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2017年4月12日 (水)

ビジネスマンが書く日本史とは (十二)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本連載の趣旨である)

 前回の記事では,宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が発売されたとき,琉球新報が社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》において指摘した三項目のうち,最初の一つ《最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない》について,誤解を招きやすい箇所《天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した》について註を施した.
 再度強調しておくが,「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」は,「もう一度戦果を挙げなければ和平交渉は困難だ」という意味ではなく,「もう一度戦果を挙げなければ東條英機ら陸軍主流派を排除する粛軍は困難だ (ブログ筆者註;この粛軍は近衛文麿が昭和天皇に進言した)」という意味である.これは『木戸幸一関係文書』(木戸日記研究会編,東京大学出版会,1966年,495~498頁) に書かれている.
 すなわち近衛が,戦争継続派である東條英機ら陸軍主流派を排除して和平交渉を進めるべしと上奏したのに対して,昭和天皇は,東條英機らの排除は無理であると近衛に答え,結果的に昭和天皇は近衛が主張した和平交渉開始を否定したのであった.いささかややこしいが,昭和天皇は近衛に対して,この時点では戦争継続の意志を婉曲に示したのであった.
 「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」を「もう一度戦果を挙げなければ (ブログ筆者註;日本が米軍との戦闘でもう一度戦果を挙げなければ,という意味) 和平交渉は困難だ」とする誤った解釈が流布している理由は不明であるが,そのように記述している書籍やネット上の記載文章がかなりあるので,注意を喚起しておく.実際,ネット上の右派論者たちは,この誤りを取り上げて「サヨクの情報操作」と非難している.

 さて琉球新報が社説で述べた二つ目の指摘は,戦争末期,和平交渉の仲介を依頼したソ連に対して日本側が示した和平条件の中に,領土として沖縄を放棄するとされていた理由はなぜかということである.社説の当該箇所を再掲する.

二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。

 昭和天皇の戦争継続の意志と戦局挽回への期待に反して,状況は悪化の一途をたどった.
 四十五年二月十九日に米軍は硫黄島に上陸し,翌月十七日に守備隊は全滅した.
 四月一日,米軍が沖縄本島への上陸を開始した.
 昭和天皇の臣下を自称する右派論客は,著作中で平和を希求する天皇像を描くことに腐心しているが,実は昭和天皇は近衛文麿の和平上奏を退けたあと積極的に戦争指導を行っていた.昭和史の解説書に書かれているように,昭和天皇の戦争指導は,「○○せよ」という命令ではなく,臣下に対する質問という形を取って行われた.「質問」は「指導」ではないというのは子供じみた言い訳にすぎない.

 しかし戦場現地の状況を把握していない昭和天皇の戦争指揮は,軍に混乱をもたらすばかりであった.

4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。》 (Wikipedia【沖縄戦】から引用)

 戦艦大和の出撃のときも同じであった.

第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。》 (Wikipedia【大和(戦艦)】から引用)

 昭和天皇の質問に対して臣下たちは,天皇の意志がどうであるかを察して行動した.これが世にいう「忖度」である.忖度は昔からの日本統治システムだったのである.

 それはさておき,六月二十三日午前四時頃 (異説あり),沖縄県民に多大な犠牲を強いた「捨て石」沖縄戦の最高指揮官たる第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が,最後まで戦うことなく摩文仁の軍司令部で自決した.翌二十四日頃,沖縄守備軍基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は軍旗を燃やして玉砕した.これによって沖縄守備軍の指揮系統は消滅し,沖縄戦が終った.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十三)》に続く)

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