ランタン店は合わせて140軒あり、これらは線路すれすれの場所に位置しており、列車入線時には写真を撮る人や手を振る人で賑わう。
 
と書いてある通りの賑わいだった.
 
20180626d
 
 ぶらぶら見物しながら歩いていたら,商店街のはずれに縁日屋台的な店があった.その店の食い物がとても旨そうだったので,私は朝飯を食って間もないのに買い食いしていたら,添乗員のSさんもその店にやってきて,この店,おいしいんですよ,と言った.
 Sさんは台湾の仕事が多いのだそうで,台湾のB級グルメは詳しそうであった.
 
 さてランタン (天燈,天灯,スカイランタンとも) は下の写真のごときビニール風船的熱気球で,Wikipedia【天灯】によれば,本来は紙製のようだが,私たちが飛ばしたのはビニールだった.紙では使い捨てになるが,観光業者は,飛ばした気球を回収して使い回しすることと,安全性 (紙製の天燈は火災の原因になるだろう) に配慮しているのだろう.
 
20180626c
 
 ということなのだが,ランタン飛ばし自体は大の大人がおもしろいと喜ぶようなものではない.夜に,大勢で一斉に飛ばしたら,きれいな光景かも知れないが.
 
 この日は天気が悪く,十分にいた午前中はまだ雨が降ったり止んだりしていたが,その次に向かった基隆中正公園あたりから本降りになった.
 雨のせいか基隆中正公園には人影はなく,その次は野柳地質公園に近い野柳漁港へ行き,その波止場に面した海鮮料理店で昼食をとり.それから野柳地質公園を見学した.
 その料理店はかなりカジュアル w な店構えで,レストランは二階だが,階下は魚屋であった.日本でもそういうタイプの海鮮料理店は,伊豆とか三浦半島の漁港でお目にかかる.海鮮は鮮度が命だから,魚屋がやっている店はたいてい美味な料理を出すものと決まっている.(私の普段の行動範囲にも,茅ヶ崎,藤沢から鎌倉に至る海岸にその手のおいしい店がある)
 で,この海鮮料理店での昼食でも,例のAが「甲殻類は気持ち悪くて食べられないので,私の分を誰か食べてください」攻撃をぶちかましてくれた.
 円卓に次々と料理が運ばれてくると,真っ先にターンテーブルを回して,一番の御馳走である大きな清蒸魚 (団体の会食用に,店員さんが切り分けてくれた) を自分の取皿に取ったり,無作法放題の挙句にようやく前菜の皿を手前に持ってきて
「だーれー? 前菜取り過ぎたひとはー これじゃ私の分が少ないじゃない!」
と放言した.前菜を最初に取らないお前さんのマナーが悪いのだよ.
 話は先に飛ぶが,この日の夕食を食べた広東料理店でも同じで,山盛りのエビ料理に誰も手を付けないという珍事が起きた.エビは気持ち悪いと何度も言われりゃ食欲は失せようというものである.願わくばAにエビの呪いがかかりますように.
 
 さて食事後,野柳地質公園に入ったのだが,台風並みの荒天で,海からの風が強くて傘を両手で差していたので写真が↓しかない.orz
 
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 写真が撮れなかったのは残念だが,ネットにはほかの人がたくさんの写真を掲載しているから,それでよしとする.ヾ(--;)
 
 強風と雨の野柳地質公園を後にして,台北に戻り,龍山寺行天宮に参詣した.
 
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 いずれも大層な人出で,にぎやかであった.ツアーメンバーの中の若いお嬢さんたちは,現地ガイドのRさんから,龍山寺の恋愛の神様「月老神君」 の前で台湾式御神籤のやり方を教えてもらった.せっかく教えてくれたのだが,もはや恋愛に縁のない私はやり方をもうすっかり忘れた.でもネットを参照すれば方法は出ているから,それでよしとする.ヾ(--;)
 
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 ホテルに帰った三日目の夜,私はどこにも出かけずに,残ったウイスキーを部屋で飲んで寝た.
 
 さて最終日は台北滞在は午前中だけなので,観光はせず御土産を買うのに充てられている.DFSとかなり大きい土産物店と,「茶楽」というお茶屋さんだ.
 DFSはブランドものばかりなので私は無縁.茶楽では中国茶の淹れ方セミナーを受けて,そのあとショッピングした.私の後ろを日本語ペラペラの婆さん店員が密着して離れず,あれをどうだこれはどうだと喧しく,とうとう押しの強さに負けてプーアル茶を買った.
 
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 そのプーアル茶は直径 11cm,厚さ 2cm ほどの円盤状に固めてあり,円盤一個がおよそ日本円で二千円で,六個入りだ.万円を超すから土産として安くはないが,茶としては日本の高級な煎茶よりずっと安いし,少量で何度も (色がでなくなるまで,と茶楽の店員さんは言っていた) 淹れられるから,日常茶の部類だと言ってもいいだろう.正直を申し上げて,これはよい買い物だった.柔らかな風味の飲みやすいプーアル茶で,私はそこら辺のウーロン茶よりも旨いと思う.現在もまだ愛飲し続けているが,横浜の中華街で入手できるならまた買いたいと思う.
 買い物のあとは空港へ行き,搭乗前にSさんやツアーメンバーとお別れ.成田到着後は自由行動の流れ解散となるからである.
 さて次回の旅行はいつになるか.秋までは南の方へはしんどいから行かない予定である.
(了)

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2018年6月24日 (日)

門前の小僧

 小学館のニュースサイト「NEWS ポストセブン」に《カレーの常温保存は危険 温め直しても菌は死滅せず》という記事が掲載された.
 厚労省が先日,夏に発生しやすいカレーが原因の食中毒について注意を喚起するよう国民に呼び掛けたが,それがこの記事が書かれたきっかけだろう.
 それはよしとして,この記事の最後にこんなことが書いてある.
 
また、カレーやシチューなどを、鍋に入れたまま室温に置いておくのは危険だ。
「煮込むと熱に弱い菌は死滅しますが、熱に強いウェルシュ菌が残ります。この菌は、45℃以下になると急増。一度発生すると温め直しても死滅しません。2時間以内に20℃以下に急冷することが大切です」(大石さん)
 傷みやすいじゃがいもやにんじんを除いてから、ラップを敷いた密閉容器に入れ、粗熱がとれたら、ラップでくるみ、冷蔵または冷凍するのがおすすめだ。

 
 除いた《傷みやすいじゃがいもやにんじん》は,どうしろというのか.捨てるのか.肉よりもイモとニンジンが多い庶民のカレーはほとんど捨てることになるが.w
 鍋の中で食中毒菌はカレー全体に存在している.どの材料が傷みやすいとか,そういうことがなくなっているのが煮込み料理というものなのだ.
 
 引用文中の (大石さん) は管理栄養士だと記事に書いてあるが,料理本を何冊か書いている人のようだ.管理栄養士は,調理と栄養は専門だとしても,食中毒については専門家ではないのだから,取材を受ける前に少しは勉強してほしいものだ.
 あと,《45℃以下になると急増》とあるのは間違いで,正確には47℃.詳しいことは国立感染症研究所のサイトに解説がある.

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2018年6月23日 (土)

軍国主義アニメ

 小学生の私が初めてみたアニメ映画は,日本公開が昭和三十一年 (1956年) のディズニー映画『わんわん物語』だった.たぶん父親自身が観たかったので私を連れて映画館に行ったのだと思うが,すごいものを観たという感激を私は今でも覚えている.
 その次は東映の『白蛇伝』で,これは学校側が視聴覚教育の一つとして,校庭に大きな柱を二本立て,これに布を張り渡したスクリーンを作って生徒にみせた.抒情的な優れた作品であり,私はこれが日本製アニメの出発点だったと思う.

 昨日から,櫻本富雄『ぼくは皇国少年だった』(インパクト出版会,1999年) を再読している.
 この櫻本氏の著書は,戦前・戦中に戦争協力者だったにもかかわらず,戦後はその過去を隠蔽し,あたかも戦争中に反戦姿勢を貫いたかのような嘘をつき続けた人々のことが書かれている.文化人の戦争責任を問うた評論集である.
 この書籍に評論「アニメ・桃太郎・海の神兵」が収められている.初稿は昭和五十九年 (1984年) で,これは戦中に製作された軍国主義宣伝アニメ『桃太郎 海の神兵』に対する批判である.
 私が冒頭に『白蛇伝』が日本製アニメのスタートだと書いたのは,私は『桃太郎 海の神兵』(と姉妹編『桃太郎の海鷲』) をクリエイターの作品であるとは認めないからだ.これは少国民を戦争に動員するために海軍省と大本営海軍報道部が作ったプロパガンダ映画だからである.
 私は知らなかったのだが,Wikipedia【桃太郎 海の神兵】に次の記載がある.

2016年、第69回カンヌ国際映画祭のクラシック部門に出品され、7月23日よりデジタル修復版がユーロスペースなどで上映。

『桃太郎 海の神兵』をカンヌ国際映画祭に出品するのは,ナチスのプロパガンダ映画をカンヌ国際映画祭に出品するのと大差ないと思うが,映画祭に出した時の評判はどうだったのだろう.調べているが資料が見つからない.

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2018年6月22日 (金)

初めての台湾 (七)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
  
* 前回の記事《初めての台湾 (六) 》 
 
 九份 (Wikipedia【九フン】) までのバス車中で,現地ガイドのRさんが九份という古い町の歴史を話してくれた.旅の途中で感じたことだが,美人のRさんはとても賢い人でもあるらしく,バス車中ではずっとマイクを放さないで喋り続けているが,台湾が日本の植民地であった時代のことに触れざるを得ない時でも,上手に「植民地」とか「統治」という言葉を避けてガイドをした.
 クラブツーリズム添乗員のSさんとは仕事で旧知の間柄らしく,SさんはRさんの人柄を手放しで褒めるのだった.Sさんも仕事のデキる添乗員だったから,このツアーはいい旅であった.メンバーが女性ばっかりだったし.ヾ(--;)
 
 さて Wikipedia【九フン】にも書かれていることだが,九份はかつて金を産出する鉱山の町で,日本統治時代に最盛期を迎えた.
 台湾出身で最も有名な歌手の一人である一青窈の父は,九份の金鉱経営で成功し,台湾五大財閥の一つに数えられた顔一族の長男・顔恵民であった.
 金鉱は第二次世界大戦後に採掘量が減り,1971年に金鉱が閉山されてから九份は寂れたが映画『悲情城市』のロケ地になったことをきっかけに観光地化に成功し,現在は台湾を代表する観光地である.
 
 その九份観光について書かれたブログを覗くと,「九份」と書く人もいるし「九份老街」と書いている人もいるが,混乱している人もいる.「老街」は固有名詞ではなく“old town”の意だから「九份老街」は間違いではないだろうが,地域の呼称としては少し広いかも知れない.
 そこら辺の的確な解説はないかと検索したら,《基山街》というウェブコンテンツに,
  
基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります。平均3メートルに満たない幅の曲がりくねった細い老街です。「基山」とは「基隆山」のそばにあることを意味し、基隆山のふもとの古道から山沿いに曲がり道が続き、大竿林地区で軽便路と合流します。全長は850メートルにも達し、古くは「暗街仔」と称されました。
 
基山街の歴史は明治38年(1905年)ごろ、基山街と豎崎路の交差点付近にいくつかの店舗が並び始めたところから始まります。大正5年(1916年)には、顔雲年が土地を提供し、台北庁が経費を負担してできた魚菜市場(現公営市場の前身)が営業を開始し、基山街の地位が確立して商店が林立しました。ゴールドラッシュの時期には、基山街は九份で最もにぎわう商店街でした。
 
九份が没落すると、基山街は3~4軒の商店しか残らないほど寂れました。そして九份が再び繁栄すると、基山街は地の利を生かしてあっという間に大商店街の活気を取り戻しました。両脇には200軒もの商店が軒を連ね、基山街は狭く曲がりくねっていますが、人の波が押し寄せ、まるで影響はありません。民国89年(2000年)に九份では「大紅燈籠まつり-媽祖を迎え、百年を慶ぶ」が催され、多くの人出でにぎわいました。そして沿道の赤い燈籠も基山街と豎崎路の主な特色のひとつとなっています。
 
バス停の表示は基山街の入口が「旧道口」、豎崎路の入口が「九份」となっています。その理由は汽車路が開通する前、九份の主要幹線は豎崎路と保甲路を通って物資を運んでおり、豎崎路が九份地区の代表だったからです。昭和12年(1937年)、自動車路(汽車路の旧名)が開通すると、交通の中心は汽車路に移り、基山街は現地で「旧道」と呼ばれるようになりました。そして汽車路と基山街の交差点は「旧道口」と呼ばれ、九份地区の生活物資の出入口となり、貨物輸送の新たな中心となったのです。

 
という説明があった.
 
 上の引用中の《基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります》が「老街」の意味と規模を示す良い用例だと思われる.ついでにこのサイト《九份老街日帰りの旅》は台湾観光に大層役に立つと紹介しておく.
 
 九份の街に到着してツアーバスを降りると,すぐ昇り階段があり,ここを上がって行くと狭い広場があった.
 今日の夕食会場はこの広場に面した九戸茶語だ.
 
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 添乗員Sさんが「この階段をどんどん上がって行くと,茶館やレストランが両側にあって,途中に撮影スポットもあるし,上の方の十字路で左右に曲がるとお店がたくさんありますので,夕食まで自由時間をお楽しみください」とメンバーに行動予定を説明した.
 私は単独行動したが,女性たちは数人のグループで買い物やお茶を楽しんだようだ.
 Sさんが「この階段」と呼んだのは豎崎路という細い坂道で,ここに『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆の湯屋のモデルであると自称している阿妹茶酒館 (阿妹茶樓) がある.日本人女性観光客必訪の店であり,それでかなり儲けていると思われるが,さすが宮崎監督は事を荒立てることなく大人の対応である.日台友好万歳.
 
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 さらに坂を昇ると,上の引用文に書かれている九份最大の商店街である基山街と交差する.街区の名称が基山街で,観光客向け案内図には“street”と書いてあったから,たぶんこの細い道自体は基山路というと思う.
 ここを左に曲がると,行けども行けども果てしなく商店が並んでいる. 無駄遣い 買い物と 暴飲暴食 飲食を楽しむつもりのない私は飽きてしまい,途中で引き返して,会食場所の九戸茶語に戻り,再集合までそこらをぶらぶら歩きして時間をつぶした.
 九份散策を楽しみたい向きには,ブログ《ぺたぺた台湾とりっぷ 》がよくできているので紹介しておく.
 
 さてそうこうするうちに陽が落ちて,広場から豎崎路の上まで張り巡らされた提灯に灯がともった.九戸茶語の周辺は異国情緒たっぷりで,台湾では女性観光客に人気のレストランの一つとされているのが納得である.
 
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 会食の献立は台湾の郷土料理だそうであるが,それほど普通の中国料理と異なるものではなかった.
 コースの中で「エビの紹興酒蒸し」が出されたのだが,昼に鼎泰豐で会食した時に「甲殻類は気持ち悪いので食べられない」と放言したツアーメンバーAが「エビは気持ち悪くて食べられないので,どなたか私の分を食べてください」とまたもや言いやがったのだ.
 同行者の中で一番御高齢と思しい上品な御婦人がツアーに参加しておられたのだが,料理が運ばれてくると,マナー知らずのAは年長者をそっちのけでターンテーブルを回し,自分の食いたいものをどんどん取って行くのであった.「エビをあげるんだから,いいわよね」と言わぬばかりの呆れた振る舞いだった.この女がいなければ最高な夕食のはずであったのだが,私は呆れつつ老酒の盃を口に運ぶのであった.
 
