« 無知医者 | トップページ | 閲覧御礼 »

2018年4月 6日 (金)

大丈夫か半藤一利 (一)

 私たちは事実でないことを事実だと思い込んでしまうことがある.(参考図書;榎本博明『記憶はウソをつく』祥伝社新書,2009年)
 自分の記憶が事実と異なることを資料などで知ったときのショックは大きい.
 妹尾河童が1997年に出版してベストセラーとなった『少年H』を読んで,妹尾と同世代の児童文学作家である山中恒は『少年H』の中に多くの事実と異なることが書かれていることを指摘して批判した.妹尾は『少年H』は記憶と体験に基づく作品であると主張したが,結局『少年H』の文庫化に際して山中の批判を受け入れた形になっている.
 私が想像するに妹尾河童は,自分の戦時中の記憶が戦後になってからの思い込みだとは露ほども思わなかったのではなかろうか.山中恒の批判を受けたあと,自分でも誤りに気が付いて妹尾河童は愕然としたと思われる.
 
 当代一番の人気作家である宮部みゆきさんと,「歴史探偵」を自称する作家の半藤一利との対談『昭和史の10大事件』(東京書籍,2015年) が文春文庫に入ったので読んでみた.
 対談の初めの辺りで,次のようなやり取りがある.
 

宮部 昭和一桁生まれの両親と話していると、あ、この世代の人たちは苦労したんだなと、ぽっと感じることがあります。
半藤 たとえば、どういうときに?
宮部 平成五年かな、お米が穫れなかった年がありましたよね。タイ米を大量輸入して、まあ何とかみんなで食べましょうって。そのときに母がね、「べつにいいよ。お米が買えないんだったら、パン食べてもいいし、うどん食べてもいいし、かまわないよ。そんな遠くまで買いに行かなくても。なんて言っててね。「でも、お母さん、外国のお米だっておいしいんだよ」と言ったら、「いいえ。私は内地米が食べたい」と言ったんですよ。
 内地米!? と思って。その言葉に、うちの母は昭和九年生まれなんですけど、ああやっぱり感覚的にはそんな時代の人なんだなって。
半藤 外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ。

 
 私は半藤の《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》に強い違和感を覚えた.
 まず言葉の問題.半藤が言った「外地米」という言葉は日本語として別に誤りではない.外地で摂れた米だから外地米.そういう言い方も確かにあるので誤りではないが,一般には東南アジアなどから輸入されてきた《色が黒くて細長い》米,すなわちインディカ種の米は「外米」と呼ばれた.
 私の父母は亡くなって久しいが,父親は大正八年生まれで,海軍軍人として南方に従軍した戦争体験者であった.私の父よりも一世代下の半藤一利 (昭和五年生まれ) は終戦時には少年であり,実際の戦争は体験していない.母親は昭和元年の生まれで,半藤より少し年上であり,宮部さんの母上より一世代上であった.さて,私の両親だけでなく,彼らと同世代の近所の人々も,すべて会話では「外米」と言っていたというのが私の少年時代の記憶である.
 そういう記憶が私にはあるのだが,しかしここでこのブログ記事の書き出しの件に戻ると,ひょっとしたら私の記憶はウソをついているのかも知れないと思われたので調べを開始した.
 まずは百科事典から見てみよう. Wikipedia【米】に次の記述がある.
 
戦前は米も通常の物資と同じく市場経済に基づき取引されており、相場商品・投機の対象として流通に不安を来すこともあり、しばしば社会問題となった(米騒動、特に1918年米騒動参照)。太平洋戦争開戦に向けての戦時体制整備の一環として、1939年(昭和14年)4月に米穀配給統制法が交付され、米の流通が政府により管理されるようになった。なお、同年9月には戦時の物資不足に鑑み興亜奉公日が設定され、日の丸弁当が奨励されたものの白米は禁止されず、この時点ではまだ米不足は酷くはなかった。だが12月には厳しさを増し米穀搗精等制限令が出され、七分搗き以上の白米を流通に付すことは禁止、1940年(昭和15年)の正月はお餅すら白米は許されなかった。米不足は深刻となり、この年から中国や東南アジアからの輸入米いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられた。更に、日米開戦の2ヶ月後の1942年(昭和17年)2月には食糧管理法が制定され食糧管理制度が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった。米だけでなく、魚介類や野菜・果物も配給制になり、国民の栄養状態は極度に悪化していった。こうした食糧難に対して、江戸時代のかてものの研究に帰って、食用野草や昆虫食など非常食の工夫が盛んに試みられた。一方米食の習慣がなかった地域や家庭では、配給制になったことで米を食べる機会を得て、そのことが戦後の食生活の変革の一因となったとする指摘もある。
 
 ここでは「外地米」という言葉は使用されていない.東南アジアなどからの輸入米は《いわゆる外米》とされており,この Wikipedia 項目の編集者の見解は私の記憶と合致している.
 次に史料を探してみた.すると太平洋戦争当時に陸軍大臣の地位にあった畑俊六が書き残した日記「畑俊六日誌」に次のような記述があるという.(出典:公益財団法人日本農業研究所『農業研究』(別冊) 第4号 平成28年度日本農業研究所講演会記録;海野洋《開戦・終戦の決断と食糧」について―軍・外地を含めた大日本帝国として―)
 
農林当局の無能により何等手を打たず、結局外米300万石輸入を要求しあるが、これが為に外貨7千万円を必要とし、物動は【対前年度計画】75%に降下することゝなり、到底国防計画を実行するを得ず。企画院総裁より申出ありたるが外米を買ふことは反対も出来ず》(畑俊六日誌昭和15年5月31条)
 
 上に引用した通り,庶民だけでなく陸軍大臣も東南アジアからの輸入米を「外米」と呼んでいたのである.
 ただし繰り返すが,外地で穫れた米を「外地米」としても日本語として誤りではない.一般には「外地米」でなく「外米}という言葉が使われていたということである.
 ここで問題は「外地」とは何か,そして「外地米」は半藤 一利が言うようにインディカ種なのか,ということである.
(続く)

|

« 無知医者 | トップページ | 閲覧御礼 »

続・晴耕雨読」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大丈夫か半藤一利 (一):

« 無知医者 | トップページ | 閲覧御礼 »