母子草 (十三)
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前回の記事《母子草 (十二) 》の末尾を再掲する.
《藤澤教授による巻末解説《日本童話の二潮流について》は,これでよく大学教授が務まったものだと呆れるほどの悪文ではあるが,次回はこれを基に藤澤教授の文学上の思想について論じる.》
藤澤教授の文学上の思想について論じるために,教授自身が書いて『日本傳承童話集 第二集 母子草』の巻末に掲載した《父兄方へ》と,同書の内容に関する解説的文章《日本童話の二潮流について》以外の資料を,ネット上で探してみたが,これまで藤澤教授に関する資料は全く見つかっていない.
(《父兄方へ》は《母子草 (十一) 》に,《日本童話の二潮流について》は 《母子草 (十二) 》に転載してある)
藤澤教授は,日本児童文学者協会の第四代会長 (初代は小川未明,続いて秋田雨雀,坪田譲治) であった人である.それなのにこれはどうしたことであろう.
そこでネット上の資料ではなく,出版された文献を探したところ,日本児童文学者協会編『戦後 児童文学の50年』の古書が Amazon に出品されていたので,これを読んでみた.
すると児童文化研究家の上笙一郎 (上は,知る人ぞ知る,の人だが,妻は『サンダカン八番娼館』で1973年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した山崎朋子である) が,この本に「児童文学研究=北邙の人たち」と題した一文を寄稿しているのを発見した.
(言わずもがなの註釈を加えれば,北邙は墓地の意である.洛陽東北にある北邙山は王侯の墓地として名高いことから転じて,墓地を北邙と呼ぶ.ただし「北邙の人たち」は上笙一郎の創作表現であり,一般に物故者を「北邙の人」と書くわけではない)
この寄稿の中で上笙一郎は,藤澤教授のことに触れている.その一部を引用すれば以下の通りである.
《藤澤教授による巻末解説《日本童話の二潮流について》は,これでよく大学教授が務まったものだと呆れるほどの悪文ではあるが,次回はこれを基に藤澤教授の文学上の思想について論じる.》
藤澤教授の文学上の思想について論じるために,教授自身が書いて『日本傳承童話集 第二集 母子草』の巻末に掲載した《父兄方へ》と,同書の内容に関する解説的文章《日本童話の二潮流について》以外の資料を,ネット上で探してみたが,これまで藤澤教授に関する資料は全く見つかっていない.
(《父兄方へ》は《母子草 (十一) 》に,《日本童話の二潮流について》は 《母子草 (十二) 》に転載してある)
藤澤教授は,日本児童文学者協会の第四代会長 (初代は小川未明,続いて秋田雨雀,坪田譲治) であった人である.それなのにこれはどうしたことであろう.
そこでネット上の資料ではなく,出版された文献を探したところ,日本児童文学者協会編『戦後 児童文学の50年』の古書が Amazon に出品されていたので,これを読んでみた.
すると児童文化研究家の上笙一郎 (上は,知る人ぞ知る,の人だが,妻は『サンダカン八番娼館』で1973年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した山崎朋子である) が,この本に「児童文学研究=北邙の人たち」と題した一文を寄稿しているのを発見した.
(言わずもがなの註釈を加えれば,北邙は墓地の意である.洛陽東北にある北邙山は王侯の墓地として名高いことから転じて,墓地を北邙と呼ぶ.ただし「北邙の人たち」は上笙一郎の創作表現であり,一般に物故者を「北邙の人」と書くわけではない)
この寄稿の中で上笙一郎は,藤澤教授のことに触れている.その一部を引用すれば以下の通りである.
