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2018年5月16日 (水)

初耳学再現ドラマに異議あり

 たまたま先日 (5/13) の日曜夜,TBSで『林先生が驚く初耳学!』を観たら,江戸時代に遊女小紫との遊興費を得るために辻斬りを働き,捉えられて処刑された平井権八の話 (実話) が再現ドラマで放送された.
 
 平井権八は,歌舞伎『御存鈴ヶ森 (ごぞんじすずがもり)』では白井権八の名で登場する.また落語『白井権八』にも出てくる.私は歌舞伎は不案内で『御存鈴ヶ森』は粗筋しか知らないのだが,落語とはストーリーが少し異なるようだ.
 それはさておき歌舞伎と落語で共通しているのは,鈴ヶ森で賊を斬り倒した白井権八を近くの駕籠の中から見ていた幡隨院長兵衛が,権八に声をかけるという場面である.つまり白井権八と幡隨院長兵衛を同時代の人物に設定している.
 しかし史実としては,平井権八は明暦元年 (1655年) の生まれであるとされ,幡随院長兵衛の没年は慶安三年 (1650年) あるいは明暦三年 (1657年) とされているので,歌舞伎や落語の物語は完全なフィクションである.そしてこのことが以下の議論に関係する.
 
 さて次の四枚の画像は,『林先生が驚く初耳学!』中の再現ドラマの一場面である.(録画データを直接加工したものではなく,録画したテレビ画面をカメラで撮影し,トリミングした画像である)
 
20180515a
 
 上の一枚目の画像は,父の同僚を斬殺して江戸へ逃亡してきた平井権八が遊女小紫と昵懇になり,遊郭へ通う場面である.
 下の二枚目は,権八が腰に帯びていた長剣をアップにした.
 
20180515b
 
 権八はこの刀を刃が下向きになるように腰に差している.これを見て私は「おや?」と思った.
 
 日本刀には大雑把にいうと太刀と打刀 (一般に「刀」と呼ばれているもの) がある.
 Wikipedia【太刀】から下に引用する.
 
太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するものを指す。刃を上向きにして腰に差す打刀とは「銘」を切る位置が異なるが、例外も数多く存在する。》 (下線は江分利万作による)
 
馬上での戦いを想定して発展したものであるため、反りが強く長大な物が多いという特徴がある。平安時代頃から作られ始め、鎌倉時代、南北朝時代と使用され続けたが、室町時代後期になると武士同士の馬上決戦から足軽による集団戦が主になるにつれ生産量も落ち、徒戦(かちいくさ:徒歩による戦い)に向いた打刀が台頭していった。 (下線は江分利万作による)
 
 Wikipedia【打刀】からも下に抜粋引用する.
 
打刀(うちがたな)は、日本刀の一種。通常、室町時代以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い。
打刀は、主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀である。
反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている。
(下線は江分利万作による)
 
 つまり装備の仕方としては,太刀は刃を下向きにして腰から下げるのに対し,打刀は刃を上向きにして腰に差すという違いがある.
 ただし太刀から打刀への移行期 (室町時代末期から江戸時代初期) には,刃を下向きにして腰に差す半太刀と呼ばれる日本刀の様式があった.
 一枚目の再現ドラマ画像は,平井権八の日本刀が一般的な打刀ではなく,やや刃渡りが長い半太刀であることを示している.
 
 しかし上述のようにここで私は「おや?」と思った.史実の平井権八が生きていたのは,江戸初期よりもう少し後の半太刀が廃れた時代であるから,この再現ドラマの時代考証を否定はできないが,敢えて半太刀に設定したのはなぜだろうと思ったのである.
 
 続く三枚目の画像は,貧窮した平井権八が辻斬りをする場面である.
 
20180515c
 
 町人を殺害したあと刀を鞘に納める場面であるが,ここでは普通の打刀を,刃を上に向けて鞘に納めている.
 ということは,平井権八は,鳥取藩から逃亡してくるときに日本刀を打刀と半太刀の二振りも持ってきたことになる.
 しかしそのような設定の再現ドラマであるとしても,辻斬りに身を落とすくらいなら,オールドファッションな半太刀を売り払って金にすればいいのに,ヘンだなと私は思った.
 
 だがこのシーンでの問題点は別のことである.それは権八が打刀と脇差の二本を腰に差していることである.(下の四枚目の画像)
 
20180515d
 
 実は平井権八が江戸に出てきた頃,幕府は武器の規制強化を始めていた.
 Wikipedia【刀狩】から以下に引用する.
 
江戸町民も長刀・長脇差以外の一般の1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は1720年(享保5年)でも布令は無くとも慣習として行われていた。そして1683年までは、旅立ち・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていた。しかし、「文治政治」の導入に伴って、17世紀後半に再び帯刀規制に乗り出した。1668年(寛文8年)江戸御用町人以外の帯刀を禁止し、後1683年(天和3年)に江戸町民全ての帯刀を禁止して、それは全国的に拡大していき17世紀末には国中に広がった。 (下線は江分利万作による)
 
 上の引用中,帯刀とは大小二本を腰に差すことを意味しているのだが,権八が江戸に出てきたとき既に幕府は《江戸御用町人以外の帯刀を禁止》していたのである.とすれば脱走犯罪者である浪人の権八が二本差しなのはどうにも妙である.
 さらに言えば,腰に大小を差すのは武士の正装である.正装を許される武士の立場から転落した権八が,強盗するのに正装で出かけるという,再現ドラマにおける権八の心理描写に,私は強い疑問を覚える.この場面で権八はなぜ着流しに一本差しではないのか.ここは視聴者に対して何らかの説明が必要である.
 
 以上の時代考証上の誤りについて,一つ可能な説明は,『林先生が驚く初耳学!』の制作スタッフもМCの林修先生も,平井権八と白井権八を混同しているということである.
 歌舞伎に登場する白井権八を描いた浮世絵はたくさんあって,例えばこれこれこれなどがある.
 これらの浮世絵を見ると,権八は打刀と脇差の二本差しであるが,歌舞伎の白井権八は,実在の平井権八よりもずっと前の幡隨院長兵衛と同時代という設定であるから,これでいいのである.

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