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2017年5月15日 (月)

ビジネスマンが書く日本史とは (十四)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本連載の趣旨である)
(本連載記事のここ何回かで,先の戦争の敗戦を挟む時期の昭和天皇の行動を取り上げている目的は,昭和史研究で知られる作家半藤一利氏を批判し,それによって半藤氏をリベラル知識人であると称賛する出口治明氏の批判に繋げようとするものである)

 前回の記事《ビジネスマンが書く日本史とは (十三) 》の末尾を再掲する.

日米彼我の戦争遂行能力を冷静に認識できなかった昭和天皇は沖縄戦に一縷の望みを託していたのであろうと思われるが,現実はそれを許さなかった.
 事ここに至って昭和天皇は,一度は退けた和平交渉に目を向けざるを得なくなった.実はもう日本は既に和平交渉のチャンスを失っていたのであるが,それが明らかとなるのはもう少し先の話.昭和天皇は国体護持が不可能となるを恐れて,ようやく和平の途を探り始めた.

 昭和二十年六月下旬,米国軍は沖縄の占領をほぼ完了した.この沖縄戦敗北の受止め方は,帝国陸軍首脳 (この時点で海軍は,前年のレイテ沖海戦の結果,既に壊滅していた) と昭和天皇とでは異なっていたと思われる.
 そもそも陸軍が沖縄を「捨て石」に位置付けたのは,本土決戦を視野に入れていたからである.レイテ沖海戦は昭和十九年十月であるが,それよりかなり遡る一月に大本営は本土防衛戦のために大本営を長野県松代町 (現長野市松代地区) に移す計画 (松代大本営) を立てた.また同年七月に参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』 (Wikipedia には項目自体がないが,平凡社世界大百科事典の【本土決戦】に記載がある) を示し,米軍の上陸が予想される九十九里浜や鹿島灘,八戸に陣地構築を命じた.また関東防衛のための大本営直属部隊として第36軍を編成した.
 この頃,国内にいた兵力はわずか四十五万六千人であった (もはや戦力ではなかったが兵員約三百五十万人が戦地に置き去りになっていた) ため,兵の大量召集と部隊新設が進められた.
 こうして昭和二十年の四月には作戦名を「決号作戦」とした防衛計画を防衛部隊に示達した.これ以降,大本営は部隊の後退および持久戦を認めない旨を各部隊に通達し,《一億玉砕の思想にとらわれていくことになる。》 (Wikipedia【本土決戦】から引用)

「一億玉砕」とは何か.Wikipedia【玉砕】に《太平洋戦争における日本軍部隊の全滅を表現する言葉として大本営発表などで用いられた》とあるが,関連する箇所を少し引用する.

本土決戦と一億玉砕
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億 (総) 特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした。なお既に1941年 (昭和16年) から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていたが、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者 (その大半が朝鮮人や台湾人) を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年 (昭和19年) 6月24日、大本営は戦争指導日誌に以下の記載をした。
〈もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ—〉
1944年 (昭和19年) 9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した。1945年 (昭和20年) 4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。

 上の引用箇所については註記が要る.戦争終結に向けて東條内閣の倒閣に努力し,鈴木貫太郎や迫水久常らと共に終戦工作の功労者である岡田啓介が《一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする》と主張したとする Wikipedia【玉砕】の記述には違和感を覚える人が多いだろう.しかもこの主張《一億玉砕……》の如く,一億の国民 (実際には七千万人ほど) が全滅したら国体護持も糞もないわけで,論理が矛盾しているからだ.しかしこの部分の出典としては纐纈厚 (山口大学名誉教授) 著『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年,新日本出版社) が挙げられている.そこには岡田啓介発言の出典が示されていると思われるが,当ブログ筆者は未確認である.
 当ブログ筆者の私見であるが,幕末に京都から引っ張り出されて来た天皇制は,いつの間にか議論を許さぬ最大のタブーになった.そのため「国体の護持」にはコンセンサスが存在せず,その意味するところが曖昧となっていたのではないだろうか.
 近衛文麿は天皇と天皇制 (国体) を切り分けていて,和平には天皇自らが出陣して戦死することが国体護持に繋がると考えていたとする説があるが,昭和天皇自身はそうではなかったと考えられる.
 後に『昭和天皇独白録』(文春文庫) に《米軍が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない。これでは国体の維持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならないと思った。》と書かれているように,昭和天皇にとっての国体は皇室祭祀であり,万世一系というフィクションを護り伝えることが国体護持だったのである.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十五)》に続く)

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