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2017年5月 9日 (火)

ビジネスマンが書く日本史とは (十三)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本連載の趣旨である)

 出口治明氏は歴史の著書を幾冊か出版している.
 氏の歴史書,特に日本史のコンセプトは「世界史の中に日本史を位置づける」ということであるらしい.
 では,このようなコンセプトの下で一体何がどのように書かれるか.
 過去,世界のどこかの国で,何かしらの重大な歴史的事件が起きてきたのであるが,その時,日本では何が起きたかを,出口治明氏は日本史として叙述するのである.
 ところがこの方法論では,例えば中国大陸で大きな動きがあった場合には,たとえ日本が天下泰平の時代であっても,「世界史の中に日本史を位置づける」ために,どうでもいい日本の天下泰平ぶりを無意味に記述することになる.
 要するに,メリハリがない.ダラダラと大昔から現代までを軽重の別なく書き流して,これを日本史だと称するつもりなのであろう.まるで退屈な高校の日本史教科書のようだが,実際に週刊文春で連載中の《ゼロから学ぶ「日本史」講義》は退屈極まりない.
 その退屈さをごまかすためにであろう,出口氏は《ゼロから学ぶ「日本史」講義》の中で,飛鳥時代の人物の言葉を関西弁にしている.
 言うまでもなく,歴史的事実を扱う場合,かぎ括弧「」の中には実際に発言された言葉を書くことになっている.従ってこのように記述するには,根拠となる史料が必要である.史料がない場合は,発言は地の文に書かれねばならない.
 しかるに出口氏の《ゼロから学ぶ「日本史」講義》では,歴史的人物が「」付の関西弁で会話している.まことに下らぬおふざけで,週刊文春の読者を舐めているとしか思えない.これでは《ゼロから学ぶ「日本史」》ではなく,ゼロから学ぶ「小説日本史」である.
 出口氏は,とにかく何でもメリハリなく知識として持っていることを「教養」だと考えているらしいが,まずは飛鳥時代の関西弁について,資料を示して解説して欲しいものである.(笑)

 ところで最近,呉座勇一 (国際日本文化研究センター助教) 著『応仁の乱』がベストセラーになっている.
 この本は,冒頭の「はじめに」からして魅力的な書きぶりで読者を日本史に誘う.もしかすると著者は磯田道史 (国際日本文化研究センター准教授) 氏に続くスターになるかも知れないと評判であるが,その『応仁の乱』の「はじめに」から二ヶ所を引用する.

原因も結果も今ひとつはっきりしない応仁の乱。だが後世に与えた影響は甚大である。大正一〇 (ママ) 年 (一九二一) に東洋史家の内藤湖南は講演「応仁の乱に就いて」で次のように述べている。
 〈大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆んどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜらませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります――〉
 現在の日本と関係があるのは応仁の乱以後で、それ以前の歴史は外国の歴史と同じ。この過激な一節はそれなりに有名なので、ご存知の方もいるかも知れない。それまでの史書も応仁の乱に注目していたが、その扱いは大きな戦乱の一つという域を出ず、たとえば源平合戦や承久の乱などをより重視していた。応仁の乱は日本史上最大の出来事であると喝破した内藤の史論は極めて独創的であった。
》 (ブログ筆者註;読みやすくするため内藤湖南の言葉を〈〉で括った)

 上の内藤湖南の言葉はよく知られていて,Wikipedia【内藤湖南】にも書かれている.
 すなわち内藤湖南は,現代に生きる私たちにどれ程の影響を与えたかという観点から日本史を考察することが大切だと言っている.
 呉座勇一氏はこの内藤湖南説に同意しているわけではないが,別の切り口から次のように述べている.

《……「何年何月何日、どこそこで合戦があり、誰それが勝利した」といった事実関係を淡々と書き連ねるだけでは意味がない。

 このように,内藤湖南も呉座勇一氏も,日本史研究に取り組む姿勢,方法論は,出口治明氏流の漫然たる「日本史」とは対極にある.
 結局のところ《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を書き続ける出口流「日本史」は学問ではない.古代の人物が関西弁をしゃべるというふざけた小説に過ぎないのだ.

 さて前置きが長すぎた.《ビジネスマンが書く日本史とは (十二)》から先に続ける.
 宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が発売されたとき,琉球新報が社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》において指摘した三項目のうち,最初の指摘は《ビジネスマンが書く日本史とは (十一) 》で解説した.二番目の指摘は,

二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。

である.これについて前稿で,私見を書き始めたところであった.
 前稿《ビジネスマンが書く日本史とは (十二) 》の末尾を再掲する.

それはさておき,六月二十三日午前四時頃 (異説あり),沖縄県民に多大な犠牲を強いた「捨て石」沖縄戦の最高指揮官たる第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が,最後まで戦うことなく摩文仁の軍司令部で自決した.翌二十四日頃,沖縄守備軍基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は軍旗を燃やして玉砕した.これによって沖縄守備軍の指揮系統は消滅し,沖縄戦が終った.

 日米彼我の戦争遂行能力を冷静に認識できなかった昭和天皇は沖縄戦に一縷の望みを託していたのであろうと思われるが,現実はそれを許さなかった.
 事ここに至って昭和天皇は,一度は退けた和平交渉に目を向けざるを得なくなった.実はもう日本は既に和平交渉のチャンスを失っていたのであるが,それが明らかとなるのはもう少し先の話.昭和天皇は国体護持が不可能となるを恐れて,ようやく和平の途を探り始めた.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十四)》に続く)

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