 夕食後は台北のホテル,洛碁大飯店・林森館に戻ったのだが,ロビーでAを除く若い娘さんたちに「飲みにでかけるのですけど御一緒しませんか」と誘っていただいた.爺さんに否やのあろうはずはなく,欣喜雀躍して彼女たちとタクシーに乗った.行先は日本人に人気のあるというパブだ.
 私はいつも紙パック入りの安い焼酎を愛飲しているのだが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.ワインメニューからおしゃれなカクテルを選び,彼女らのおしゃべりを楽しく聴いた.もちろん勘定は私持ちである.(あとでカード請求された日本円金額を見て驚いたが後悔はしてない.するもんか.うう)
 
 暫くして,一番若いお嬢さんが「また夜市にいきません?」と言うので,そうしましょうそうしましょうとタクシーをパブに呼んでもらい,ホテルに一番近い夜市に行った.
 その夜市は観光客相手というよりは地元の人たちが食事をするところらしく,固定ではない屋台が道路の真ん中にテントを張って営業していた.私は満腹だったので,ウズラ卵のフライを食べた.これは,ウズラ卵を,油を引いたタコ焼きの鉄板に手際よく投入し,衣なしの素揚げにしたものを,食べやすいように串刺しにしたものである.日本の屋台では見たことがない.調味は屋台店に備え付けのケチャップとかマスタードである.これは小腹がすいた時に二本くらい食べるとちょうどいいかも知れない.
 
 そんな風に二日目の夜は更けていったが,若いお嬢さんたちは頗る元気で,ホテルは近いから歩いて帰りましょうと言う.私はいささか疲労していたが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.元気っぽく彼女らの後を付いていき,ホテルの部屋に戻るなりベッドにぶっ倒れたのであった.
(初めての台湾 (八) へ続く)

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2018年6月21日 (木)

雑話

[埋め種]
 今日の更新原稿が落ちそうなので,埋め草の雑話をアップする.「埋め草」は昔は「埋め種」と書いた (「言い種 <いいぐさ>」と同じ用法) のだが,今はネット上に見当たらなくなってしまった.
 
[股下]
 グンゼの公式通販ページとかユニクロの通販とかで,丈短めのパンツ (一例) が最近のトレンドらしい.夏だからね,短めパンツと,ソックスではなくフットカバーをして靴を履けば足元すっきりしていいなあ,と思って購入したのだが,私にはぴったりサイズだった.
 
[45 ピース]
 私はジムで汗を流したあと,いつも藤沢銀座通りのダイエーに寄り,食料を買って帰る.
 ダイエーの建屋は一階にKFCが入っていて,先週からだと思うが,水曜日限定のキャンペーンとして,オリジナルチキン 9 ピースを千五百円で販売している.
 昨日,その 9 ピースバレルを買ってきた.
 一回の食事に 2 ピース食べるとして,二日間もフライドチキンを食い続けるのである.さすがに飽きるかも知れない.
 知人からのメールに,五人の家族全員が,仕事帰りに 9 ピースバレルを買ってきたとあった.こういう悲劇があちこちで発生しているだろう.
 
[父の日]
 MS IME は,「母の日」は一発変換するが,「ちちのひ」は「父の被」になるので単語登録した.
 その「父の日」に,そう遠くない所に住んでいる娘がプレゼントを持ってきてくれた.
「事務グッズだよー」と言うので,私の文房具好きをわかってるんだなー,と思いつつ,ラッピングを開けたら,中に入っていたのは,マイクロファイバーのスポーツタオルだった.ジム用品であった.

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2018年6月20日 (水)

『母子草』ノート (9)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
* 前回の記事《『母子草』ノート (8)
 
 磯田道史氏著の一般向け新書や文庫などを読んでいると,平明な文章だから私たち読者はどんどん読み進んでしまうのだが,実際には氏の著作は史料の深い検討の上に書かれているのだろう.
 私は理系の人間で,歴史学は全くの門外漢だから,前回の記事で紹介した論文『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』(大川原竜一著) を読んで,歴史学の研究レベルの仕事はこのように進めるものなのだなと感じ入った.
 中でも,おおそうなのか,と思ったのは,この論文の初めのほうに書かれている次のことである.
 
かつて桜井徳太郎氏は、(中略) 「一つの縁起が成立し伝承されて行く過程には、かならず変化の歴史が伴って」おり、「縁起伝説の歴史的変化を跡づける作業が重要な意味をもってくる」と述べている。また達日出典氏は「縁起は、その寺院の内部事情の変化や寺院をとりまく外的条件変化に伴い、常に書き換えられるものであることを前提に置き、広く寺院史の中に、縁起の形態 (内容構成) を系統的にするべき」と指摘している。
 歴史学の分野においては、虚飾・潤色彩られる縁起の物語的要素を史実と混淆することなく実証的に考察を加えて、縁起それ自体の史料的価値を分析しなければならないのは当然である。けれどもその一方で縁起を制作した寺社の意図のみならず、それらを要望した時代的背景や信仰の担い手・受容層が存在したことは事実であり、地域的固有性、信仰上の差異や担い手などによって多種多様な内容構成をもつ寺社縁起も、寺社の歴史的環境やその発展、また縁起制作当時の宗教的・思想的背景に位置付けることで、その時代性を考える「史料」として対象化することができる。
》 (文中の下線はブログ筆者による)
 
 論文著者の大川原氏は,上に引用した立場で竹生嶋縁起を批判的に考察している.(前回の記事に私は,日本大百科全書ニッポニカに書かれている竹生嶋縁起の解説に関して《この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている》と書いたが,大川原氏は《竹生島縁起群》としている.二つよりも多いらしい)
 
 その考察の中から,私が知りたいこと (竹生島信仰の歴史) を抜き出すと,以下の通りである.
 
[1]竹生島信仰の始まり
 護国寺本『諸寺縁起集』所収の竹生嶋縁起 (以下,承平縁起と呼ぶ) は,承平元年 (931年) に書き起こされ,天暦元年 (947年) と永祚元年 (989年) に追記がなされた.
 この縁起には,島名の由緒が書かれており,大川原論文によれば次のようである.
 
倭根子天皇 (孝霊天皇) の時代のこととして、気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命の三神が天降り、近江国坂田郡 (承平縁起本文では「坂田評」) の東方に下座した気吹雄命と、同じく浅井郡の北辺に下座した浅井姫命が勢力を競い争った伝承である。のちに浅井姫命が北辺を去って海中に下った音が「都布々々」といったことから島の名 (「都布夫嶋」) として名付けられ、さらに年月を経て竹篠が生え出たことから「竹生島」の漢字が当てられたという、いわゆる地名起源伝承になっている。
 
 欠史八代と呼ばれ,実在したとしてもかなり創作性が強いとされる孝霊天皇は,在位期間を機械的に西暦で表現すると五世紀前半の天皇であることになる.浅井姫命が沈んだ島であるから当然竹生島には浅井姫命が祀られたに違いないが,しかしその社である都久夫須麻神社 (竹生島神社) の名が初めて記された史料は,遥か後代の延喜元年 (901年) に成立した『日本三代実録』の,元慶三年 (879年) の記事であると大川原論文はいう.
 ここで特筆すべきは,承平元年 (931年) に成立した竹生嶋縁起 (承平縁起) には,浅井姫命は登場するが,奈良東大寺大仏造立の実質上の責任者として著名な行基は,天平十年 (738年) に竹生島を訪れ,小さな仏堂 (これが竹生島の宝厳寺の開創とされる) を建てて四天王を祀ったとだけ記されていることである.
 しかるにこれが後世になって大きく変容し,伝説化した行基が竹生島に弁才天や十一面観音を祀ったことに書き換えられてしまうのである.(竹生島と行基の関係については後述する)
 ちなみに承平縁起は,竹生島に千手観音を祀ったのは,天平勝宝五年 (753年),近江国浅井郡大領の浅井直馬養 (あざいのあたいうまかい) という人物であるとしている.
 上記のことをまとめれば,竹生島信仰は,現代では弁財天が本尊であるが,初期には弁才天ではなく,土着神の浅井姫命と千手観音の信仰から始まったのである.
 
 ちなみに,宝厳寺観音堂の千手観音は秘仏であるが,その他に聖観音像も祀られている.私は竹生島に行ったことがないので見ていないが.
 この拙文は,中島千恵子氏が採話し再話した近江の民話「母子草」は,近江の被支配階層庶民の信仰に関わるものではないかという私の仮説に基づいて進めているのであるが,「竹生嶋の弁才天信仰」の勉強と並行して進めている「湖北の観音信仰」に関して集めた資料『特別展 湖北の観音 ―― 信仰文化の底流をさぐる』(長浜市長浜城歴史博物館他編,サンライズ出版,2012年) に,列品解説として次の記述がある.(p.150)
 
木造聖観音立像 一躯 平安時代 (後期)
      像高 六七・五
      竹生島宝厳寺蔵 (長浜市早崎町)
  琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺に伝わる聖観音像。竹生島は弁才天信仰で広く知られるが、平安時代後期に制定された「西国三十三所観音霊場」の札所としても、早くから信仰を集めた島である。本像は、左手に蓮華を執り、右手をかざす通形の聖観音の像容を示す。左右対称的な表現、静かで穏やかな相好、量感を抑えた体躯、浅い衣文表現など、平安時代後期、十二世紀中頃の作風を示す。

 
 仏像彫刻の様式は,非常に詳しく研究されており,専門家が《十二世紀中頃の作風を示す》と鑑定したのであれば,間違いなくそうであろう.現代にまで伝えられたその聖観音が,制作されたのは十二世紀だとしても,竹生島に安置されたのはいつなのか,一言書いて欲しかったと思うのは私だけではあるまいと思う.
(続く)

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2018年6月19日 (火)

死語

 先日,うちの近所を歩いていたら,歩道橋の上の方から盛大な音を立てて男が落ちてきた,w
 見たところ,スマホを見ながら階段を下りているときに足を踏み外したのだと思われた.
 だいじょぶですか,と私は駆け寄ろうとしたのだが,スーツ&ネクタイ姿のその男は,私が丸っきり視界にないかのように,足を引きずりながらヨロヨロと去っていった.なおもスマホ画面を凝視しながら.
 
 テレビが日本社会に普及し始めた時,今はもう団塊世代以上の年寄りしか覚えていないだろうが,大宅壮一が「一億総白痴化」と喝破した.
 あれから六十年,今また再び「一億総白痴化」の幕が開けた.
 まずは今日,スポーツ報知の見出しが長すぎる記事《宝田明、エスカレーターで押され転倒 流血姿をスマホ撮影され…衝撃告白に「事件じゃん」「失礼」と怒りの声 》が衆目を集めた.
 
 記者は上のように書いたが,だがしかし,スマホを凝視しつつ《「事件じゃん」「失礼」と怒りの声》を上げたとされるネットユーザーたちは,いざその現場に居合わせたら,老人の介抱なんぞそっちのけで,スマホ撮影し,ネットにアップするに違いない.運悪くその現場にいなかった者たちが妬みゆえに《「事件じゃん」「失礼」と怒りの声》を上げているに過ぎないと私は考える.
 
 というのはもっともらしい前フリで,私の本意ではない.実をいうと書きたいことは,白いワンピースの女に突き倒されたときの宝田明のセリフ《失敬な。失敬だな、辞めて下さいっ》 (スポーツ報知の記事から引用) である.
 久しぶりに聞いた「失敬な」である.
 倒れた宝田明に群がったヤジ馬どもは,意味がわからなかっただろうなあ.

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2018年6月18日 (月)

ポテサラの食品衛生学 (二)

* 前回の記事《ポテサラの食品衛生学 (一) 》の末尾を再掲する.
さて,ポテトサラダが傷みやすい理由だけでかなり長文になってしまった.このあと,島本教授は驚くべき妄説を開陳したのであるが,それは続きで.
 
 弁当に詰めた四種類のおかずのうちで,一番食中毒の危険性があるのは何でしょうかという問題 (正解はポテトサラダ) に続く問題は《ポテトサラダに先生オススメのあるものを加えると、味も美味しくなり食中毒予防もできるそうなんですが、それは、一体何でしょうか?》だった.(その問題と答えが番組サイトに掲載されている)
 
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(上の画像は,録画データを加工したものではなく,テレビ画面をデジカメで撮り,そのデータをトリミングしたものである.以下の画像も同じ)
 

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 自分で料理をする人にとっては常識であるが,カレーは家庭料理の中で腐敗しやすい料理の代表格である.
 この資料に《ウェルシュ菌食中毒の原因食品別の割合》という図が載っている.
 そのデータを以下に転記する.
 
 煮物       28%
 カレー      21%
 肉の煮込み    11%
 シチュー類     8%
 ローストビーフ   6%
 肉じゃが      3%
 その他      23%
 
 この表で,カレーのウェルシュ菌食中毒発生割合が,肉じゃがやシチュー類よりもずっと高いのは,カレーに用いられる香辛料が著しく菌に汚染されていることが原因である.
 香辛料は主として東南アジアを中心とした発展途上国の農産物から製造される.中でもブラックペッパーとターメリックの芽胞形成菌 (昨日の記事で説明した) 汚染は甚だしい.家庭のキッチンにある食材の中で,最も芽胞形成菌に汚染されているのはカレー粉なのである.(カレー粉の商品価値である香気を失わずに芽胞を破壊するのは,現行の日本の法規制下では非常に難しいためである.機会があれば説明したい)
 
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 カレー粉の原材料である香辛料のターメリックにはクルクミンが含まれており,確かに純粋なクルクミンには弱い抗菌性が認められるのであるが,ターメリックそのものの菌汚染が甚だしいので,少しばかりのクルクミンの効果は焼け石に水である.
 
20180611h
 
 つまり,作り立てで菌の少ないポテトサラダにカレー粉を加えるのは,数千個の芽胞をポテトサラダにぶち込んで,わざわざ食虫毒のリスクを激増させるようなものなのである.
 カレー粉をポテトサラダに入れて菌の増殖が抑制できるのなら,とっくに惣菜製造業者が実行している.スーパーでもコンビニでもカレー風味のポテトサラダが売られていないのは,カレー粉が芽胞形成菌に著しく汚染されていることを惣菜製造業者は承知しているからなのである.
 カレー粉の菌汚染のことを知らないのは《専門は食品衛生学》の島本教授くらいなものだろう.テレビに出る前に,少しは食品衛生学を勉強していただきたいものだ.『世界一受けたい授業』の視聴者が,島本教授発の嘘情報を信じなければよいのだが.

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2018年6月17日 (日)

ポテサラの食品衛生学 (一)

 日本テレビのバラエティ番組『世界一受けたい授業』(6/9 放送) を録画しておいて観たら,季節柄か,食中毒の話題が取り上げられていた.
 弁当に四種類のおかず (鶏の唐揚げ,肉ジャガ,ポテトサラダ,ハンバーグ) が入っていて,その中で食中毒になる危険性が高いおかずは,どれでしょうか,というクイズが出されたのである.
 クイズの出題者は,広島大学大学院生物圏科学研究科の島本整教授である.
 島本教授は,講義の名称でいうと「食品病原遺伝子学」が専門で,広島大学のサイトにある研究室紹介を読むと,現在はノロウイルスの研究をされている.研究室紹介には
 
島本先生の専門は食品衛生学。食品の安全性に関する研究を行う学問だ。なかでも先生は、食中毒を起こす微生物に関する研究を中心に行っている。こうした微生物には、O157、サルモネラ菌、腸炎ビブリオ菌、カンピロバクター、ノロウイルスなどがあるが、日本で起こる食中毒の半数以上はノロウイルスを原因とするものという
 
と書かれているが,《島本先生の専門は食品衛生学》の箇所は誤りである.『世界一受けたい授業』に島本教授は度々「食品衛生の専門家」として出演しているが,島本教授は食中毒の原因微生物を研究しているのであって,食品衛生学の研究者ではない.その理由をこれから述べる.
 
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(上の画像は,録画データを加工したものではなく,テレビ画面をデジカメで撮り,そのデータをトリミングしたものである.以下の画像も同じ)
 
 正解は言うまでもなく,ポテトサラダである.ポテトサラダが腐りやすいことは,ほとんど常識だ.だから作ったらすぐに食べてしまうのがいいが,調理したのが昼過ぎで,夕食に食べる予定という時は,必ず冷蔵庫に入れておく.従って朝作る弁当にポテトサラダを入れるなんてのは,そもそも大間違いなのである.
 それじゃ,コンビニ弁当にポテサラが入っているのはなぜ?
 それは,工場で作る弁当に入れるポテトサラダには,食品添加物である日持ち向上剤と pH調整剤とが加えてあり,細菌が増殖するのを抑制しているからだ.しかもその場合に,ポテトサラダが何時間後も食べて安全であるかを試験して確認済みだからである.
 家庭ではそんな食品添加物は用意していないし,普通の人はそれらを使いこなす技術を持っていない.だからポテトサラダは必ず冷蔵するのだ.それに,日持ち向上剤と pH調整剤を入れたポテトサラダは味が悪いから,おいしいことが大切な家庭料理で,敢えて食品添加物を使う必要はないのだ.
 スーパーでパックに入れて売られているポテトサラダにも,ほとんどの場合,日持ち向上剤と pH調整剤が添加されている.だから,食べてみればわかるが,まずい.
 買ってきた惣菜のポテトサラダを電子レンジで加熱すると,すっぱい嫌なにおいがするのは,pH調整剤のせいである.
 余談だが,気温が二十度を超す季節の弁当というものは,加熱調理したおかずのみを詰め,おかずの色は茶色一色で充分だ.愛妻弁当にトマトだのレタスだのを入れる必要はさらさらないのである.弁当は白い飯と,鶏の唐揚げでよろしい.彩だの栄養バランスだのは,弁当に限って言えば,余計な考えというものである.
 
