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2018年4月

2018年4月30日 (月)

初めての台湾 (一)

 会社員が定年退職したあと,うまくいけば残りの人生を十五年ほど生きることができるわけだが,十五年なんてあっという間に過ぎるだろうなあ.
 私なんか今六十八歳だから,あと十年ちょっとだ.
 終末期が二年とすれば,動けるのは十年あるかどうか.
 現役会社員だったときには,悠々自適になったら,大英博物館やルーブル美術館に行ってみたいと思っていたが,いざ仕事を辞めたら,長時間の空路に耐えられるか自信がなくなっていた.
 徳島の大塚国際美術館へ行った旅行記を既にアップしてあるが,あの時,ルーブルにある名画の陶板レプリカを前にして二人連れの中年の女性たちが「本物を見ちゃうと,こんな偽物はお話にならないわね」と声高に話していた.
 陶板レプリカと贋作は違うんだけどなあ,と私は思ったが,しかし大塚化学渾身の陶板レプリカを一笑のもとに貶せる彼女たちを羨ましくも思った.
 
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
  (萩原朔太郎『純情小曲集』から「旅上」;青空文庫にある)
 
 朔太郎は旧制前橋中学を出ていて,前橋高校出身の私の同窓の先輩にあたる.
 上に引用した「旅上」は高校生の時から好きな詩の一つだ.
 年が明けたばかりの一月のある日,ふと「ふらんすへ行きたしと思へども」と口ずさんだ私は,朔太郎のように新しき背広を着て旅に出てみたいと思った.
 どこに行こうか.
 ルーブルは無理だが,近場で行きたいところがあった.台北の故宮博物院だ.
 思い立ったが吉日.クラブツーリズムの一人旅ツアー「はじめての台湾ハイライト 4日間」に参加を申し込んだ.
 聞いた話では,故宮博物院の所蔵美術品をちゃんと鑑賞する気になったら一日では無理らしい.だからいずれ個人旅行で台北二泊くらいの旅行をするとして,しかし全く土地勘がないのはちょっとね,ということで先ずはツアーで行こうと考えたのである.
 ここら辺がいかにも年寄りの思考だ.かつて青年沢木耕太郎が『深夜特急』の旅に出た時,彼の頭の中に土地勘なんて言葉はなかっただろうに.
 沢木耕太郎は別格として,海外旅行に人一倍臆病だった私だが,出張とか成り行きでアメリカや中国,東南アジアに行ったことはある.そして懐かしい思い出の土地はあるが,もう再訪することはないだろう.あと数回,東南アジアに行ければ,それでいいやと思っている.
(続く)

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2018年4月29日 (日)

母子草 (八)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (七) 》の末尾を再掲する.
さて次回は,中島版『母子草』のストーリーについて述べる.
 
 これまでの私の文章においては定義なしで「再話」という言葉を使用してきたが,中島千恵子氏が遺した『母子草』について述べる前に,中島氏が用いている「再話」の意味を明らかにしておく必要があるだろう.
 まず「再話」の辞書的な語義を挙げる.
 
※大辞林第三版
昔からの物語や伝説・民話などを、主として子供向きにわかりやすく書き直すこと。
 
※明鏡国語辞典
1.昔話・伝説・民話などを、現代的な表現に改めるなどしてまとめ直すこと。また、その話。
 2.文学作品などを子供向きにわかりやすくまとめ直すこと。また、その作品。また、その話。
 
※広辞苑第六版
昔話・伝説などを、言い伝えられたままではなく、現代的な表現の話に作り上げること。また、その話。
 
※精選版日本国語大辞典
[名]伝承的な昔話や伝説を、歴史的な資料として忠実に記録するのではなく、現代的な感覚や用語で文学的に表現したもの。また、その作業。
 
 辞書ごとにバラバラな語義解説をしている.
 実はこれらの辞書には書かれていない語義があって,教育学方面では「再話」は「物語を読んで記憶し,それを言葉で語ること;story telling」を言うようだ.しかしこれは特殊な用法だろう.そのため以下は,国語辞典に示されているように,昔話や伝説に関する用語として述べる.
 上に挙げた私の手持ちの辞書においては,「再話」の語義は二つに分類できる.大辞林と明鏡国語辞典に示されている語義が「書き直し」または「まとめ直し」,つまり英語ならリライトであるのに対し,広辞苑と精選版日国は明らかに「再話」は「文学的創作行為」であると言っている.
 辞書によってこれほど極端に解釈が異なるとは驚きだが,一般に使われている語義はどちらなのだろうか.
 故松谷みよ子氏の公式サイトは今も維持されていて,そこに《再話》と題して松谷氏の長女である瀬川たくみ氏が次のように書いている.
 
「採訪」で集めた昔話を作家力で話を膨らませていく作業が、「再話」です。》 (下線は江分利万作が付した)
 
他にも、母が再話にせず、あえて聴いたままを纏めた「昔ばなし十二か月」や「現代民話考」も日本国中の貴重な「昔話」や「現代の話」を纏めた本だと思っています。》 (下線は江分利万作が付した)
 
 ここで瀬川氏は,民話の採集者が民話伝承者から聞いた話を記録したものは「再話」ではないと明解に書いているわけだ.なにしろ瀬川氏は母みよ子氏の業績を継承している実の娘であるからして,瀬川氏は松谷みよ子氏と同じ文学的立場であると断定してよかろう.
 続いて,「再話」に関してネットで評価の高い他の書籍にも目を通してみた.『〈時〉をつなぐ言葉 ラフカディオ・ハーンの再話文学』(牧野陽子著,新曜社,2011年8月25日) の p.16 で著者牧野陽子氏 (成城大学教授) は次のように書いている.
 
再話文学は、人々が語り継いできた素朴な物語世界に意味を見出し、そうした物語に新たな衣を着せて言語化することで、さらに次の世代へと語り継いでゆくこともまた文学の本質であることを示すものなのである。》 (下線は江分利万作が付した)
 
 ここでも「再話」は伝承されてきた物語そのままを言語化するものではないと説かれている.どうやら文学の世界では「再話」は広辞苑や精選版日国に書かれている語義が正しいらしい.
 では,各地方で民話を伝承してきた人々から聞いた話に創作を加えずに,大辞林や明鏡国語辞典に示されている語義のように,「書き直し」または「まとめ直し」て次世代に語り継いでいく作業は何と呼べばいいのか.
 私はネット上を探しまわったが,適切な用語を見出せなかった.たぶんそのような用語はないのだと思われる.
 だとすると,中島千恵子氏が『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の「あとがき」で
 
原話を大切にして、心をこめて再話いたしました 》 (下線は江分利万作が付した)
 
と書いたのは,「再話」には創作行為の意味があるのだが,自分はそれを避けたということを言いたかったからに違いない.
 いずれにせよ同書の「あとがき」に書かれている出版の趣旨からすると,中島千恵子氏は,近江に語り伝えられてきたハハコグサの名の由来の物語を文字に固定する上で,できる限り変容を避けたと思われ,従って中島版『母子草』は,この民話の原形であると考えられる.
 次回は中島版『母子草』の要約を示す.
(続く)

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2018年4月28日 (土)

ジムにおける服装

 昨日,筋トレをやりにジムに行ったら,階段の踊り場のところに紙が貼ってあり,先日来募集していたアンケートの集計結果が載っていた,
 私が通っているジムは藤沢の駅に近いD・スポーツクラブなのだが,ここは藤沢のスポーツクラブでは老舗であるだけに,如何せん設備が古い.トレーニングマシンなんかは,古いタイプでも私みたいな初心者はそれで充分なのだが,困るのは空調だ.空調能力が低いから,室温設定を例えば24℃に設定しても,実際の室温は30℃だったりするのだ.
 私は今年の一月にD・スポーツクラブに入会したのであるが,フロアの室温コントロールができないというのはスポーツクラブにとって致命的だと思う.これに加えて会員のマナーが悪い (不潔おやじが多すぎ) ということもあって,契約更新の七月には他のスポーツクラブに移ろうかなと思っている.
 D・スポーツクラブをよくしたいとかの義理はないから私はアンケートには回答しなかったが,壁に貼られたアンケート集計結果を読むと,室温が高いということを指摘した人がいた.しかし呆れたことに,それに対するジムの対応は「スタッフに内線電話で指示してもらえれば温度をさげます」というものだった.
 スタッフは別にトレーニングをしているわけではないから室温が高くても平気だろうが,我々ユーザーは困る.室温30℃でトレーニングしていたら熱中症で倒れるかも知れないのに,ジム側は,室温を適切にコントロールすることを自分の仕事だとは思っていないようで,それをスポーツクラブの会員に求めているわけだ.ま,いいや.
 
 以上は前ふり.
 アンケートの回答に「肌の露出が多い中高年女性がいる.なんとかしろ」旨のものがあった.
 肌が激しく露出した中高年女性会員てのを,私がジムにいる時間帯で見たことがないのであるが,まさかタンクトップ程度のトップスを指しているんじゃあるまいな.もしタンクトップだとしたら,そりゃ年齢に関係なく女性の普通のトレーニングウェアだ.
 それと,若い女性は肌を露出してもいいが中高年女性はいけないという視線で女性会員を見ているのなら,財務 セクハラおやじ一歩手前である.
 全裸で筋トレは法に触れるが,そうでなければ,何を着ようと中高年御婦人方の勝手である.ではありますが,個人的な意見を申し上げれば,ボトムスは黒いタイツと花柄のショートパンツ,上はサーモンピンクのタンクトップなんて華やかなのを銀髪の御婦人に着用して頂きたいと思うのであります.
 というわけで,D・スポーツクラブの爺さん会員たちには爽やかさが足りないと私は思う.女性会員をチラ見なんぞしていないで,自分のトレーニングのことだけ考えとりゃいいのだ.喝.
 あー私も爽やかでないですか.そうですか.はあ.

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祖国の危機を喜ぶ若者たち

 時事通信社が配信した記事《「南北統一に近づいた」=湧く在日コリアン、悲観も 》(時事通信;2018/04/27 21:20) を読んで,しみじみと情けない思いがした.
 同記事から一部引用する.

東京在住の団体職員許松麗さん(27)は「南北統一に近づいた。早く統一した国の国籍がほしい」と高揚した様子だった。
 
 時事通信社の記者は,この団体職員の身元を確認してから記事にしているのか.そこを明らかにしない記事では,フェイクニュースとまでは言わないが,読者をミスリードする可能性が高いと考える.今のこの段階で「南北統一」を言うところが極めて胡散臭いからである.
 
 もし「南北統一」が行われたら,まず確実に朝鮮半島は金王朝が支配することになるだろう.軍事は現北朝鮮が負担し,農業と工業は現韓国が負担するという提案を金正恩が行ったら,文在寅はそれに乗る可能性がある.北朝鮮の核を背景にして竹島を強奪して,大嫌いな日本の喉元に匕首を突き付けることができるし,自分は歴史に残る大統領になれるからだ.「南北統一」後に,金正恩に殺されなければの話だが.
 
 時事通信社の記事には,南北首脳会談の開催を喜ぶ若い在日コリアン女性たちの写真が掲載されているが,君たちの祖国は今,殺人鬼に乗り込まれているのだよ,喜んでいる場合じゃないぞと言いたい.

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母子草 (七)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (六) 》  の末尾を再掲する.
 
この「あとがき」のあとに,原話者および協力者二十七人が挙げられており,再話者二十一人 (中島千恵子氏の研究グループ) の氏名が列記されている.
 以上の二冊からわかることは,以下の通り.
(1) 書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の出版時点では,近江のハハコグサにまつわる民話の伝承者は湖北 (当時は東浅井郡虎姫町,後に長浜市に編入された) の田中敏郎氏であった.
(2) 書籍名『母子草』の出版までに原話者として田中敏郎氏の他に湖南 (大津市堅田町) の横山千代氏が加わったが,この書籍の出版時点では,両氏とも故人となっておられた.
(3) 湖北と湖南に伝わる民話であることが物語の筋書からもわかる.(後述)
(4) 故中島千恵子氏が遺したその他の重要なキーワードは「竹生島の妙音天女」である.
(5) 母子草の名にまつわる民話は滋賀県特有であり,他県に類話がない.(後述)
(6) 中島千恵子氏はこの民話の再話にあたって創作を加えていない.
 
 上に中島氏の著書として『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』と絵本『母子草』を挙げたわけだが,中島氏が編集したその他の近江民話集に『近江の民話 日本の民話74』(中島千恵子編;未来社,1980年) があり,これには民話71編の他にわらべうたも収録されている.現在は絶版になっていて,古書は大変に高い値段がついているが,昨年秋に『[新版]日本の民話74 近江の民話』が出ているのを見つけたので Kindle 版を読んでみた.
 すると,これには中島氏による再話『母子草』は収録されていないことがわかった.
 以上,この本稿 (七) までに紹介した書籍を時系列に並べてみると以下の通りである.
 
発行年 書籍名                『母子草』の収録
1968年 『近江むかし話』              ×
1977年 『続 近江むかし話』            ×
1979年 『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』   ○
1980年 『日本の民話74 近江の民話』        ×
1992年 『母子草 滋賀の伝説シリーズ 3』      ○
 
 滋賀県老人クラブ連合会が『近江むかし話』『続 近江むかし話』を編纂した時期,高齢の『母子草』原話伝承者はもう世を去っていたと考えられると既に述べた.
 そして後に中島氏にこの民話を伝えた田中敏郎氏は,『近江むかし話』『続 近江むかし話』編纂事業が行われていた時期には,まだ老人クラブに所属するような年齢ではなかったので,再話の募集に応募しなかったのではないだろうか.
『続 近江むかし話』が出版された時期には,中島千恵子氏は田中敏郎氏から原話『母子草』を既に採集していた可能性がある.しかし老人クラブ連合会による『続 近江むかし話』編纂事業の趣旨が「老人が社会的役割を果たす」であるということに照らせば,自分が直接再話した『母子草』を『続 近江むかし話』に収録させるのは好ましくないと判断したのだろう.
 そのような事情のもとに,翌々年,『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』に『母子草』が収録されたというのが私の推理なのだが,いかがであろうか.
 『日本の民話74 近江の民話』に『母子草』が入っていないのは,前年の『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』に入っているから重複を避けたためであり,『母子草 滋賀の伝説シリーズ 3』の出版は,『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の出版から十三年も経ったこともあり,幼年向きに書き直して絵本にしたのであろう.
 
 さて次回は,中島版『母子草』のストーリーについて述べる.
(続く)

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2018年4月27日 (金)

レディ・プレイヤー 1

 スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』を観てきた.
 この作品については予告編をチラと見ただけで内容はよく知らなかったのだが,先日,ニッポン放送の早朝番組で上柳昌彦アナが紹介したのを聴いて,観ようという気になった.週刊誌の映画批評も好意的だったし.
 
