母子草 (十二)
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前回の記事《母子草 (十一) 》
前回記事は《父兄方へ》を全文引用した.
今回は巻末の解説《日本童話の二潮流について》から全文引用する.
《アンデルゼンやブラボルン等の童話文學の内容には、傳説に基づいたものが少なからずあるが、それらは、飽くまでもアンデルゼンやブラボルンの文學であって、E・S・ハートランドが定義したところによる所謂傳承童話の本流である民族傳承の童話とは、本質的に相違している。
この意味において、ハートランドは、所謂創作童話なるものは文學的物語であって、童話ではないと考えておるところから、童話學の範囲を限定して "童話學は、傳承を取扱うもので、文學を取扱うものでない。それは既に忘れられた過去から、口傳えに耳から傳承したところの話を研究の主題とするものである" と心得、文學の世界と、童話の世界とを明らかに區別しているが、日本の今日の限定としては、内容的には傳承童話と創作童話との二系統に區別される。そして、口演を以てするもの、今日、傳承童話に拘泥せず、また實演技巧に堕ちるあり。文章を以てするもの、現下、傳承童話の再現模倣に傾向して、必ずしも創作ならず。児童日常の生活環境譚、実録説話を主題とするものも亦少なくない。
思うに、嘗て、日本少國民文化協會が、その設立にあたって、童話文學家を文學部会に包含し、口演童話家を童話部会に合同せしめたのも、文章と話術の發達におもいやりをかけてのことであって、現下においても、傳承童話の分野は、爐邊童話の採集とその話し方の傳統とも、多くこれを民俗研究家の手にゆだねるの態度にあるのである。
今日、民間傳承は、その中に含まれる固定したもの、古風なもののみが特に注目され、従って、その採集整理において、回顧的、愛情的な感情に傾き易く、その取扱いも、原型を保護することに忠實すぎて、民俗學的取扱いの範圍を出ずにおるが、過去において、それを生成した力が、今日も新たに働き、今日の新たな傳統を形成しつつあることにその意味を持つということに、眼を注ぐべきであろう。
されば、傳承童話の概念は、過去において固定してしまった單なる自然的夢幻的物語ではなく、むしろ、今日、こどもたちの情操を高め、倫理的修養に資し、その修養の魂をゆする童話として、今日不斷に衝動的に生成されつつあるものであることを、考えてみなくてはならない。
日本民族傳承の童話は、遙かに遠い過去の出來事、或は又その頃に於ける自然觀の一趣相として表現完良され、昔話型に固定され盡してしまったものと考えるべきでなく、今日もなお旺盛に兒童修養の糧として、新しき話の文化として、不斷に進行しつつあるものと考えるべきであって、とうとい世界意識の基層をなすところの空間的、基層的面において、衝動的に少年少女たちを形成しつつあるところの寶物であることを知らねばならない。》
[註]
* アンデルゼン
Hans Christian Andersen.
「アンデルゼン」は「アンデルセン」の誤り.Wikipedia【ハンス・クリスチャン・アンデルセン】を参照のこと.
デンマーク語発音を片仮名表記すれば,ハンス・クレステャン・アナスンである.藤澤教授がわざわざデンマーク語でなく「舞台ドイツ語」で人名を表記したのか理由は不明である.戦前は Andersen をアンデルゼンと書いた可能性はあるが,このブログ筆者の戦後の幼年時代,日本語の慣用ではアンデルセンと読み書きしたはず.
* ブラボルン
童話作家と推定されるが,ネット上に資料がなく,人物像は不明.
* E・S・ハートランド
Edwin Sidney Hartland.英語版 Wikipedia【Edwin Sidney Hartland】に簡単な記述がある.十九世紀英国の民俗学者.
日本口承文藝學會編『口承文藝研究』(2006年;No.29,p.28 - 42) に掲載された藤本朝巳氏 (フェリス女学院大学教授) の総説「English Fairy Tales の出版経緯と再話 ― Joseph Jacobs の再話意図 (1) ―」に以下の記述がある.
* ブラボルン
童話作家と推定されるが,ネット上に資料がなく,人物像は不明.
* E・S・ハートランド
Edwin Sidney Hartland.英語版 Wikipedia【Edwin Sidney Hartland】に簡単な記述がある.十九世紀英国の民俗学者.
