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2018年4月 7日 (土)

大丈夫か半藤一利 (二)

 昨日の記事《大丈夫か半藤一利 (一)》の末尾は《ここで問題は「外地」とは何か,そして「外地米」は半藤 一利が言うようにインディカ種なのか,ということである》だった.
 まず「外地」の意味から調べてみよう.
 Wikipedia【外地】に以下の記述がある.
 
外地(がいち)とは、戦前の日本において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。
概要
外地(属領)は一般に国外の地を指し、日本では日本固有の領土以外に、第二次世界大戦終結までの日本が領有していた地域を指す。
具体的には以下の地域である。
台湾
樺太
関東州
朝鮮
南洋群島
樺太は1918年に準内地的扱いとなり、1943年に内地に編入された。
第二次世界大戦中に日本軍により占領された区域は法的に領有されたものではないが、満州国や中国各地の日本人租界、中南米やハワイなど移民先を含め、日本領土以外で日本人社会が形成されている領域を含め外地と呼ぶこともあった。行政用語としては用語「外地」は慣例的なものであり、立法上明確に定義されたものではなかった。

 
 Wikipedia【内地】はどうかというと,こちらは明解で,
 
日本における内地(ないち)とは、大日本帝国憲法下の日本において、行政上日本本土(本国)とされる地域で、その範囲は共通法1条に定義されている。なお、共通法で内地に含まれない台湾・朝鮮・関東州・南洋群島がいわゆる外地である。
 
としている.
 私のこの記事は,半藤一利が宮部みゆきさんに語った《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》に関する検討であるから,米作に無関係な関東州と南洋群島および《中国各地の日本人租界、中南米やハワイなど移民先を含め、日本領土以外で日本人社会が形成されている領域》は除外する.
 かつての満州国,すなわち現在の中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる遼寧省,吉林省,黒竜江省の三省はどうかというと,この地域はジャポニカ種の米作地帯であった.しかし戦前の統計資料に満州国からの米の輸入実績はない (後述).満州は雑穀が主たる農作物だったから米の生産量が内地に供給できるほどなかったのか,仮に供給できたとてもその米が日本人の味覚に合わなかったのかは不明である.
 
 以上をまとめると,半藤が言うところの《外地米》は台湾と朝鮮で生産された米ということになる.
 ところが朝鮮半島で栽培されているのはジャポニカ種なのである.台湾ではインディカ種とジャポニカ種が両方栽培されているが,戦前戦中に台湾から移入 (日本領土だったから輸入とは言わなかった) された米は確実にジャポニカ種である.
 
 現在の日本で,エスニック料理店でインディカ種の米を口にする機会はあるだろうが,インディカ種の米の調理法を知っている (調理できる) 日本人は稀だろう.従って日本の家庭でインディカ米を調理して食べることはまずない.
 少し横道に逸れるが,宮部みゆきさんが対談で触れた平成五年の米不足騒動について Wikipedia【インディカ米】には次のように書かれている.
 
1993年 (平成5年) は記録的な冷夏で、国内産の米は需要1000万トンに対し収穫量が800万トンを下回る大不作となった。日本政府は米の緊急輸入を行う必要に迫られ、1993年12月、GATTのウルグアイ・ラウンド農業合意を受け入れ、米以外の農産物は関税を課して輸入を認めることを決定した。米については国内農業への配慮から特例として輸入制限を維持したが、代償として最低、国内消費量の4%(のち8%に拡大)を輸入する義務を負った。同年、タイや中国から大量のインディカ米が緊急輸入されたが、前述のとおり日本人の嗜好や伝統的な調理法に合わないことから消費は伸びず、事態終息後にも約100万トンものインディカ米の在庫が残り、投棄されたり家畜の飼料にされて処理された。
 
 当時,私はインディカ米の調理方法を知っていたので,インディカ米が入手しやすくなったことをむしろ喜んだ.だが米といえば炊飯器で炊くことしかやろうとしない人々は,タイ米を悪し様に罵った.テレビや新聞が,タイ米の調理方法を紹介したのにも関わらず,それをせずに「人間の食い物じゃない」とまで言う者もいた.
 他国や他民族を理解する一つの方法は,その人々の日常食を食べてみることだ.その人々の食材,スパイス,料理方法を知ることだ.
 なのに多くの日本人はタイ米を食べようとしなかった.若い人たちも,戦前生まれの世代同じく《私は内地米が食べたい》だったのである.
 この日本人の食に関する偏狭さは,今に始まったことではない.夏目漱石は『坑夫』で次のように書いている.
 