 結果的に,観て大正解だった.オンライン・ゲームをやった経験がある人とか,今もプレイしているなんて人は,クライマックスの大規模攻防戦で胸を熱くするかも知れない.
 私は,今までにやってきたオンライン・ゲームでの仲間たちを思い出して,ちょっと涙ぐんでしまったことを告白しておこう.
 
 それと,この作品は二度以上観るのがいい.
 なぜならこの作品には,過去の映画作品とかゲームとか,色んなものへのオマージュが,キャラやアイテムの形で滅多やたらと出てくるのだが,とても一度で,それらをすべて発見するのは無理だからである.
 帰宅してネタバレサイトを閲覧したのだが,私はララ・クロフトがカメオ出演してることに全く気が付かなかった.(恥)
 これで今年の娯楽映画作品トップ3の一つが決定したと思う.お勧めである.

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2018年4月26日 (木)

母子草 (六)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (五) 》の末尾を再掲する.
それはともかく,あちこち回り道したが,ようやく私は中島千恵子著・田辺満里子絵の『母子草』を読むことができた.
 
 私がこの連載で「母子草の物語」と呼んでいる民話はまだ調査を継続中であるが,これまでに判明したのは,この民話には三つのバージョンというか変化形があることだ.
 この三変化形のうち,私が最初にテキスト全文を入手したのは中島千恵子氏が再話したものである.
 三つの変化形を比較して論じるのは少し先に送り,まず中島氏による再話から紹介して行く.
 
 昨日の記事には書いていないが,「国会図書館サーチ」を用いて全国の公共図書館蔵書を検索した時の検索語は「母子草」と「中島千恵子」であった.
 以下,大変にややこしいが,紛れのないように必要な書誌事項を記し,書籍名と民話名,再話名を区別して書く.
 さて,「国会図書館サーチ」で検索すると,書籍名『母子草 滋賀の伝説シリーズ 3』(中島千恵子著,田辺満里子絵;京都新聞社刊,1992年2月20日) の他に,書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』(編集 滋賀県児童図書研究会 代表中島千恵子;サンブライト出版刊,〈出版社のミスであろうか,奥付から出版日付が脱落している.別途調査したところ発行年は1979年であったが月日は不明である〉) もヒットし,この『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の中にも書籍名『母子草』と同じ民話『母子草』が収録されているようであった.
『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』は古書が安価に出品されていたので,書籍名『母子草』中の民話『母子草』と書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』中の民話『母子草』が全く同じかどうか検討のために購入してみた.
 結果的には比較するまでもなかった.両民話とも中島千恵子氏による再話であるが,書籍名『母子草』は絵本であり,ルビ付きの漢字は使われているものの,たぶん対象年齢は幼稚園児だろう.これに対して『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』は小学校低学年向の民話集である.
 著者は同じであるから基本的な筋書は全く同一であるが,書籍名『母子草』中の再話『母子草』は,書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』中の再話『母子草』よりも,登場人物の会話がやや共通語寄りになっている.(私は不案内であるが,滋賀県の方言である近江弁は京言葉や大阪弁に近いという)
 
 書籍名『母子草』の巻末に中島氏による「解説」が記載されている.以下に一部を抜粋引用する.
 
《▼「母子草」(大津市堅田町ほか)
 ハハコグサは、きく科の植物で春の七草の一つゴギョウで、春から夏にかけて黄色い球状の花を多数咲かせます。
 湖国では、亡くなった母の涙がこの草になったという言い伝えがあります。不幸な母と娘を竹生島の妙音天女様が守っていた――というのも湖国らしい伝承です。このお話は、堅田町の故横山千代さんや湖北の故田中敏郎さんから聞きました。
 
 この文章はきちんと伝承地方と原話者を記しており (再話者はもちろん中島氏自身である),いかにも研究者らしい立派な解説であると思う.原話者が明記してあることからして,私見であるが,中島氏による再話が民話『母子草』の原形であろう.(残りの変化形は原話者があきらかでない;後述)
 
 書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の「あとがき」からも一部を抜粋する.
 
いまは、よほど僻地へ行かなければ、昔話にめぐりあえないほど、語ってくれるお年寄りが少なくなってきました。そして、話してくださったなかには、この本を出すまでに、この世を去っていかれた方も、何人かありました。
 このままでは、語られることもなく消えてしまうのではないかと思うと、私たちは、みなさんに伝えておきたいという願いをもつようになりました。それで、埋もれていたお話を掘り起こし、よく知られているお話もおりまぜて、まとめてみたのがこの本です。
 さて、近江には、びわ湖にまつわるものとして、「ムカデ退治」「母子草」「湖のサギ」「山梨村の風の音」があり、これらは近江でなければ語られない特有のお話です
 
取材にあたりましては、田中敏郎さん始め、多くの方たちにお世話になりました。ほんとうにありがとうございました。
 なにぶんにも、執筆者は、しろうとばかりですが、原話を大切にして、心をこめて再話いたしました。
 
 この「あとがき」のあとに,原話者および協力者二十七人が挙げられており,再話者二十一人 (中島千恵子氏の研究グループ) の氏名が列記されている.
 以上の二冊からわかることは,以下の通り.
(1) 書籍名『ひともっこ山 湖の国にむかしむかし』の出版時点では,近江のハハコグサにまつわる民話の伝承者は湖北 (当時は東浅井郡虎姫町,後に長浜市に編入された) の田中敏郎氏であった.
(2) 書籍名『母子草』の出版までに原話者として田中敏郎氏の他に湖南 (大津市堅田町) の横山千代氏が加わったが,この書籍の出版時点では,両氏とも故人となっておられた.
(3) 湖北と湖南に伝わる民話であることが物語の筋書からもわかる.(後述)
(4) 故中島千恵子氏が遺したその他の重要なキーワードは「竹生島の妙音天女」である.
(5) 母子草の名にまつわる民話は滋賀県特有であり,他県に類話がない.(後述)
(6) 中島千恵子氏はこの民話の再話にあたって創作を加えていない.
 
(続く)

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2018年4月25日 (水)

母子草 (五)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (四) 》の末尾を再掲する.
しかるに残念ながら,この二百九十三篇に「母子草の物語」は含まれていないのである.
 考えられる理由は,昭和中頃には,「母子草の物語」の語り手が絶えていたということである.
 
[一つ目の「母子草の物語」]

 滋賀県老人クラブ連合会による大掛かりな近江民話保存の試みにもかかわらず,「母子草の物語」は,語り手からの応募がなかったとみえて,それがために正続『近江むかし話』二巻に収録されなかった.
 私は民俗学に関して門外漢であるが,Wikipedia【民話】に《伝承する人が居なくなれば絶える》と書かれているのは全くその通りであるなあと思う.
 では,近江の「母子草の物語」は絶えたのか.
 語り手は絶えたとしても,実はしかしこれを既に採話していた人がいたのである.
 その人こそ誰あろう,『続 近江むかし話』の「あとがき」に,滋賀県老人クラブ連合会を指導援助した人物として謝辞が述べられている中島千恵子氏である.
 
 滋賀県老人クラブ連合会による謝辞を読んで,私は中島千恵子氏について Wikipedia【中島千恵子】を読んでみた.
 するとそこに中島氏の著書としてそのものズバリの《『母子草』田辺満里子絵 京都新聞社 滋賀の伝説シリーズ 1992》が記載されていたのである.
 だがこの『母子草』は絶版になっていて,京都新聞社は販売していなかった.
 そこで複数の古書検索サイトで調べたが,古書店にも在庫はなかった.そのような場合,検索サイトから各地の古書店に「リクエスト」を出しておけば,入荷した時点で連絡してくれるが,それは半年先か一年先か,あるいは十年先か,いつのことになるやらわからない.
 そうとなればもはや図書館で調べるしかない.
 まずは「国会図書館サーチ」で公共図書館一斉検索をかけたところ,国会図書館 (日本の商業出版物は特別な事情がない限りここにあることになっている),首都圏では東京都立多摩図書館と川崎市立中原図書館にあることが判明した.
 
 東京都立多摩図書館は私が数年前に住んでいた国分寺市に近いところにあって土地勘はあるのだが,現在の住処からは行くのに片道二時間を要する.
 では川崎市立図書館にしようと,その中核図書館である川崎市立中原図書館に行ってみた.すると窓口の司書さんが蔵書検索してくれたのだが,ここには『母子草』はないと言う.
「国会図書館サーチでは,ここにあると出たんですけど」
と私が言うと,詳しく調べてくれて,その結果,実は中原図書館ではなく同市立高津図書館に所蔵されているとのことだった.
 私が怪訝な顔をしたら,司書氏は「全国各自治体図書館は蔵書を中核図書館の名義で登録するので,こういうことが発生する」旨を解説してくれた.「国会図書館サーチ」利用の基礎知識らしい.(汗)
「それじゃ高津図書館に行ってみます」と私が言うと,その司書氏は,横浜の図書館にはないんですか,と言った.提携図書館ではなく自分の住んでいる自治体の図書館なら図書館サービスがフルに利用できるから,そのほうが便利ですよ,と.
 
 そこで私は,「国会図書館サーチ」ではヒットしなかった横浜市立図書館だが,念のためにそのサイトで蔵書検索をかけてみた.すると,市立中央図書館にあったのである.中島千恵子著・田辺満里子絵の『母子草』が.
 どうやら横浜市立図書館は,すべての蔵書を「国会図書館サーチ」に登録しているわけではないらしい.つまりそのようなことがあると,「国会図書館サーチ」は不完全なアウトプットを出してしまうのだ.これは横浜市立図書館に限らない.「国会図書館サーチ」の意外な弱点だぞと私は驚いた.
 それはともかく,あちこち回り道したが,ようやく私は中島千恵子著・田辺満里子絵の『母子草』を読むことができた.
(続く)
 
[追記]
 川崎市立中原図書館の司書氏に教えてもらったことをもう一つ.各地の図書館が「国会図書館サーチ」に登録している書籍でも,実際には所蔵されていない場合があるという.それは「紛失」である.私が想像するに,図書館が大切に保管している書籍が「紛失」するというのは,つまるところ盗まれたということではないだろうか.

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2018年4月24日 (火)

女の敵たち (二)

 現代日本において最も優れたジャーナリストの一人である江川紹子さんが,文春オンラインに
と題した文章を寄稿している.
 この稿の中で江川さんは,自社の女性社員をセクハラから守れなかっただけでなく,あろうことか,その女性社員が音声データを週刊新潮に渡したことについて公式に非難したテレビ朝日を厳しく批判している.
 私も全く江川さんと同意見である.今後,テレビ朝日は,セハクラ被害について報道する資格がない.
 テレビ朝日と同じ立場に立っているのが読売新聞である.読売新聞社は週刊文春の連載記事「新聞不信」で御用新聞として常々嘲笑されているが,江川さんも,読売の社説がテレビ朝日女性記者を非難したことを取り上げて,
 
読売新聞は、自分たちが何を報じているのか分かっているのだろうか?
 
まったく無関係なものを並べ立てて、今回のケースも、それと同じように悪質なものだという印象を与えたいのだろうか? だとしたら、悪質な印象操作でしかない。
 
読売新聞はさらに、20日付朝刊掲載の社説でこう書いた。
〈取材で得た情報は、自社の報道に使うのが大原則だ。データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない。
 取材対象者は、記者が属する媒体で報道されるとの前提で応じている。メディアが築いてきた信頼関係が損なわれかねない〉
 しかし、今回の音声データは、「取材で得た情報」というより、取材の場で受けた被害を記録した証拠である。
 
と書いている.
 セクハラ被害を告発したテレビ朝日の女性の周辺では,その女性に対するバッシング (麻生大臣もバッシングに乗り出した) のみならず,彼女の上司など関係者の実名がネットで晒され,フェイクニュースが独り歩きを始めている.
 政府自体が元財務次官によるセクハラはなかったと公然と主張 (麻生大臣の発言) を始めた現在,我が国における性差別問題の危機的な状況に対して,江川さんが敢然とテレビ朝日と読売新聞の批判を行ったことは賞賛に値すると考える.

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2018年4月23日 (月)

女の敵たち (一)

 福田淳一財務事務次官のセクハラを告発したテレビ朝日女性記者へのバッシングが激しさを増している.
 皮切りはあのデマゴーグ池田信夫が,何の根拠もなく,女性記者が週刊新潮に音声データを「売り込んだ」と書いたことだった.(JB PRESS 4.20 《テレ朝の女性記者がつくった財務省セクハラ騒動 》 ) 当然ながら「売り込む」とは,金銭的取引を意味する.
 続いてチンピラ女ライターが,テレ朝の女性記者が枕営業をしていたと誹謗した.(卑怯にも,その女性が枕営業したと確かめたわけではないが,と逃げ道を作りながら)
 
 さらに23日付の赤旗によると,自民党の下村博文元文部科学相は講演会で「確かに福田事務次官はとんでもない発言をしたかもしれないけど、テレビ局の人が隠してとっておいて、週刊誌に売ること自体がはめられてますよ。ある意味犯罪だと思う」と発言したという.
 
 下村もまたこの発言で根拠を示さずに「週刊誌に売る」との表現を用いている.
 私たちはこのことから,池田と下村の発言の裏に同一のシナリオがあることを理解する.
 さて誰がそのシナリオを書いたのか.次にそのシナリオで演じるのは誰か.
 
 このような恥ずべき大合唱を見ると,官邸が必死になって,件の女性記者を葬ろうとしているんだろうなという気がする.
 例によって安倍晋三が直接指示しているのではなく,シナリオは菅あたりが忖度しているのだろうが.

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花をのみ待つらん人に

 昨日はクラブツーリズムの『定期講座「国宝」第二回』(@一ツ橋センタービル)を聴講してきた.講師は美術史家の橋本麻里さん.私はこのセミナーの準備回 (第ゼロ回) から聴講している.第二回のタイトルは「京都 王朝文化の輝き~平等院と三十三間堂~」だった.
 
 このセミナーは教養講座だから,大学の講義のようにノートをとる必要もないわけだが,それでも「ほお!」と思ったことはいつもメモしている.
 昨日の講義でメモしてきたことの一つは,「時代の美意識の変化は,まず文芸 (和歌) に現れ,その後に絵画や彫刻などの造形芸術に波及する」である.
 その一例として橋本さんは日本の中世を取り上げ,源平の興亡から鎌倉幕府の成立,そして承久の乱 (1221年) のあと,後鳥羽上皇が隠岐に配流された時期の仏教美術を解説した.
 
