『母子草』ノート (9)
【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
* 前回の記事《『母子草』ノート (8) 》
磯田道史氏著の一般向け新書や文庫などを読んでいると,平明な文章だから私たち読者はどんどん読み進んでしまうのだが,実際には氏の著作は史料の深い検討の上に書かれているのだろう.
私は理系の人間で,歴史学は全くの門外漢だから,前回の記事で紹介した論文『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』(大川原竜一著) を読んで,歴史学の研究レベルの仕事はこのように進めるものなのだなと感じ入った.
中でも,おおそうなのか,と思ったのは,この論文の初めのほうに書かれている次のことである.
* 前回の記事《『母子草』ノート (8) 》
磯田道史氏著の一般向け新書や文庫などを読んでいると,平明な文章だから私たち読者はどんどん読み進んでしまうのだが,実際には氏の著作は史料の深い検討の上に書かれているのだろう.
私は理系の人間で,歴史学は全くの門外漢だから,前回の記事で紹介した論文『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』(大川原竜一著) を読んで,歴史学の研究レベルの仕事はこのように進めるものなのだなと感じ入った.
中でも,おおそうなのか,と思ったのは,この論文の初めのほうに書かれている次のことである.
《かつて桜井徳太郎氏は、(中略) 「一つの縁起が成立し伝承されて行く過程には、かならず変化の歴史が伴って」おり、「縁起伝説の歴史的変化を跡づける作業が重要な意味をもってくる」と述べている。また達日出典氏は「縁起は、その寺院の内部事情の変化や寺院をとりまく外的条件変化に伴い、常に書き換えられるものであることを前提に置き、広く寺院史の中に、縁起の形態 (内容構成) を系統的にするべき」と指摘している。
歴史学の分野においては、虚飾・潤色彩られる縁起の物語的要素を史実と混淆することなく実証的に考察を加えて、縁起それ自体の史料的価値を分析しなければならないのは当然である。けれどもその一方で縁起を制作した寺社の意図のみならず、それらを要望した時代的背景や信仰の担い手・受容層が存在したことは事実であり、地域的固有性、信仰上の差異や担い手などによって多種多様な内容構成をもつ寺社縁起も、寺社の歴史的環境やその発展、また縁起制作当時の宗教的・思想的背景に位置付けることで、その時代性を考える「史料」として対象化することができる。》 (文中の下線はブログ筆者による)
論文著者の大川原氏は,上に引用した立場で竹生嶋縁起を批判的に考察している.(前回の記事に私は,日本大百科全書ニッポニカに書かれている竹生嶋縁起の解説に関して《この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている》と書いたが,大川原氏は《竹生島縁起群》としている.二つよりも多いらしい)
その考察の中から,私が知りたいこと (竹生島信仰の歴史) を抜き出すと,以下の通りである.
歴史学の分野においては、虚飾・潤色彩られる縁起の物語的要素を史実と混淆することなく実証的に考察を加えて、縁起それ自体の史料的価値を分析しなければならないのは当然である。けれどもその一方で縁起を制作した寺社の意図のみならず、それらを要望した時代的背景や信仰の担い手・受容層が存在したことは事実であり、地域的固有性、信仰上の差異や担い手などによって多種多様な内容構成をもつ寺社縁起も、寺社の歴史的環境やその発展、また縁起制作当時の宗教的・思想的背景に位置付けることで、その時代性を考える「史料」として対象化することができる。》 (文中の下線はブログ筆者による)
論文著者の大川原氏は,上に引用した立場で竹生嶋縁起を批判的に考察している.(前回の記事に私は,日本大百科全書ニッポニカに書かれている竹生嶋縁起の解説に関して《この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている》と書いたが,大川原氏は《竹生島縁起群》としている.二つよりも多いらしい)
その考察の中から,私が知りたいこと (竹生島信仰の歴史) を抜き出すと,以下の通りである.
[1]竹生島信仰の始まり
護国寺本『諸寺縁起集』所収の竹生嶋縁起 (以下,承平縁起と呼ぶ) は,承平元年 (931年) に書き起こされ,天暦元年 (947年) と永祚元年 (989年) に追記がなされた.
この縁起には,島名の由緒が書かれており,大川原論文によれば次のようである.
《倭根子天皇 (孝霊天皇) の時代のこととして、気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命の三神が天降り、近江国坂田郡 (承平縁起本文では「坂田評」) の東方に下座した気吹雄命と、同じく浅井郡の北辺に下座した浅井姫命が勢力を競い争った伝承である。のちに浅井姫命が北辺を去って海中に下った音が「都布々々」といったことから島の名 (「都布夫嶋」) として名付けられ、さらに年月を経て竹篠が生え出たことから「竹生島」の漢字が当てられたという、いわゆる地名起源伝承になっている。》
欠史八代と呼ばれ,実在したとしてもかなり創作性が強いとされる孝霊天皇は,在位期間を機械的に西暦で表現すると五世紀前半の天皇であることになる.浅井姫命が沈んだ島であるから当然竹生島には浅井姫命が祀られたに違いないが,しかしその社である都久夫須麻神社 (竹生島神社) の名が初めて記された史料は,遥か後代の延喜元年 (901年) に成立した『日本三代実録』の,元慶三年 (879年) の記事であると大川原論文はいう.
ここで特筆すべきは,承平元年 (931年) に成立した竹生嶋縁起 (承平縁起) には,浅井姫命は登場するが,奈良東大寺大仏造立の実質上の責任者として著名な行基は,天平十年 (738年) に竹生島を訪れ,小さな仏堂 (これが竹生島の宝厳寺の開創とされる) を建てて四天王を祀ったとだけ記されていることである.
