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2018年6月 1日 (金)

『母子草』ノート (7)

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 前回の記事《『母子草』ノート (6) 》に《藤澤教授から旧武蔵野郷土館に寄贈された資料『藤沢文庫』の目録を作成し,機関誌『武蔵野』(70巻第2号;1993年) に掲載したことがわかった.》ので,その目録が掲載されている『武蔵野』を古本屋に注文したのだが,どういうわけか返事がこないと書いた.
 それがやっと昨日になってメールがきて,在庫確認できたという.
 やれ嬉しや.その目録で旧武蔵野郷土館にある (あった?) 『藤沢文庫』の中身が確認できれば,調査が随分と楽になるはずだ.
 
 さて,注文した『武蔵野』が到着するまでに,「母子草の物語」のリストの中でまだ内容確認ができていない図書三点の実物確認を進めることにした.
 昨日,川崎市立高津図書館が所蔵しているものから着手した.書誌事項等を再掲する.
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作品名      母子草
書籍名     『笛のたび』(日本のむかし話 ; 9)
著者       槙本ナナ子,山本藤枝,大石真,那須辰造,
         宮脇紀雄,山主敏子,大柴愛子,久保喬,
         加藤輝男,岡上鈴江,山本和夫
出版社      ポプラ社
発行年      1957年
所在等特記事項  川崎市立高津図書館蔵書.都立多摩図書館蔵書.近々に複写請求の予定.
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 川崎市立高津図書館はこれまで利用したことがない.ネットで経路を調べると,藤沢からはJRは使わずに小田急と東急電鉄を乗り継いで行く.
 まず小田急線の藤沢駅から中央林間駅まで行き,東急田園都市線に乗り換えて,急行で溝の口へ行き,ここで田園都市線または大井町線の鈍行に乗り換えると,次の駅が高津駅である.が,この高津駅は,鈍行電車でも通過するものがあるという不便な駅なのである.
 藤沢からの距離は大したことはないが,時間は結構かかる.駅から徒歩で近いのが救いだ.
 昨日は,調べたい本が『笛のたび』一冊だけなので,館内で閲覧してから必要箇所を複写する予定で出かけた.館外貸し出ししてもらうと返しに来るのが面倒であるからだ.
 図書館入口を入るとカウンターがあり,貸出,返却,相談の各窓口がある.相談窓口の司書さんに書誌事項のメモを見せて,蔵書検索してもらうと,書庫にあるので持ってくるから待っていてくださいとのことだった.
 
 カウンターの中で仕事している司書さんたちは全員女性で,いい図書館だなあと思いつつ五分ほど待っていたら,書庫から『笛のたび』を持って窓口に届けに来た司書さんも女性で,ますますいい図書館だなあと思った.高津図書館が藤沢から至便な距離にあれば毎日来てもいいのに残念である.
 
 で,下調べでは『笛のたび』は初版が昭和三十二年 (1957年) であったが,高津図書館の蔵書は昭和四十年 (1965年) 発行の第五刷だった.
 そして,これがもう製本の状態は半分壊れていて,腫れ物にさわるように扱わないとバラバラになってしまいそうな本だった.
 古書マーケットに出回る本は,基本的に個人の蔵書だったものだろう.愛読書ならば丁寧に扱うだろうし,一度読んで死蔵された書籍なら木口の多少のヤケ以外は新品同様だろう.
 その一例で,つい先日購入した保阪正康『陸軍良識派の研究』(光人社;1997年,第三刷) は古書評価で新品同様とされていた書籍で,帯付きであるのはもちろん,出版社へ返送する読者葉書も新刊案内のリーフレットも挟まれていて,使用感ゼロの良品だった.こういう本は読了したら再び古書マーケットに出して誰かに読んでもらいたいと思う.
 