 1164年に後白河上皇は平清盛に命じて蓮華王院本堂を建立させた.
 蓮華王院本堂は通称三十三間堂.本尊は木造千手観音坐像 (湛慶作) で,これは国宝であるが,本堂内に林立するように配置された千一躯の木造千手観音立像が圧巻である.この立像群はこれまで重要文化財であったが,大規模な修復が完了し,今年2018年3月9日に文化庁文化審議会により国宝にすることが答申され,近くに国宝になる予定である.(参照;Wikipedia【三十三間堂】)
 本堂内にはその他に,やはり国宝の木造風神・雷神像と木造二十八部衆立像があるし,特に修復成った千手観音像群について,橋本さんは「修学旅行で行っただけならぜひもう一度行ってみてください.驚きますよ」と言った.
 
 橋本講師によると,この時代の仏教芸術の特徴は,この三十三間堂に観てとれる「大量造仏,過差美麗の空間」ということである.「過差」は民俗用語で,不相応な贅沢ということ.「過差美麗」(「美麗過差」とも) は王朝文化についてよく用いられる表現で,洗練された趣向を奇抜なまでに凝らしたという程の意味か.
 しかし造形芸術は過差美麗であったが,この時代に詠まれた和歌には,次時代の美意識の萌芽が出てきている.というのが橋本麻里さんの講義のテーマであった.
 この時代の代表的な歌人として挙げられるのは『新古今和歌集』の撰者の一人,藤原家隆である.家隆の和歌で特に有名なのは次の一首だろう.
 
花をのみ待つらん人に 山里の雪間の草の春を見せばや
(壬二集,六百番歌合,新古今和歌集)
 
 これは千利休が茶の湯の精神とした歌として知られる.つまり過差美麗な仏教美術が盛んな時代に,既に和歌の世界には「侘」の精神が現れていたということである.私は大いに納得した.
 
 さて昨夜,焼酎の炭酸割をちびちびと舐めながら (これは言葉の綾で,事実はぐいぐいと飲みながら),橋本麻里さんのお話を反芻しつつ,中世和歌の美意識について復習していたら,ネットに池坊短期大学の授業概要を見つけた.小倉嘉夫という先生の「日本文化論」と題した授業である.
 その「授業概要」に次のように書かれている.
 
日本の文化史において、和歌文学の存在は見逃すことのできないものである。特に、平安時代の『古今和歌集』や『伊勢物語』、鎌倉時代の『新古今和歌集』などの作品は、後世の文学作品のみならず絵画や工芸、染織など、広く芸術一般に著しい影響を与えた。そしてその「こころ」は、茶・花・香道といった芸道にも反映されて今日に至っている。例えば、六角堂の華道家元に、室町期に製作された『花王以来の花伝書』が伝えられている。花形図に相伝内容を込めて伝授する形式の伝書としては現存最古のものであるが、花形のかたわらに『古今和歌集』等に所収の歌が添えられているのである。花の生け方に古歌が引用されるのは注目すべき事実であり、いけばなと和歌文学の一体化をここに見ることができるのである。また、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」や藤原家隆の「花をのみ待つらん人に春日野の雪間の草の春を見せばや」の歌が、後に茶の湯の極意とされたことなどは周知のことであろう。和歌文学が、我々日本人の感情や美意識、ひいては日本文化の源流の一つとなっているといっても過言ではない。この授業では、様々な分野から、日本文化一般に与えた和歌文学の影響を考察し、その浸透が現代の我々とは決して無縁ではないことを確認したい。
20180423a_ikenobou
(上記文章中のリンクが切れた場合に備えて,2018年4月23日9:45 にPC画面のハードコピーを取り,トリミングした)
 
 上に引用した文章の中で小倉嘉夫先生は《藤原家隆の「花をのみ待つらん人に春日野の雪間の草の春を見せばや」の歌》とお書きになっている.
 だが一般的には,利休が茶の湯の精神とした歌は「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」とされている.
 はてと私は考え込んだ.
 家隆が生涯に詠んだ歌は六万首といわれるから,その中には,わずかな違いのある同工異曲の和歌があるのだろうか.
 そこで小倉嘉夫先生が言うところの「花をのみ待つらん人に春日野の雪間の草の春を見せばや」を検索してみたが,私の非力な検索力では見つけることができなかった.
 自分の非力を省みずに断言するが,ネット上のコンテンツにおいては,すべて「山里の雪間の草の春」であると考える.「春日野の雪間の草の春」は,ない.
 さてどうしよう.茶道各流派の公式サイト (表千家裏千家) も家隆の歌は「山里の雪間」としているのだ.しかし,小倉嘉夫先生は大学の先生である.きっと私の知らない,そして茶道の家元も利休本人もあっと驚く根拠があって「春日野の雪間」としたに違いない.
 だがしかし,小倉嘉夫先生の授業を聴講した学生たちは,家隆の和歌を「花をのみ待つらん人に春日野の雪間の草の春を見せばや」だと信じて社会に出て行くのだ.なのに,それ違うよ,と茶道を習っている友達に言われたりしたら,いかほどショックを受けるか.小倉嘉夫先生,授業では普通の説を説かれたほうがいいのではないでしょうか.
 
 ちなみに,池坊短期大学 (京都府京都市下京区) は学校法人池坊学園により1952年に設置された私立短期大学である.あの大横綱貴乃花親方を土俵外で完膚無きまでに叩きのめした ドスコイ 剛腕池坊保子 親方 氏は池坊学園の元代表者だとのことである.全然ちなんでないですか.そうですね.

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2018年4月22日 (日)

高齢者の手習い

 昨日の記事《鉄の雨に打たれて》に,会社員だった時は新刊書しか買わなかったが,今は古書を専ら購入していると書いた.
 それと同様に,私は図書館も利用したことがなかった.本は自腹を切って読んでこそ有難味が増すのだと思っていた.
 しかし図書館には,読書する権利を市民に保証するという役割以外に,情報データベースとしての意義もあるわけで,もはや古書としても入手できなくなった書籍は,図書館へ探しに行くしかない.
 連載中の「母子草の物語」を調査する過程で,絶版本であり,かつ古書店在庫にもないものがあるため,私は図書館通いをすることになった.
 
 国会図書館はもちろん,東京都の図書館は県外者にも門戸を開いているのだが,往復に時間がかかるのが難点.
 で,先日,川崎市立図書館 (いくつもあるうちの市立中原図書館が中核図書館;川崎と横浜は提携しているので,横浜市民も制限付きで川崎市立図書館を利用できる) と神奈川県立図書館に行って利用者カードを作ってきた.
 今日は,一ツ橋でクラブツーリズムの講演会「国宝講座」を聴講する帰りに横浜市立図書館に寄って民話について調べものをする.
 
 なんというか,老いても暇を持て余すことがないのはありがたい.図書館通いのきっかけを作ってくれた waiwai さんとユウタパパさんに感謝したい.

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鉄の雨に打たれて (補遺)

さとうきび畑』(作詞・作曲:寺島尚彦) が世に出たのは沖縄返還の五年前,昭和四十二年 (1967年) のことだった.
 最初のレコーディングは翌々年,「70年安保」の前年に森山良子によってなされたが,『さとうきび畑』についての私の当時の記憶はやはり沖縄返還運動と結びついている.デモのある日に清水谷公園 (Wikipedia【清水谷公園】に《かつてはデモ集会の場としても知られた》とある.遠い昔の話だ) に行くと,ギターを持ってきた無党派の参加者グループが歌っていたりしたものだ.
 後に森山良子御本人が,わたしが反戦歌を歌っていいのか内心忸怩たるものがあった旨の述懐をなさったが,しかし当時の彼女はジョーン・バエズに喩えられるくらいの反戦・非戦のアイコンだったのである.
 ある楽曲のオリジナルが誰で,カバーをしたのは誰々だなんてことに大した意味はないが,しかし《沖縄 さとうきび畑 ちあきなおみ》に,discovery と名乗る間抜けな厨坊が《この人の歌は心の奥底から訴えるものがある。凄い。森山良子がただのアホに見える。よくも恥ずかしげも無くカバーしたな》と森山良子を罵倒しているのを目にすると,君は馬鹿者だから知らないだろうがオリジナルは森山良子なのだよと諭したくなる.『さとうきび畑』と沖縄本土復帰の時代を象徴したのは,ちあきなおみ ではなく森山良子だったのだと.(discovery が馬鹿者である理由;「よくも恥ずかしげも無くカバーしたな」と「よく恥ずかしげも無くカバーしたな」とでは意味が異なる.前者は恫喝であり,後者は詠嘆である.相手のいないところで恫喝してどうする.w 日本語もちゃんと書けぬのにネットに投稿するではない)
 
 ちあきなおみ によるカバーは,沖縄の本土復帰後,「70年安保」も遠く過ぎ去りつつあった昭和五十年 (1975年) に NHK の『みんなのうた』のために行われ,放送時間制限のため十一連まである『さとうきび畑』のうちの三コーラスだけだったが,しかし彼女の稀有な才能は,若い世代が『さとうきび畑』のオリジナルは ちあき だと誤解するほどのものであった.(余談だが,水原弘のヒット曲『黄昏のビギン』と小畑実による昭和歌謡の名曲『星影の小径』も,ちあきなおみ の持ち歌だと思っている若い人は多い)
 若い人たちだけではなかった.安野光雅にも ちあき の歌唱が印象的だったのであろう,昨日の記事《鉄の雨に打たれて》において『皇后美智子さまのうた』から引用した部分に《(「さとうきび畑」作詞・作曲=寺島尚彦、歌=ちあきなおみ、森山良子) 》とあるように,歌手としてまず ちあきなおみ を挙げている.
 
 個人的な意見を書くと,『さとうきび畑』という歌は,誰よりもまず森山良子の歌唱で,しかもフルコーラス,いわゆる完全盤で聴かれるべきだろう.そして次に ちあきなおみ を推す人が多かろうが,私は夏川りみの歌唱が良いと思う.『さとうきび畑』が入っている彼女のCD『空の風景』は中古品がほとんど送料だけで買える.夏川りみは沖縄戦はもちろん本土復帰も体験していない (本土復帰の翌年の生まれである) のだが,陳腐な言い方をすれば「沖縄人の血」が彼女の歌を胸打つものにしている.(沖縄で生まれたら沖縄人になるわけではない.今井絵理子を見よ w)

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2018年4月21日 (土)

鉄の雨に打たれて

 本は,現役会社員だった頃は新刊書しか購入しなかった.
 私の専門は農芸化学という分野で,中でも食品化学と栄養学,微生物学に関しては知識水準を保つために新刊の書籍はどんどん買った.
 しかし最近は専ら古書である.なぜかというと,もはや私は最新の専門知識を得ても使い道がないわけで,それならば不案内の分野の古いことを勉強しようと思ったのである.そして古いことの勉強というと,どうしても古書のお世話にならざるを得ないわけだ.
 ところが,貴重な古書ならば致し方ないとして,中古書とか古本というと,どうしても書き込みは言うに及ばず,ポテトチップスの滓,抜いて貼り付けられた鼻毛などというイメージが拭い難い.
 だから私は今でも中古書を買う際は「非常に良い」という評価のものを購入することにしている.鼻毛を発見したくないからである.
 「非常に良い」ランクで価格が半分になっていれば即購入だが,二割引きくらいなら新品の本を買う.
 最近買った「非常に良い」古本で大いに満足したのは,美智子皇后の歌を題材に安野光雅が書いた『皇后美智子さまのうた』(朝日新聞出版,2014年6月) だ.
 なにしろ古書店から郵送されてきたものは読んだ形跡がないのである.表紙を開くと,小口でかすかにくっついている紙が離れて,パリリという音がしそうなほどであった.
 想像するに,本屋で買ってきたまま紙のカバーを取らずに本棚に並べて,そのまま忘れて放置したに違いない.非常に状態の良い本であった.こういうことがあるから,中古本を買うなら止むを得ない場合以外は「可」を避けて「非常に良い」を買うべきだと思ったことである.
 
 この『皇后美智子さまのうた』だが,Amazon のレビューに《安野光雅の駄文がなければ星6つなのだが》とか《安野光雅の解説文の意図が読み手に伝わりにくい箇所が多かった》などという評価を書いているやつがいる.
 安野光雅は我が国を代表する知識人にして芸術家の一人である.その人の文章を駄文とは何事であるか.ならばお前はどれほどの文章を書けるというのか.傲慢もいい加減にするがよい.
 《安野光雅の解説文の意図が読み手に伝わりにくい》というのは,単にお前が馬鹿だからだ.そんな情けないレビューを書いて生き恥を晒すでない.
 美智子皇后の,人の胸の底を静かに揺るがすが如き数々の歌と,皇后とほぼ同時代を生きてきた安野光雅による昭和と平成時代のあれこれに触れた文章は,読む人の心を浄化するに違いない.久しぶりに良い本を読んだ.
 さて同書の終りに近い辺りの節「本土復帰」に次の箇所がある.
 
わたしたちも、沖縄のさとうきび畑の歌を知っている (中略)。
そのさとうきび畑を吹く風は、緑の波を打つほどに茂り、風にそよぎ、ざわわ、ざわわと音を立てる。
 
 むかし 海の向こうから戦がやってきた
 あの日 鉄の雨に打たれ父は死んでいった
 
 という歌声を聞いた人は、その歌が何をいっているのかわかるにちがいない (「さとうきび畑」作詞・作曲=寺島尚彦、歌=ちあきなおみ、森山良子)。
 
 「さとうきび畑」が入っている ちあきなおみ のCDは少ない.現在の店頭には『これくしょん~ねぇあんた~ 』(日本コロンビア,2000年) があるのみ.
 しかしありがたいことに YouTube にアップしてくれた人がいる.それをどうぞ.もちろん,この一曲だけのために大枚六千円を叩いて中古CDを買う価値はある.

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2018年4月20日 (金)

母子草 (四)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (三) 》の末尾を再掲する.
だから私は,このような過程を経て複数の「母子草の物語」が存在しているかどうか知るために,テキストを手に入れられる限り入手しようと決めた.
 
 私がこれまでに出版された「母子草の物語」を探すにあたって選択した場所は,Amazon,楽天ブックス,複数の古書店の在庫を一斉検索できる幾つかのウェブサイト,そして公共図書館の蔵書を一斉検索できる国会図書館サーチである.
 
 冒頭から余談だが,私たちに最もよく名を知られている児童文学者の一人に,三年前に亡くなった松谷みよ子さんがいる.
 松谷さんは民話伝説の研究でも知られ,民話集を幾つか出版している.しかし私のおぼろげな記憶ではそれらの中に「母子草の物語」はおそらく含まれていない.また書誌事項のウェブ検索でもキーワード「母子草」は松谷さんの著作中にヒットしない.ではあるが,松谷さんには民話に関する『現代民話考』(筆者は未読) などの論考集があり,その中に「母子草の物語」についての考察がないとは言い切れない.このことは課題として横に置いておくことにする.
 
