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2018年5月 7日 (月)

母子草 (十一)

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 前回の記事《母子草 (十) 》 
 
[二つ目の「母子草の物語」]

 戦後すぐの出版物だから紙は酸性紙に違いなく,紙が褐色にヤケてもうすぐボロボロになってしまいそうな藤澤衞彦著『日本傳承童話集 第二集 母子草』(雄鳳堂揺籃社,昭和二十四年七月三十日発行) を開くと,扉,口絵に続いて本文の最初に次のように書かれている.(ちなみに出版社名にある「揺籃」は「ゆりかご」と読む)
 
日本學士院推薦
 有栖川宮記念學術奬勵資金による『日本傳説童話の蒐集整理研究出版』事業の一
 日本傳承童話集 第二集 本州中部篇の二 母子草
 
 この書籍が『有栖川宮記念學術奬勵資金』による事業であることを明記したページに続いて,読者である子供たちに向けて書かれた前書き《こどものみなさん》が載っている.その末尾を引用する.
 
博物を科學する時代でない、むかしの日本人の自然觀を、こまかに分析してみるうえにも、傳承童話は、なおざりに出來ないものであります。
 わたくしは、日本傳説蒐集整理研究の事業
(註;「事業」には「しごと」とルビが振られている) の上に、日本學士院の推薦によって、とうとい 有栖川宮記念學術奬勵資金を 高松宮殿下から重ねて賜りました。わたくしは、このこの學術上の榮譽に、一層はげまなければなりません。 たゆまずつづけておるこの仕事のうち、これは日本のこどものみなさんによんでいただくための、標準語版の日本傳承童話第二集であります。
 これは、日本傳統の話の文化の寶物
(註;「寶物」には「とうともの」とルビが振られている) であります。みなさんもまた讀みつぎ語りついで、日本傳統のみなさんの話の文化の寶物として大事にしてください。
 昭和二十四年春
      ふじさわ もりひこ
 
 この本は,明治大学で戦前から教鞭を執った民俗学者であり,また日本児童文学者協会長でもあった藤澤衞彦教授が,日本伝説研究の学術成果を,標準語で子供向けの童話にしたものであると書かれている.
 この文章を読んだ私はもはや寝床で気楽にこの本を読むわけにはいかなくなり,起き上がって机に向かい姿勢を正した.何しろ日本の国立アカデミーである日本学士院の推薦により有栖川宮記念学術奨励資金(*脚註) を受領して行った研究成果の出版なのである.横になって読みながらうっかり眠り込んだりすると,貴重な古書が体の下敷きになって,紙が破れたり糸綴じの製本装丁がバラバラになる可能性もあり,慎重に読み進めなければいけなかったからである.
 さて本書には巻末に《父兄方へ》と題した文章と,《日本童話の二潮流について》という解説文が掲載されている.
 このいずれにも,童話集『母子草』がどのような方針に基づいて編纂されたか,重要なことが記されているので,長文引用の煩を厭わずに引用をする.
 前回の記事に書いたように,この本の著作権は今年の年頭で保護期間が終わっている.また引用にあたっては,漢字と仮名遣いは原著を尊重すべきではあるが,環境によって正しく表示されない可能性がある漢字は,止むを得ず JIS の字体を使用した.原著と別の字体を使用することを避けるには,引用の方法としてスキャンした画像を掲載すれば簡単ではあるが,原本の紙質が悪いために小さいポイントの活字が不鮮明である上に紙のヤケが酷く,画像にすると大変読みにくいため,それは断念した.
 まず《父兄方へ》から全文を引用する.
 