 それと図書館の蔵書では事情が全く異なる.ある本を借りた図書館利用者が,その本を個人の蔵書よりも大切に扱うとは想像しにくい.また資料として閲覧される種類の本であれば,コピー機で複写がされるだろうが,その際に無線綴じの本は「背」に無理な力がかかる.これが繰り返されると,やがて破壊に至るわけてある.
 高津図書館の『笛のたび』は,まさにそういう状態の本であった.
 まずは中に収められた十七篇の昔話のうち,「母子草」(昭和四十年;作者は山本藤枝) を慎重にページを繰って一読し,これが今まで集めた作品にはないタイプであり,「五つ目の母子草の物語」であることが分かったので,司書さんに申し出て複写をとることにした.
 どうか私がコピーしているあいだに壊れないでくれ,と祈りながら目次,「母子草」のページと奥付をコピーした.「前書」と「解説」の部分は背が切れてしまいそうだったので,断念した.そしてコピーし終わったときには,ふーっとため息が出た.w
 
 さて『笛のたび』に収められた「母子草」は,藤澤衞彦教授の「母子草」を大幅に手直ししたものであった.
 連載記事「母子草」の本編で詳しく述べるが,かつての日本の児童文学は,ヨーロッパ文学史の言葉を借りると,「成長物語」型と「遍歴物語」型の二タイプに分けられるという.
 ここで,「遍歴物語」型は,登場人物は成長せず,従って時間の概念が重要でないところに特徴がある.例えば漫画でいうと,『サザエさん』は,古き良き時代の家庭の様子を描くことが作品の眼目であるから,波平からタラちゃんに至るまで全員が永遠に歳をとらない.
 これに対して「成長物語」型は時間経過と共に登場人物が「成長 (変化) 」するので,時間の概念なしには済まされない.
 ところが童話を読み聞かせする場合,聞き手は幼い子供であるから,回想場面があって時間が過去に遡って語られるのは避けねばならない.お話を聞いてる子供が混乱してしまうからである.
 この点について,宮川健郎 (児童文学研究者,武蔵野大学教授) は次のように書いている.
 
石井桃子らの『子どもと文学』(中央公論社、一九六〇年四月) は、小川未明、浜田広介などの日本の近代児童文学を批判的に検討し、その上で、子どものための文学にとって大切なことは何かと問うた書物で、先にふれた「童話伝統批判」を代表する著作のひとつである。そのなかでは、昔話が子どもの文学として基本的な要素をふくんだものとされる。子どものための文学は、昔話の形式がそうであるように、モノレールを走る電車のように、まっすぐにすすむのがよいとされたのだ。この考えは、幼年童話や絵本を制作する人たちのなかでは、厳重にまもられてきた。》 (出典;日本児童文学者協会編『戦後 児童文学の50年』(既出) 収載の「転機をむかえる児童文学」,p.65)
 
 この見地からすると,藤澤教授の「母子草」には大きな欠点がある.すなわち少女小雪の母親の回想の中で,小雪がなぜ奉公に出なければならなかったかが語られるのである.
 この藤澤教授の「母子草」(昭和二十四年) からかなり遅れて出版された山本藤枝の「母子草」は,昔話の原則に則って,単線的に物語が進行する.原作の欠点を改めたのであろう.(なお,山本藤枝の「母子草」の出典は藤澤教授の『日本傳承民俗童話全集 全六巻』であると,『笛のたび』の解説ページにきちんと記されている)
 その他に,藤澤教授の原作とストーリー的に異なっている点が一つだけある.藤澤版では母親の失明が眼病の結果であるのに対して,山本版では,小雪のことを思って母親が泣き暮らしていたために失明したとしている.これは山本藤枝が,母の小雪を思う愛情を強調するために改変したものであろう.
 さらに山本版は,翻案とまではいかないが,幼年読者が理解しやすいように色々な手直しをしている.それは連載「母子草」の本編で説明することにして,以後,山本藤枝「母子草」を「五つ目の母子草の物語」と呼ぶことにする.[註]
 
[註]『母子草』ノート (3) から引用.
便宜的に,近江民話を童話化した藤澤衛彦の「母子草」を「二つ目の母子草の物語」,浜田広介の作品を「三つ目の母子草の物語」,二反長半の「母子草ばなし」を「四つ目の母子草の物語」と呼ぶことにし,連載本文でそれぞれを批評することにしたい.

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