 滋賀県は,あるいは近江または湖国と呼ぶ方がいいかも知れぬが,民話の豊富な土地であるそうだ.
 昭和四十三年九月,滋賀県老人クラブ連合会から『近江むかし話』(東京ろんち社,1968年) が出版された.
 その後の昭和五十二年には『続 近江むかし話』(洛樹出版社,1977年) が出版された.(洛樹出版社の前身は東京ろんち社)
 その続篇の「あとがき」から一部を引用する.
 
昭和四十三年二月、県老人クラブ連合会理事会の席上、湖北地方老連会長松江賢修氏から、忘れ去られようとしている湖国の伝説や民話を、次の世代に書き遺そうという発議があり、明治百年の記念事業として企画することになった。
 当時、毎日新聞社学生新聞部長 (現・滋賀文学会会長) の徳永真一郎氏、作家クラブ幹事 (現・児童図書研究会会長) の中島千恵子氏、能登川高校教諭 (現・東大津高校教諭)の渡辺守順氏等より万般について指導援助をいただき、県下の老人クラブ会員からの応募五百余篇のうち一六〇篇を採用し、同年九月敬老の日に「近江むかし話」が発刊されたのである。

……
その後、市町村ごとに老人クラブ会員の協力によって「○○市 (町)むかし話」の出版が相つぎ、老人の社会的役割について理解を深めることができたことは、まことにうれしいことである。
 このような市町村での盛りあがりによって内外から続篇 (本書) 刊行を待望する声も強くなり、県老連はこれをうけて続篇編集の企画をたて、市町村で出版されたもの及び今回の応募作品の中から選択し大別して、史話を前記徳永先生に、伝説を渡辺先生に、民話を中島先生とそのグループ ―
(中略) ら諸氏のご奉仕によって添削していただいた。(以下略) 》
 
 こうして近江の民話は『近江むかし話』に百六十篇,『続 近江むかし話』に百三十三篇が集められたのであった.
 さてこの民話集の特徴は,何といっても,近江の民話を記憶していた老人の語り手たちが,県老人クラブ連合会の呼びかけに応えて,老人の社会的役割を果たすべく積極的に自ら再話して募集に投稿したというところにある.しかも正続『近江むかし話』二巻に収められた話数の多さを見れば,いかに近江が民話の宝庫だとて,これは昭和後半に存在していた近江の民話をほぼ網羅していたと考えてよいだろう.
 しかるに残念ながら,この二百九十三篇に「母子草の物語」は含まれていないのである.
 考えられる理由は,昭和中頃には,「母子草の物語」の語り手が絶えていたということである.
(続く)

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2018年4月18日 (水)

母子草 (三)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 前回記事《母子草 (二) 》の末尾を再掲する.
滋賀県で手作り紙芝居活動をされている「げんごろう」さんの作品一覧に母子草が登場するのである.
 
 この資料 (「げんごろう」さんの作品一覧) は,滋賀県のシニアサークルのサイトにある.そして紙芝居の作品「母子草」は民話だと書かれている.おそらく滋賀県の民話だろう.
 ようやく手掛かりを見つけた私は,作者の「げんごろう」さんにコンタクトしようと思った.ところがこの〈「げんごろう」さんの作品一覧〉ファイルは,リンク元のファイルが削除されてしまったためにサイト内で孤立しているファイルであるらしい.リンク元の記事がなくなっているので,「げんごろう」さんがどのようなかたなのか,詳細が不明である.
 ならば滋賀県で紙芝居活動をしているグループを探し出して連絡をとり,おそらくお仲間であろうから,「げんごろう」さんとの連絡方法を教えてもらい,「げんごろう」さんに滋賀県の民話と母子草の関係について御教示願おうかと考えた.しかしこれは面倒くさい (おい w) ので後回しにして,まずは出版物を探すことにした.
 
 テキスト蒐集の前にまずおさらいをする.「民話」とは何か.
 Wikipedia【民話】の説明を引用する.
 
民話(みんわ、英: folktale, folk story)、民間説話(みんかんせつわ)は、民衆(柳田國男のいう「常民」)の生活のなかから生まれ、民衆によって口承(口伝えで伝承)されてきた説話のこと。昔話のほか、伝説、世間話その他を含める。口承文学、また民俗資料の一。民譚(みんだん)ともいう。研究する学問は民俗学。ルーツは神話にあると言われ、例えば『古事記』は語り部の稗田阿礼が口述したのを太安万侶が筆録した物である。神話の中でも特定の地名などに由来したものは伝説に含まれうる(高千穂の峯に神々が降りたという天孫降臨など)。アイヌのユーカラも内容は神話だが口承で伝えられてきた。
なお、研究の対象にするためには後に残すことの出来る記録という手段をとらざるを得ず純粋な口承のみで知られた昔話・伝説は少ない。また伝承する人が居なくなれば絶えるという制約や、伝統が変容する前に記録保存しようとする動機から文字が伝わった地域では文書化が試みられた(北欧神話など)。長い間筆録に限られていたが現代では技術の進歩によりテープレコーダーなどでの録音が可能になった。
 
 この記述における重要キーワードは「口承」と「記録」である.
 大昔,日本中の無名の創作者たちが物語を作った.それは口伝えで各地に伝播し,また時を経ても語り伝えられた.
 近代に民話が学問的研究対象となる以前は,民話は文字による固定が行われなかったから,空間的伝播と伝承がなされるあいだに変容するのが必然であった.
 従ってある地方に伝わる一つの民話には多くのバージョンが存在したであろうが,文学者や民俗学者は民話の語り手から話を聞いて (採話) 記録する (再話) する際に,すべてのバージョンを網羅できるわけではなかろう.つまり採話者によって話に異同が生じるだろう.また一人の採話者が複数のバージョンを採話した場合にはそれらをまとめて再構成してしまうことが考えられる.再話者が民話を変容させてしまうのだ.
 さらには,芥川龍之介やラフカディオ・ハーンがそうしたように積極的な創作の手を加えることもあるかも知れない.
 だから私は,このような過程を経て複数の「母子草の物語」が存在しているかどうか知るために,テキストを手に入れられる限り入手しようと決めた.
(続く)

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2018年4月17日 (火)

母子草 (二)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
  前回の記事は《母子草 (一)
 
 植物の名前を文章中に書く時は,一般的に片仮名を用いる.ほとんどの植物名が成立したのは大昔のことだから,植物名を漢字で書く場合は正字 (旧字) を使用せざるを得ない.しかし正字で書くと読者は読めない場合が生じるので,片仮名で書くのが普通だ.(ちなみに,漢字表記をせずに片仮名を「カタカナ」,平仮名を「ひらがな」と書き分ける人がいるが,小賢しい工夫だと思う)
 
 さてハハコグサの場合は,漢字で母子草と表記することもよく行われている.これについて書かれたウェブコンテンツを検索すると,《この花なんだ【ハハコグサ】 》がヒットする.このブログ記事は調査が行き届いており,断片的なことしか記載されていない他のサイトを読む必要はなく,このブログ記事だけでハハコグサの名の謂れがよく理解できる.
 国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構の公式サイトに記載されているウェブコンテンツ《ハハコグサ (キク科) 》には
 
牧野富太郎博士によれば,茎の白毛が”ほおけ立って”いるので,「ハハケル」と呼ばれ,母子の字が充てられたとされました。また,古名ゴギョウ (御形) とは,平安時代の史徳天皇の祖母と父が相次いで亡くなったとき,不思議と野辺にハハコグサの姿がなかったとの故事によります
 
との記述がある.しかし文徳天皇を史徳天皇と誤記しているところを見ると,この資料の筆者は,どこかから誤情報をコピペしたに相違なく,従ってこの種の資料は信用に値しない.史徳天皇って誰だよ w
 おまけに《平安時代の史徳天皇の祖母と父が相次いで亡くなったとき,不思議と野辺にハハコグサの姿がなかったとの故事によります》としているが,これも意味不明な大嘘.御形は人形であるということを知らぬとみえる.平安時代の史徳 (w) 天皇の祖母と父が相次いで亡くなったとき,不思議と野辺にハハコグサの姿がなかった》ことがどうしてハハコグサを人形に見立てることに結びつくのか.馬鹿じゃないのか.
 そもそも植物名の語源に関して,植物学者である牧野富太郎博士を引っ張り出すところからして馬鹿であるが.w
 
この花なんだ【ハハコグサ】 》の記述は,本筋論の考察としてはそれでいいと思われるが,しかし waiwai さんの記憶にある母子草にまつわる物語に《この花なんだ【ハハコグサ】 》は全く触れていない.私が知りたいのは,母子草にまつわる物語の方なのである.
 ウェブ検索は難渋したが,waiwai さんの記憶が昭和三十年代に見た紙芝居によるものかも知れないことから,母子草と紙芝居の関係を検索したら手掛かりがあった.
 滋賀県で手作り紙芝居活動をされている「げんごろう」さんの作品一覧に母子草が登場するのである.
(続く)

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2018年4月15日 (日)

白川郷と雪中立往生の旅 (五)

(前回の記事は《白川郷と雪中立往生の旅 (四)》)
 
 翌朝,朝食後にロビーに集まったのは,ツアー一行の三分の一ほどであった.大部分の参加者は朝一番の新幹線で帰ったのだった.
 クラブツーリズムの小旗を右手で掲げたN澤は,不通の国道158号に突っ込んで降りしきる雪の中でバスを立往生させた自分の責任を微塵も感じていないと思われる明るい笑顔で言った.
「それでは長野駅まで御案内しまーす」
 
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 ホテルを出ると雪は上がって銀世界だった.
 この日の朝,長野市内は氷点下だったらしく,積もった雪は凍って,靴に滑り止めを装着するほどではないが,しかし慎重に歩かないと転倒してしまいそうだった.
 後で確認したのだが,この日の前夜の雪は長野市では久しぶりの降雪だったという.
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 長野駅のコンコースで添乗員N澤は,残留した十人ほどのツアーメンバーを前にして
「それではこのツアーはここで解散とします.お疲れさまでしたー」
と言い,足取り軽く改札口の向こうに消えていった.
 この無能にして無責任な男は,最後まで「私の判断ミスで御迷惑をおかけしました」と言わなかった.
「私のことは嫌いでも,クラブツーリズムのことは嫌いにならないでください!」とでも言うかと思ったのだが,言わなかった.
 近畿日本ツーリストの一部門としてスタートしたクラブツーリズムが旅行代理店として独立し,ここまで大きくなったのは,経営者も社員も優秀だったからだろう.しかしどんな組織にも,「権限がありません」を口実にして仕事をしない,仕事のできない社員が,いつの間にか紛れ込んでくるのは避けがたい.ほぼ定説となっているのは,駄目社員は二割だという話だ.この説に,私は実感として同意する.
 この説をツアー添乗員に適用すると,ツアーに五回参加すると,一回はN澤みたいな無能無責任添乗員にぶち当たってしまうことになる.かなりの高率だと言わざるを得ない.
 旅行代理店によって色々だと思うが,クラブツーリズムの場合は,申込時点で希望しておけば,旅行前に添乗員が電話で連絡 (挨拶) をしてくれる設定のツアーがある.あるいはツアーの担当部署に電話で添乗員の名前を訊ねるかして,今後は事前に添乗員がN澤でないことを確認しておくことにする.海外旅行の場合,添乗員にでたらめな仕事をされて「延泊のホテル代と帰りの航空運賃はお客様各自の御負担となります」と言われたら困るからだ.
 この白川郷ツアーでは腹立たしい思いをしたが,これをもってクラブツーリズムのツアーを全否定する気はさらさらない.
 実はこの白川郷ツアーに参加する前に,クラブツーリズム催行の台湾ツアーを申し込んでいた.そのツアーの女性添乗員さんは語学堪能にして性格は明るく有能で,彼女が独身であったら,うちの息子の嫁にしたいと思ったくらいである.w
 というわけで,この旅行記はクラブツーリズムを非難するものではないことを記しておく.
 
[補遺]
 さてツアーが長野駅で解散したあと,私は善光寺に参詣することにした.
 実は私はこれまで長野市に一度も来たことがなく,仕事をリタイアしたあとずっと,この国に生まれたからには死ぬまでに一度は善光寺にお詣りしたいものだと思ってきたのである.
 もしかすると西日本での善光寺の知名度は高くないかも知れないのだが,東日本では江戸時代から「一生に一度は善光寺詣り」とまで言われた大名刹なのである.
 ひょんなことから長野市にやってきて,善光寺にお詣りすることになったは御仏のお導き,何かの御縁かも知れぬ.これを江戸時代から「牛に引かれて善光寺詣り」という.いわないか.
 白川郷ツアーでは無能添乗員のせいで一万五千円ほどの余分な出費を強いられてしまった.しかしこれとは別に善光寺詣りをしたとすれば,なにがしかのお金はかかるわけだから,まあ元は取れたと言えなくもない.
 
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 駅前の広場には鳩が寒そうに寄り集まってじっとしていた.広場には駅前バス停があり,そこの案内板を読んだら,suica を始めとする全国区のICカードは使えないと書かれていた.あとで調べると KURURU という長野市内のバス会社 (長野電鉄,アルピコ交通,市営バス) 共通のICカードがあるのだった.
 
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 この KURURU は交通系ICカードのネットワークに背を向けているため,コンビニなどでは使えない.バス以外に使い道のない単なるバスカードである.どうしてこんなものを作ったんだろう.観光客や市民へのサービスのことは念頭にないのだと思われる.
 
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 お詣りしたあと,寺域から参道 (仲見世通り) に出た所の角に「九九や旬粋」というしゃれたお店があり,その二階にカフェがあったので寄ってみた.
 
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 アールグレイをオーダーし,紅茶が運ばれてくるまで暫くの間,二階の窓から善光寺を眺めた.雪をかぶった建物や樹々はとても美しかった.
 長野市は北信濃だから雪国のイメージがあるけれど,カフエのマスターに訊いたら,長野市内ではこの冬は大雪は降っていないとのことだった.
 