 閑話休題.
 クイズ出題者の島本先生は,ポテトサラダが腐敗しやすい理由として,次の二つの画面を用いて説明をした.
 
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 以下,上の画像に沿って説明して行く.
 私は,一番目の理由「ジャガイモは水分が多く腐りやすい」という島本説を聞き,驚いてテレビの前の安楽椅子から転げ落ちて腰を強打した.泣きながら書架まで這って行き,『日本食品標準成分表』を取り出した.これは,食品衛生学だろうが食品栄養学だろうか,すべての食品研究者にとってバイブルとも言うべきものである.
 
日本食品標準成分表2015年版 (七訂) から抜粋
        100g中の水分量 (g)
生のニンジン    89.7g
茹でたニンジン   90.0g
生のタマネギ    89.7g
茹でたタマネギ   91.5g
生のジャガイモ   79.8g
茹でたジャガイモ  81.0g
蒸したジャガイモ  78.1g
生のキュウリ    95.4g
 
 これはもう一目瞭然 (下線箇所) で説明の要はない.ジャガイモは水分の少ない野菜なのである.
 島本教授は「ジャガイモは水分が多く腐りやすい」 (ナレーションは画面の文と少し異なり,《ジャガイモは元々水分が多いために腐りやすい食材です》であった) を一体どこからひねくりだしたのか.食品成分表を読んだことがないのか.
 自ら料理をする男はもちろん,妻の家事を少しでも手伝う夫なら皆が知っていることだが,生のジャガイモは腐りにくく,上手に扱えば数ヶ月の長期保存に耐える野菜なのである.
 つまり,「ジャガイモは水分が多く腐りやすい」は大嘘で,「ジャガイモ」ではなく「ジャガイモ料理」が腐りやすいのである.
 なぜか?
 その理由は,加熱調理するとジャガイモ (の塊茎) の細胞 (詳しくは Wikipedia【デンプン】 ,同【アミロプラスト】,日本植物生理学会のQ&Aから《でんぷん粒は液胞?》を参照のこと) が壊れ,そこからデンプンが流出し,これが微生物の良い栄養源になるからである.
 付け加えると,食品などの腐敗には,(1) 水分,(2) 微生物の栄養源,(3) 微生物の繁殖に適した温度,の三条件が必要である.従って,例えば乾燥したデンプンは腐敗しない.
 
 次に,ポテトサラダが食中毒の原因になりやすい二番目の理由として島本教授が挙げた《キュウリなどの生野菜》 (を入れるから) と《調理工程が多い》はどうか.
 島本教授は,腐敗の原因微生物や食中毒菌は加熱すれば死ぬと思っているらしい.ポテトサラダの材料で,加熱して使うのはジャガイモとニンジンだ.タマネギは,生を使う人と,加熱したものを使う人,入れない人がいる.これは好みである.キュウリは普通は生で使う.それで島本教授は《キュウリなどの生野菜》としたのであろうが,キュウリを入れなくてもポテトサラダは腐敗しやすいのである.(キュウリを入れるか入れないかも好みの問題で,キュウリを入れないレシピもある.クックパッドを御覧あれ)
 なぜかというと,芋類や根菜などの農産物には,芽胞形成菌 (spore-forming bacteria) が付着していることが多いのであるが,この芽胞は,調理程度の加熱や,消毒薬などによる処理に強く抵抗するからである.(一般的な消毒薬では次亜塩素酸ナトリウムがやや有効だが,塩化ベンザルコニウムやアルコールは事実上無効である)
 Wikipedia【芽胞】から一部を引用する.
 
有芽胞菌の中にはアンフィバシラス属、バシラス属、クロストリジウム属、スポロサルシナ属などが存在する。このうち、バシラス属とクロストリジウム属が、病原性や微生物の有効利用などの面から、ヒトに対する関わりが深く、代表的な有芽胞菌として取り上げられることが多い。
 
 バシラス属の食中毒菌にはセレウス菌があり,クロストリジウム属にはウェルシュ菌やボツリヌス菌などがある.これらは,ジャガイモの皮を剥き,包丁で切って下拵えする過程では完全には除去できない.従って極端な話,ジャガイモだけでポテトサラダを作っても,食中毒の可能性が存在するのである.
 以上に述べたように,島本教授による「ジャガイモは水分が多いから腐りやすい」とか「ポテトサラダに生野菜を入れると食中毒の可能性がある」という説明は,広島大学の公式サイトで《島本先生の専門は食品衛生学》と紹介されている島本教授が,実は食品衛生の素人であることを示している.
 また,調理の工程数と腐敗しやすさには何の関係もない.クックパッドを覗いてみれば,女性たちが「時短」のために様々な工夫をしていて,手間のかかる料理の工程数を減らしてみせている.しかし,工程数を減らしても,腐りやすいものは腐りやすい.切って皿に盛りつけただけの料理でも腐るものは腐るのである.
 
 さて,ポテトサラダが傷みやすい理由だけでかなり長文になってしまった.このあと,島本教授は驚くべき妄説を開陳したのであるが,それは続きで.
ポテサラの食品衛生学 (二) へ続く 〉

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2018年6月16日 (土)

嘘は罪

 先程から,パティ・ペイジの「嘘は罪」を聴きながら,晩飯の支度を始めた.
 支度といっても,昼過ぎに藤沢の銀行に行ったついでにダイヤモンドビル地下の鶏惣菜屋「浜鶏」に寄って,網焼きチキンを一つと鶏腿の唐揚げを二百グラム買ったので,これを買い物袋から取り出し,大容量 (600ml) のステンレス断熱タンブラーに,近所のファミマで買った氷を目一杯入れ,酒を注ぎ,書斎 (笑) のパソコンの前に陣取るだけのことである.

 パティ・ペイジはいいなあ.進駐軍とか米軍極東放送とか,昭和三十年代のにおいがする.
 パソコンの iTunes をリピートモードにして,飽きもせず,繰り返し繰り返し「嘘は罪」を聴く.(YouTube はここ)

 パティ・ペイジは訛っていると私は思う.彼女はオクラホマの生まれ育ちだから,南部訛りかというと,そもそも私は南部訛りの米語がどんなものか知らないので,何とも言い難い.
 ただ,無理やり片仮名で書くと,他の歌手たちが“イッツ ア スィン トゥ テル (tell) ア ライ”と歌っているのに対して,パティ・ペイジは“イッツ ア スェン ツー ツェル ア ライ”と日本人の耳には聞こえるのだ.
 “ダイ (die) ”は同様に“(ダイ+ザイ)”と聞こえる.

 私は一度だけ,アメリカ南西部に行ったことがある.その時に,ホテルマンの南部訛りが全く聞き取れなくて往生した.それに比べればパティ・ペイジは訛っていないというべきかも.

 それはそれとして,「嘘は罪」を聴くときに相応しい酒はなんだろう.
 この歌の作詞作曲者であるビリー・メイヒュー (Billy Mayhew) は一発屋で,その人物像は全く知られていない.都会人なのか,カントリーの人なのか,誰も知らない.しかし一発屋にしては,あまりにもいい曲すぎる.誰か著名な作曲家が覆面で作ったのだろうか.

 名前が“Billy”だから男 (女性名のビリーはスペルが Billie) だろうが,歌詞は女心を歌っているとしか思えない.
 南部の大き目の酒場のフロアで踊る二人.男が「愛してるよ」と囁く.女は「愛してる,は本気で言わなけりゃ.嘘は罪よ」と言う.あたしを騙したら,死ぬからね,と.

 やはりここはバーボンかな.
 でもバーボンはいま切らしている.
 あるのは泡盛「久米島の久米仙」なので,島唄風に「嘘は罪」を歌うとどうなるか考えてみた.成底ゆう子さんはジャズは歌わないのだろうか.

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2018年6月15日 (金)

初めての台湾 (六)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (五)
 
 前回の記事の終わりに《そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという》と書いたが,手帳を見たら,国立故宮博物院見学のあと,昼飯の前に国民革命忠烈祠に行ったのだった.かなり前の旅行なので記憶が曖昧になっている.手帳にメモしたことを確かめながら旅行記を書かねば.
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 で,その国民革命忠烈祠は,辛亥革命から日中戦争に至るまでの,戦没した英霊を祀る祠なのであるが,衛兵交代のセレモニーが有名になって観光スポット化している.
 現地ガイドのRさんは,その衛兵交代セレモニーを解説しながら,衛兵たちを「イケメンです!」「カッコイイ!」「エリート!」を連発したが,衛兵たちは日本語でいうところの「イケメン」というより,「凛々しい」という表現が適切かと思われた.
 
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 なにしろ Wikipedia【国民革命忠烈祠】によれば,かれら儀仗兵は《儀杖兵の資格だが、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm - 195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる》とあるのだ.
 
 私たちが見物したときの儀仗兵のみなさんは,身長180cmほどと見受けられたが,それで《体重65kg±1kg 》は非常にスリムな体格である.正装の軍服を着用してなおスリムに見える体格の兵士を選抜しているのだろう.
 台湾では,一般の青年たちは四ヶ月の軍事教練を受けることになっていて,教練終了後は民間に戻るわけだが,その教練期間中に儀仗兵に選抜されるのだろうか.それとも志願兵の中から選抜されるのだろうか.そして,儀仗兵は軍の中で昇進の途が開けているのだろうか.詳しいことはガイドさんに訊き損ねた.
 
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 ちなみにこの儀仗兵は,担当する軍が半年ごとに変わり,軍服が陸軍は深緑,海軍は夏の場合は白で冬は黒,空軍は青だという.私たちが見学したときは海軍の冬服であった.
 余談だが,軍服の色ってのは,およそ世界的に共通の傾向があるようで,陸軍はいわゆるアーミーグリーンまたはグリーン系のカーキが多いような気がするのだが,どうだろうか.
 
 さてツァー二日目の昼食は,小籠包がおいしいことで有名な人気の繁盛店,鼎泰豐 (ディンタイフォン;Wikipedia【小籠包】にも紹介されている店) の本店だ.
 この店は公式サイトに書かれているように,日本にも支店を出していて,新宿,汐留,日本橋,玉川にあるというが,私はいずれにも行ったことがない.しかしツアー一行の女性たちの多くは日本の支店を既に御承知のようで,「台湾の本店に来てみたかったのよねー」と言っていた.
 一般には小籠包は上海が発祥の地だとされている.Wikipedia には,
 
上海旧市街の豫園商城内にある「南翔饅頭店」が本家を名乗っているが、上海近郊以外にも台湾と香港などの中華圏で広く食べられている一般的な料理である。台湾の台北市には観光客に人気のある鼎泰豊の本店があり、現在では上海にも出店している。観光客は前述のような有名かつ比較的高級な店に集中しがちであるが、台湾では特別な料理ではなく街中の定食屋で安価に提供される庶民の味である。
 
とあるが,私は若い頃に「南翔饅頭店」へ行ったことがある.まだ小籠包が今ほど普通の食べ物でなかった時代だった.
 ある日本の商社が,中国製の小籠包やその他の点心の冷凍品を日本に輸入して販売しようとしていて,その関係で上海にある冷凍食品製造会社の工場を視察に行ったのだ.
 工場視察のあと,商社の人が豫園商城内の「南翔饅頭店」に連れて行ってくれて,私はそこで初めて小籠包を食べたのだった.
 結局そのその商談は成立しなかったのだが,今は懐かしい思い出である.
 
 さて鼎泰豐での私たちの会食は点心のコースであった.鼎泰豐は日本人観光客絶賛のお店だけのことはあって,どの蒸籠の点心も,とてもおいしかった.
 ただ,海老焼売が運ばれてきて,みんなが「わーおいしそー」と喜んだとき,ツアーメンバーの一人Aが (三十代の女性) 「私の分は誰かどうぞ食べてください.私,甲殻類はだめなんです」と言った.
 これに対して他の人が「アレルギーですか?」と訊いたら,Aは「いいえ,アレルギーじゃなくて,エビとかカニとか,ああいう気持ち悪いのって食べられないんです」と答えた.
 これに私はカチンときた.他の人がおいしいって言ってるものを,「気持ち悪い」というのはいかがなものか.きらいなものは,嘘でも「アレルギーなんです」と言うのがマナーというものだろうに.
 出発前に添乗員のSさんが「ツアーは,食事のときにトラブルになることがあります」と言ったのは,こういう女のことだったのかと腑に落ちた.
 
 食事が済んだあとは,鼎泰豐本店のある地区一帯で,日本人観光客の多い「永康街」を散策する自由時間だった.永康街は,雑貨屋や靴屋,ブティックなどの商店や,かき氷屋などがあって,ぶらぶら歩くと楽しい街である.個人旅行でくる機会があれば,時間無制限で街歩きしてみたいものだ.
 
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(おなじみ天仁茗茶の店)

 短い自由時間が終わって,一行は地下鉄 (台北捷運;呼称はMRT=Mass Rapid Transit) 東門駅の入口階段前に再集合した.ここから地下鉄体験というイベントなのである.いずれ皆さん個人旅行に来るだろうから,台北市内を移動するのに便利な地下鉄の使い方を覚えてくださいね,という企画だ.
 一行は永康街の東門駅に入り,一人ずつ自販機で片道切符を買って乗り,一駅隣の中正紀念堂駅で下車した.
 中正紀念堂蒋介石の顕彰施設である.日本ではあまり知られていないと思うが,蒋介石の本名は蒋中正なのである.
 中正紀念堂は,広大な敷地に設けられた公園広場の入口に立ち,蒋介石の座像が収められた本堂を遠くに望むと,左右に国家戯劇院と国家音楽庁が建てられていて,堂々たる構えである.
 
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(中正紀念堂正門.自由広場と書かれている)
 
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(本堂遠景)
 
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(蒋介石座像;背後の壁には,蒋介石の政治理念である「倫理・民主・科学」が掲げられている.これは蒋介石の筆跡である)
 
 中正紀念堂からまた団体バスに乗り,次は九份へ向かう.
(初めての台湾 (七) へ続く)

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2018年6月14日 (木)

日本語の作文教育の成果 (補遺)

 注文した『放送で気になる言葉 2011』(日本新聞協会新聞用語懇談会放送分科会編) が届いたので読んでみた.それで昨日の記事《日本語の作文教育の成果 》に少し補足する.

 同書の第一節「誤用に気をつけたい言葉」のうち「文法的な誤り」(p.25) に以下のように書かれている.

「すべき」は本来文語で、古めかしい感じを免れないから、口語を基調とする放送の用語としてやや堅苦しい。しかし、もちろん誤りではない。口語の「する」に文語の「べき」をつけた「するべき」も、混用ではあるが許容されると考えるのが妥当だ。
 「すぐにも決断すべき問題」
 「あのとき実行するべきだった」
などと、ふだんの会話でもよく使われる。
 問題は、この「すべき」「するべき」を言い切りの形に使うことだ。テレビ画面の文字表示にも次に×印で示すような用法がしばしば見られる。
  ×政治献金は禁止すべき → ○政治献金は禁止するべきだ
  ×市場開放を促進すべき → ○市場開放を促進すべきだ
 言い切りのときには「すべし」とするのが正しいのだが、あまりに文語的で使いにくい。といって連体形の「すべき」で代用することはできない。口語体の言い切りとしては「すべきだ (すべきである)」と「だ (である)」をつけて終止形にすべきである。

 以上のように,新聞用語懇談会放送分科会は『放送で気になる言葉 2011』で,「べき止め」に関する従前の見解を堅持していることがわかった.
 しかし,私見だが,NHKを除く放送各社は,この《口語体の言い切りとしては「すべきだ (すべきである)」と「だ (である) 」をつけて終止形にすべきである》を全く無視している.
 また,テレビに登場するタレントでは,林修先生が「べき止め」推進の先頭に立っていると私は思う.