憧憬と敬虔の念のそぞろ湧く日本傳承童話の泉、それは、日本の歴史と共に古くこの國土に秘められ、日本民族のみに恵まれた泉である。
 そこに、わが民族精神は眞實に傳統せられ、そこに、わが民族詩情の影は、誇りかにうつる。
 思想的にも、本質的にも、わが國民性的特徴の豊かな、純日本所産の貴物
(註;「貴物」には「とうともの」とルビが振られている) である日本傳承童話の蒐集整理研究のために、私は、日本學士院の推薦により、有栖川宮記念學術奬勵資金を、高松宮殿下からいただくことになりました。感激その仕事に没頭、努力『學術上有益なる研究竝 (註;読みは「ならび」) に其の發表を補助』せらるる御志に答えねばなりませぬ。
 日本傳承童話の蒐集整理研究は、もとより、文獻と傳承とによる日本傳説と日本童話の蒐集整理研究であって、その業は容易でないが、積年かけて集大成し、完了を終生に期待する。
一、本集は、その傳承童話を、原話の形式にこだわらず、ひたすらに、直ちにこどもたちに與える讀物として、標準語表現によって發表すべく念願したものの、第二集である。
一、蒐集整理の數は、先ず、第一期約二百二十話を、こん後一箇年間に整理發表するもので、全十二巻の選集とし、「日本傳承童話の整理研究」を別巻とする。
一、發表の童話は、美しくて良い童話のみを選ぶ。美しいものはなおまた偉大であり、良いものはなおまた貴い。この美しい良い傳承童話は常に歴史的藝術を含んでいる。想像的所産と考えられる童話も、嚴密に言えばその構成要素のうちには、常にそれが以前集められた若くは傳統された知識、精神を材料としていることが認められる。このきまりの上に所産された眞の日本のこどもへの文化寶としての純日本傳承童話は、日本民族の心的動向としての特徴を、そのお話のなかにただよわす。
一、美しい、良い、正しい傳承童話は、次代への文化寶として、他の國家、他の民族の持てるものとは特異なものを含む。形態としても、日本傳承童話は、この國、この民族の上にととのえられた、特性を持つものが少なくない。
 どうぞ、この童話のもつ特徴を、こどもたちに知らしてくださるよう、願う。
         藤澤衞彦
 
 
[註]
* 有栖川宮記念學術奬勵資金
 有栖川宮 (ありすがわのみや;これをこのまま Microsoft 系の IME に入力すると「有栖川飲み屋」と変換されるが,他の宮家,例えば「たかまつのみや」などと入力した場合は固有名詞「高松宮」に変換される) は江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家.世襲四宮家 (有栖川宮,伏見宮,桂宮,閑院宮) の一つであった.
 当初の宮号は高松宮であったが,第二代良仁親王は自分の皇子・幸仁親王に高松宮を継がせ,宮号を有栖川宮に改めた.
 大正二年 (1913年) に有栖川宮威仁親王 (その第一王子である栽仁王は夭逝) が薨去したため旧皇室典範の規定に基づき断絶が確定した.その後,大正十二年 (1923年) に威仁親王の母 (熾仁親王妃董子) と妃 (慰子) の両未亡人が薨去したため,翌年の慰子の一年祭をもって有栖川宮は正式に断絶となった.
 しかし大正天皇は,有栖川宮家の幕末以来の功労に鑑み,自分の第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え,有栖川宮の祭祀を宣仁親王に受け継がせることとした.
 高松宮は有栖川宮の祭祀と財産を継承し,その財産を基に有栖川宮記念と冠した事業を行ったが「有栖川宮記念學術奬勵資金」はその一つ.
 民間人の名を冠した学術奨励金は数多いが,有栖川宮の学術奨励金は皇族からの下賜であるから特別なものであった.藤澤衞彦教授は「有栖川宮記念學術奬勵資金」を受領したことが余程の誇りだったと思われ,伝承説話の調査のために地方の図書館を訪問した際には,芳名帳に,有栖川宮記念學術奬勵資金に基づく訪問調査であると特に断って記している.
 