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 カフェを出て仲見世通りを少し下ると蕎麦屋「かどの大丸」が店を構えていたので,ここで昼食を摂った.
 糖質制限中ではあるが,信州信濃の善光寺まで来て蕎麦を食わない法はないだろうと思ったのである.ところがこの店の天ぷら蕎麦は,天ぷらは上手に揚げられていたけれど,蕎麦そのものは大した出来ではなかったのが残念だった.これが善光寺門前の蕎麦の水準じゃないよね,と思ったことである.
(了)

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2018年4月13日 (金)

白川郷と雪中立往生の旅 (四)

(前回の記事は《白川郷と雪中立往生の旅 (三)》)
 
 さて菅沼集落の近くにある郷土料理店で昼食を摂ったツアー一行は,バスに乗り込んで帰路に就いた.松本までバスで行き,そこから「あずさ」で新宿へ向かうのである.
 五箇山からは東海北陸自動車道で飛騨清見まで行く.そこから中部縦貫自動車道で高山へ.そして高山から国道158号に入ったところで土産物店に立ち寄り,買い物とトイレ休憩をした.
 この時,チャーターしたバスのドライバーに会社から連絡が入った.国道158号でトラック数台が衝突横転する事故が発生し,現在不通になっているというのである.この日,中部地方から関東にかけて東日本の山岳地帯は大雪に見舞われていた.トラックはおそらく雪のせいで運転を誤ったのだろうと想像された.
 ドライバーはツアー添乗員のN澤にそれを告げたが,N澤は別段驚く様子もなく,予定通り,雪降りしきる国道158号へ出発を指示した.
 私はバス後方の席で,隣に座った中年男性と「おいおい大丈夫かよ」と話し合った.
 その男性は「真冬の山ん中の一般道で事故ったら復旧はかなり大変ですよねー.警察も消防も事故現場に来ること自体がすごい大変ですもん」と言った.以前同様の状況に見舞われたことがあるのだそうだ.
 私も彼に全く同意で,N澤添乗員に不信感を抱いたのだが,果たして程なくしてバスは渋滞に突入し,それから先に進めなくなった.そしてバスは立往生したままやがて日が暮れた.それでも前方から引き返して来る車があるせいか,時たまノロノロと進むことはあり,そうこうする内に前方にドライブインがあったので,何とか駐車場にバスを入れた.一行はもう何時間もバスに閉じ込められていて,なんとしてもトイレ休憩が必要だったのである.
 
 N澤添乗員はツアーの一行にこう言った.
「渋滞で止まっている車がいつ動きだすかわからないので,トイレを済ませたらバスの中で待機してください」
 私たちはN澤添乗員の指示通りシートに腰かけたまま待機し,疲労のうちに時間がじりじりと経過した.
 ツアーメンバーの一人が「おなかがすきました.ここのドライブインのレストランで何か食べてきてもいいですか」と言った.
 N澤添乗員もさすがにダメだとは言えず,食べたらすぐ戻ってくださいねと言った.しかしレストランに行った私たちは食事をせずすぐにバスに戻ることになった.
 誰でも腹はすく.駐車場で車に閉じ込められていたたくさんの旅行客たちは,とっくに夕食を済ませていて,そのためレストランには食材がなくなり,全品完売で営業終了していたのである.
 それどころか,パンも菓子も売り切れていた.N澤添乗員がバス内待機を指示したおかげで一行は夕飯を食い損ねたのであった.
 私は仕方ないから酒でも買って飲もうとした.しかし,世の中にそんなドライブインが存在するのかと驚いたことに,そして不運なことに,このドライブインは酒類を販売していないのだった.
 
 落胆した私はバスに戻り,また暫く時間が経過し夕刻六時を回った頃,N澤添乗員がこう言った.
「予約していた〈あずさ32号〉には乗れないことが確実になりました.このツアーは松本ではなく長野駅から新幹線の自由席で東京に帰ることにします」
 この頃,ようやく事故現場は復旧したらしく,車の列は少しずつ動き始めた.しかしノロノロ運転であることは変わりなく道路は渋滞したままであった.
 遂に夜八時を過ぎたとき,何事か携帯電話で話をしていたN澤添乗員が言った.
「もう新幹線の最終にも間に合いません.会社と相談しましたが,このツアーは今夜,長野市内のホテルに一泊して,翌朝の新幹線で東京に帰ります」
「ホテルはJALシティ長野が予約とれました.つきましては,宿泊費と帰りの新幹線代は皆さん各自の御負担となります」
 
 ツアー参加者から「えーっ」という声が上がった.
参加者「わたしそんな余分のお金,持ってきてないです」
参加者「わたし,明日は予定があって今日中に帰らなくちゃだめなんです」
参加者「そもそもさー,国道が通行止めになった時点で富山に引き返してバスで迂回するなり富山から新幹線に乗れば,今日中に帰れたはずだよ」
N澤「あの時点では,ツアーコースの大幅な変更はできなかったんです」
私「どうして?」
N澤「私はクラブーツーリズムの正社員じゃなくて派遣社員なんです」
私「それがどうしたの?」
N澤「派遣にはそういう権限がないんです」
私「会社の中での派遣の権限のことなんか私たちには無関係だ.派遣だろうが正社員だろうが君はクラブーツーリズムを代表してここにいるんだよ,そうじゃないかい?」
N澤「ま,とにかくお金を集めます」
 
参加者「ホテル代を払ったら,わたしもうお金ないです」
N澤「クレジットカード持ってませんか.カードで切符買えますよ.やり方は教えてあげますから大丈夫」
 
 私の隣の中年男性が「カードがあれば大丈夫って,悪徳業者丸出しですね」と囁いた.私は苦笑しつつ「ほんとだね」と同意した.
 
私の近くにいた参加者「あのー,領収書ください」
N澤「領収書は出せません」
私「どうして?」
N澤「ホテルの予約は団体で取りましたから,一人一人に領収書は出せないのです」
私「あのさ,領収書がだめなら君がサインした手書きの預かり書でいいよ.ひとからお金を集めたら,トラブルにならないよう領収書なり預かり書を出すのが社会の決まりだ」
N澤「私が個人的に預かり書は書けません」
私「どうして?」
N澤「派遣社員にはそういう権限がないんです」
私「……もう話にならんな」
 
 そんなやり取りをしているうちにバスは長野市内に到着した.そしてバスはコンビニに立ち寄り,腹をすかせた参加者たちは弁当を買い,ホテルに着いてチェックインした.
 ロビーでN澤は言った.
「明日の朝は八時にロビーに集合してください.まとまって長野駅まで御案内します」
 
 私の隣席にいた中年男性は私に耳打ちした.
「私は明日,目が覚めたらすぐにツアーを離脱して帰ります.こんなアホな添乗員に付き合ってられません」
 私は「そうですか.お疲れさまでした」と言い,彼と別れて部屋に入り,コンビニで買った酒をあおってから寝た.
(続く)

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2018年4月12日 (木)

母子草 (一)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
 感動というか,心を打たれる出来事というのはあるもので,最近あったその種のことを一つ.
 
 私の古くからのネット上の知人である waiwai さんのブログに,以下に引用する記事がある.(引用元の記事にはハハコグサの画像があるがその引用は略した)
 
2007.04.08 19:21
ハハコグサ (母子草)
子どものころから見慣れた花なのに、なかなか思うように姿をとらえられないでいます。
ところで、この草にまつわる母娘の悲しい物語をご存知ないでしょうか。
幼いころ、絵本で見たのか、紙芝居だったのか、それとも誰かが物語ったものなのか・・・。
生き別れの母娘、盲目の母、母か娘が流した涙が土に落ちて、そこからハハコグサが・・・断片的な記憶をつなぎ合せてみるのですが、どうも肝心なところがおぼろです。
結末はハッピーエンドなのか、それとも・・・。
 
 この記事をネット検索の結果で探し出し,ユウタパパというかたが以下のコメントをお書きになった.
 
突然失礼致します。訳あって母子草のお話を探しており、このページにたどり着きました。正しくこのお話なのですが、どうしても見つけられず、他にご存知な情報はないかと書き込みさせていただきました。おちょうという娘がどこからか家に帰る所なのですが、日が落ちて湖の表は暗くなり、足もともよく見えなくなりました。ところがお母さんが娘を思って毎日湖のそばまで行き弁天さまにおいのりをして帰る道で涙を流し続けた結果、涙の花の道ができ、その花に案内されて暗い夜道を迷わず家にたどり着くことができ、お母さんの涙の花、その花づたいに来た娘、親子のつきないゆかりの花として、世間の人はその花を母子草と名付けたというお話です。
古い記事に突然のご質問お許しください。何か他に思い出されたら教えて頂けると嬉しいです。
投稿:ユウタパパ | 2018.04.08 21:34
 
 記事とコメントの日付を見て私は感動した.ちょうど十一年を経た同じ四月八日である.時刻も二時間ほどしか違わない.ユウタパパさんがあと二時間と十三分,早く書き込んでくれていたら,あまりの偶然に私は驚いて椅子からころげ落ちただろう.
 このお二人とのやり取りは元記事のコメント欄に譲るが,そんなわけで今,ハハコグサの和名にまつわることを勝手連的に調べている.
 
 さて waiwai さんの疑問は二つのことを含んでいる.
 一つはハハコグサの名の謂れの詳細.もう一つはその記憶の元が何なのか,例えば絵本なのか,紙芝居なのか,耳から聞いた話であったのか,ということである.
 あと一週間もすれば,取り寄せ中の資料が手元に揃うので,そうしたら調べの結果を書きたい.

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2018年4月11日 (水)

白川郷と雪中立往生の旅 (三)

 五箇山地方に行ったら,先ずは国指定重要文化財である村上家住宅を訪れてみるものだそうである.というのは,村上家住宅は,作られて以来,内部が改造されておらず,合掌造りの古い様式を今に伝えているからだという.もちろん近代的な生活をするために水廻りなどの改造はされているだろうが.
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 私たちのツアー一行は村上家住宅の中に入り,他の団体客と一緒に,村上家御当主による五箇山民謡「こきりこささら踊り」を鑑賞した.
 
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(囲炉裏の手前に,馬蹄形に置かれているのが打楽器「ささら」である)
 
 次に私たち一行は五箇山菅沼集落に向かった.
 白川郷と五箇山で世界遺産を構成しているのだが,五箇山の合掌造り集落には二つの集落 (相倉と菅沼) がある.またこの集落から少し離れたところに前記の国重文村上家の他に同じく国重文の岩瀬家と羽場家がある.
 で,菅沼集落だが,ここには二つの観光施設,「五箇山民俗館」と「塩硝の館」がある.塩硝は古くは煙硝もしくは焔硝と書き,硝酸カリウムのことである.これはかつて五箇山地域の地場産業であった.
 
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 Wikipedia【硝石】に次のように書かれている.
 
戦国時代の鉄砲伝来以降、欧州系の火器の伝来とともに南蛮貿易による東南アジアからの硝石供給の道が開け、日本は大陸のアジア諸国に一足遅れて火器の時代に本格参入することとなった。当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化への試みが始まる。こうして古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する方法が発見される。また加賀国や飛騨国などでは「培養法」という、サクと呼ばれる草や石灰屑、蚕の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産するようになったが、この方法は軍事機密扱いされて産地は五箇山など秘密を保ちやすい山奥に限られ、他の地方に伝えられなかった。
日本では幕末まで、主に古土法で硝石を得ていた。古土法による生産量は少なかったが、江戸期に入って社会が安定したことにより火薬の需要が減り、国内での全需要を古土法で賄えるようになった。幕末期になると、日本にも硝石丘法が伝来した。しかし既に1820年ごろ、チリのアタカマ砂漠において広大なチリ硝石の鉱床が発見されており、安価なチリ硝石が大量に供給されるようになっていた。また火薬そのものも進化し、硝石を原料としない火薬に需要が移ったため、土から硝石を得る硝石生産法は、やがて全く姿を消した。
 
 上はちょっと長い引用だが,要するに加賀国と飛騨国では,黒色火薬の原料である硝石 (硝酸カリウム) を短期間に製造できる「培養法」(これは後世の近代科学の用語だが) が開発されたが,この製法は技術秘匿に適した五箇山でのみ行われ,他国に伝えられることはなかった.
 全国的には,製造に時間のかかる「古土法」で硝石が作られていたが,火薬の需要が減少した江戸期にはそれで間に合った.幕末にはまた火器のための火薬需要が増大したが,これには安価に輸入できるチリ硝石が用いられ,国産硝石が出る幕はなかった.
 さらには,1884年 (明治十七年) にフランス人のポール・ヴィエイユはB火薬と呼ばれる無煙火薬を発明した.この火薬は近代的なライフル銃の弾薬として最適な特性を有しており,これ以後,火器は長足の進歩を遂げていく.
 日本では,陸軍卿大山巌が欧州視察の際にこのB火薬をフランスから少量贈与されて帰国し,その後これを研究して1893年 (明治二十六年) に板橋火薬廠にて日本における初めての製造が行われた.
 この国産無煙火薬を初めて用いた軍用銃が1889年 (明治二十二年) 制式採用の二十二年式村田連発銃 (Wikipedia【村田銃】参照) であった.
 二十二年式村田連発銃 (正式名称「明治二十二年制定大日本帝國村田連發銃」) の開発以後,国産火器に黒色火薬が使用されることはなく,軍用硝石製造の意味はなくなった.
 こうして,五箇山の山奥で生まれた培養法による塩硝製造は,遂に他藩に知られることなくひっそりと姿を消した.現在,五箇山の塩硝製造の歴史を伝えるものは,菅沼の「塩硝の館」ただ一つであるという.
 後年,培養法による塩硝製造を復活すべく試みた人がいたらしいが,成功しなかったと聞く.一つの発酵生産技術の根幹は,それに使用される微生物そのものである.一旦失われた発酵生産技術は,古文書を読んで再現できるというような簡単なものではない.
 
 さて菅沼集落には「五箇山民俗館」と「塩硝の館」以外に,見るべきものがあるかというと,なーんにもないのである.あるのは合掌造りの土産物屋と飲食店,少し歩いたところの合掌造りの宿泊施設だ.五箇山も白川郷同様,見事にテーマパーク化している.我が国における世界遺産というのは,要するにこういうものなのであろう.
 
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(続く)

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2018年4月 9日 (月)

白川郷と雪中立往生の旅 (二)

 前回の記事は《白川郷と雪中立往生の旅 (一)
 クラブツーリズムの一人参加限定ツアー「ひとり旅」に参加する爺さん婆さんは,性格が悪いから一緒に旅行するような友達がいないのだろう,などと言う人がいる.だが,そんなことはないんじゃないか.その証拠に,私の性格は大変に良い.また,これまで私が参加した「ひとり旅」の参加者はみんな明るい感じのいい人たちだった.
 何年か前に,会社で同期だった連中と旅行した際に,ツインルームに同室になった奴がとんでもない爆音鼾男で,私は一睡もできなかった.私はそれ以来,相部屋の旅行は絶対に行かないと決めた.
 その轟音鼾男は自分の鼾がどれほど酷いものか自覚していない (自分の鼾で目が覚めないというのが信じられない) ようだったが,逆に自覚している人は会社の親睦会などの団体旅行には参加を躊躇せざるを得ない.私が会社で研究所長をしていた頃,社員旅行の際に幹事が「いびき部屋」を企画し,鼾をかく数人の社員を一部屋に集めたことがあった.しかしこれが裏目というか,ものすごいことになって,隣の部屋の者も眠れなかった.
 鼾をかく人でも,ツアーには一人部屋追加料金を払えば参加できるが,しかし自分以外のツアーメンバー全員がグループ参加だったりすると,ちょっと疎外感を味わうことになる.そんな事情があったりする場合は,一人参加限定ツアーはとてもありがたいだろう.「ひとり旅」に人気があるのは,こんなことも小さな一つの要因かも知れない.
 