しかるにこれが後世になって大きく変容し,伝説化した行基が竹生島に弁才天や十一面観音を祀ったことに書き換えられてしまうのである.(竹生島と行基の関係については後述する)
ちなみに承平縁起は,竹生島に千手観音を祀ったのは,天平勝宝五年 (753年),近江国浅井郡大領の浅井直馬養 (あざいのあたいうまかい) という人物であるとしている.
上記のことをまとめれば,竹生島信仰は,現代では弁財天が本尊であるが,初期には弁才天ではなく,土着神の浅井姫命と千手観音の信仰から始まったのである.
ちなみに,宝厳寺観音堂の千手観音は秘仏であるが,その他に聖観音像も祀られている.私は竹生島に行ったことがないので見ていないが.
この拙文は,中島千恵子氏が採話し再話した近江の民話「母子草」は,近江の被支配階層庶民の信仰に関わるものではないかという私の仮説に基づいて進めているのであるが,「竹生嶋の弁才天信仰」の勉強と並行して進めている「湖北の観音信仰」に関して集めた資料『特別展 湖北の観音 ―― 信仰文化の底流をさぐる』(長浜市長浜城歴史博物館他編,サンライズ出版,2012年) に,列品解説として次の記述がある.(p.150)
護国寺本『諸寺縁起集』所収の竹生嶋縁起 (以下,承平縁起と呼ぶ) は,承平元年 (931年) に書き起こされ,天暦元年 (947年) と永祚元年 (989年) に追記がなされた.
この縁起には,島名の由緒が書かれており,大川原論文によれば次のようである.
《倭根子天皇 (孝霊天皇) の時代のこととして、気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命の三神が天降り、近江国坂田郡 (承平縁起本文では「坂田評」) の東方に下座した気吹雄命と、同じく浅井郡の北辺に下座した浅井姫命が勢力を競い争った伝承である。のちに浅井姫命が北辺を去って海中に下った音が「都布々々」といったことから島の名 (「都布夫嶋」) として名付けられ、さらに年月を経て竹篠が生え出たことから「竹生島」の漢字が当てられたという、いわゆる地名起源伝承になっている。》
欠史八代と呼ばれ,実在したとしてもかなり創作性が強いとされる孝霊天皇は,在位期間を機械的に西暦で表現すると五世紀前半の天皇であることになる.浅井姫命が沈んだ島であるから当然竹生島には浅井姫命が祀られたに違いないが,しかしその社である都久夫須麻神社 (竹生島神社) の名が初めて記された史料は,遥か後代の延喜元年 (901年) に成立した『日本三代実録』の,元慶三年 (879年) の記事であると大川原論文はいう.
ここで特筆すべきは,承平元年 (931年) に成立した竹生嶋縁起 (承平縁起) には,浅井姫命は登場するが,奈良東大寺大仏造立の実質上の責任者として著名な行基は,天平十年 (738年) に竹生島を訪れ,小さな仏堂 (これが竹生島の宝厳寺の開創とされる) を建てて四天王を祀ったとだけ記されていることである.
しかるにこれが後世になって大きく変容し,伝説化した行基が竹生島に弁才天や十一面観音を祀ったことに書き換えられてしまうのである.(竹生島と行基の関係については後述する)
ちなみに承平縁起は,竹生島に千手観音を祀ったのは,天平勝宝五年 (753年),近江国浅井郡大領の浅井直馬養 (あざいのあたいうまかい) という人物であるとしている.
上記のことをまとめれば,竹生島信仰は,現代では弁財天が本尊であるが,初期には弁才天ではなく,土着神の浅井姫命と千手観音の信仰から始まったのである.
ちなみに,宝厳寺観音堂の千手観音は秘仏であるが,その他に聖観音像も祀られている.私は竹生島に行ったことがないので見ていないが.
この拙文は,中島千恵子氏が採話し再話した近江の民話「母子草」は,近江の被支配階層庶民の信仰に関わるものではないかという私の仮説に基づいて進めているのであるが,「竹生嶋の弁才天信仰」の勉強と並行して進めている「湖北の観音信仰」に関して集めた資料『特別展 湖北の観音 ―― 信仰文化の底流をさぐる』(長浜市長浜城歴史博物館他編,サンライズ出版,2012年) に,列品解説として次の記述がある.(p.150)
《木造聖観音立像 一躯 平安時代 (後期)
像高 六七・五
竹生島宝厳寺蔵 (長浜市早崎町)
琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺に伝わる聖観音像。竹生島は弁才天信仰で広く知られるが、平安時代後期に制定された「西国三十三所観音霊場」の札所としても、早くから信仰を集めた島である。本像は、左手に蓮華を執り、右手をかざす通形の聖観音の像容を示す。左右対称的な表現、静かで穏やかな相好、量感を抑えた体躯、浅い衣文表現など、平安時代後期、十二世紀中頃の作風を示す。》
仏像彫刻の様式は,非常に詳しく研究されており,専門家が《十二世紀中頃の作風を示す》と鑑定したのであれば,間違いなくそうであろう.現代にまで伝えられたその聖観音が,制作されたのは十二世紀だとしても,竹生島に安置されたのはいつなのか,一言書いて欲しかったと思うのは私だけではあるまいと思う.
(続く)
| 固定リンク
「新・雑事雑感」カテゴリの記事
- 芸能メディアが国際報道を扱うのはいかがなものか(2025.04.18)
- 人生は人相に出るか出ないか(2025.04.16)
「 続・晴耕雨読」カテゴリの記事
- エンドロール(2022.05.04)
- ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも(2022.03.22)
- マンガ作者と読者の交流(2022.03.14)
コメント