 国語辞典には,言葉は時と共に変化する,として,言葉の誤用に寛容なものがいくつもある.そのうちに「べき止め」は,「連体止め」の用法に「特に理由もなく行われる連体止め」が設けられ,許容されてしまうかも知れない

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猫マンガ

 エッセイやコミックで,犬の日常を扱った作品はあまり多くはないが,猫はもう猫エッセイ,猫マンガというジャンルが確立しているように思われる.
 で,なんのはずみか Amazon が猫マンガをぐいぐい押してくるので,その中から中古格安品を三冊を買ってみた.すべて新品同様だった.
 
* 桜井海『おじさまと猫』 Amazon で☆4.5
 これがシリーズの一作目.いい作品になる予感がする.
 
* 鴻池剛『鴻池剛と猫のぽんた ニャアアアン!』 Amazon で☆5
 爆笑実録猫マンガ.早速,続編の「2」を注文済み.
 
* たぁぽん『植えこみに刺さっていた子猫を飼うことにした。』 Amazon で☆5
 Amazon の評価は高すぎだと思う.私なら☆3で,もう買わない.

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日本語の作文教育の成果

ことば会議室》というブログに《2004年03月30日 「べき止め」について(水月)》と題した記事が掲載されている.
 この記事は,《ことば会議室》主催者が,〈新聞の見出しにおける「べき止め」は文末に連体形を置いているのではなく,「べきだ」の「だ」を省略した形である〉との意見を述べ,数人の人たちがこれにコメントを書き込んでいる内容である.
 そのコメントの一つについて,以下に一部引用する.
 
日本新聞協会用語懇談会放送分科会発行の「放送で気になる言葉改訂新版」でも「口語体の言い切りとしては『すべきだ(すべきである)』と『だ(である)』をつけて終止形にすべきである。」
と書いてあります。新聞の見出しはまあしょうがないかな、と思いますが、本文の中では「だ」「である」を付けた方がいいでしょう。

 
 妥当な意見だと思うが,このコメントは十四年も前に書かれたものだ.昨今のメディアに氾濫する「べき止め」を見るに,ひょっとしたら現在の新聞界は,「放送で気になる言葉改訂新版」に示した「口語体の言い切りは終止形にすべきである。」とする見解を捨てているかも知れない.
 そこで現在手に入る「放送で気になる言葉」を探したら,楽天ブックスに「放送で気になる言葉 2011」の古書が出品されていたので早速注文した.すぐ届くだろう.
 その本の中に「口語体の言い切りは終止形にすべき。」と書かれていることを期待しているのだが.ww
 
 ところで,《ことば会議室》主催者は,新聞社の校閲担当者に好意的な見解を述べているのだが,新聞というメディアは《ことば会議室》主催者が思っているほどレベルが高くはないと私は考える.
 これは私だけの意見ではなく,碩学高島俊男先生が著書『お言葉ですが…』シリーズで何度も指摘していらっしゃることだ.
 例を一つ挙げる.《新聞記事の解読法 》というブログに《2018年02月25日 連体止めの失敗例 》と題した記事が掲載されている.このブログの筆者「さがみさん」は元新聞記者であるとプロフィールに書いてある.
 さてその冒頭に,次の記述がある.筆者「さがみさん」がこの記事を削除あるいは訂正した場合のために,画面のハードコピーを撮り,トリミングをした画像を用いて引用する.
 
20180612a
 
 引用箇所の終わりに《問題点は、いきなり「パキスタンのグワダル港」が出てきて、文末が「取得」と連体形で終わっていることです》とあり,「さがみさん」は「体言」のことを「連体形」だと思い込んでいることがわかる.つまり中学校レベルの国文法を理解していないのだ.これが新聞界の日本語レベルなのである.
『お言葉ですが…』シリーズには新聞記事の恥ずかしい日本語文章の例がいくつも書かれているから,御興味ある向きは同書をお読みいただきたい.
 
 さて,官僚の書く文章,特に会議資料の類には頻繁に「べき止め」が出てくる.
 下記の引用は,平成十年の厚生労働省「第28回年金審議会全員懇談会」において,同審議会の京極純一会長が,官僚の作成する文章に苦言を呈した箇所である.(余談だが,私は教養学部の学生時代に政治学の講義を履修したのだが,その講義の担当教官が京極先生だった.「べき止め」の用例を探している際に,思いがけず京極先生の名前が出てきたので,大層懐かしい思いがした)
 
「べき」で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました「意見」で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。「べき」止めは多分「べきである」と読むようです。「意見」というのは「意見があった」という趣旨のようです。
 
 言うまでもなく《これは日本語の作文教育の成果です》は京極先生の皮肉であるが,「べき止め」は,官僚だけの文体ではなく,《現代の、若い世代の共通の文体です》と先生は断じていらっしゃる.
 そこで,その《日本語の作文教育の成果》を体現しておられる人物を紹介しよう.
 
20180611c
(上の画像は,6/3 放送の『林先生が驚く 初耳学』の一場面である.これは録画データの加工ではなく,テレビ画面をデジカメ撮影した画像データをトリミングしたものである)
  
 上の画像は,雑学タレントの林修先生である.普通の芸人なら「べき止め」を書いても一向に構わぬが,林先生は予備校の国語講師でもある.生徒にあるべき日本語の規範あるいは文章作法を示す立場にある.それがこの有様では,生徒がかわいそうではないか.
 
 私の中の日本語規範は,小学生の頃から現在に至るまでに読んだ書物によって作られた.明治から昭和までの立派な学者や文学者が書いた,それらの書物には「べき止め」がない.だから私も「べき止め」をしない.
「べき止め」が蔓延している現状ではあるが,自然科学系の学術論文誌に研究論文を投稿するとして,項目名や本文中に「べき止め」があれば,訂正を要求される.私が論文審査員なら,そんな論文は容赦なくリジェクトだ.学術の世界は規範で出来上がっているからである.
 
 林修先生がテレビで「べき止め」を多用しているのは,林先生の頭の中の日本語規範を作ったのが書物ではなくネット記事だからではないかと想像する.
 もし林先生が書物に拠って立つのでなければ,ここは一つ予備校を辞めて,テレビタレントに専念してはいかがであろうかと思う.私は,『初耳学』を毎週欠かさず視聴している林先生のファンであり,先生は雑学タレントとしては得難い人材だからである.

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2018年6月13日 (水)

我が身さへこそ動がるれ

 遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば
 我が身さへこそ動がるれ
   (この歌謡は『梁塵秘抄』巻二 四句神歌・雑に収められている;四句神歌は,平安後期の雑芸 <ぞうげい> の一つで,神楽から世俗の流行歌謡に移行したものである;「動がるれ」は「ゆるがるれ」と読む <佐々木信綱の校訂による> )
 
 上の今様は『梁塵秘抄』の中で最もよく知られている歌である.どれ程知られているかというと,YouTube に初音ミクが歌っている動画があるくらいだ.若い人がやってしまいそうな誤字があるけれど.w
 
 山中恒『児童読物よ、よみがえれ』は本ブログの連載記事《母子草》で紹介した書籍だが,その最初の節「子ども観の歴史を越えて」の冒頭に,この「遊びをせんとや……」が引用され,続いて次のように書かれている.
 
これについて最近読んだ月刊幼児教育雑誌の中の一文が、やはりこの歌を冒頭に引いて、
 
  遊び戯れながら育ってゆく子らによせる限りない愛と期待、無常の世を生きる親の、子の将来に対する不安と希望、その微妙なゆれ動きが「我が身さへこそ動がるれ」という、結びの言葉に集約されています。/子どもたちの心や体が、無心の遊びの中でより美しくたくましく育って行くことを願う、いつの世にも変わらぬ親心といえましょう。
 
と、かなり調子よく、まさに後者の所論
[ブログ筆者註;子どもは純真であり,親が子を思う心は深いものだとする説] を代表するように親心を讃えていた。ところが、ここに歌われている「我が身」とは、「遊び戯れ」ている子どもたちとは何の関係もない、遊女なのである。つまり「遊び戯れるためにこそ生まれてきたものであろうか」という子ども観が、その子どもの声で罪障に汚れはてて済度し難いとされる遊女の心までおさえ難くさせるというのである。「声」に象徴される童心世界への思い入れ、もしくは憧憬が浄化作用をもたらすという、かなり宗教的な色合いを含むもので、この歌の構成をなす主体と客体の対比のうちには、罪障に汚れたものと純真無垢なものというパターンがあり、子どもは純真無垢なものとしている。これとても、果たして純真無垢なものかどうか……。意地悪な観方をすれば、「遊び戯れる」内容はわかっていない。ことによると、餓鬼どもはひきがえるをたたき殺して遊んでいたかも知れないのである。逆に言えば、子ども期から離脱してからの時の流れの無常感へのモチーフとしての「声」への思い入れである。ということになれば「いつの世にも変わらぬ親心といえましょう」というのは見当違いだし、ちょっと困惑せざるを得ない。
 
 上の引用部分に示した山中恒の「子ども観の歴史を越えて」が書かれたのは昭和五十一年 (1976年) である.
 その当時の大学受験生にとって入試国語の神様の一人は,日本学士院賞受賞者にして,受験参考書界におけるロングセラーの名著『古文研究法』(洛陽社<初版,再版,改訂版>;ちくま学芸文庫,2015年) の著者,小西甚一先生 (当時の東京教育大学教授,のちに筑波大学副学長;旺文社大学受験ラジオ講座の講師) であった.小西先生は梁塵秘抄の研究が有名であり,先生が私たちに示した「遊びをせんとや生れけむ」の歌の解釈は「罪深き生活を送っている遊女が,身をゆるがす悔恨をうたったものである」であった.(『梁塵秘抄考』 <昭和十六年>;うろ覚えでなく正確に引用しようと思って古書の『梁塵秘抄考』を検索したら,とても高価だった.横浜市立図書館に所蔵されているようなので,近々借りて読もうと思う)
 
 すなわち山中恒が「子ども観の歴史を越えて」に書いた「遊びをせんとや生れけむ」の解釈は,小西甚一『梁塵秘抄考』を踏まえたものである.昭和四十年代に大学受験をした団塊世代の老人諸兄も,この歌は,遊女の身をよじるような (←「我が身さへこそ動がるれ」) 悔恨の歌であるとの解釈に異論はなかろうと思う.
 
 だが『梁塵秘抄考』以後,色々な解釈がこの歌に行われた.
 今,ネット上のブログを探すと,現在容易に入手できる植木朝子氏の著作から現代語訳を引いて,純真無垢な童心を歌ったものだとする明るい解釈ばかりになっている.遊女の哀しい心境とは無関係だというのである.
 老人としては,なんだか納得し難い.
 初音ミクの歌唱を聴くと,明るいポップスのような気がするが,しかし例えばもし森田童子が歌ったとしたら,「遊びをせんとや生れけむ」は悔恨の調べであったに違いない.
 梁塵秘抄は歌詞しか残っていない.だが,歌は歌詞だけではわからない.
 童心を歌うポップスなのか,悔恨なのか.こればかりは,時間旅行して遊女の歌いぶりを聴いてみるしかないのだろう.
 
 森田童子の訃報を聞いて,これを書いた.

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2018年6月12日 (火)

オーロラソース考

 フジテレビ『ソレなら5分で出来ますよ。』(6/3 放送) に,南極料理人こと西村淳氏 (昭和二十七年生まれ) が出演して,タマネギをカットして有り合わせの味噌と混ぜるだけでできる「万能味噌ダレ」を紹介した.
 西村氏はこれを「オーロラソース」と名付けている.このソースをつける料理によって色々に変化するから極地の「オーロラ」なのだそうである.意味がよくわからぬが.
 
20180611a

20180611b
(以上の画像は,録画データを加工したものではなく,テレビ画面を撮影したデジカメデータをトリミングしたものである) 
 
 でも,西村氏は修行を積んだ料理の専門家ではないから御存知ないと思うが,昔からフランス料理に「オーロラソース」はあるのである.だから,フレンチのシェフがこの番組を観ていたら目をむいたことであろう.
 さて本来の「オーロラソース」がどんなものかというと,Wikipedia【オーロラソース】に次のように書かれている.
 
オーロラソース(仏: sauce aurore)は、ベシャメルソースに裏漉ししたトマト(もしくはトマトピューレ)とバターを加えたソースである。フランス料理で鶏卵料理や子牛肉、蒸した肉料理などに使われる。
フランス語で「オーロラ」aurore は曙、明け方の意。トマトのもたらすオレンジがかったピンク色の曙色にちなみオーロラソースと呼ばれる。

 
日本ではマヨネーズとトマトケチャップを1:1の割合で混ぜたソースもこの名で呼ばれることがある
 
 マヨネーズとトマトケチャップを混ぜた日本式「オーロラソース」は,本来の「オーロラソース」と色が似ているので「オーロラソース」と呼んだのだろう.簡単に作れるから洋食屋などで出されることが多い.
 この日本式「オーロラソース」は考案者が不明だが,誰が工夫したのかがわかっている「オーロラソース」がある.誰とは,あの周富徳氏である.
 
〈よく知られた周富徳流オーロラソースのレシピ〉
   マヨネーズ      1 カップ
   ケチャップ      大さじ 3
   コンデンスミルク   大さじ 3
   エバーミルク     大さじ 2
   ジン         小さじ 2
   塩&パセリみじん切り 少々
 
 ただしこの周さんの「オーロラソース」は,色が曙色だから「オーロラ」なのだという本来の意味が失われて,もう何がなんだか意味不明のものになってしまっている.
 
 そして意味不明といえば,私はうっすらと記憶しているのだが,昭和三十年代の小学校給食の献立に「オーロラソース」があったのである.
 アスペクト編集部編『なつかしの給食』((株)アスペクト,1997年) の p.22 に,「鯨のオーロラソース」という献立が記載されている.この一皿に付けられたキャプションは《オーロラソースは謎の味、他では食べた覚えがない。》だ.w
 同書 p.25 には「栄養士さんの思い出」が掲載されているので,それを引用する.
 
オーロラソースというのは、ウスターソースとケチャップを混ぜ合わせたものなんですが、ケチャップを使い始めた当初は、子どもたちに全然受けつけてもらえませんでした。それで、とんかつソースに入れたり、甘めの味噌を混ぜたりといろんな試行錯誤をしました。それでだんだん子どもたちも食べるようになってきて、ようやく慣れてきてくれたのが昭和40年代に入ってからのことだったでしょうか。》 (ブログ筆者註;「とんかつソースに」は「とんかつソースを」の誤植だろう)
 
 同書に記載されているレシピを下に示す.
 
〈昭和30年代における学校給食オーロラソースのレシピ〉
   甘味噌     大さじ 1
   砂糖      大さじ 1+1/3
   トマトケチャップ   大さじ 1+1/3
   うま味調味料     少々
   水          小さじ 1

 
 《オーロラソースというのは、ウスターソースとケチャップを混ぜ合わせたものなんですが 》という時点で既に曙色とは無縁のものになっているのであるが,さらにウスターソースが甘味噌に変化して《オーロラソースは謎の味、他では食べた覚えがない。》になったのである.
 
 上に列記したオーロラソースを,成立した時代順に並べると,(1) フランス料理のオーロラソース,(2) 昭和30年代の学校給食のオーロラソース,(3) 周富徳流オーロラソース,(4) 南極料理人流オーロラソース,ということになるだろう.Wikipedia に書かれている「日本式オーロラソース」の成立時期がわからないのだが,それをモディファイした「周富徳流オーロラソース」よりも古いことは確かである.
 
 ここで一つ不思議に思ったのは,私と年齢が近い西村淳氏は,(1) は御存知なくても,(2),(3) や「日本式オーロラソース」は知っていてもいいはずだが,どうして味噌ダレを「オーロラソース」にしたのだろう,ということ.味噌ダレの「オーロラソース」が「周富徳流オーロラソース」を知名度でしのぐことはまずあり得ない.今からでも別の名称にしたらいいと思う.
 