 さて,ツアー『世界遺産・五箇山の合掌造りで郷土料理の昼食 白銀の世界遺産「白川郷ライトアップ」2日間』の二日目である.
 前夜は白川郷からバスで富山市に移動して一泊した.
 二日目の観光の目的地は,白川郷と共に世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」である五箇山だが,その前に富山市内にある「池田屋安兵衛商店」に立ち寄った.和漢薬の販売店である.
 私が小学校低学年の頃,つまり昭和の中頃までは一般家庭には「置き薬」の箱があった.この箱の中に入っていた内服薬や外用薬など各種家庭薬を堅苦しい言葉では「配置薬」と言った.一種の救急箱のようなものであるが,家庭の持ち物ではなく,配置薬を販売する業者 (医薬品医療機器等法第25条第2号,第30条~第33条に規定されている無店舗販売業者である) のものであった.
 家庭用医薬品の歴史は,古く室町時代に遡る.堺の商人であった万代掃部助 (もずかもんのすけ) が唐人から「反魂丹」の処方を学び家伝薬としたのが始まりとされる.
 万代家はやがて備前に移り住み,反魂丹を広めた.伝承によれば,富山十万石の二代目藩主前田正甫公がある日腹痛を起こしたが,正甫公はこの時,備前の反魂丹を服用して快癒した.そこで公は天和三年 (1683年) に備前から万代家十一代目万代常閑を越中に招聘し,常閑から反魂丹の処方を学び,これを基に独自に調合した越中反魂丹を常時携帯したという.
 Wikipedia【富山の売薬】には次のように記述されている.
 
17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬富山反魂丹 (はんごんたん) が開発された。これが富山売薬の創業とされる。しかし、この頃既に反魂丹は存在し、生産の中心地は和泉国(現在の大阪府)であった。1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した、とされる「江戸城腹痛事件」という巷談がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった、とするが、この腹痛事件に史料的な裏付けは無い。ともあれ正甫は領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を保護し、産業奨励の一環として売薬を奨励した。このことが越中売薬発生の大きな契機となった。
18世紀になると売薬は藩の一大事業になり、反魂丹商売人に対する各種の心得が示された。この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因であるとされる。藩の援助と取締りを行う反魂丹役所、越中売薬は商品種類を広げながら次第に販路を拡大していった。
 
 上の引用中の《しかし、この頃既に反魂丹は存在し、生産の中心地は和泉国(現在の大阪府)であった》は,万代掃部助の反魂丹を指しているのだろが,「生産の中心地」は大げさのように思う.
 明治維新後,富山藩の反魂丹役所は廃藩置県のために廃止されてしまったが,当時の富山町の売薬業者が相寄って明治九年に「富山広貫堂」を設立した.これが現在の株式会社広貫堂である.広貫堂は今も「胃腸反魂丹」を製造販売していて,これが越中反魂丹の嫡流ということになるのだろうが,処方はたぶん昔とは異なるだろう.
 
 さて私たちがツアーで立ち寄った池田屋安兵衛商店だが,同店の公式サイトによると昭和十一年の創業で《池田屋安兵衛商店は戦後まもなく薬の製造を始め、越中反魂丹を現代の人々にも通用する新しい形の和漢薬として復活させ、その精神を今に引き継いでいます》のだという.つまり反魂丹といっても,万代家の処方,前田正甫の処方,広貫堂の処方,そして池田屋安兵衛商店が戦後に考案した処方等々色々なものがあるわけだ.
 
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 この池田屋安兵衛商店では,丸薬を丸める道具を店内に設置して,観光客に昔ながらの丸薬の製法を実演して見せている.
 
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 実演を見学したあと,店の人が「やってみますか?」と言うので丸薬作りをやらせてもらった.昔,正露丸くらいの丸薬を作ったことはあるのだが,仁丹クラスの小さな丸薬はコツがいるようで難しいと感じた.
 ツアーにお買い物は付き物で,私はこの店で反魂丹を話のネタに買ったのだが,予想したより遥かに高かった.もったいないから腹が痛くても服用しないようにする.w
 
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 反魂丹を土産に買ったあと,バスでいよいよ五箇山に向かった.
(続く)

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2018年4月 8日 (日)

大丈夫か半藤一利 (三)

 前回の記事《大丈夫か半藤一利 (二)》の末尾を再掲する.
 
以上述べたように,日本が戦前戦中,外地つまり朝鮮と台湾から移入していた米はジャポニカ種だった.しかるに半藤一利は《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》と対談で語った.外地米はインディカ種だったというのである.
 ここで,昨日紹介した海野洋氏 (公益財団法人農林水産長期金融協会専務理事)《「開戦・終戦の決断と食糧」について―軍・外地を含めた大日本帝国として―に戻る.
 この講演録に重要な資料が書かれている.
 
 この講演録の冒頭に,講演会主催者による「解題」が掲載されている.
 そこに,講師である海野洋氏の経歴 (略歴は;昭和五十年に農林省に入省,東北農政局長を最後に農水省を退官,その後は農業・食品産業技術総合研究機構副理事長,東北大学大学院法学研究科教授を歴任して現在は農林水産長期金融協会専務理事) と,本講演は海野氏の著書『食糧も大丈夫也―開戦・終戦の決断と食糧』(農林統計出版,2016年) をベースにしたものであると書かれている.
 私は,自分が生まれて人生の半分を生きた昭和という時代を理解してから死にたいと思っている.この講演録を読んで私は,『食糧も大丈夫也―開戦・終戦の決断と食糧』は必ずや昭和史に関する骨太の論考であるに違いないと確信し,高価な書籍であるが Amazon に出品されていた古書を注文した.
 余談だが,私が定年まで勤めた会社で営業畑の副社長だったNという男は,まことに教養のない人間で,こいつは本なんか読んだことがないんじゃないかと思われた.社員に対する訓示はゴルフのことばかりであった.
 この馬鹿者が引退するとき,これからは読書の日々を過ごしたい,半藤一利を読んで昭和史を研究したい,と語った.
 私はそれを聞いて耳を疑った.本を読まない人間はこれだから困る.半藤一利の書く昭和史は歴史書ではない,文学作品だぞ,と.
 歴史を題材にとった小説は文学の大切な一ジャンルである.ただし読者は,歴史小説は歴史書でもノンフィクションでもないことを承知して読む必要があるのだ.
 閑話休題.
 海野洋氏の講演録にある重要な資料とは次の表である.
 
○仏印・泰からの米輸入
   内地の米需給
              (単位:万石)
----------------------------------------
米穀年度      昭和14    昭和15
----------------------------------------
前年度持越高     849     406
前年産米実収高   6,567    6,896
朝鮮米        569      40
台湾米        396     278
内外地合計     8,402    7,620
輸入米         16     799
供給合計      8,417    8,419
----------------------------------------
輸移出高        77      94
消費高       7,934    7,889
うち 農家保有   2,946    3,023
   軍民需配当  5,021    4,786
需要合計      8,011    7,983
----------------------------------------
翌年度持越高     406     436
 
 ここで上表についていくつか註をつけておく.
1. 仏印はフランス領インドシナ (現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域)
2. 泰はタイ.
3. 米穀年度は前年11月1日から当年10月31日まで.
 
(続く)

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高遠桜 (二)

 高遠桜 (一) をアップしたのは四月四日だ.
 現地からの開花情報によると高遠城址公園の標準木が咲いたのは一日だから,例年なら八日あたりに満開のはずだったが,翌日の五日には満開宣言が出て見頃になってしまったという.
 昨日の七日は「引き続き満開」と書いてあった.高遠の桜は毎年,散り始めから散り終わりまでは四日間なので,今日から散り始めたとすると,私が高遠に行く予定の今週木曜日の十二日には散り終わっている可能性が濃くなった.開花は例年よりかなり早く,開花から散り終わりまでの期間も短い.
 去年の会津,三春に続いて今年もまた敗けた.今日は駅に切符の払い戻しをしに行かねばならない.うう.

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2018年4月 7日 (土)

大丈夫か半藤一利 (二)

 昨日の記事《大丈夫か半藤一利 (一)》の末尾は《ここで問題は「外地」とは何か,そして「外地米」は半藤 一利が言うようにインディカ種なのか,ということである》だった.
 まず「外地」の意味から調べてみよう.
 Wikipedia【外地】に以下の記述がある.
 
外地(がいち)とは、戦前の日本において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。
概要
外地(属領)は一般に国外の地を指し、日本では日本固有の領土以外に、第二次世界大戦終結までの日本が領有していた地域を指す。
具体的には以下の地域である。
台湾
樺太
関東州
朝鮮
南洋群島
樺太は1918年に準内地的扱いとなり、1943年に内地に編入された。
第二次世界大戦中に日本軍により占領された区域は法的に領有されたものではないが、満州国や中国各地の日本人租界、中南米やハワイなど移民先を含め、日本領土以外で日本人社会が形成されている領域を含め外地と呼ぶこともあった。行政用語としては用語「外地」は慣例的なものであり、立法上明確に定義されたものではなかった。
 
 Wikipedia【内地】はどうかというと,こちらは明解で
 
日本における内地(ないち)とは、大日本帝国憲法下の日本において、行政上日本本土(本国)とされる地域で、その範囲は共通法1条に定義されている。なお、共通法で内地に含まれない台湾・朝鮮・関東州・南洋群島がいわゆる外地である。
 
としている.
 私のこの記事は,半藤一利が宮部みゆきさんに語った《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》に関する検討であるから,米作に無関係な関東州と南洋群島および《中国各地の日本人租界、中南米やハワイなど移民先を含め、日本領土以外で日本人社会が形成されている領域》は除外する.
 かつての満州国,すなわち現在の中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる遼寧省,吉林省,黒竜江省の三省はどうかというと,この地域はジャポニカ種の米作地帯であった.しかし戦前の統計資料に満州国からの米の輸入実績はない (後述).満州は雑穀が主たる農作物だったから米の生産量が内地に供給できるほどなかったのか,仮に供給できたとてもその米が日本人の味覚に合わなかったのかは不明である.
 以上をまとめると,半藤が言うところの《外地米》は台湾と朝鮮で生産された米ということになる.
 ところが朝鮮半島で栽培されているのはジャポニカ種なのである.台湾ではインディカ種とジャポニカ種が両方栽培されているが,戦前戦中に台湾から移入 (日本領土だったから輸入とは言わなかった) された米は確実にジャポニカ種である.
 現在の日本で,エスニック料理店でインディカ種の米を口にする機会はあるだろうが,インディカ種の米の調理法を知っている (調理できる) 日本人は稀だろう.従って日本の家庭でインディカ米を調理して食べることはまずない.
 少し横道に逸れるが,宮部みゆきさんが対談で触れた平成五年の米不足騒動について Wikipedia【インディカ米】には次のように書かれている.
 
1993年 (平成5年) は記録的な冷夏で、国内産の米は需要1000万トンに対し収穫量が800万トンを下回る大不作となった。日本政府は米の緊急輸入を行う必要に迫られ、1993年12月、GATTのウルグアイ・ラウンド農業合意を受け入れ、米以外の農産物は関税を課して輸入を認めることを決定した。米については国内農業への配慮から特例として輸入制限を維持したが、代償として最低、国内消費量の4%(のち8%に拡大)を輸入する義務を負った。同年、タイや中国から大量のインディカ米が緊急輸入されたが、前述のとおり日本人の嗜好や伝統的な調理法に合わないことから消費は伸びず、事態終息後にも約100万トンものインディカ米の在庫が残り、投棄されたり家畜の飼料にされて処理された。
 
 当時,私はインディカ米の調理方法を知っていたので,インディカ米が入手しやすくなったことをむしろ喜んだ.だが米といえば炊飯器で炊くことしかやろうとしない人々は,タイ米を悪し様に罵った.テレビや新聞が,タイ米の調理方法を紹介したのにも関わらず,それをせずに「人間の食い物じゃない」とまで言う者もいた.
 他国や他民族を理解する一つの方法は,その人々の日常食を食べてみることだ.その人々の食材,スパイス,料理方法を知ることだ.
 なのに多くの日本人はタイ米を食べようとしなかった.若い人たちも,戦前生まれの世代同じく《私は内地米が食べたい》だったのである.
 この日本人の食に関する偏狭さは,今に始まったことではない.夏目漱石は『坑夫』で次のように書いている.
 
飯の気けを離れる事約二昼夜になるんだから、いかに魂が萎縮しているこの際でも、御櫃の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元のどもとまで詰め寄せて来た。そこで、冷かしも、交まぜっ返しも気に掛ける暇なく、見栄も糸瓜も棒に振って、いきなり、お櫃からしゃくって茶碗へ一杯盛り上げた。その手数さえ面倒なくらい待ち遠しいほどであったが、例の剥箸を取り上げて、茶碗から飯をすくい出そうとする段になって――おやと驚いた。ちっともすくえない。指の股に力を入れて箸をうんと底まで突っ込んで、今度こそはと、持上げて見たが、やっぱり駄目だ。飯はつるつると箸の先から落ちて、けっして茶碗の縁を離れようとしない。十九年来いまだかつてない経験だから、あまりの不思議に、この仕損を二三度繰り返して見た上で、はてなと箸を休めて考えた。おそらく狐に撮まれたような風であったんだろう。見ていた坑夫共はまたぞろ、どっと笑い出した。自分はこの声を聞くや否や、いきなり茶碗を口へつけた。そうして光沢のない飯を一口掻込んだ。すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった。
「面あ見ろ。いい様だ」
と一人が云うと、
「御祭日でもねえのに、銀米の気でいやがらあ。だから帰れって教えてやるのに」
と他のものが云う。
「南京米の味も知らねえで、坑夫になろうなんて、頭っから料簡違えだ」
とまた一人が云った。
 自分は嘲弄のうちに、術なくこの南京米を呑み下した。一口でやめようと思ったが、せっかく盛り込んだものを、食ってしまわないと、また冷かされるから、熊の胆を呑む気になって、茶碗に盛っただけは奇麗に腹の中へ入れた。全く食慾のためではない。昨日食った揚饅頭や、ふかし芋の方が、どのくらい御馳走であったか知れない。自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである。
 茶碗に盛っただけは、こう云う訳で、どうにか、こうにか片づけたが、二杯目は我慢にも盛う気にならなかったから、糸蒟蒻だけを食って箸を置く事にした。このくらい辛抱して無理に厭なものを口に入れてさえ、箸を置くや否や散々に嘲弄された。その時は随分つらい事と思ったが、その後日に三度ずつは、必ずこの南京米に対わなくっちゃならない身分となったんで、さすがの壁土も慣れるに連れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳に向って逡巡した当時がかえって恥ずかしい気持になった。坑夫共の冷かしたのも万更無理ではない。今となると、こんな無経験な貴族的の坑夫が一杯の南京米を苦に病むところに廻合わせて、現状を目撃したら、ことに因ると、自分でさえ、笑うかも知れない。冷かさないまでも、善意に笑うだけの価値は十分あると思う。人はいろいろに変化するもんだ。
 
