« 白川郷と雪中立往生の旅 (二) | トップページ | 母子草 (一) »

2018年4月11日 (水)

白川郷と雪中立往生の旅 (三)

 五箇山地方に行ったら,先ずは国指定重要文化財である村上家住宅を訪れてみるものだそうである.というのは,村上家住宅は,作られて以来,内部が改造されておらず,合掌造りの古い様式を今に伝えているからだという.もちろん近代的な生活をするために水廻りなどの改造はされているだろうが.
20180410c
 
 私たちのツアー一行は村上家住宅の中に入り,他の団体客と一緒に,村上家御当主による五箇山民謡「こきりこささら踊り」を鑑賞した.
 
20180411a
 
20180411b
(囲炉裏の手前に,馬蹄形に置かれているのが打楽器「ささら」である)
 
 次に私たち一行は五箇山菅沼集落に向かった.
 白川郷と五箇山で世界遺産を構成しているのだが,五箇山の合掌造り集落には二つの集落 (相倉と菅沼) がある.またこの集落から少し離れたところに前記の国重文村上家の他に同じく国重文の岩瀬家と羽場家がある.
 で,菅沼集落だが,ここには二つの観光施設,「五箇山民俗館」と「塩硝の館」がある.塩硝は古くは煙硝もしくは焔硝と書き,硝酸カリウムのことである.これはかつて五箇山地域の地場産業であった.
 
20180411g
20180411e
 
 Wikipedia【硝石】に次のように書かれている.
 
戦国時代の鉄砲伝来以降、欧州系の火器の伝来とともに南蛮貿易による東南アジアからの硝石供給の道が開け、日本は大陸のアジア諸国に一足遅れて火器の時代に本格参入することとなった。当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化への試みが始まる。こうして古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する方法が発見される。また加賀国や飛騨国などでは「培養法」という、サクと呼ばれる草や石灰屑、蚕の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産するようになったが、この方法は軍事機密扱いされて産地は五箇山など秘密を保ちやすい山奥に限られ、他の地方に伝えられなかった。
日本では幕末まで、主に古土法で硝石を得ていた。古土法による生産量は少なかったが、江戸期に入って社会が安定したことにより火薬の需要が減り、国内での全需要を古土法で賄えるようになった。幕末期になると、日本にも硝石丘法が伝来した。しかし既に1820年ごろ、チリのアタカマ砂漠において広大なチリ硝石の鉱床が発見されており、安価なチリ硝石が大量に供給されるようになっていた。また火薬そのものも進化し、硝石を原料としない火薬に需要が移ったため、土から硝石を得る硝石生産法は、やがて全く姿を消した。
 
 上はちょっと長い引用だが,要するに加賀国と飛騨国では,黒色火薬の原料である硝石 (硝酸カリウム) を短期間に製造できる「培養法」(これは後世の近代科学の用語だが) が開発されたが,この製法は技術秘匿に適した五箇山でのみ行われ,他国に伝えられることはなかった.
 全国的には,製造に時間のかかる「古土法」で硝石が作られていたが,火薬の需要が減少した江戸期にはそれで間に合った.幕末にはまた火器のための火薬需要が増大したが,これには安価に輸入できるチリ硝石が用いられ,国産硝石が出る幕はなかった.
 さらには,1884年 (明治十七年) にフランス人のポール・ヴィエイユはB火薬と呼ばれる無煙火薬を発明した.この火薬は近代的なライフル銃の弾薬として最適な特性を有しており,これ以後,火器は長足の進歩を遂げていく.
 日本では,陸軍卿大山巌が欧州視察の際にこのB火薬をフランスから少量贈与されて帰国し,その後これを研究して1893年 (明治二十六年) に板橋火薬廠にて日本における初めての製造が行われた.
 この国産無煙火薬を初めて用いた軍用銃が1889年 (明治二十二年) 制式採用の二十二年式村田連発銃 (Wikipedia【村田銃】参照) であった.
 二十二年式村田連発銃 (正式名称「明治二十二年制定大日本帝國村田連發銃」) の開発以後,国産火器に黒色火薬が使用されることはなく,軍用硝石製造の意味はなくなった.
 こうして,五箇山の山奥で生まれた培養法による塩硝製造は,遂に他藩に知られることなくひっそりと姿を消した.現在,五箇山の塩硝製造の歴史を伝えるものは,菅沼の「塩硝の館」ただ一つであるという.
 後年,培養法による塩硝製造を復活すべく試みた人がいたらしいが,成功しなかったと聞く.一つの発酵生産技術の根幹は,それに使用される微生物そのものである.一旦失われた発酵生産技術は,古文書を読んで再現できるというような簡単なものではない.
 
 さて菅沼集落には「五箇山民俗館」と「塩硝の館」以外に,見るべきものがあるかというと,なーんにもないのである.あるのは合掌造りの土産物屋と飲食店,少し歩いたところの合掌造りの宿泊施設だ.五箇山も白川郷同様,見事にテーマパーク化している.我が国における世界遺産というのは,要するにこういうものなのであろう.
 
20180411c
20180411f
 
20180411h
 
(続く)

|

« 白川郷と雪中立往生の旅 (二) | トップページ | 母子草 (一) »

冥途の旅の一里塚」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 白川郷と雪中立往生の旅 (三):

« 白川郷と雪中立往生の旅 (二) | トップページ | 母子草 (一) »