 私は西村氏の著書を一冊しか読んだことがないのだが,味噌ダレを敢えてオーロラソースと名付けた理由が他の本に書かれているのだろうか.(氏の会社はオーロラキッチンという名称であるところをみると,西村さんは何でもオーロラを冠するのかも知れない)

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2018年6月11日 (月)

母子草 (十四)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
* 前回の記事《母子草 (十三)
 
 前回の記事に以下のように書いた.
 
では,上笙一郎が指摘する《近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》について,検討してみよう.
 藤澤教授が《天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話された》ことは,私は《古くてどうにもならない》とは思わない.自分が長年にわたり研究してきた分野の学識に関し,その第一人者として宮内庁に評価されれば誰だって嬉しく名誉に思うだろうからだ.
 私が思うに,藤澤教授の「古さ」はそんなところにあるのではない.それについては,作品に即して検討してみよう.以下に藤澤衞彦作品の童話「母子草」全文を掲載する.

 
 文学の世界で恥知らずを三人挙げよと言われたら,まず第一位は島崎藤村で確定である.藤村くらいになると,恥知らずを通り越してヒトデナシあるいはケダモノの域に達している.(参照;このブログの過去記事《偽善者あるいは犯罪者 》)
 
 第二位は,童話作家の小川未明である.未明は戦前,島崎藤村と同タイプのヒトデナシにしてアナーキストでもあった大杉栄と親交を結び,アナーキストとして文学活動をスタートした.ロクデナシがヒトデナシに共感したのである.
 そして大政翼賛会が発足するや,未明はそれまでの主義思想をかなぐり捨てて,戦争協力組織「日本少国民文化協会」を設立し,戦争協力の旗を先頭に立って振った.
 ここまではよくある転向の話である.未明の場合は軍部への協力ぶりが度を越していただけのことだ.当時は,わずかな人たちを除いて,国民の誰もが多かれ少なかれ戦争に協力したのである.あの村岡花子だって,「日本少国民文化協会」創立委員の一人だったのだ.だがしかし,未明の真骨頂は戦後である.戦時中の自分を,全くなかったことのようにして,己は反戦姿勢を貫いた人間であるとして振舞ったのである.そして,未明は戦後に設立された日本児童文学者協会の初代会長の席に着いたのである.
 それでも,小川未明の戦争責任について追求した人がいなかったわけではない.代表的な論考は山中恒の『戦時児童文学論』(大月書店,2010年) であるが,ネット上にも山中恒『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社,1978年) の一節《児童文学は、いま……》や,増井真琴《小川未明と日本少国民文化協会:日中・「大東亜」戦争下の歩み》,同《小川未明の再転向 ――敗戦以後―― 》が公開されている.
 
 恥知らずの第三位は,『橋のない川』を書いた住井すゑだ.
 Wikipedia【橋のない川】に次の記述がある.
 
「『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者は、とてつもない数にのぼるはずだ」(灰谷健次郎) と賞賛されることもあるが、「侵略戦争を扇動した西光万吉を美化した作品なのに、その問題点がまったく指摘されずにきた」(金静美)との批判の声もある。
 
 私も《『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者》の一人であったから,雑誌『Ronza』(朝日新聞社,1995年8月号) の記事「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」(単行本としては櫻本富雄『ぼくは皇国少年だった―古本から歴史の偽造を読む』に収められている) で住井すゑの正体が白日の下に曝された時は,本当に呆然とした.
 『破戒』の島崎藤村も『橋のない川』の住井すゑも,「人間の平等と尊厳」を食いものにした人間のクズであった.
 
 以上の三人と比較して,「戦争と文学」「文学者の戦争責任」の観点からして藤澤衞彦教授はどうであったか.
 出版物,ネット上の記事を探しても,戦時中の藤澤教授に関しては何も資料が出てこないのである.おそらく藤澤教授は,小川未明のように声高に戦争協力はせず,黙々と研究生活の日々を過ごしていたのではなかろうか.
 だが,藤澤教授の「母子草」には,小川未明の影響が見て取れる.ここで山中恒の「児童文学は、いま……」から一部を引用する.
さて、一般的な概念からすれば、<児童文学>といえば、グリムやアンデルセン、日本でいえば、小川未明、浜田広介あるいは坪田譲治、新美南吉、宮沢賢治といった作家たちの作品のことで、それは「世俗的なものと隔絶された美しい郷愁のファンタスティックな山野に花咲く童心のロマンの世界である」という思い込みがあって、そうした世間一般の思い込みの庇護のもとに、あるいはその善意にまぎれて、なにやらやってきたのが、この国の<児童文学>とよばれるものなのである。
<児童文学>に対する、この一般的な思い込みはかなり強固なもので、ついでに<児童文学者>とよばれる人たちに対しても、<童心の求道者>といったふうな聖職者イメージがついてまわる。これは<児童文学>をふくめて、児童文化というものが教育文化に従属していると目されている証拠でもある。だから、日本の児童文学状況がそんなものではないということを語ると、人によっては目を剥いてそれはお前の被害妄想だとなじる。彼のイメージの中で<児童文学>の世界はそのようなものではないし、そのようなものであってはならないのである。彼のイメージの中の<児童文学>は、汚れなき童心をはぐくむという崇高な理念のもとに創作されるものであり、その創作者は汚れなき童心の共鳴者であって<児童文学>界で徒党を組んでゲバルなどというのは、とんでもないことなのである。
 確かに戦前の日本の児童文学の多くの作品は「童心主義のロマン」とよばれるにふさわしいものであったと思う。しかし、<童心>なるものに<主義>がつくほど科学的な思想体系など持ち合わせていなかった。童心への憧れは、むしろ極めて雰囲気的なもので、そのようなものとしてしか現象しなかった。
 小川未明を例にとるなら、彼はおとなの文壇への捲き返しに失敗し、世上「童話宣言」とよばれる『今後を童話作家に』(一九二六年・東京日日)というエッセイを書き、ひたすら<児童文学>の創作だけに専念するようになった時期は、昭和恐慌期であり、暗い世相のかげで天皇の統率する股肱は中国大陸へむけて軍靴をそろえていた。それこそ、どちらを見てもろくなことはなかった。そうした中で未明はひたすら<調和した美を求めて童心の世界へ>と埋没していった。しかし未明のいう童心の世界は、おとなの労賃の三分の一から六分の一の安い労賃でこき使われていた幼少年労働者である子どもの心の世界ではなく、未明がおとなの世界を見てみにくいと思う心に対置される美しいと想定された子どもの心であったのである。つまり未明自身の内なる世界にしか存在しない<童心>だったのである。

 
 リンク先も含めると文章が長くなりすぎた.次回は,上の引用と藤澤教授の児童観を考察してみる.
(続く)

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2018年6月10日 (日)

『母子草』ノート (8)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
* 前回の記事《『母子草』ノート (7)
 
 古書店にも色々あって,私がこれまで利用した本屋の一つは,注文すると翌日すぐ在庫確認して送金先を連絡してきた.それでその日に送金したら即刻入金確認して本を発送したとのメールがきた.
 ところが今回,「藤沢衛彦文庫」の目録が掲載されている『武蔵野』を注文した「M書房通販部」という東京八王子にある本屋は,注文の五日後に送金先を連絡してきた.待ちかねていたので即日送金したのだが,四日後に発送したとのメールがきた.そしてそれから三日経つのに,八王子からの荷物がまだ届かない.どうなってるんだこの本屋は,と怒りのメールを出しかけたが,途中でやめた.もしかするとM書房は老夫婦二人でやっている零細な古本屋で,通販部というのは推定年齢七十五歳の奥さんのことで,かすむ目をこらしながら一本指入力でメールを打っているのかも知れないから.
 と,ここまで書いたら『武蔵野』が郵送されてきた.
 その巻頭に「藤沢衛彦文庫の目録刊行事業と先生の略歴及び著作について」が掲載されていて,そこに次のようにある.
 
先生が六十余年間にわたって文献資料は、約二万数千冊ともいわれていますが、その一部の和書類に限り先生の御遺徳を忍ぶべく没後二十五年ぶりに日の目を見たことになります。
 
 「藤沢衛彦文庫」の目録は,全部で二万数千点と推定される文献資料のうちの一部,和書類の目録 (約四千冊) であるという.
 これが「江戸東京たてもの館」の展示棟にて展示されていると書いてある.
 目録の中身を検討してみると,特に分野を限定しているわけではなく,伝承説話の資料が数多く含まれている.日本近代文学館に遺族から寄贈された「藤沢衛彦文庫」(こちらも約四千冊) と性格が異なるもののようではなさそうだ.
 合計の和書八千冊か.その中から藤澤教授が童話「母子草」創作の参考にした近江の伝承に関する資料を見つけるのは,私の残りの人生では時間が足りないだろう.しかも目的の資料は四千冊の和書中ではなく,残りの一万数千点の資料中にあるのかも知れない.ここは潔く断念して,別の方向から考察を進めることにする.
 
 さて近江に伝わる「母子草の物語」について調査を始め,中島千恵子氏の再話による民話「母子草」を読んだ時に感じたのは,この民話は近江の被支配階級庶民の信仰に関わるものではないか,ということである.
 貧しい農家の娘が富裕な家に年季奉公に出るという民話「母子草」の設定からすると,この話は江戸時代中期 (Wikipedia【女中】を参照) 以降に発生したものと考えられる.では江戸時代,近江における庶民の信仰はどのようなものだったか.
 まずは Wikipedia【宝厳寺】から勉強してみる.宝厳寺は琵琶湖の竹生島にある寺院である.
 
竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。
宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。

 
 上に引用した Wikipedia【宝厳寺】には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』 》と書いてあるが,琵琶湖に浮かぶ島は現在は竹生島と書くのが普通だが,論文等にはきちんと『竹生嶋縁起』と書かれていることが多いようだ.ミスタージャイアンツ長嶋茂雄を長島と書いては間違いであるのと同じである.
 それで私も,引用文以外の文章中では,島は竹生島と書くが,文献名は『竹生嶋縁起』と書くことにする.
 さて,Wikipedia には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には》とだけ簡単に触れているが,実は『竹生嶋縁起』は一つではない.
 ここで『竹生嶋縁起』を調べてみる.Wikipedia には【竹生島縁起】という項目自体がないが,しかしネット上には,二十五年ほど昔,小学館が出版した古い大部の百科事典である『日本大百科全書ニッポニカ』がデジタル化されて公開されている.(余談だが『日本大百科全書ニッポニカ』のCD版は確か Windows98版 が最後のアップデートだったと思うが,私は捨ててしまった;今なら Windows の互換モードで動作可能かも知れない.もったいないことをした)
 閑話休題.
日本大百科全書ニッポニカの解説

竹生島縁起
ちくぶじまえんぎ
 
滋賀県長浜市の都久夫須麻神社 (つくぶすまじんじゃ)・宝厳寺 (ほうごんじ) の縁起。智福嶋縁起とも表記する。護国寺本『諸寺縁起集』に、931年 (承平1) 成立と伝える縁起を収録するのが早い時期のもの。『群書類従』本には、1414年 (応永21) に普文が比叡山にて旧記を集めて撰したとの奥書があり、勧進帳の前文として著されたらしい。琵琶湖上への竹生島の出現とその出所に関するいくつかの口伝、島名・周辺地名の由来や仏教的注釈、738年 (天平10) の行基による四天王像安置から989年 (永祚1) の平惟仲の法華三昧田の施入に至る尊像堂舎の造立や神階授与・寄進などの年代記、十五童子が垂迹 (すいじゃく) した神社などが記される。北近江での気吹雄命 (いぶきおのみこと) と地主神浅井姫の争い、海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した話、信仰の中心となる弁才天の霊験譚、中世の祭礼図にも描かれる六蓮華会の由来など、短編ながら多彩な内容を含んでいる。[藤原重雄]
『西田長男著「竹生嶋縁起」 (『群書解題 第6巻』所収・1986・続群書類従完成会) 』

 
 この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている.(理由は後述)
 どうもネット上の百科事典では隔靴掻痒である.そこでもう少し真っ当な文献資料はないかと国会図書館サーチで探したら,
 
大川原竜一著『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』
   文学研究論集 / 明治大学大学院文学研究科編,JAIRO所蔵
 
が見つかった.
 JAIRO というのは日本国内の学術情報 (学術雑誌論文,学位論文,研究紀要,研究報告書等) を横断的に検索できる検索サイトで,ここに収められている文献はネットで手に入る.
 そこですぐDLして読んでみたら,これがわかりやすくて大正解の論文であった.
(続く)

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孤独と寝たきり (補遺)

 私は,下重暁子『極上の孤独』は読んでいないし,買う気もないのだが,五木寛之『孤独のすすめ』は読んだ.
 五木寛之という作家に,大学生の頃から私は好感を持ってきた.穏やかな人格の人だと思っている.
 その五木寛之にして,『孤独のすすめ』では都会の独居老人や,崩壊した限界集落で暮らす老人たちのことは視界に入っていない.せいぜいが施設に入居できる資産あるいは収入がある階層の高齢者たちを対象に「孤独でも大丈夫」と言っているに過ぎない.
 
Photo  
上図は「平成28年版高齢社会白書」から引用した.
 
日経新聞記事《東京の高齢者世帯、44%が一人暮らし 20年後
 
 上に独居老人人口の将来推計 (内閣府発表の公的資料) と,日経新聞の記事を資料として掲げた.
 以前からNHKは孤独な老人たちの「セルフネグレクト」や孤独死などの問題を報道してきている.(《クローズアップ現代 高齢社会》 など)  
 
 しかし先日放送された『ガッテン』 (昨日の記事《孤独と寝たきり》参照) では,「孤独が寝たきり危険度を上げる」と言うだけで,寝たきりにならない対策として「スポーツ」をするとか「友達と食事に行っておしゃべりする」などを示して,ある種の無責任に陥っている.
 なぜなら,スポーツにも会食にもお金が必要なのである.都市の底辺で,数万円の年金しか収入がないために閉じこもっている孤独な老人にどうせよというのか.崩壊した限界集落でどんなスポーツをせよというのか.
 
 下重暁子『極上の孤独』には「孤独は成熟した人間だけが到達できる境地」「集団の中でほんとうの自分でいることは難しい」「孤独を味わえるのは選ばれし人」「孤独を知らない人に品はない」などと書かれているらしいが,彼女には高齢社会の現実が全く見えていないのだと思われる.

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2018年6月 9日 (土)

孤独と寝たきり

 昨日,テレビをオンにしてチャンネルを変えながら流し見をしていたら,下重暁子さんが登場していた.(フジテレビの『ノンストップ!』とかいうエンターテインメント帯番組)
 それを見ていて知ったのだが,下重暁子さんの著書がかなりの売れ行きなんだそうである.『家族という病』『家族という病 2』と最近刊の『極上の孤独』(いずれも幻冬舎新書) だ.
 へー,どんな本なんだろうと Amazon で『極上の孤独』を覗いてみたら,幻冬舎新書のベストセラー一位なのに,購入者レビューでは星一つが一番多いという最低のボロボロ状態になっていた.
 この本を読んだ人たちの感想をざっくりまとめると,「お前が言うな!」ということだ.w
 下重さんについては,大昔はアナウンサーだったことは知っているが,著書を読んでいないし,あまり知らない.
 それで簡単に調べてみたら,相当に恵まれた人生を過ごしてこられたようだ.いわゆるセレブで,現在も出版界で活躍しているのだから,全く「孤独」ではないのだが,その人が「孤独」を論じているところに,レビューで叩かれる理由があるみたいだ.
 『極上の孤独』は,たぶん五木寛之の『孤独のすすめ』がそこそこヒットしたので,二匹目の泥鰌を狙って書いたものだろう.
 そこで Amazon の《内容紹介》を読んだら,以下のことが書かれていた.

そもそも孤独でいるのは、まわりに自分を合わせるくらいなら一人でいるほうが何倍も愉しく充実しているからで、成熟した人間だけが到達できる境地でもある。「集団の中でほんとうの自分でいることは難しい」「孤独を味わえるのは選ばれし人」「孤独を知らない人に品はない」「素敵な人はみな孤独」等々、一人をこよなく愛する著者が、孤独の効用を語り尽くす。

 《孤独を味わえるのは選ばれし人》《孤独を知らない人に品はない》《素敵な人はみな孤独》は,『極上の孤独』からの引用だろうが,なんかこう傲岸不遜というか,叩かれる要素が満載だ.
 下重さんは自分のことを「選ばれし人」と思っているから《孤独を味わえるのは選ばれし人》なんて恥ずかしい言葉を書けるのだろう.
 《孤独を知らない人に品はない》も同じ.自分を上品だと勘違いしているから堂々とこんな下品なことを書くのだと思う.
 《素敵な人はみな孤独》はもっと酷くて,下重さんは,山口百恵さんや安室奈美恵さんを孤独だと書いているらしいが,レビューによると無根拠らしい.