 『抗夫』は実在の人物から聞いた話を基にした漱石としては異色の作品である.漱石がここに書いているように,明治以来,南京米つまりインディカ米は最底辺の人々の食べるものだった.《飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった》はおそらく漱石の実感でもあっただろう.しかし漱石は《さすがの壁土も慣れるに連れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳に向って逡巡した当時がかえって恥ずかしい気持になった》とも書いている.さすが漱石,と言うべきだが,当時の日本人が,インディカ米本来の調理方法を学んでいれば,『抗夫』の主人公は壁土などと思わずに済んだかも知れない.
 話を元に戻すと,このように日本人はジャポニカ米しか《人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味》と認めないから,かつて台湾から移入していた米はジャポニカ種だと断定できる.
 以上述べたように,日本が戦前戦中,外地つまり朝鮮と台湾から移入していた米はジャポニカ種だった.しかるに半藤一利は《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》と対談で語った.外地米はインディカ種だったというのである.
 ここで,昨日紹介した海野洋氏 (公益財団法人農林水産長期金融協会専務理事)の講演《「開戦・終戦の決断と食糧」について―軍・外地を含めた大日本帝国として―》に戻る.
 この講演録に重要な資料が書かれている.
(続く)

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2018年4月 6日 (金)

閲覧御礼

 本日の記事《大丈夫か半藤一利》をアップして改行位置などを確認するためにこのブログを開いたら,ちょうどページビューカウンターが140000でした.
 ネットの片隅でささやかな閲覧数獲得ですが,御閲覧を頂いた皆様に感謝申し上げます.
Pageview140000

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大丈夫か半藤一利 (一)

 私たちは事実でないことを事実だと思い込んでしまうことがある.(参考図書;榎本博明『記憶はウソをつく』祥伝社新書,2009年)
 自分の記憶が事実と異なることを資料などで知ったときのショックは大きい.
 妹尾河童が1997年に出版してベストセラーとなった『少年H』を読んで,妹尾と同世代の児童文学作家である山中恒は『少年H』の中に多くの事実と異なることが書かれていることを指摘して批判した.妹尾は『少年H』は記憶と体験に基づく作品であると主張したが,結局『少年H』の文庫化に際して山中の批判を受け入れた形になっている.
 私が想像するに妹尾河童は,自分の戦時中の記憶が戦後になってからの思い込みだとは露ほども思わなかったのではなかろうか.山中恒の批判を受けたあと,自分でも誤りに気が付いて妹尾河童は愕然としたと思われる.
 
 当代一番の人気作家である宮部みゆきさんと,「歴史探偵」を自称する作家の半藤一利との対談『昭和史の10大事件』(東京書籍,2015年) が文春文庫に入ったので読んでみた.
 対談の初めの辺りで,次のようなやり取りがある.
 

宮部 昭和一桁生まれの両親と話していると、あ、この世代の人たちは苦労したんだなと、ぽっと感じることがあります。
半藤 たとえば、どういうときに?
宮部 平成五年かな、お米が穫れなかった年がありましたよね。タイ米を大量輸入して、まあ何とかみんなで食べましょうって。そのときに母がね、「べつにいいよ。お米が買えないんだったら、パン食べてもいいし、うどん食べてもいいし、かまわないよ。そんな遠くまで買いに行かなくても。なんて言っててね。「でも、お母さん、外国のお米だっておいしいんだよ」と言ったら、「いいえ。私は内地米が食べたい」と言ったんですよ。
 内地米!? と思って。その言葉に、うちの母は昭和九年生まれなんですけど、ああやっぱり感覚的にはそんな時代の人なんだなって。
半藤 外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ。

 
 私は半藤の《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ》に強い違和感を覚えた.
 まず言葉の問題.半藤が言った「外地米」という言葉は日本語として別に誤りではない.外地で摂れた米だから外地米.そういう言い方も確かにあるので誤りではないが,一般には東南アジアなどから輸入されてきた《色が黒くて細長い》米,すなわちインディカ種の米は「外米」と呼ばれた.
 私の父母は亡くなって久しいが,父親は大正八年生まれで,海軍軍人として南方に従軍した戦争体験者であった.私の父よりも一世代下の半藤一利 (昭和五年生まれ) は終戦時には少年であり,実際の戦争は体験していない.母親は昭和元年の生まれで,半藤より少し年上であり,宮部さんの母上より一世代上であった.さて,私の両親だけでなく,彼らと同世代の近所の人々も,すべて会話では「外米」と言っていたというのが私の少年時代の記憶である.
 そういう記憶が私にはあるのだが,しかしここでこのブログ記事の書き出しの件に戻ると,ひょっとしたら私の記憶はウソをついているのかも知れないと思われたので調べを開始した.
 まずは百科事典から見てみよう. Wikipedia【米】に次の記述がある.
 
戦前は米も通常の物資と同じく市場経済に基づき取引されており、相場商品・投機の対象として流通に不安を来すこともあり、しばしば社会問題となった(米騒動、特に1918年米騒動参照)。太平洋戦争開戦に向けての戦時体制整備の一環として、1939年(昭和14年)4月に米穀配給統制法が交付され、米の流通が政府により管理されるようになった。なお、同年9月には戦時の物資不足に鑑み興亜奉公日が設定され、日の丸弁当が奨励されたものの白米は禁止されず、この時点ではまだ米不足は酷くはなかった。だが12月には厳しさを増し米穀搗精等制限令が出され、七分搗き以上の白米を流通に付すことは禁止、1940年(昭和15年)の正月はお餅すら白米は許されなかった。米不足は深刻となり、この年から中国や東南アジアからの輸入米いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられた。更に、日米開戦の2ヶ月後の1942年(昭和17年)2月には食糧管理法が制定され食糧管理制度が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった。米だけでなく、魚介類や野菜・果物も配給制になり、国民の栄養状態は極度に悪化していった。こうした食糧難に対して、江戸時代のかてものの研究に帰って、食用野草や昆虫食など非常食の工夫が盛んに試みられた。一方米食の習慣がなかった地域や家庭では、配給制になったことで米を食べる機会を得て、そのことが戦後の食生活の変革の一因となったとする指摘もある。
 
 ここでは「外地米」という言葉は使用されていない.東南アジアなどからの輸入米は《いわゆる外米》とされており,この Wikipedia 項目の編集者の見解は私の記憶と合致している.
 次に史料を探してみた.すると太平洋戦争当時に陸軍大臣の地位にあった畑俊六が書き残した日記「畑俊六日誌」に次のような記述があるという.(出典:公益財団法人日本農業研究所『農業研究』(別冊) 第4号 平成28年度日本農業研究所講演会記録;海野洋《開戦・終戦の決断と食糧」について―軍・外地を含めた大日本帝国として―)
 
農林当局の無能により何等手を打たず、結局外米300万石輸入を要求しあるが、これが為に外貨7千万円を必要とし、物動は【対前年度計画】75%に降下することゝなり、到底国防計画を実行するを得ず。企画院総裁より申出ありたるが外米を買ふことは反対も出来ず》(畑俊六日誌昭和15年5月31条)
 
 上に引用した通り,庶民だけでなく陸軍大臣も東南アジアからの輸入米を「外米」と呼んでいたのである.
 ただし繰り返すが,外地で穫れた米を「外地米」としても日本語として誤りではない.一般には「外地米」でなく「外米}という言葉が使われていたということである.
 ここで問題は「外地」とは何か,そして「外地米」は半藤 一利が言うようにインディカ種なのか,ということである.
(続く)

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2018年4月 5日 (木)

無知医者

 大昔の話をすると,医師と教師は聖職と呼ばれた.今時,学校の先生を聖職者だと思ってる人間はいないだろうが,医師は現在もやはり立派な職業であるだろう.
 私がかかりつけにしている内科医も,なかなかいい人で,私の健康相談に真摯に対応してくれる.話をしていると最新の医療技術や治療薬を教えてくれて,新しい論文に目を通していることがわかる.
 しかし世の中の医者が皆,日々勉強怠りない立派な人物であるかというとそんなことはない.どの世界にも馬鹿者はいて,例えば堺正章『世界一受けたい授業』などのテレビの系情報バラエティ番組に出演 (他に適当な表現が見当たらない) して,お笑い芸人やタレントを相手に健康に関する嘘情報を講釈する医者や管理栄養士がいるのはまことに情けない.
 その種の似非医者の一人に奥田昌子という内科医がいる.このインチキ医者は,たぶん専門分野の論文誌なんか読んでいないのだろうと思われ,去年は朝日放送『ビーバップ!ハイヒール』に出て無知を自ら暴露した.国立研究開発法人・国立がん研究センターの予防研究グループが実施している『多目的コホート研究』の成果「米飯摂取と糖尿病との関連について」(2010年に米国の論文誌に掲載された) を知らなかったのである.(この研究結果は一般にも報道されたのでよく知られている)
 この放送のあと,高雄病院の江部理事長にブログで間違いを指摘されて世間に恥を晒したのであるが,その後もへこたれずにトンデモ本を書きまくり,テレビに出てはしゃいでいる.
 奥田昌子の無知を示す文章《糖質制限は日本人には意味がない? 「人種差」からみた健康法の真実 》を例示しておこう.(この雑文が掲載されているのは講談社のサイトである)
 文章の冒頭からして呆れる他ない.こんなこと↓が書いてある.
 
間違った健康法が拡散中
皆さん、健康を守るために日頃から心がけていることはありますか。テレビで見た健康法を続けている人も少なくないでしょう。そんな皆さんにクイズです。次の三つのなかに間違った健康法があります。わかりますか?
 ①骨を強くするために牛乳や乳製品をつとめて摂取している
 ②筋肉をつけて基礎代謝を上げるため、ジムに通い始めた
 ③糖尿病予防やダイエットのために炭水化物(糖質)をひかえている
じつは、すべて間違いです。正確に言うと欧米人には有効でも、日本人には効果が期待できません。
いつまでも健康で若々しくありたいと願う気持ちに国境はありませんが、欧米の健康法が日本人にも同じように効くとは限りません。日本人と欧米人は体質が違うからです。
 
 この無知な女は,日本人は《筋肉をつけて基礎代謝を上げ》ても健康に効果はないというのである.理由は《日本人と欧米人は体質が違うから》だという.
 これ,実は基礎知識に欠ける奥田の勘違いと思われる.
 スポーツをする人にはよく知られていることだが,女性は筋肥大を起こしにくい.これには男性ホルモンの量が少ないことが関係していると言われている.もしかすると筋生理学で著名な石井直方氏 (東京大学大学院教授) の著作に,筋肥大とホルモンに関するエビデンスが書かれているかも知れないが,私は筋生理学分野の論文を読んで知識を得ているわけではないので,ここでは女性は筋肥大を起こしにくいという事実のみ記す.
 で,奥田は筋肥大に関する男性と女性の違いを,《日本人と欧米人は体質が違う》に脳内変換してしまったのだろう.
 
 奥田は《糖尿病予防やダイエットのために炭水化物(糖質)をひかえている》のも間違いだと言うのだが,今では糖尿病予防に糖質制限が有効であることを疑う医師はほとんどいなくなった.現在の論争点は,強い糖質制限を長期にわたって継続したときの安全性の問題である.
 ダイエットについては,ライザップがトレーニングと糖質制限の併用による方法を確立した.ライザップの方法は日本人には通用しないと,いくら奥田が主張したところで,事実は日本人に通用しているんだから仕方がない.
 糖質制限は日本人の糖尿病に無効だと奥田が思っているのなら,『世界一受けたい授業』なんぞに出ていないで,北里大学病院や東大病院に行って論争してくればいい.完膚無きまでに負けるだろうが.
 
 さて余談だが,奥田が書く雑文を読むと「人種差」という言葉が頻出する.もしもこの女の頭の中を覗くことができたら,これに「別」という語がくっついているような気がする.

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2018年4月 4日 (水)

高遠桜 (一)

 私の家の近所には桜並木があって,毎年,開花から散り終わりまで楽しむことができる.今は満開を少し過ぎて桜吹雪.道路は散った花びらに覆われている.
 それに,自宅から大船,北鎌倉,鎌倉のコースを二時間くらい歩くか,ほんの少しの時間をバスとか江ノ電に乗り,散歩がてら鎌倉を歩けば,あちこちで見事な桜を堪能できる.
 だからわざわざ花見に遠出するなんてことは必要ないのだが,それでも○○の桜は天下第一とか言われると,老い先短いのだから一目見ておこうかと思ってしまう.
 しかるに去年は,会津の桜も三春の桜も,それぞれ別のバスツアーを申し込んでいたのに,例年と開花期が大幅に違うとかで大外れだった.花見ツアーは難しいと後悔した.
 それでもう福島県はあきらめて,今年は信州高遠に行くことにした.ツアーではなく,ホテルや特急あずさ指定席などを自分で手配した.仮にキャンセルすることになっても,ツアーよりお金の被害が少ないから.
 先ほど高遠城址公園の桜情報を見たのだが,昨日あたりの夏みたいな陽気のせいで,ひょっとしたらまたまた大外れになるかも知れない.寒気団の南下を祈っている.

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2018年4月 3日 (火)

熟女

 私のささやかな家は狭かったのに子供が二人いたから,当然私は居所がなく (長く単身赴任だった=企業犯罪を社長に指示されたが拒否したため憎まれて地方の小さな事業所に二十年近くも島流しされた),そのため本の置き場がなかった.それで今から思うと必要な本をどんどん手放した.
 だから再読したくなった本は古本を買っている.
 先日,呉智英『ロゴスの名はロゴス』(メディアファクトリー,1999年) を読み直したくなって Amazon に注文したら,大変にきれいな本が届いた.奥付を見ると,初版第一刷である.きっと元の持ち主が大切にしていたものだろう.
 その31ページに,少女からのファンレターのことが書かれている.
 
「先生、こんどわたしとデートしませう」
  と書いてあった。
  私はコドモには興味がないから (熟女が好き)、「子守りはしません」と返事を出しておいたが
 
 この文章の初出は,たぶん『就職ジャーナル』の1995年2月号と思われる.その時代にもう「熟女」という言葉があったのか,と私は軽く驚いた.
 Wikipedia を調べると,1970年代に提唱された中高年の呼称「熟年」は解説されているが,「熟女」の起源は書かれていない.ただし,確認していないが三省堂『大辞林』には用例なしで載っているようである.
 熟女が「熟年」の派生語かどうかも不明だ.日本語にうるさい呉智英氏の他の著作に他の用例があるかも知れないが,「熟女」の起源を知ってどうなるというものでもないなあ.

