« 孤独と寝たきり (補遺) | トップページ | 母子草 (十四) »

2018年6月10日 (日)

『母子草』ノート (8)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
* 前回の記事《『母子草』ノート (7)
 
 古書店にも色々あって,私がこれまで利用した本屋の一つは,注文すると翌日すぐ在庫確認して送金先を連絡してきた.それでその日に送金したら即刻入金確認して本を発送したとのメールがきた.
 ところが今回,「藤沢衛彦文庫」の目録が掲載されている『武蔵野』を注文した「M書房通販部」という東京八王子にある本屋は,注文の五日後に送金先を連絡してきた.待ちかねていたので即日送金したのだが,四日後に発送したとのメールがきた.そしてそれから三日経つのに,八王子からの荷物がまだ届かない.どうなってるんだこの本屋は,と怒りのメールを出しかけたが,途中でやめた.もしかするとM書房は老夫婦二人でやっている零細な古本屋で,通販部というのは推定年齢七十五歳の奥さんのことで,かすむ目をこらしながら一本指入力でメールを打っているのかも知れないから.
 と,ここまで書いたら『武蔵野』が郵送されてきた.
 その巻頭に「藤沢衛彦文庫の目録刊行事業と先生の略歴及び著作について」が掲載されていて,そこに次のようにある.
 
先生が六十余年間にわたって文献資料は、約二万数千冊ともいわれていますが、その一部の和書類に限り先生の御遺徳を忍ぶべく没後二十五年ぶりに日の目を見たことになります。
 
 「藤沢衛彦文庫」の目録は,全部で二万数千点と推定される文献資料のうちの一部,和書類の目録 (約四千冊) であるという.
 これが「江戸東京たてもの館」の展示棟にて展示されていると書いてある.
 目録の中身を検討してみると,特に分野を限定しているわけではなく,伝承説話の資料が数多く含まれている.日本近代文学館に遺族から寄贈された「藤沢衛彦文庫」(こちらも約四千冊) と性格が異なるもののようではなさそうだ.
 合計の和書八千冊か.その中から藤澤教授が童話「母子草」創作の参考にした近江の伝承に関する資料を見つけるのは,私の残りの人生では時間が足りないだろう.しかも目的の資料は四千冊の和書中ではなく,残りの一万数千点の資料中にあるのかも知れない.ここは潔く断念して,別の方向から考察を進めることにする.
 
 さて近江に伝わる「母子草の物語」について調査を始め,中島千恵子氏の再話による民話「母子草」を読んだ時に感じたのは,この民話は近江の被支配階級庶民の信仰に関わるものではないか,ということである.
 貧しい農家の娘が富裕な家に年季奉公に出るという民話「母子草」の設定からすると,この話は江戸時代中期 (Wikipedia【女中】を参照) 以降に発生したものと考えられる.では江戸時代,近江における庶民の信仰はどのようなものだったか.
 まずは Wikipedia【宝厳寺】から勉強してみる.宝厳寺は琵琶湖の竹生島にある寺院である.
 
竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。
宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。

 
 上に引用した Wikipedia【宝厳寺】には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』 》と書いてあるが,琵琶湖に浮かぶ島は現在は竹生島と書くのが普通だが,論文等にはきちんと『竹生嶋縁起』と書かれていることが多いようだ.ミスタージャイアンツ長嶋茂雄を長島と書いては間違いであるのと同じである.
 それで私も,引用文以外の文章中では,島は竹生島と書くが,文献名は『竹生嶋縁起』と書くことにする.
 さて,Wikipedia には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には》とだけ簡単に触れているが,実は『竹生嶋縁起』は一つではない.
 ここで『竹生嶋縁起』を調べてみる.Wikipedia には【竹生島縁起】という項目自体がないが,しかしネット上には,二十五年ほど昔,小学館が出版した古い大部の百科事典である『日本大百科全書ニッポニカ』がデジタル化されて公開されている.(余談だが『日本大百科全書ニッポニカ』のCD版は確か Windows98版 が最後のアップデートだったと思うが,私は捨ててしまった;今なら Windows の互換モードで動作可能かも知れない.もったいないことをした)
 閑話休題.
日本大百科全書ニッポニカの解説

竹生島縁起
ちくぶじまえんぎ
 
滋賀県長浜市の都久夫須麻神社 (つくぶすまじんじゃ)・宝厳寺 (ほうごんじ) の縁起。智福嶋縁起とも表記する。護国寺本『諸寺縁起集』に、931年 (承平1) 成立と伝える縁起を収録するのが早い時期のもの。『群書類従』本には、1414年 (応永21) に普文が比叡山にて旧記を集めて撰したとの奥書があり、勧進帳の前文として著されたらしい。琵琶湖上への竹生島の出現とその出所に関するいくつかの口伝、島名・周辺地名の由来や仏教的注釈、738年 (天平10) の行基による四天王像安置から989年 (永祚1) の平惟仲の法華三昧田の施入に至る尊像堂舎の造立や神階授与・寄進などの年代記、十五童子が垂迹 (すいじゃく) した神社などが記される。北近江での気吹雄命 (いぶきおのみこと) と地主神浅井姫の争い、海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した話、信仰の中心となる弁才天の霊験譚、中世の祭礼図にも描かれる六蓮華会の由来など、短編ながら多彩な内容を含んでいる。[藤原重雄]
『西田長男著「竹生嶋縁起」 (『群書解題 第6巻』所収・1986・続群書類従完成会) 』

 
 この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている.(理由は後述)
 どうもネット上の百科事典では隔靴掻痒である.そこでもう少し真っ当な文献資料はないかと国会図書館サーチで探したら,
 
大川原竜一著『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』
   文学研究論集 / 明治大学大学院文学研究科編,JAIRO所蔵
 
が見つかった.
 JAIRO というのは日本国内の学術情報 (学術雑誌論文,学位論文,研究紀要,研究報告書等) を横断的に検索できる検索サイトで,ここに収められている文献はネットで手に入る.
 そこですぐDLして読んでみたら,これがわかりやすくて大正解の論文であった.
(続く)

|

« 孤独と寝たきり (補遺) | トップページ | 母子草 (十四) »

新・雑事雑感」カテゴリの記事

続・晴耕雨読」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『母子草』ノート (8):

« 孤独と寝たきり (補遺) | トップページ | 母子草 (十四) »