《わたしが、古田足日と鳥越信の推薦で日本児童文学者協会に入会したのは、昭和三十三=一九五八年の春でした。その時の会長が、藤沢衛彦さんであったのです。
今では、児童文化研究の志望者は別として、児童文学の作家志望の人にはほとんど馴染みのない名前でしょうけれど、藤沢さんは、民俗・風俗学から伝承童話・児童文学にまたがる広い領域で仕事をされた人。民俗学者としては、民俗採集に頼った柳田国男と違って文献主義に據っていて、そのため、民俗学よりもむしろ風俗学のおもむきを呈していたと言わなくてはならないでしょう。そして、その民俗・風俗学的研究の対象のひとつとして伝承童話があったことから、児童文学研究の分野にも足を踏み入れ、坪田譲治 (昭和五十七=一九八二年没 九十二歳) の後を受けて日本児童文学者協会の会長となっていたのでした。
二十五歳のわたしからすれば、七十五歳の藤沢さんは父と言うより祖父のようなもので、正直に言えば、敬して遠くにいるよりほかはない存在でした。その江戸時代における童話本の研究には尊敬をはらっていたものの、近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない――と感じざるを得なかったからです。
その古さの如実にあらわれたのが、数年後の協会総会の会長挨拶であったと思います。藤沢さんは、天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話されたのでした――》
藤澤教授の仕事について書かれていることは,これだけで,あとは藤澤教授の思い出のような文章が綴られているだけである.
上笙一郎は,日本の児童文学の歴史上で著名な人物の一人である.その人が,『戦後 児童文学の50年』が出版された平成八年 (1996年) 時点で,《児童文化研究の志望者は別として、児童文学の作家志望の人にはほとんど馴染みのない名前》と書いている.つまり藤澤衞彦はもう忘れられた人であったのだ.従って今後,藤澤教授の思想と文学的業績に関する資料が書かれることはないだろうと思われる.
今では、児童文化研究の志望者は別として、児童文学の作家志望の人にはほとんど馴染みのない名前でしょうけれど、藤沢さんは、民俗・風俗学から伝承童話・児童文学にまたがる広い領域で仕事をされた人。民俗学者としては、民俗採集に頼った柳田国男と違って文献主義に據っていて、そのため、民俗学よりもむしろ風俗学のおもむきを呈していたと言わなくてはならないでしょう。そして、その民俗・風俗学的研究の対象のひとつとして伝承童話があったことから、児童文学研究の分野にも足を踏み入れ、坪田譲治 (昭和五十七=一九八二年没 九十二歳) の後を受けて日本児童文学者協会の会長となっていたのでした。
二十五歳のわたしからすれば、七十五歳の藤沢さんは父と言うより祖父のようなもので、正直に言えば、敬して遠くにいるよりほかはない存在でした。その江戸時代における童話本の研究には尊敬をはらっていたものの、近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない――と感じざるを得なかったからです。
その古さの如実にあらわれたのが、数年後の協会総会の会長挨拶であったと思います。藤沢さんは、天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話されたのでした――》
藤澤教授の仕事について書かれていることは,これだけで,あとは藤澤教授の思い出のような文章が綴られているだけである.
上笙一郎は,日本の児童文学の歴史上で著名な人物の一人である.その人が,『戦後 児童文学の50年』が出版された平成八年 (1996年) 時点で,《児童文化研究の志望者は別として、児童文学の作家志望の人にはほとんど馴染みのない名前》と書いている.つまり藤澤衞彦はもう忘れられた人であったのだ.従って今後,藤澤教授の思想と文学的業績に関する資料が書かれることはないだろうと思われる.
では,上笙一郎が指摘する《近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》について,検討してみよう.
藤澤教授が《天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話された》ことは,私は《古くてどうにもならない》とは思わない.自分が長年にわたり研究してきた分野の学識に関し,その第一人者として宮内庁に評価されれば誰だって嬉しく名誉に思うだろうからだ.それを古いと批評されるのは酷に過ぎる.
私が思うに,藤澤教授の「古さ」はそんなところにあるのではない.それについては,作品に即して検討してみよう.以下に藤澤衞彦作品の童話「母子草」全文を掲載する.
<このブログ筆者による凡例;底本は『日本傳承童話集 第二集 母子草』(雄鳳堂揺籃社,昭和二十四年七月三十日発行の初版第一刷) である.この底本の「母子草」においては,幾つかの漢字にはルビが振られている.それらのルビのうち,著者藤澤衞彦が特に一般的でない読み方を指定するために振ったルビは,以下に転載した作品中にも [ルビ= ] に入れて残した.またブラウザ上の表示に支障が生じない限り,旧字体の漢字は原文のままとした.JIS 第二水準にも含まれていない漢字は,相当する JIS 第二水準または第一水準の漢字に置き換えた.