 まあ,普通の人はこんな《内容紹介》を読んだら絶対に買わないと思う.ということは,この『極上の孤独』の内容紹介は,叩かれるのを承知の逆張りマーケティングなのだろうか.
 性格が悪い女性作家といえば,遠藤周作にそれとなく性格の悪さを書かれてしまった曽野綾子が筆頭で,その次は自分のゴージャスな生活を自慢たらしく書く林真理子だが,下重暁子もその仲間入り決定ですな.

 ところで,先日 (6/6) の NHK『ガッテン』で《筋肉&血管を強くする!世界が証明した“最強の寝たきり予防法”》と題した放送があった.私はこれを偶然観たのだが,おもしろい内容だった.番組のアブストラクトから一部を引用する.

世界的にインパクトを与えたのが、アメリカで発表された148研究(対象者およそ30万人)をメタ解析した研究結果です。長生きに影響を与える要因を調べたところ、肥満解消、運動、禁煙よりも「人とのつながり」が長生きへの影響力が高いことが分かったのです。日本の研究でも、「人とのつながり」が「運動」よりも寝たきりの危険度を下げることが明らかになってきています。

 孤独は寝たきりの危険度を上げる.この番組の内容はなかなか説得力があると私は思ったが,下重さんはどう思うだろうか.彼女は深くものを考えて本を書くような人ではないようだから,何も思わないだろうなあ.冒頭に書いたテレビ番組『ノンストップ!』で,彼女の著書から引用して番組側が作ったフリップがあったのだが,彼女は自分が書いたことを覚えていないようだった.自戒を込めていうのだが,思索に基づかずにテキトーに思い付きを本に書き殴ると,自分が書いた文章でも忘れてしまうのである.w

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2018年6月 8日 (金)

糖質制限 コンソメ対決

 私たち高齢者は,健康のために日常の食事から,できるだけ糖質を減らす必要がある.
 しかし糖質制限のために「根菜はだめ」「トマトは糖質が多いから食べてはいけない」「果物は避けること」などと言い始めると,これはもうフードファディズムになって,著しくQOLを低下させてしまう.
 また何冊も著書がある渡辺信幸という医師が,ネット上の記事《MEC食は糖質制限とどう違う? 医師に聞く「最初の3日間」の始め方》中で次のようなことを書いているのは見逃せない.
 
「糖質制限食は、糖尿病治療のためのものです。病気を治す目的があるため、糖質を制限し、引き算して食事を摂ります。一方、MEC食には制限という考え方がなく、足し算の食事法です。必要最低限の栄養素である、タンパク質、脂質、ミネラル、ビタミンを摂ります。もしMECを食べてお腹いっぱいにならなかったら、さらに追加でMECを食べてもいいですし、その他の炭水化物や野菜、大豆製品なども、特に制限はなく食べてOKです。
(ブログ筆者註;MEC とは,肉 meet と卵 egg とチーズ cheeseの頭文字を続けた語で,その三つの食品を食事の中心にするとしている)
 
 上の引用箇所の中で渡辺医師は《その他の炭水化物や野菜、大豆製品なども、特に制限はなく食べてOKです》と書いている一方で,《もしMECを食べてお腹いっぱいにならなかったら、さらに追加でMECを食べてもいい》 (下線はブログ筆者による) とも書いている.
 
 この説に従えば,一日三食を肉と卵とチーズだけにしてもいいことになる.これでは,野菜嫌いの人は偏食にお墨付きをもらったようなもので,実際にそのような食生活を実行している人のブログがある.
 しかしこんな偏食は必ずや健康を害するであろう.とても医師の主張とは思えぬ.《野菜、大豆製品なども、食べてOKです》ではなく「野菜と大豆製品,牛乳,ヨーグルト,果物,きのこ類,海藻など色々な食品を積極的に食べましょう」でなくてはならないのである.
 極端な偏食を許してしまう点で MEC 食は,フードファディズムの一種であり,マクロビオティックや菜食主義と同じくオカルトでもある.
 現代の栄養学でわかっているのは,数多くの食材・食品を積極的に満遍なく摂ることで疾病や老化のリスクを分散できるということだけである.
 従って渡辺医師が《MEC食とは、肉(Meat)、卵(Eggs)、チーズ(Cheese)の3つの食品を中心にたっぷり食べ》ようと主張している時点で,MEC 食はもうリスクまみれなのである.
 
 さて,MEC 食は論外として,糖質制限食を実行する際には,糖質を排除することと,特定の食材・食品を排除することを混同して,QOLを低下させてしまわぬように気を付けなければいけない.
 そうするためには,例えばサラダの市販ドレッシング一つを選ぶ時にも,栄養成分表示を確認して,食品に関する知識を身に着ける必要がある.
 このような食品選択の例を一つ挙げる.
 ローソンのブランパン二個にサラダチキンを挟んでサンドイッチを作るとする.ブランパンは,それだけを口に入れると唾液を吸ってしまうので嚥下しにくく,高齢者は誤嚥を避けるためにも,ブランパンは何かを挟む必要がある.
 ちなみにサラダチキンは低糖質低カロリーのイメージがあり,普通は製品 100g あたりの糖質は 1g 強程度であるが,私は,スーパーで販売されているもので製品 100g あたりの糖質が 5g 近いものを発見したことがある.鶏胸肉をどう加工すればそのような高糖質になるのか理解に苦しんだが.
 
 それはさておき,作ったブランパンのサンドイッチに,中皿一杯の生野菜とスープを添えて昼食にする場合,簡単に済ませたい場合,私はスープを市販のカップコンソメにしている.
 そのカップコンソメだが,店頭に置かれていることが多いのは,クノールの「チキンコンソメ」だろう.
 その原材料と栄養成分は以下の通りである.
 
原材料名:
デキストリン,食塩,チキンエキス,砂糖,チキンオイル,野菜エキス調味料,食用加工油脂,酵母エキス,香辛料,酵母エキス発酵調味料,うきみ (クルトン,パセリ)/ 調味料 (アミノ酸等),膨脹剤
栄養成分:1杯分 (9.5g) の栄養成分表示
エネルギー;37kcal,たん白質;1.1g,脂質;1.1g,炭水化物;5.7g,食塩相当量;1.3g,カリウム;24.8mg,リン;13.7mg,ヨウ素;0.0μg
 
 これに比較すると最近はあまり店頭で見かけないのが,明治の「JALビーフコンソメ」だ.
 
原材料名:
食塩,デキストリン,砂糖,ビーフエキス調味料,ぶどう糖,牛脂,酵母エキスパウダー,オニオンパウダー,フライドオニオン,香辛料,たんぱく加水分解物,うきみ (クルトン) / 調味料 (アミノ酸等),カラメル色素,膨脹剤,香料
栄養成分:1杯分(5g)の栄養成分表示
エネルギー;14kcal,たんぱく質;0.4g,脂質;0.3g,炭水化物;2.3g,食塩相当量;2.9g
 
 上の原材料と栄養成分の表示は,両社のウェブサイトから転載したものであるが,この二つの製品が全く性格を異にすることを明確に示している.
 
 その前に註釈を書いておくと,デキストリンとはデンプンまたはグリコーゲンを加水分解して得られる炭水化物であるが,食品を粉末乾燥する際の賦形剤として用いられる.チキンエキスやビーフエキスだけでは耳かきで扱うような量にしかならないので,小袋に包装できるような量にするために,デキストリンで嵩 (かさ) をふやしているのである.
 
 その賦形剤デキストリンが,「チキンコンソメ」では原材料中で最も量が多いのだが,「JALビーフコンソメ」では二番目である.
 その結果,「チキンコンソメ」の炭水化物 (この場合,糖質と言い換えてもよい) が 5.7g になっているが,「JALビーフコンソメ」では半分以下の 2.3g である.その差 3.4g は,糖質量のみに着目するなら「JALビーフコンソメ」の場合はローソンのブランパン (糖質量 2g) をもう一つ食べてもよい勘定だ.
 私の目から見ると,クノールがなぜこんなにたくさんの賦形剤を使用しているのか,理解に苦しむ.もっと少なくても製造上の問題はないはずである.
 
 一方の「JALビーフコンソメ」は,デキストリンが少ないのは結構だが,食塩が原材料中で最大で,一杯分に約 3g も入っている.これは,酵母エキスパウダー,オニオンパウダー,フライドオニオンなど,その他の副原料使用量を減らして,その代わりに食塩を使用してコストを削減しているのだと思われるが,その結果どうなったかというと,「JALビーフコンソメ」一袋を規定の 160cc の湯にに溶かすと,ものすごく塩辛いコンソメスープになってしまう.血圧が上がりそうなくらい,しょっぱい.私はあまりJALに乗らないのでわからないのだが,JALの機内ではこんなに塩味の強いコンソメが提供されているのだろうか.
 
 で,結論的には,糖質制限的には「JALビーフコンソメ」の半分量をカップ一杯の湯に溶かして飲むのが私のお勧めだ.そうすれば塩味も許容範囲になるし,糖質量は約 1g なので,糖質制限も楽になるのである.

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2018年6月 7日 (木)

児相に人材を

 もうかなり昔の話で,詳細は覚えていないのだが,どこかの児童相談所が,虐待されている子を救うために,法的には咎められることを承知で,アパートの玄関ドアを破壊して突入し,危機的状況にあった子を救ったという事件があった.
 かつては,児相が家庭を訪問した時に,保護者が児相職員を家の中に入れることを拒否すれば,それ以上は説得するしか手段がなく,突入は違法行為だった.多くの場合,児相が警察を呼んでも,逆に警察は突入を許さなかったと聞く.警察は事件が起きてから捜査する機関であって,事件のおそれがあるという理由で行われる違法行為を許さない.従って児相職員は,まず警察官を説得せねばならなかったのである.
 話が横に逸れるが,先日のテレビで,猫の多頭飼育崩壊が発生しているとの情報を得た保健所が現場 (アパート) に踏み込もうとすると,警察がそれを阻止する場面があった.保健所の立入検査は,食品衛生法に基づく検査など法的に限定されているから,警察は,道義的に正しくても違法の疑いがあれば許さないのである.
 閑話休題.
 冒頭の事件後,その児相の使命感と勇気ある行動はメディアに賞賛され,世論の盛り上がりもあって平成二十年 (2018年) 四月に「児童虐待の防止等に関する法律」が改正され,児相は子どもの安全を確認,保護するために家屋の鍵を壊し,窓を破って強制的に家に立入る権限が与えられた.(ただし強制立入の可否は裁判所が判断する)
 児相には,虐待されている児童を保護するために「一時保護」の権限もある.児童の身の危険がある時は,ためらわずに一時保護せよと厚労省は児相に指示しているのである.厚労省がこれまでに発出した文書には,警察その他の関係機関との連携が強調されているから,司法機関との連携も進んでいるのだろうと思われる.
 このように,不十分かも知れないが法的な措置が為されているのに,児童虐待が激増しているのはなぜだろうか.警察庁が発表した昨年の児童虐待の件数は,平成十六年 (2004年) の統計開始から十三年連続増加して過去最大となった.
 
 目黒区で起きた五歳女児の虐待死について,東京都北区選出の都議会議員である音喜多駿が《「もうおねがいゆるして」防げなかった虐待死…東京都と児童相談所は何を変えるべきか 》に次のように書いている.
 
東京都のみならず我が国の児童相談所は、両親が健在の場合、基本的には親権に配慮し親元に子どもを返す(親の意思を優先する)傾向があります。
これにはいくつかの重大な背景が存在します。
・我が国の法慣習中、極めて親権が強く、子どもの人権や意思が軽視されていること
・各自治体の児童相談所職員や一時保護所のキャパシティが限界を迎えていること
・前例踏襲主義になっていること

 
 《児童相談所職員や一時保護所のキャパシティが限界》になっていることに関しては,都の具体的対策として,一時保護所を拡充するための大幅な予算増や,弁護士の常駐などを提案している.
 しかし私が思うに,予算増は必要だが,それだけで事態が改善されるとは思わない.
 冒頭に挙げた児相の家屋突入事件のあと,児相の強制立入が報道されたのは,私の知る限り極めて少ない.
 それは音喜多議員も書いている《前例踏襲主義になっていること》に原因があると考える.
 これは,音喜多議員は「事なかれ主義」を「前例踏襲主義」と慎重に言い換えているが,つまり現在の児相には,児童を虐待死から救うのは児相だという使命感がないということだ.
 
 いまや児童虐待死事件が報道されるたびに,児相所長が「認識が甘かった」とコメントするのが常になっている.
「認識が甘い」のは,業務上のたまたまの失敗なんぞではなく,所長以下の職員に職務達成能力と使命感がないからである.このような組織をどうしたらよいか.会社であれば配置転換などの手段があるが,公務員では実質的にそれはできない.ならば優秀な人材を投入して,組織の無能レベルを希釈するしかあるまい.
 公務員の中で高い使命感を持っている組織に,警察と自衛隊がある.政府は,警察官と自衛官の中から人材を児相に投入する施策をとるべきだろう.

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2018年6月 6日 (水)

奄美黒糖焼酎と島唄

 還暦をちょっと過ぎた頃までは,割と高めのお値段のバーボンなんぞを飲んでいたのだが,最近は紙パック入りの酒ばっかり飲んでいる.
 横浜市の場合,酒の紙パックは「燃えるゴミ」にまとめて出せるが,高い酒のガラス瓶は,別の日の回収になる.
 それが面倒なので,ゴミ出しの手間が少なくなる紙パックの酒にしたのだ.
 というのは嘘で,醸造酒にせよ蒸留酒にせよ,鼻でかいだ時の香りだとか口の中でころがした時の香り,あるいは喉を通したあとに鼻に抜ける香りだとか,そういった酒というものの細かいディテールが,もうどうでもよくなったのである.これを世間ではアル中と言
 そういうわけで,Amazon の中を「紙パック」を検索語にして徘徊した結果の結論は,琉球や奄美の泡盛とか黒糖焼酎がうまいなあ,ということである.安くていいなあと言い換えてもいい.
 その奄美の黒糖焼酎で気に入ったのは,喜界島酒造の「喜界島」である.
 
 さて Wikipedia【南島雑話】に,以下のようにある.
 
薩摩藩の上級藩士だった名越左源太は、嘉永3年(1850年)、藩主・島津斉興の後継者問題を巡るお家騒動・「お由羅騒動」では斉彬擁立派にくわわり連座して奄美大島へ遠島に処せられた。同年4月29日に上陸した彼は小宿村(現・名瀬市小宿)に居を定め、流人として身を慎む生活を送る。将来を悲観して身を持ち崩す流人も多い中で彼は武芸の鍛錬に励み、島の子弟に読み書きを教える中で地域に受け入れられ、島民との交流を深めていく。嘉永5年(1852年)には配流中の身ながら薩摩藩の嶋中絵図書調方を命ぜられ、代官所が所蔵する記録文書の閲覧も可能になる。
安政2年(1855年)に薩摩に帰還するまでの5年間、島内の動植物や農耕儀礼、冠婚葬祭から伝説に至るまで奄美大島の風土をつぶさに観察し、詳細な図入りの地誌をしたためた。現在、彼が著した奄美大島の地誌を総称して「南島雑話」と呼ぶ。幕末期の奄美大島における第一級の民俗誌として評価されている。
 
 その「南島雑話」に,次のようなことが書かれている.
 