飯の気けを離れる事約二昼夜になるんだから、いかに魂が萎縮しているこの際でも、御櫃の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元のどもとまで詰め寄せて来た。そこで、冷かしも、交まぜっ返しも気に掛ける暇なく、見栄も糸瓜も棒に振って、いきなり、お櫃からしゃくって茶碗へ一杯盛り上げた。その手数さえ面倒なくらい待ち遠しいほどであったが、例の剥箸を取り上げて、茶碗から飯をすくい出そうとする段になって――おやと驚いた。ちっともすくえない。指の股に力を入れて箸をうんと底まで突っ込んで、今度こそはと、持上げて見たが、やっぱり駄目だ。飯はつるつると箸の先から落ちて、けっして茶碗の縁を離れようとしない。十九年来いまだかつてない経験だから、あまりの不思議に、この仕損を二三度繰り返して見た上で、はてなと箸を休めて考えた。おそらく狐に撮まれたような風であったんだろう。見ていた坑夫共はまたぞろ、どっと笑い出した。自分はこの声を聞くや否や、いきなり茶碗を口へつけた。そうして光沢のない飯を一口掻込んだ。すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった。
「面あ見ろ。いい様だ」
と一人が云うと、
「御祭日でもねえのに、銀米の気でいやがらあ。だから帰れって教えてやるのに」
と他のものが云う。
「南京米の味も知らねえで、坑夫になろうなんて、頭っから料簡違えだ」
とまた一人が云った。
 自分は嘲弄のうちに、術なくこの南京米を呑み下した。一口でやめようと思ったが、せっかく盛り込んだものを、食ってしまわないと、また冷かされるから、熊の胆を呑む気になって、茶碗に盛っただけは奇麗に腹の中へ入れた。全く食慾のためではない。昨日食った揚饅頭や、ふかし芋の方が、どのくらい御馳走であったか知れない。自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである。
 茶碗に盛っただけは、こう云う訳で、どうにか、こうにか片づけたが、二杯目は我慢にも盛う気にならなかったから、糸蒟蒻だけを食って箸を置く事にした。このくらい辛抱して無理に厭なものを口に入れてさえ、箸を置くや否や散々に嘲弄された。その時は随分つらい事と思ったが、その後日に三度ずつは、必ずこの南京米に対わなくっちゃならない身分となったんで、さすがの壁土も慣れるに連れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳に向って逡巡した当時がかえって恥ずかしい気持になった。坑夫共の冷かしたのも万更無理ではない。今となると、こんな無経験な貴族的の坑夫が一杯の南京米を苦に病むところに廻合わせて、現状を目撃したら、ことに因ると、自分でさえ、笑うかも知れない。冷かさないまでも、善意に笑うだけの価値は十分あると思う。人はいろいろに変化するもんだ。

 
『抗夫』は実在の人物から聞いた話を基にした漱石としては異色の作品である.漱石がここに書いているように,明治以来,南京米つまりインディカ米は最底辺の人々の食べるものだった.《飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった》はおそらく漱石の実感でもあっただろう.しかし漱石は《さすがの壁土も慣れるに連れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳に向って逡巡した当時がかえって恥ずかしい気持になった》とも書いている.さすが漱石,と言うべきだが,当時の日本人が,インディカ米本来の調理方法を学んでいれば,『抗夫』の主人公は壁土などと思わずに済んだかも知れない.
 
 話を元に戻すと,このように日本人はジャポニカ米しか《人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味》と認めないから,かつて台湾から移入していた米はジャポニカ種だと断定できる.
 以上述べたように,日本が戦前戦中,外地つまり朝鮮と台湾から移入していた米はジャポニカ種だった.しかるに半藤一利は《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》と対談で語った.外地米はインディカ種だったというのである.
 
 ここで,昨日紹介した海野洋氏 (公益財団法人農林水産長期金融協会専務理事)の講演《「開戦・終戦の決断と食糧」について―軍・外地を含めた大日本帝国として―》に戻る.
 この講演録に重要な資料が書かれている.
(続く)

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