文中の ( ) は藤澤衞彦が幼年読者のために記した註である.また,一般的ではない表記であるが,会話文は「 」ではなく『 』で括られている.さらに,登場人物の心中の言葉も,会話と区別することなく『 』に括って記されている>
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母子草 ―滋賀縣―
小雪は、いつものように、湖のほとりに立って、はるかむこう岸をじっとみつめているのでした。
『おなつかしいお母さま。お母さまは、いまごろ、どうしておいでやら。さぞ、ご不自由でございましょう。小雪の年期 (やとわれて働くことを約束した年數) も、あと三年ですみます。それまではお母さま、どうかおたっしゃにおくらしください。』
毎日毎日、小雪は、ふるさとのお母さまにむかって、おわびするのでありました。
人の一心の、なんで通じないことがありましょう。ふるさとでは、小雪のお母さまも、
『小雪、小雪、私のかわいい小雪よ、どうかたっしゃでいておくれ。せっかくお前がご奉公に出てまでととのえてくれたお藥も、どうしたことか、ききめがあらわれず、私はめくらになってしまったけれど、私はお前の美しい心がよく見えます。神さま、どうか、小雪の身の上がしあわせでありますように。』
<このブログ筆者による註;底本では,ここに童画画家川上四郎による仏教画風の挿絵が入っている.絵柄は,小雪の傍に立つ弁財天である.この挿絵はまだ著作権が保護されているので転載しない>
やさしい小雪のお母さまも、毎日いくたびか湖とわが家のあいだをいききしては、小雪のいる他國 [ルビ=よそぐに] はあの方角かと見えぬ目でのぞんでは、涙をながしておりました。今まで三年のあいだに、こうしてながしたお母さまの涙は、まあどのくらいだったでしょう。それにもおとらない小雪の涙は、きょうもまた湖のほとりに来て、とめどもなくながされるのでした。
はるばると廣い大きな近江の湖、その湖の上には、きらきらと美しい太陽の光が波にてりはえて、なんともいわれぬ美しいながめでしたが、小雪には、やっぱり悲しい湖でありました。
いつものように、草かりかごをそこへおろすと、小雪は、じっとふるさとの方をながめて、
『お母さま、きょうは私の身の上に悲しいことが起こりました。あと三年でお母さまにおあいできると、指おりかぞえて待っておりましたのに、きけば、ここでは、その年期が約束通り守られないらしいのです。きょう、七年たったお友だちが、なんとかりくつをつけられて、また三年のびました。私も三年たったら、うまくお母さまのもとへかえれるかどうか、あやしく思われます。でも、にげてはいかれない湖のお國です。ああ、私はお母さまがこいしい。…… ふるさとこいし、母こいし。』
小雪は、うたって泣きました。
するとそのとき、ふしぎにも湖の中に、『ふるさとこいし、母こいし。』という文字が、波の上にありありとあらわれました。見ているうちにその文字は、だんだんのびて、ふるさとの方へひろがっていきます。ゆめではないかと、小雪が見ていますと、その文字のみちを、はるかに通ってこちらに来る一人の女の人、それは湖のはなれ島におまつりしてある、べんてんさまでありました。
べんてんさまは、やがて、なぎさ近くまでおいでになって、手まねで、小雪について来いと申されます。小雪が文字のみちをつくづく見ますと、それはなんと、たくさんのお魚がもりあがって橋をわたしているのでした。みちびかれるままに、小雪は、べんてんさまについて、魚の橋をわたっていきました。そして、長い長い橋をつかれもせず、なつかしいふるさとの岸までたどりつきました。
ふと見れば、いつのまにやら、べんてんさまのおすがたが消えていました。小雪が岸につくと、そこからわが家の方にむかって、二列になってはえている、ふしぎな草が目につきました。ついぞ見なれぬ草なので、村人にたずねますと、
『それは、小雪のお母さまの、清い涙のしずくからはえた草だよ。』
とこたえてくれました。小雪はその草のみちをたどって、なつかしいお母さまのもとにかえりました。
皆さんも初夏のころ、あぜみちや野みちをいくと、小さい黄色い花をつけた、くきの長い草を見つけることでしょう。これこそ、この母と子の、やさしい心によって生まれ出た、記念 [ルビ=かたみ] の母子草だということです。
(註) 母子草は、『ごぎょう』ともよばれています。
(畫・川上四郎)
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(転載終わり.続く)
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