« 昭和の時代考証 (一) | トップページ | 美しい飯 (一) »

2017年4月 4日 (火)

ビジネスマンが書く日本史とは (十一)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本稿の趣旨である)

 《ビジネスマンが書く日本史とは (十) 》に,昭和五十年十月に行われた天皇記者会見について書いたが,その補足をしておく.
 前回の記事で,この天皇記者会見において昭和天皇は,そもそも「天皇の戦争責任」は文学上の言葉のアヤに過ぎない (ブログ筆者註;実態が存在しないという意味) のであるから答える必要がないとし,広島への原爆投下については《やむを得ないこと》であったと放言したと書いた.
 「文学=言葉のアヤ」は文学を誹謗するものとして,戦後に活動を開始した作家らが強く反発した.また原爆投下を是認する天皇発言は,被爆者団体の激しい反発を招き,そのため宮内庁長官が釈明する事態となったのであった.
 この二つの重大発言に比較すると,現在ではあまり取り上げる論者がいないようであるが,劣らず重要な質疑がこの記者会見では行われた.それは沖縄のことであった.
 該当部分を『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』(文春文庫) から引用する.ただし,下の引用において「記者」とある人物の氏名と所属を当ブログ筆者は特定できていない.またその記者の発言は,『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』の著者自身が同書中で断っているが,発言そのままを文字に起こしたものではなく,著者が手を加えている.

記者 戦後、国内の各地をご巡幸になっておられますが、復帰した沖縄を、ご訪問になるご希望がございますか。
天皇 戦後、私は、今いわれたように各地を巡幸して激励しましたが、沖縄県には残念ながら行かれなかったのであります。機会があるならば、今いったように近い (将来) …… 行きたいと、私は希望しております。
 沖縄県は過去においていろいろ問題があったとは思いますが、今後りっぱに沖縄県の発展することを、私は祈っております。

 天皇に沖縄訪問の意志があるかを問うたのは悲惨な沖縄戦を経験した沖縄の報道関係者ではなかったかと推測されるが,その沖縄県の記者に対して昭和天皇は《沖縄県は過去においていろいろ問題があったとは思いますが、今後りっぱに沖縄県の発展することを、私は祈っております》と他人事のように答えた.過去に問題があったのは沖縄であり,自分ではないと言明したのである.
 しかし実際には,昭和天皇は沖縄戦と無関係ではなかった.今に至るも沖縄の戦争経験者とジャーナリストが昭和天皇の沖縄戦責任を追求するのは,この天皇の態度が発端であったと私は思う.
 一昨年の三月に宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が一般に発売されたとき,琉球新報は社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》を掲げた.

 上記の社説は《昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている》と述べているが,この社説は記述に不十分な点があるため,主要部分を以下の《》に引用し,次に私の註を施す.

最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。

 まず《最初は沖縄戦だ》の節は誤解を招く表現である.
 近衛文麿の行った終戦工作は Wikipedia【近衛文麿】に簡潔にまとめられているので,次の《》に引用する.

終戦工作
1941年 (昭和16年) 12月8日の太平洋戦争 (大東亜戦争) 開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年 (昭和17年) のイギリス領シンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
戦局が不利になりはじめた1943年 (昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。
1944年 (昭和19年) 7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくする様に考えていた。
1945年 (昭和20年) 1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。
戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、若槻禮次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衞は1945年 (昭和20年) 2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している。近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら
皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。
6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている。 だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった。

 琉球新報社説の《最初は沖縄戦だ》以下の記述は,日本が沖縄で「今一度戦果を挙げなければ」早期和平の「実現は困難」だと天皇が近衛の上奏に答えたかのような印象であるが事実はそうではない.近衛が皇道派の山下奉文を陸軍要職に就けて,徹底抗戦を主張する東條英機ら陸軍主流派を排除する粛軍を進言したのに対し,そのような粛軍は山下らが「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」であると答えたのである.これは《皇道派を嫌悪していた》昭和天皇にしてみれば,戦争継続を唱える東條英機のほうが,皇道派の山下奉文よりはまだましだったことを意味している.
 その結果,昭和天皇は,国の運命よりも沖縄県民の命よりも,己の好き嫌い人事を優先して東條らに与し,近衛の和平工作は蹉跌して日本は沖縄戦に突入していったのである.
 陸軍主流派の沖縄戦戦略については Wikipedia【沖縄戦】に次のように記述されている.

日本軍の戦略
……
さらに大本営では、1944年12月、新たに就任した大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長の宮崎周一中将が、上記の捷一号作戦の失敗を確認して、「島嶼攻防戦を放棄し、本土決戦の準備に全力を注ぐ」と戦略変更を行った。以後、兵力も物資も本土決戦の準備に集中させることとなる。また大本営は、1945年(昭和20年)1月に『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定し、「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」と戦略を明示した。 沖縄戦における日本軍の作戦は、これをもって「捨て石作戦」と呼ばれている。

 結局,昭和天皇が嫌う皇道派と結託した近衛は政治的に愚かであったが,早期和平によって沖縄戦を回避するよりも皇道派に対する嫌悪を優先し,それがために近衛らの早期和平の動きを遠ざけ,陸軍の沖縄「捨て石作戦」に与した昭和天皇はさらに愚かであった.
 上記琉球新報社説は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」をそのような意味に読者が理解できるように正確に書かれるべきであった.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十二)》に続く)

|

« 昭和の時代考証 (一) | トップページ | 美しい飯 (一) »

新・雑事雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ビジネスマンが書く日本史とは (十一):

« 昭和の時代考証 (一) | トップページ | 美しい飯 (一) »