留汁を焼酎として砂糖黍をすました汁を入れることあり、到りて結構なり
 
 と書くといかにも物知りのようであるが,これは焼酎「喜界島」の一リットル紙パックに,商品説明として《これが黒糖焼酎の原型だと思われます》と「南島雑話」からの引用が書かれているのを再引用したのである.w
 
 実は,私は焼酎「喜界島」を飲むまで,「南島雑話」なんて全く知りませんでした.ww (画像検索結果)
 パッケージに文献からの引用を掲げている酒は珍しい.そこで,もしかすると由緒ある焼酎なのかもと思って検索すると,Wikipedia にちゃんと【黒糖焼酎】と項目が立てられているではないか.
 しかもその記述中に,《宮内庁からの委託で奄美群島内で作られ》とあり,宮内庁御用達のものがあるという.驚いて調べてみたら,これは嘘で,実は宮内庁の委託ではなく,宮内庁生活協同組合の委託製造つまりPBであった.皇居参観を予約して,参観途中で宮内庁生協に立ち寄ると,その売店で「御苑」という焼酎が販売されているのがそれ.他では入手できないが,製造元は奄美大島龍郷町の蔵元「町田酒造」らしい.また焼酎以外にも「御苑」ブランドの商品がある.
 閑話休題.これはいい酒を見つけた.暫くは安くて旨い「喜界島」を愛飲することに決めた.町田酒造の高い黒糖焼酎も魅力的.
(ちなみに,「南島雑話」の古書は,版によっては資料的価値が高いらしく,ものすごい値段がついていて,ちょっと手が出ない.オンデマンド出版があるが,それも気軽に買えない価格だ)
 
 ところで「喜界島」の紙パックは Amazon で注文したのだが,届いたダンボールには新聞紙が緩衝材として詰めてあった.
 私は古新聞はゴミで捨てずに古紙回収に出すから,そのぐしゃぐしゃに丸めてあった新聞紙を,きれいに畳み直した.
 広げてシワを伸ばして畳む時に気が付いたのであるが,それは「奄美新聞」という地方紙で,そのうちの一枚は,丸々一頁を割いて,奄美出身の歌手である城南海さんの特集記事が掲載されていた.かなり以前から活躍している人のようだ.Wikipedia【城南海】の記述は,かなりの城南海ファンによる編集だと思われる.
 城南海さんは目鼻立ちのはっきりした美人で,これはこれはと思いつつネットで歌唱を検索してみた.みつかった YouTube を聴いてみると,確かにきれいな声と島唄の雰囲気ある上手な歌唱ではあるが,何か一つインパクトがなくて,メジャーにはなれない歌手という印象を受けた.
 通販で買った酒から,偶然一人の優れた歌い手を見つけた,というストーリーにはならなかったのが残念だが,いつの日か元ちとせさんのようなヒット曲に恵まれるといいなあと思った.

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2018年6月 5日 (火)

初めての台湾 (五)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (四)
 
 今回のツアーで三連泊した台北市内の洛碁大飯店・林森館は普通のビジネスホテルだが,朝食は充実していた.私が朝食会場に入ると,厨房から料理を運んでくるおばさんが,私が日本人観光客だと気が付いて,すごくフレンドリーに料理の説明をしてくれた.その料理は,日本のビジネスホテルの朝食では,見かけないものがいくつもあった.
 食事後,ロビーに再集合したツアー同行者のみんなと「朝食に出たアレはおいしかったけど,アレは一体何なの?」と話題になったが,結局よくわからない正体不明の料理がいくつかあった.おいしかったから正体不明でもいいけど.w

 

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 ホテルは大き目な交差点の角にあるのだが,玄関を出ると,すぐ目の前の角地に寺院があった.交差点の角のあと二つにはオフイスビルが立っていた.
 団体バスに乗り込み,ツアー二日目は午前中に,ルーブル,エルミタージュと並び称されるミュージアムであり,台湾観光の最大の目玉である国立故宮博物院に行く.

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 正門からだとバスを下車したあとちょっと歩くことになるとかで,ぐるっと団体バス専用らしき入口に回り,バスを降りて玄関ロビーに入ると,中華民国建国の革命家にして「国父」である孫文の大きな像が鎮座していた.日本語でも「国父」というと普通は孫文を指す.日本には「国父」がいないから,それでいいのだ.w
 この日は団体記念写真を撮るためにカメラマンが同行していて,彼と少し話をしたのであるが,彼は孫文を「孫文先生」と敬愛の念を込めて呼んだ.
 
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 成田空港のクラブツーリズムのブースに集合した時,添乗員Sさんから渡されたビニールポーチにはインカムが入っていた.国立故宮博物院の玄関ロビーで,私たちはそのインカムを首から下げてスイッチをオンにした.帰国するまで,現地ガイドRさんの説明や行動指示はこのインカムで行われるのだ.

 二階にはミュージアムショップとカフェなどがあり,ドアを出ると広いテラスになっていて,正門とその向こうが遠く見渡せるようになっている.ここで同行カメラマンが団体写真を撮った.
 
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20180508j
 
 今の日本では,かなりの高齢者は別として,私のように七十歳前後くらいの者は,自分が撮影した旅の記念写真は,スマホとかPCに画像で保存していると思われる.ツアーの団体写真は,撮影した画像をプリントし,見開きのアルバムにして販売されるのだが,私はそれをスキャナでデータにして保存し,アルバムは捨てている.二度手間である.w
 だからこれまで国内ツアーの団体写真をほとんど買ったことはないのであるが.今回は買った.
 私は,大昔の文化大革命の時から,大陸の共産党中国 (中国は共産党が支配しているが,現在はもう共産主義国ではない) は陰謀渦巻く権力闘争の国 (共産党というのはレーニンの昔からそういうものかも知れないが) という印象が強くて好きでない.しかし,孫文が建国した中華民国には親近感を持っている.これに加えて,戦争中の恩讐を超えて,東日本大震災で台湾の人々が示してくれた友情に深く感動したこともある.
 さらに!,花も恥じらう美人ガイドのRさんが,私たちが買い物をすると満面の笑みで「日台友好ありがとうございます」と言うのである.それを見たら,たかが団体写真でケチっていられるかと思うのであった.日台友好万歳.

 さて記念写真を撮影したあと,私たち一行は国立故宮博物院の展示を粛々と鑑賞して回った.
 国立故宮博物院の所蔵品のうちで,ここを訪れた観光客が必ず観るものといえば,至高の名品「翠玉白菜」 (↓) である.
 
20180508n
 
 この「翠玉白菜」は四年前に短期間,東京国立博物館で海外出品されたことがあるのだが,この時の展示を私は迂闊にも見逃してしまった.それ以来ずっと一度は観たいものだと思ってきたので,ようやく望みが叶ってとても嬉しかった.
 
 実は故宮博物院が所蔵している同様の彫刻は三つある.(参考記事;《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》 )
 翡翠の白菜は本当は四つあったのだが,一つは現在行方不明なんだと,現地ガイドRさんが説明してくれた.戦後のどさくさに紛れて誰かが私蔵してしまったのだろうか.
 私たち一行は「翠玉白菜」のすぐ近くに寄って観ているのだが,Rさんは大勢の観光客たちの邪魔にならぬよう離れたところから解説をするわけで,これがインカムの必要な理由なのであった.
 
 で,台北の国立故宮博物院に三つ現存 (「翠玉白菜」「翠玉小白菜」「翠玉白菜花挿」;花挿は花を生ける花器のこと) するとして,残りの二つはどこにあるかというと,北京の紫禁城 (画像) と天津博物館 (画像 の五つ目) だ.
 前記の《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》では,
 
また、中国大陸にも北京の故宮博物院に高さ16センチ、幅6センチの「玉鏤霜菘花挿」が残されているほか、天津博物館にも1点収蔵されている
 
としているが,これは間違い.
 天津博物館に所蔵されているのが「玉鏤霜菘花挿」だ.中国語で「白菜」は「菘菜」とも言うが,「玉鏤霜菘花挿」の姿と色は,いかにも霜枯れした白菜だ.
 一方,北京にあるものは,上に示した画像の展示ケースに書かれている通り,「翠玉白菜式花挿」だろう.
 この《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》を読んだ人のために,ここに誤りだと指摘しておく.
 
 ただし,北京のものは他の「翠玉白菜」と形が随分違う.私には北京のものは青梗菜 (チンゲンサイ) の形をしているように思われたので,ネットで資料を探した.すると,青梗菜は,白菜 (パクチョイ) の茎が緑色のものをそう呼ぶのだと書かれていた.しかし別の資料には逆に,白菜 (パクチョイ) は青梗菜 (チンゲンサイ) の茎が白いものをいうとあり,もう何が何だかわからぬ.
 
 それどころか,中国原産で明治時代初期に日本に渡来し,漬物や鍋物に多用される一般的な白菜も,日本には昭和五十年代に導入された中国野菜である白菜 (パクチョイ) も,青梗菜 (チンゲンサイ) も, みんな総称「白菜」の一種なんだそうである.総称の「白菜」は,中国語の読みを強引に片仮名で書くと「パァィツァィ」らしいが,よくわからぬ.だとすると「パクチョイ」はどこの言葉だ.
 
 ところで Wikipedia【翠玉白菜】には
 
 《翠玉白菜は国立故宮博物院の「最も有名な彫刻」と言われており、清明上河図、肉形石と合わせて国立故宮博物院の三大至宝とされている。(ただし翠玉白菜と肉形石は台北市の国立故宮博物院に、清明上河図は北京の故宮博物院にある。)
 
との記述が見えるが,これは間違いだろう.
 正しくは《国立故宮博物院の三大至宝》ではなく「故宮博物院の三大至宝」ではないか.というのは,中国語版 Wikipedia には,国立故宮博物院の「三宝」は,「翠玉白菜」「肉形石」と,清明上河図ではなく青銅器の「毛公鼎」の三つであるとして,以下のように書かれているからである.
 
 《常態展出的〈翠玉白菜〉、〈肉形石〉和〈毛公鼎〉3件展品,合稱「故宮三寶」
 
 国立故宮博物院は中華民国の博物館で,台北にある.その所蔵品が北京にあるわけがない.「国立」を取り去って「故宮博物院の三大至宝」とすれば,台北と北京の故宮博物院の文物を総称した意味にとれるから,とりあえず矛盾はなくなる.
 当然だが,国立故宮博物院が北京にある清明上河図を自らの「至宝」とするわけはないから,「翠玉白菜」「肉形石」「毛公鼎」の三つを宝物としているのである.
 穿った見方をすると,Wikipedia【翠玉白菜】のこの箇所を編集した執筆者は,台湾は中国の一部であるとする中国政府の主張を支持している政治的立場なのかも知れない.そうだとすると,この箇所は,「国立故宮博物院は中華人民共和国の施設である」という歴史的事実とは異なる政治的な主張を密かにしていることになる.しかし,その主張はいくら何でも強引だと指摘しておきたい.北京の故宮博物院と台北の国立故宮博物院は,本館と別館の立場にあるのではなく,別々の施設である.
 
20180508o
 
 その三宝の一つである「肉形石」は,「翠玉白菜」より知名度は劣るかも知れないが,これまたすばらしいものであった.

 さて,故宮博物院での見学自由時間はたっぷりあったので,カフェでツアーメンバーの女性たちにタピオカミルクティーを御馳走し,それからミュージアムショップに入ったら,メモ帳やらノートやら鉛筆やらの各種文房具,冷蔵庫のドアなど使うマグネット等々,物欲を刺激する数々の土産が置かれていたので,私はドカドカと音を立てて買いまくった.
 
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(マグネット)
 
20180605g
(木製の鉛筆箱.中に鉛筆が八本入っている)
 
 そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという.
(初めての台湾 (六) へ続く)

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2018年6月 4日 (月)

ローリングストック用パン

 藤沢駅周辺の私の行動範囲にローソンが四店舗あるのだが,この二ヶ月ほど,早朝でも昼間でも,ブランパン類が棚から払底している.
 それまでは,糖質制限ダイエットに必須のアイテムだったブランパンは入手困難でも,高カロリー&高糖質のブランドーナツやブランアンパンは人気がないから売れ残っていたのであるが,最近ではそれも見られなくなり,ブランパン類の棚は何も置かれていないのだ.
 売れすぎて供給が全く追い付いていないのか,その反対にローソンの本部が糖質制限マーケットにもう関心がなくなって,ニーズに応える気がないのか不明だが,代替品を探してみた.
 
 私は実はこの一年間,早朝一時間ほど速歩でウォーキングをやったあとでデニーズで朝食を摂る時にしか,普通のパン (=高糖質) を食べていない.
 その理由は,有酸素運動をやった直後は血糖値上昇が緩やかになるからである.
 私の食後血糖値は正常範囲にあるが,ここで「正常」というのは,食後の血糖値上昇が「普通」という程度の意味であり,血糖が循環器にダメージを与えていないという意味ではない.
 若くて健康な人は別だが,私は心筋梗塞の一歩手前で冠動脈のバイパス手術を受けているから,これ以上,血管へのダメージは避けねばならない.可及的に食後血糖上昇を抑制する必要があるのだ.
 栄養知識のない一般人がブログに「GI値の低い食品,食材にしましょう」などと書いているのを見かけるが,これは嘘である.GI値が低いとされている食品を摂取した場合の血糖上昇データを検討すると,高糖質の食品摂取時よりも低いダメージが長時間続くに過ぎないことが多く,結果的に血糖が血管に与える総ダメージ量は変わらないから,低GI値だからと安心はできない.私のように循環器の老化が進行した高齢者は,低GI値などというインチキ理論 (「食べる順番」なんてのも一緒) に惑わされず,食材・食品に含まれる糖質の絶対量で自分の食事をコントロールする必要がある.
 また運動と食後血糖値については,食後すぐに有酸素運動を始めても,運動後に食事するのと同じ効果があると言われているが,こちらは消化によくないような気がするので,精製された糖質は運動後に食べるようにしているのだ.
 ちなみにデニーズの石窯ブールは,うまい.ファミレスの料理レベルを超えている.おまけに「御飯と味噌汁のセット」の糖質が約70グラム (←デニーズの場合) であるのに対して,「石窯ブールとバター」の糖質は32グラムだ.高齢者各位には,デニーズでの食事は,料理にライスをつけるのではなく石窯ブールにすることをお勧めする.一回の食事に摂る糖質がその程度なら,残りの二食の内容を工夫すれば,何とか一日の食事を,緩い糖質制限の範囲に収めることが可能だ.
 
 閑話休題.
 そういうわけで,パン屋には一年間入っていないし,スーパーへ食材の買い出しに行ってもパンの棚は見ずに通り過ぎていた.
 ところが最近,スーパーによっては,パン売り場で Pasco (敷島製パン) の低糖質パンが次第に存在感を強めていることに気が付いた.(ブランドサイトはここ)
 ただしこの Pasco の低糖質パン類は,あからさまに言えば羊頭狗肉で,ローソンのブランパンに比較すると糖質量が数倍多い.敷島製パンだけではないが,元々糖質量の多い食品に「糖質**%オフ」という表現をするのは欺瞞である.中にはパッケージに「糖質**%オフ」とだけ表示して糖質絶対量について情報提供しない悪質な食品会社もある.私たちはこのような企業に騙されずに,糖質絶対量で食事の内容を組み立てないといけない.
 
 糖質制限食的には,この Pasco の低糖質パン類と大差ないものに,株式会社ビアンタの低糖質パンがある.(ブランドサイトはこちら)
 これは, Pasco の羊頭狗肉商品と同様に無視していいかというと,少し違う.これは包装時に鮮度保持剤 (アルコール製剤で商品名は「フレッシュ ドット」) を同封してあり,いわゆるロングライフを標榜しているのだ.私が藤沢のダイエーで数回購入した際は,いつも賞味期限まで一ヶ月残していた.
 ということは,非常時の食料として有用なのである.
 長期の保存に耐える缶詰のパンは高単価であるが,このビアンタの低糖質パンは比較的リーズナブルな価格である.普段は糖質制限の補助的食品として一日に一つ食べて消費し,五つ食べたら五つ補充するなどして最大十個ほどのローリングストックをしておけば,災害時の食料として使える.
 このパンと組み合わせるのに適したレトルト食品は稿を改めて紹介する.

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2018年6月 3日 (日)

生け花の化学

 私が会社員だった頃,仕事で必要な専門書とかお気に入りの作家の新刊はどんどん買ったが,町の古本屋には入ったことがなかった.
 古書店という商売がどのようなものかを知ったのは,ベストセラーのミステリー,三上 延『ビブリア古書堂の事件手帖』に書かれていたことによるのが大きい.
 鎌倉の片隅にある古書店「ビブリア古書堂」は普通の古本屋で,読者が想像するに,商品は文学書である.