日本口承文藝學會編『口承文藝研究』(2006年;No.29,p.28 - 42) に掲載された藤本朝巳氏 (フェリス女学院大学教授) の総説「English Fairy Tales の出版経緯と再話 ― Joseph Jacobs の再話意図 (1) ―」に以下の記述がある.
《ところで、フォークロア界の動向として注目しておくべきことは、当時の心あるフォークローリストたちが、フォークロアが、すでに廃れつつあると危惧し、活字にして書き留め、英国に残そうと努めていたことである。例えば、当時のすぐれたフォークローリストで、後にフォークロア学会の会長も務めたE・S・ハートランドは、昔話集『イングランドの妖精譚と昔話』(1890) の序文に、以下のように記している。
……フォークテイルは、文学の形式であるとしても、数少ない伝承的な物語としても、以前は程度の差こそあれ、この国に疑いなく豊かにあったものである。しかし今や、近代生活の重圧のもと、急速に廃れつつある。それゆえ、読者は、常に親しみをもってきた昔話の多くを、当然の流れとして失ってしまうであろう……このような話の中には、自然に語り継がれたというわけではなく……チャップ・ブックにしてフランスから持ち込まれ、翻訳されたものもある。また最近は、「なじみのあったお気に入りの「ジャックと大男」(Jack the Giant-Killer)』のような話の、きちんとした版を手に入れることがむずかしくなった」と、すぐれた書き手が嘆くことばも耳にするようになった……物語 (The story) というのは時として風化の影響を受けるものであり、他の国々の同じような話と同様、鋭く削られてしまうと、もはや細部を補うことは不可能になるものである。それどころか、多くの話はその骨子となる部分すら、もはや壊され、損なわれたままになっている。もっと悪いことには、その台無しにされて状態でぽつんと置き去りにされているのである。 (翻訳、( ) 内、線は筆者による)
これらの文章には、昔話が改ざんされたり、廃れてしまう前に、きちんと記録して残しておきたいという、フォークローリストの切なる思いが綴られている。》
……フォークテイルは、文学の形式であるとしても、数少ない伝承的な物語としても、以前は程度の差こそあれ、この国に疑いなく豊かにあったものである。しかし今や、近代生活の重圧のもと、急速に廃れつつある。それゆえ、読者は、常に親しみをもってきた昔話の多くを、当然の流れとして失ってしまうであろう……このような話の中には、自然に語り継がれたというわけではなく……チャップ・ブックにしてフランスから持ち込まれ、翻訳されたものもある。また最近は、「なじみのあったお気に入りの「ジャックと大男」(Jack the Giant-Killer)』のような話の、きちんとした版を手に入れることがむずかしくなった」と、すぐれた書き手が嘆くことばも耳にするようになった……物語 (The story) というのは時として風化の影響を受けるものであり、他の国々の同じような話と同様、鋭く削られてしまうと、もはや細部を補うことは不可能になるものである。それどころか、多くの話はその骨子となる部分すら、もはや壊され、損なわれたままになっている。もっと悪いことには、その台無しにされて状態でぽつんと置き去りにされているのである。 (翻訳、( ) 内、線は筆者による)
これらの文章には、昔話が改ざんされたり、廃れてしまう前に、きちんと記録して残しておきたいという、フォークローリストの切なる思いが綴られている。》
この藤本氏の文章については,のちに再び引用して論じる。(註;文中の《チャップ・ブック》の意味はチャップ・ブックを参照のこと)
* 「表現完良され」
この巻末解説文の筆者藤澤教授の造語の可能性はなくもないが,意味不明であるので「表現完了され」の誤植が校訂から漏れたものと考えられる.
* 「今日不斷に衝動的に生成されつつある」
何が言いたいか不明だが,「衝動的」は「特定の意図をもたず自然に」ほどの意味か.
精選版日本国語大辞典;
[形動] 衝動を感じてそれをそのまま行動にうつしてしまうさま。
広辞苑第六版;
衝動のままに行動してしまうさま。
藤澤教授による巻末解説《日本童話の二潮流について》は,これでよく大学教授が務まったものだと呆れるほどの悪文ではあるが,次回はこれを基に藤澤教授の文学上の思想について論じる.
(続く)
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