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2018年4月 1日 (日)

トマトジュースと糖尿病

 昨日の記事で,カゴメ株式会社によって行われたところの,ネズミの肥満防止に効果のある物質が人間にも効果があるかの如く論じた愚かな研究について批判した.
 しかしさすがに食品業界の雄であるカゴメは,「ネズミの栄養学」ばかりを研究しているわけではない.今日の記事では,同社が実施した「ヒトの栄養学」について記そう.
 
 テレビの情報バラエティ番組を観ていると,トマトの成分であるリコピン (Wikipedia【リコペン】を参照のこと) が取り上げられることが多い.特に堺正章の『世界一受けたい授業』(日本テレビ) は何故かリコピンをぐいぐいと推してくることで知られる.
 日本における「健康に良いトマト」イメージの総本山はカゴメ株式会社である.同社は精力的にリコピンの効果を研究しているが,その中から名古屋文理大学短期大学部などとの共同研究《2型糖尿病患者の健康管理 ― 血糖値の改善効果に果たすリコピンの役割 ― 》を紹介する.
 まず論文の冒頭で研究の目的を述べた部分を引用する.
 
糖尿病患者は健常人と比較して,血中リコピン濃度が低値を示すとの報告があることから,糖尿病の発症と体内の抗酸化因子との関連が示唆される.そのため,強い抗酸化作用を有するリコピンを摂取することは,糖尿病のリスクファクターに何かしら影響を与えることが考えられる.そこで,リコピン摂取が糖尿病患者の体内の酸化障害を抑 制 して,適正な血糖値を維持することが期待される.本研究では,リコピンの摂取が糖尿病患者の苦痛あるいは医療経済的負担の軽減に寄与し得るか否かをHbA1c値への影響により評価することを目的とした.
 
 次にこの試験研究に参加した被験者について述べた部分を引用する.
 
糖尿病認定医による診断,および管理栄養士 (糖尿病療養指導士) による指導が可能な医院に通院する2型糖尿病患者を対象とした.薬剤の服用による治療のみで,合併症の所見がない糖尿病患者18例を2群に分け,一方にはリコピンをトマトジュースとして摂取させ,トマトジュースを好まない者を非飲用群に振り分けた.
 
 この種の試験研究を実施するとき,被験者はランダムに試験群と対照群に振り分けられねばならない.これは実験計画の基本中の基本である.ところがこの試験を計画した者は,基本を全く理解しておらず,あろうことか《トマトジュースを好まない者を非飲用群に振り分け 》てしまった.このように試験開始時点で試験群と対照群にバイアスをかけてしまったことにより,この試験研究の失敗は約束されたも同然となった.(その「失敗」については後述する)
 さらに,上の引用部分に《合併症の所見がない糖尿病患者18例を2群に分け 》と書かれているが,《表2 被験者のプロフィール 》では被験者数が12になっている.この食い違いは一体どういうことだろうか.(可能な推測を後述する)
 
 続いて試験に用いた材料を述べた部分を引用する.
 
トマトジュースは1本 (200ml) あたりリコピン28mgを含み,食塩やショ糖が無添加のものを用いた.(表1.この飲料を,飲用群の被験者に毎日1本,1年間 (2003年11月〜2004年10月) 摂取させた.なお,一日の中で飲料を摂取するタイミングは規定しなかった.
 
 ここでの問題点は《一日の中で飲料を摂取するタイミングは規定しなかった》である.なぜ飲むタイミングを指示しなかったのか理解に苦しむ.というのは,トマトジュースには原料トマトに由来する果糖とブドウ糖が含まれているからである.果糖はあまり血糖値を上げないが,ブドウ糖は血糖そのものであり血糖値を速やかに上昇させる.被験者は糖尿病患者であり薬物治療を受けているから,トマトの糖質の影響を可及的にキャンセルできるタイミングを,例えば食事の際に飲用するなどと規定指示するべきであったと考えられる.(ほとんどの医師は糖尿病患者に対して,糖質の多い間食を避けるよう指導しているはずだ)
 また,その薬物治療であるが,以下のように行われたと書かれている.
 
薬剤について,飲用群はアマリール (1) / 1T 1× / 日,アクトス (15) 1T 1× / 日,そして一名のみノボラビット30ミックス (朝食前6 夕食前6) を,非飲用群はアマリール (1) / 1T 1× / 日,アクトス (15) 1T 1× / 日,メルビン (250) / 3T 3× /日,ノボラビット30ミックス (朝食前6 夕食前12) を試験期聞中に増量することなく服用した
 
 薬剤の記述の仕方で例えば《アマリール (1) / 1T 1× / 日》とあるのは,「アマリール1mg錠」を1回に1錠,1日に1回投与したという意味であろう.それならばそのように論文では正確に記述しなければいけない.こんな書き方は実験ノートのメモ書きだ.
 で,この被験者に対する薬物投与でも,試験群と対照群の間でランダマイズがなされていない (対照群にバイアスがかかっている) という問題がある.そのため,薬物治療の効果とトマトジュースの効果が分離されなくなり,試験が終了してどんな結果が得られても,それがトマトジュース飲用によってもたらされた結果であるとは言えなくなってしまったのである.それもこれもこの論文を書いた八人の著者らの無知による杜撰な実験計画の結果である.
 さてこの論文には爆笑ポイントが幾つかある.その箇所を下に引用する.
 
飲用群の血中HbA1c値は,飲用開始数か月間は有意な変化は認められなかったが,飲用開始5か月前後からゆるやかな低下に転じた.2004年9月と10月には,飲用開始時と比較して平均で各々1.1±0.4%,1.3±0.3%低下し有意な変化が認められた (p<0.05).しかし,飲用群と非飲用群の差について,図の上では差異が認められたものの (図2b),非飲用群の被験者数が少ないため (n=3),現時点での統計的な結論は回避した.
 
 《しかし,飲用群と非飲用群の差について,図の上では差異が認められたものの (図2b),非飲用群の被験者数が少ないため (n=3),現時点での統計的な結論は回避した》とか何とか,結論を出せなかったことの言い訳を書いているが,これは見当はずれの弁解だ.非飲用群の被験者数がn=3でも形式的な統計処理は問題なく可能である.問題は別のことにあるのだ.
 それは前述したように,論文中の文章では《合併症の所見がない糖尿病患者18例を2群に分け》と書かれているのに,《表2 被験者のプロフィール》では被験者数が12になっていることと関係している.
 推測するに,試験を開始した時点では被験者は18人いて,試験群9人,対照群9人だったのではなかろうか.しかし一年後の試験までに,対照群から6人もの被験者が脱離あるいは脱落したと想像される.そのためこの試験のデザインが当初計画から大幅に崩れてしまったのだろう.仮に著者らに同情的な見方をすると,もしかすると薬剤投与は最初の計画ではランダマイズされていたのに,試験終了時点ではバイアスが生じてしまったのかも知れない.
 もう一点.《表3 1日の必要栄養量 (基準量) に対する被験者の平均摂取量 》を見てみよう.トマトジュース飲用群と比較して非飲用群には大きなバイアスがかかっている.バイアスの一例としてエネルギーを見てみると,トマトジュース飲用群が1600kcalであるのに対して,非飲用群は1098kcalしかない.
 この理由が,非飲用群は試験期間中にカロリー制限食事治療を受けていたためか,試験群と同じ食事治療を指示されたのに守らなかったのか,あるいは食事治療を守らない患者だけが最後に残ったためかは判然としない.しかしこの《表3》を見れば,非飲用群がそもそも対照群になっていないことが明白だ.つまりこの試験研究は大失敗だったのである.それを苦心して隠そうとしたのだろうが,《表2》と《表3》を改竄するわけにも行かず,馬脚が現れてしまったのだ.
 ついでに爆笑ポイントをもう一つ.論文著者は《表3》においてエネルギーの単位を《Kcal 》と書いている.もちろん正しくはkcalである.昔々の論文でCalという単位が用いられていたことがあるから,それと混同したのかも知れない.しかし八人も著者がいるのに誰もその大間違いに気が付かなかったのか.情けない.
 
 さてこの論文の題は《血糖値の改善効果に果たすリコピンの役割》だが,論文の《考察》において次のように記述されている.
 
リコピン含有トマトジュース飲用群は,血中リコピン濃度が上昇するに伴ってHbA1c値が低下した.トマトジュース飲用群の血中リコピン濃度は,1か月後でO.21μg / ml, 2か月後は0.52μg / mlと上昇を示し,この値はトマトジュース飲用後2週間で血中リコピン濃度が上昇するという Rao らの報告と一致する.一方,HbA1c値は飲用期間を通じてゆるやかに下降を続け,試験開始1年後には,平均で1.3%低下した.このことから継続して摂取することの重要性が示唆された.
 
 言うまでもなく糖尿病患者の血糖値コントロールにおいて重要なのはHbA1c値の絶対値すなわち血糖値コントロールの目標値である.糖尿病患者にとっては常識だが,変動あるいは改善の幅ではない.HbA1c値の改善が同じ1でも,10から9に下がっても意味はないが,しかし8から7に下げることには大きな意味がある.7は合併症を予防する上での目標値だからである.さらに,7を6に下げることができたら,6以下は正常値であるから,こうなれば血糖値のコントロールは成功したとしていい.
 しかるにこの研究論文では,HbA1c値に触れないようにしているのが歴然としている.
 論文の《考察》において,HbA1c値の絶対値が書かれていないのである.
 なぜかというと,一年間もトマトジュースを飲んだのに,HbA1c値は7をわずかに下回ったに止まり,はかばかしい結果が得られなかったからである.それも正しくは薬物治療の成果だった可能性があり,有体に言えば,トマトジュースを一年間も飲む意味はなかったのである.
 しかし論文の題を《血糖値の改善効果に果たすリコピンの役割》とした以上,どこかに書かないわけにはいかない.そこで著者はHbA1c値絶対値を論文の《要旨》に,こっそりと記述した.(笑)
 だがここでも論文著者は間違いを犯した.《考察》に《試験開始1年後には,平均で1.3%低下した》と書いておきながら,《要旨》には《リコピン摂取前平均7.9%であったHbA1cは,摂取1年後には6.8%に低下し改善が認められた》としたのである.改善幅は1.3%だったのか1.1%だったのか,どっちだ.(実は1年後の値としては1.1%である)
 読んでいて悲しくなるほど,この試験研究は実験計画がでたらめである.対照群が崩壊してしまったし,結果をまとめて書き上げた論文は間違いだらけである.指導教授は一体何をしていたのだ.テーマを学生に与えて指導もせずに一年間ほったらかしにし,そして卒業を前にして学生が書いてきた卒業論文を,読んでもいないのである.もしきちんと読んでいれば,数値の間違いや単位の間違いなどあろうはずがないのだ.(指導教授が指導しなかったという点については,遠い目であの小保方晴子の件を思い出す.小保方晴子がきれいになって登場という件は別件なので各自情報検索して頂きたい ww)
 だが実はこれ,この論文を読む前から薄々予想できたことであった.
 というのは,自然科学の研究者というものは,自分の研究成果が学会誌や論文誌に掲載される価値のあるものだと思えば必ずそこに投稿する.
 ところがこの論文は名古屋文理大学紀要に掲載された.学問的に権威ある自然科学系の学会誌・論文誌と大学紀要の違いは何か.自然科学系の学会誌・論文誌の場合は編集委員会あるいは委嘱された研究者によって査読・審査が行われる.しかし大抵の場合,大学紀要には査読がない (査読のある紀要もあると Wikipedia に記載されているが私はそのような紀要は知らない).査読がないということは,書いたら必ず載るということ.従って普通の大学紀要に掲載された自然科学論文は学問上の業績とは認められないのである.
 つまり指導教授は,この試験研究が失敗であり論文も情けないものであることを承知していて,しかし共同研究者がいる以上どこかに掲載出版せざるを得ず,それで論文を読みもせずに大学紀要に放り込んだのだと思われる.
 私は所属学会の編集委員会の依頼で投稿論文の査読をしたことが何度かあるが,このカゴメ他による論文のようにあまりにも酷い低レベルの,論文の体を成していないものは,添削や修正指示などせずに「却下」したものである.
 カゴメの共同研究者も一体どういう見識だ.もしかすると,うちはトマトジュースを提供しただけですと弁解するかも知れない.しかし研究内容に関与せず,また論文のチェックもしないのなら共同研究者として連名で名前を載せたりしてはいけない.そんなことをするからカゴメという会社が名誉失墜したではないか.
 
 以上は超長い前振りである.
 次がこのブログ記事の本文である.
 《栄養学.net》というブログがある.このブログに《糖尿病にトマトジュースが良い理由。リコピンは血糖値を下げる成分?! 》と題した記事が掲載されている.(掲載日は2017年2月12日)
 大体において文章に「?!」なんぞを付けるのは,個人でも団体組織でも大嘘吐きと相場が決まっているのだが,それはさておき,このブログ記事から以下に引用する.
 
リコピンには血糖値自体を下げてくれる作用があり、糖尿病の血糖値コントロールに役立つ成分であることが分かってきました。
どれくらいのトマトジュースを飲めば良いのか?
 基本的には1日200ml (コップ1杯) 程度を摂取すると良いでしょう。2007年に発表された名古屋文理大学の研究によると、糖尿病患者に毎日200mlのトマトジュースを飲ませたところ1年後に血糖値の改善が認められています。
》 (下線は江分利万作による)
 
 さあ大変.
 昔は大学紀要に載せた論文は大学図書館の蔵書になるだけであったからいいのだが,今はネット検索されてしまうから,どんなにデタラメな論文でも白日の下に晒されてしまうのである.
 そして《栄養学.net》の嘘吐きブロガーが名古屋文理大学とカゴメの論文を見つけて,《糖尿病にトマトジュースが良い》という嘘情報を拡散してしまった.
 こういう時代であるから,食品会社の研究者は,デタラメ論文の共同研究者になるなどの迂闊なことをすると会社のメンツが丸つぶれになってしまうことを肝に銘じておかねばならない.
 それにしても昔,私がまだ若かった頃,カゴメ株式会社の研究員は,もう少しレベルが高かったと記憶しているのだが……
 
[参考資料]
1. アマリールは,糖尿病の古いタイプの治療薬で,スルホニルウレア系経口血糖降下剤である.日本薬局方ではグリメピリド錠という.資料. 現在は他に優れた治療薬があるので,あまり積極的には使われていない.このブログ記事で批判した名古屋文理大学とカゴメらの研究の被験者に行われた薬物治療は古い方法であるが,なにしろ十年以上前のことだから致し方ない.
2. アクトスはチアゾリジン系経口血糖降下薬である.資料:Wikipedia【ピオグリタゾン】 
3. ノボラビット:論文中には「ノボラビット」と書かれているが,これは間違い.正しくはノボラピッドという.インスリン製剤である.いい加減なことを書くなと言いたい.もうほんとに情けない.
4. メルビン:ビグアナイド系経口血糖降下剤である.インスリン抵抗性を改善する.

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