* 標準語
 明治維新後,戊辰戦争に勝利して全国統一を達成した政府は,富国強兵政策を進める上で国民の教育が不可欠であると考え,明治四年 (1871年) に文部省を設置し,明治五年 (1872年) に教育法令『学制』を発布し,国民皆学,義務教育制度の確立を目指した.
 当時,日本語を廃して英語を国語にすべしとした初代文部大臣森有礼のごとき極論もあったが,それはさておき,富国強兵策を進めるにあたっては教育における言語の規範を定める必要がある.戦争の前線で薩摩の兵と陸羽の兵とで話が通じないのでは戦争に負けること必定であるし,工場生産の効率においても事情は同じである.
 明治政府は初等教育に用いられる教科書 (読本) につき最初は,各学校は文部省に報告すればよいとしていたが,次に認可制,検定制そして国定教科書制度〈明治三十六年 (1903年)~昭和二十年 (1945年)〉に移行して国家統制を進めた.
 余談だが,明治の日本言語事情を小説と戯曲に創作したのは井上ひさしであった.現在は小説が新潮文庫『新版 國語元年』に入っている.これは政府から全国共通の言葉を作れと命じられた官僚の悲劇を描いた作品である.
 明治二十八年 (1895年),欧州留学から帰国して東京帝国大学文科大学博語学講座教授に就任した上田萬年は,日本語の標準を確立することを主張し,それを受けた形で文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治三十五年であった.
 上述のように明治三十六年に国定科書制度が発足したが,その際に発せられた『尋常小学読本編纂趣意書』に
 
文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ワルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ル
 
と,国語を《主トシテ東京ノ中流社会》の言葉を標準として統一することが明記されている.
 これ以後の義務教育教科書の変遷は,大田勝司《近代日本の教科書の歩み》に譲り,先に進める.
 国家事業としての標準語は,やがて朝鮮や台湾など海外植民地で日本標準語を強制するなどの方向に突き進み,そして昭和二十年に破局を迎えたのである.
 戦後は,戦争と結びついた印象を与える「標準語」という言葉自体が行われなくなった.Wikipedia【標準語】に次の記述が見られる.
 
太平洋戦争以後は国家的営為としての標準語政策は行われなくなり、各地の方言を見直す動きが現れたり、国家が特定の日本語を標準と規定することに否定的な考えが生まれたりした。
 
国家が特定の日本語を標準と規定することに否定的な考え》については,話は横に逸れるが,確か二代目三遊亭歌奴 (後に三代目三遊亭圓歌) が若い頃,噺の枕に標準語を「ひょうずんご」と嘲るネタをよく使った記憶がある.
 閑話休題.
 さて藤澤衞彦教授が氏の言うところの「傳承童話」を,国家主導の標準語政策が頓挫したにも関わらず時代遅れの《標準語表現によって發表すべく念願した》結果はどうであったか.
 それはこの連載記事の本文で述べることにする.
(続く)

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コメント

こんばんわ。
私生活がバタバタしており少しご報告が遅れてしまいましたが、地元の紙芝居グループの方からも分からなかったとの連絡を頂きました。そのグループのメンバーの方にも母子草を出版された方がいるそうで、やはり再話として作られたようです。多岐にわたる再話が存在しているんですね。

投稿: ユウタパパ | 2018年5月11日 (金) 23時06分

 滋賀の手作り紙芝居活動グループに横の繋がりがないのは残念でしたが,だとすると紙芝居グループだけでなく,もっと広く,例えば子供に読み聞かせ活動をするグルーブなどごとに様々な「母子草の物語」があるのかも知れませんね.
 私のほうは,藤澤氏の解説文の理解に難儀しています.文中に記された童話関係の人名が Wikipedia に項目がなかったりするので,百科事典に頼らず検索を続けています.
 柳田國男は『遠野物語』の序文に《此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話し上手に非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり》と書いていますが,藤澤教授は柳田とは正反対の立ち位置のようで,昔話の積極的な改変を容認していたようです.子供に与える物語は,美しいものでなければならないというのが氏の信念だったからでしょう.伝承から不道徳な部分を排除したグリムに似ています.
 とすると,民話を翻案した藤澤氏の創作童話は,小泉八雲や芥川龍之介の作品ような文学的価値を獲得したかという点で評価されるべきだと思いますが,これは次々回 (十三) で考えてみたいと思います.

投稿: 江分利万作 | 2018年5月12日 (土) 04時14分

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