 で,「ビブリア古書堂」とは全く異なるタイプの古書店があることは,私も知識としては知っている.地方の旧家の蔵から出てきた古文書といった類のものを扱う書店だ.
 磯田道史先生の『日本史の内幕』(中公新書,2017年) を読むと,磯田先生がその種の古書店で貴重な史料を発見したという話がいくつか書かれている.
 同書の一節《秘伝書が伝える「生け花の化学」》(p.137) はその一つで,京都市内の古書店で見つけた和綴じ (!) の冊子の話である.そこから少し引用する.

「挿花養之伝」と表紙に書いてある。「嘉永六 (一八五三) 年八月吉日 佐久間鷺水」とも。巻末には「右、養 [やしない]の巻は、未生 [みしょう]家秘事の秘中にして、猥 [みだ]りに伝えず……未生流薬井斎泉鱗 [やくせいさいせんりん] (花押) 」と記されているから生け花・未生流系統の秘伝書である。これは面白いと思った。生け花を生ける「形」を示した華道の書物は多い。ところが、この秘伝書は「養」といって、生けた花を、長期に、みずみずしく保つ秘法を論じている。当然、植物ごとに、長持ちに効く薬品は違う。植物ごとに薬品の種類と調合を詳細に記している。
 そういえば、先日、未生流笹岡
[ささおか]の家元・笹岡隆甫 [りゅうほ]さんと近所で寿司をつまんだのを思い出した。笹岡さんは幼時に京都祇園祭の御稚児さんの大役を務めたことがあるそうで、私は興味津々で、その内幕を聞いた。これは、笹岡さんにとって大事な古文書かもしれない。買って帰ることにした。解読をはじめると、これが面白い。秘伝書のなかに紙が一枚挟んであり、そこにも秘伝が記されていた。江戸時代に、生け花が、植物の生理に基づいて「花を長持ちさせる科学性」を獲得していく様子がわかる。特に、江戸中期以降、水辺の植物を生ける技術が向上する。例えば、コウホネという水生植物は、山椒 [さんしょう]・茶・明礬 [みょうばん]を調合した薬液を「水鉄砲にて水上 [みずあげ]る」。蓮 [はす]も水鉄砲で「石灰」を湯で煮た水を注入する。「葭 [よし][あし]」などは「焼酎 [しょうちゅう]にて生 [いけ]る」とある。蝋燭 [ろうそく]で根元を焼き切る方法の詳細もある。水生植物に水鉄砲で水を注入したり、石灰でアルカリ性にしたり、「生け花の化学」が江戸期の日本には、あった。》 (ブログ筆者註;引用中,[ ]は原文にあるルビである.また一部の漢字は旧漢字をJISの字体に置き換えた)

 この文章を読むまで私は,華道の体系の中に,植物を長持ちさせる技術が含まれているとは想像もしていなかったのでとても驚いた.
 専門の歴史学の範囲を超えて能狂言を始めとする日本伝統芸能にも詳しい博学の磯田先生にして,未生流の秘伝書を手に入れるまで,このことを御存知なかったのだから,私ごときが知っているはずがないのであるが.w
 ここで興味があるのは,当然ながら磯田先生はこの古文書を解読後,未生流笹岡の家元に渡したと想像されるのだが,はたして笹岡氏はこの秘伝書を保有していただろうか,ということだ.
 そしてまた,未生流笹岡は大正時代に創流された新しい華道流派であるが,他のもっと古い華道各流派にもその種の秘伝が伝えられているのか否かに強い興味をそそられた.

 そこで,色々な検索語で,華道体系にある「生け花の化学」をウェブ上に探してみた.
 すると,未生流笹岡の祖は未生流の流れを汲んでいるのだが,その未生流の公式サイト に《未生流の伝書》として以下の記述があるのをみつけた.

伝書「草木養之巻」
流祖は、いたずらに草木の天寿を害すことを嫌い、草木の生命を永くもたらしめるよう各種薬法を考究しました。その名の通り、草木を養う法が書かれています。

 この公式サイトには,《現在、「未生」を名乗る流派は数多くありますが、未生流を初めて称えたのは当流流祖・未生斎一甫です》とあり,また流派の歴史も書かれているが,磯田先生が手に入れた古文書に見える「佐久間鷺水」「薬井斎泉鱗」の名は見えない.
 また古文書「挿花養之伝」は《未生家秘事の秘中にして、猥りに伝えず》として「秘伝」であることを強調しているが,現在の未生流の伝書「草木養之巻」は公式サイトに《未生流の伝書は、流祖・未生斎一甫が自身のいけばな理論と哲学、その技法を著述したもので、未生流を学ぶ者だけに授与されるものです》と書かれているから,家元が代々継承する「秘伝」書というわけではないようだ.

 池坊はどうなんだと,公式サイトを覗いてみたが通称『池坊専応口伝』の花伝書のことは記載されているが,他の伝書については書かれていない.京都の池坊会館にある資料館に行けば伝書の展示を見ることができそうなので,機会があったら行ってみたい.

 ところで,「生け花の化学」と聞いて昔の記憶を思い出した.
 昔,私が親しくして頂いていたA教授が,ある日偶然,球根の水栽培に爽健美茶が適していることを発見した.水耕容器に入れた水の中で微生物の繁殖が抑制されたのである.そのせいか球根の根の生長がよかったという.
 簡単な予備試験をしてみたところ,どうやら爽健美茶の原料の一つであるチコリーに有効成分があるらしいことがわかったとその教授は話してくれた.爽健美茶が発売されたばかりの頃のことである.しかしその後,このことをまとめた論文は目にしていない.
 昨日,上のことを思い出したので,なぜだろうかとウェブを検索してみた.
 すると,爽健美茶の発売は平成五年 (1993年) であるが,その二年前の平成三年 (1991年),ユーカリの成分研究で有名な西村弘行先生 (現北翔大学学長) が北海道東海大におられた時,日本化学会講演予稿集に講演要旨《チコリー中の抗菌性セスキテルペノイドについて 》を書いておられたのを見つけた.
 たぶんA教授は研究の途中で,抗菌性有効成分がセスキテルペノイドらしいと気が付いたのであろう.先行研究があったのでは,それ以上の追求は断念せざるを得ない.そんな事情だったのかも知れないなあと思った.

 チコリーはキク科である.「挿花養之伝」に日本産キク科植物を煎じた薬液を使うなんて書かれていたらおもしろいのだが,と空想してみた.私は古文書を読めないが.w

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2018年6月 2日 (土)

糖質制限中の晩酌にどうぞ

 藤沢駅の北口にある「さいか屋」から少し歩くと藤沢銀座商店街にダイエー藤沢店がある.私は,やはり藤沢駅北口にあるスポーツクラブの帰りに,このダイエーに寄って食料の買い出しをすることが多い.
 昨日も筋トレで一汗かいたあと,ダイエーで食材を仕入れた.
 いつも,ここでカット野菜を買う.値段のことだけ言えば南口のOKストアの方が少し安いように思うが,スポーツクラブからだと歩いて行くのが面倒なのである.
 で,今日の昼飯に,カット野菜 (レタスとオニオンのサラダ用) の二袋をサラダボウルに盛り,キューピー・イタリアンドレッシングをかけて食べた.

 そのサラダの量が少し多かったので食べ残しを冷蔵庫に入れておいたら,夕方にはレタスが「しんなり」して,鮮度が高い時よりもむしろおいしそうになった.
 そこで冷蔵庫から日本ハムの「ミートデコレ 切り落としペッパービーフ」を取り出して,野菜に和えてみた.

 するとこれが大正解で,晩酌というか夕食というか,なかなかイケる一品となった.コスト無視で,これにモッツァレラチーズとオリーブの実 (黒) を混ぜると,御馳走感が半端ではなくなる (ような気がする).

20180602a  

(食器は ARABIA ARCTICA の深皿 Φ17cm)

 これに合わせるのは,アサヒのビール風味リキュール「贅沢ZERO」 (糖質はゼロ) である.この一皿に含まれる糖質はドレッシングに含まれるものだけなので,糖質制限中の人にお勧めしたい.手間を厭わなければ,自分でフレンチドレッシングを拵える (意外にフレンチドレッシングは店頭で販売されていないことが多い) のもよい.ペッパービーフが好きでなければ,生蛸や白身の魚を薄く切って使ってもいいだろう.
 でも,そこまでするなら魚介をカルパッチョにして大皿に盛り,そこにドレッシング漬の野菜を付け合わせに添えるのがいいかも.その場合はワインがよいと思うが,おいしくて手頃な値段 (千円以下 w) の低糖質ワインって,探してもなかなか見つからないのだなあ.

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2018年6月 1日 (金)

『母子草』ノート (7)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 前回の記事《『母子草』ノート (6) 》に《藤澤教授から旧武蔵野郷土館に寄贈された資料『藤沢文庫』の目録を作成し,機関誌『武蔵野』(70巻第2号;1993年) に掲載したことがわかった.》ので,その目録が掲載されている『武蔵野』を古本屋に注文したのだが,どういうわけか返事がこないと書いた.
 それがやっと昨日になってメールがきて,在庫確認できたという.
 やれ嬉しや.その目録で旧武蔵野郷土館にある (あった?) 『藤沢文庫』の中身が確認できれば,調査が随分と楽になるはずだ.
 
 さて,注文した『武蔵野』が到着するまでに,「母子草の物語」のリストの中でまだ内容確認ができていない図書三点の実物確認を進めることにした.
 昨日,川崎市立高津図書館が所蔵しているものから着手した.書誌事項等を再掲する.
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作品名      母子草
書籍名     『笛のたび』(日本のむかし話 ; 9)
著者       槙本ナナ子,山本藤枝,大石真,那須辰造,
         宮脇紀雄,山主敏子,大柴愛子,久保喬,
         加藤輝男,岡上鈴江,山本和夫
出版社      ポプラ社
発行年      1957年
所在等特記事項  川崎市立高津図書館蔵書.都立多摩図書館蔵書.近々に複写請求の予定.
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 川崎市立高津図書館はこれまで利用したことがない.ネットで経路を調べると,藤沢からはJRは使わずに小田急と東急電鉄を乗り継いで行く.
 まず小田急線の藤沢駅から中央林間駅まで行き,東急田園都市線に乗り換えて,急行で溝の口へ行き,ここで田園都市線または大井町線の鈍行に乗り換えると,次の駅が高津駅である.が,この高津駅は,鈍行電車でも通過するものがあるという不便な駅なのである.
 藤沢からの距離は大したことはないが,時間は結構かかる.駅から徒歩で近いのが救いだ.
 昨日は,調べたい本が『笛のたび』一冊だけなので,館内で閲覧してから必要箇所を複写する予定で出かけた.館外貸し出ししてもらうと返しに来るのが面倒であるからだ.
 図書館入口を入るとカウンターがあり,貸出,返却,相談の各窓口がある.相談窓口の司書さんに書誌事項のメモを見せて,蔵書検索してもらうと,書庫にあるので持ってくるから待っていてくださいとのことだった.
 
 カウンターの中で仕事している司書さんたちは全員女性で,いい図書館だなあと思いつつ五分ほど待っていたら,書庫から『笛のたび』を持って窓口に届けに来た司書さんも女性で,ますますいい図書館だなあと思った.高津図書館が藤沢から至便な距離にあれば毎日来てもいいのに残念である.
 
 で,下調べでは『笛のたび』は初版が昭和三十二年 (1957年) であったが,高津図書館の蔵書は昭和四十年 (1965年) 発行の第五刷だった.
 そして,これがもう製本の状態は半分壊れていて,腫れ物にさわるように扱わないとバラバラになってしまいそうな本だった.
 古書マーケットに出回る本は,基本的に個人の蔵書だったものだろう.愛読書ならば丁寧に扱うだろうし,一度読んで死蔵された書籍なら木口の多少のヤケ以外は新品同様だろう.
 その一例で,つい先日購入した保阪正康『陸軍良識派の研究』(光人社;1997年,第三刷) は古書評価で新品同様とされていた書籍で,帯付きであるのはもちろん,出版社へ返送する読者葉書も新刊案内のリーフレットも挟まれていて,使用感ゼロの良品だった.こういう本は読了したら再び古書マーケットに出して誰かに読んでもらいたいと思う.
 
 それと図書館の蔵書では事情が全く異なる.ある本を借りた図書館利用者が,その本を個人の蔵書よりも大切に扱うとは想像しにくい.また資料として閲覧される種類の本であれば,コピー機で複写がされるだろうが,その際に無線綴じの本は「背」に無理な力がかかる.これが繰り返されると,やがて破壊に至るわけてある.
 高津図書館の『笛のたび』は,まさにそういう状態の本であった.
 まずは中に収められた十七篇の昔話のうち,「母子草」(昭和四十年;作者は山本藤枝) を慎重にページを繰って一読し,これが今まで集めた作品にはないタイプであり,「五つ目の母子草の物語」であることが分かったので,司書さんに申し出て複写をとることにした.
 どうか私がコピーしているあいだに壊れないでくれ,と祈りながら目次,「母子草」のページと奥付をコピーした.「前書」と「解説」の部分は背が切れてしまいそうだったので,断念した.そしてコピーし終わったときには,ふーっとため息が出た.w
 
 さて『笛のたび』に収められた「母子草」は,藤澤衞彦教授の「母子草」を大幅に手直ししたものであった.
 連載記事「母子草」の本編で詳しく述べるが,かつての日本の児童文学は,ヨーロッパ文学史の言葉を借りると,「成長物語」型と「遍歴物語」型の二タイプに分けられるという.
 ここで,「遍歴物語」型は,登場人物は成長せず,従って時間の概念が重要でないところに特徴がある.例えば漫画でいうと,『サザエさん』は,古き良き時代の家庭の様子を描くことが作品の眼目であるから,波平からタラちゃんに至るまで全員が永遠に歳をとらない.
 これに対して「成長物語」型は時間経過と共に登場人物が「成長 (変化) 」するので,時間の概念なしには済まされない.
 ところが童話を読み聞かせする場合,聞き手は幼い子供であるから,回想場面があって時間が過去に遡って語られるのは避けねばならない.お話を聞いてる子供が混乱してしまうからである.
 この点について,宮川健郎 (児童文学研究者,武蔵野大学教授) は次のように書いている.
 
石井桃子らの『子どもと文学』(中央公論社、一九六〇年四月) は、小川未明、浜田広介などの日本の近代児童文学を批判的に検討し、その上で、子どものための文学にとって大切なことは何かと問うた書物で、先にふれた「童話伝統批判」を代表する著作のひとつである。そのなかでは、昔話が子どもの文学として基本的な要素をふくんだものとされる。子どものための文学は、昔話の形式がそうであるように、モノレールを走る電車のように、まっすぐにすすむのがよいとされたのだ。この考えは、幼年童話や絵本を制作する人たちのなかでは、厳重にまもられてきた。》 (出典;日本児童文学者協会編『戦後 児童文学の50年』(既出) 収載の「転機をむかえる児童文学」,p.65)
 
 この見地からすると,藤澤教授の「母子草」には大きな欠点がある.すなわち少女小雪の母親の回想の中で,小雪がなぜ奉公に出なければならなかったかが語られるのである.
 この藤澤教授の「母子草」(昭和二十四年) からかなり遅れて出版された山本藤枝の「母子草」は,昔話の原則に則って,単線的に物語が進行する.原作の欠点を改めたのであろう.(なお,山本藤枝の「母子草」の出典は藤澤教授の『日本傳承民俗童話全集 全六巻』であると,『笛のたび』の解説ページにきちんと記されている)
 その他に,藤澤教授の原作とストーリー的に異なっている点が一つだけある.藤澤版では母親の失明が眼病の結果であるのに対して,山本版では,小雪のことを思って母親が泣き暮らしていたために失明したとしている.これは山本藤枝が,母の小雪を思う愛情を強調するために改変したものであろう.
 さらに山本版は,翻案とまではいかないが,幼年読者が理解しやすいように色々な手直しをしている.それは連載「母子草」の本編で説明することにして,以後,山本藤枝「母子草」を「五つ目の母子草の物語」と呼ぶことにする.[註]
 
[註]『母子草』ノート (3) から引用.
便宜的に,近江民話を童話化した藤澤衛彦の「母子草」を「二つ目の母子草の物語」,浜田広介の作品を「三つ目の母子草の物語」,二反長半の「母子草ばなし」を「四つ目の母子草の物語」と呼ぶことにし,連載本文でそれぞれを批評することにしたい.

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