« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

2017年4月

2017年4月30日 (日)

料理する者の礼儀

 ヤマザキの食パン「ゴールドシリーズ」のテレビCM「仲間と味わう篇」に俳優の中原丈雄が出演している.

ゴールドシリーズ 「仲間と味わう」篇

 中原は別荘のような家で《若い頃に感じなかったこととか見えなかったものが……》とか言いながら,料理をしている.
 そして鍋のスープをお玉ですくい,小皿に移さずにそのまま口に運んで味見をする.
 できた料理は,ヤマザキのパンと一緒に客人たちにふるまうのだ.

 しかしこの,お玉を直接口に持って行って料理の味見をすることは,少しでも料理をする者は決してやらないことだ.
 汚いとか汚くないの話ではない.その料理を食べてくれる人に対する礼儀なのである.(* 註)

 中原丈雄の料理は,たぶんまずい.料理の心構えができていないのに,うまいものが作れるはずがない.
 そして中原のこんな恥ずかしいシーンをCMで流して平気なヤマザキという会社の経営者の品格も知れようというものである.

(* 註) さらに言うと,お玉から小皿にスープを移し,実際に食べるときの温度に冷まして味見をするのが正しいやり方である.私は料理教室で勉強したことはないが,教わらなくてもそんなことは常識だと思う.
 あるテレビ番組で,某著名シェフが,スプーンを鍋だったかソースパンだったかに突っ込んで味見をするシーンも見たことがある.そいつのレストランの客は何も知らないのだろうなあ.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月29日 (土)

髑髏島の巨神 (四)

 前稿《髑髏島の巨神 (三)》の末尾に《しかし凡庸な脚本家と映画監督は,パッカード大佐を道化師にしてしまった.この一点だけでも,『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作怪獣映画と呼ばれて然るべきなのである》と書いた.

 このようにパッカード大佐の描き方という点において『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作であると私は断ずるが,文章作法とか小説作法という言葉に倣っていえば映画作法としても納得し難いことがある.
 一つは特務研究機関モナークに所属するウィリアム・ランダ (ジョン・グッドマン) の描き方だ.
 作品の導入部における登場の仕方からして,観客は,この男が物語に重要な役割を演じると思うに違いないが,ランダは調査団を髑髏島に連れて行っただけで,あとは何もしないで死んでしまうのだ.おいおい,と言うしかない.
 女性カメラマンのメイソン・ウィーバー (ブリー・ラーソン) は,ただもうカメラのシャッターを切っているだけで,ストーリーの進行を左右する働きはしない.「キングコングとヒロイン」という「コング映画のお約束」のためにだけいるのである.
 女性ではもう一人,やはりモナーク所属ののサン・リンという女が出てくるのだが,これが最後まで生き残る割に存在感がゼロで,台詞もなくて,いてもいなくても一緒という体たらくなのである.むしろいないほうが (その分,ウィーバーが目立つから) いいとほとんどの観客は思うはずだ.

 あとの登場人物も大同小異で,髑髏島の案内人として雇われたジェームズ・コンラッド (トム・ヒドルストン) が,位置付けからして脇役なのに,これが地味に生き残ってしまう.
 その一方で,死んだパッカード大佐もランダも間抜けな退場の仕方で,全くヒロイックでない.
 要するにこの映画には,キャラの立った主役がいないのである.だから観客は,見終わって狐につままれたような欲求不満にならざるを得ない.
 最近のファンタジー作品では『ローグ・ワン』と『シン・ゴジラ』が傑作であると高く評価されているが,それらと比較するとえらい違いだ.
 とはいうものの,もしかすると無名の映画監督ジョーダン・ヴォート=ロバーツは単なる怪獣オタクであって,映画で人間を描くことなど眼中になかったのかも知れない.キングコングとヘリ部隊のアクションを撮影するだけに関心があったのではなかろうか.

 納得し難いことの二つ目.
Wikipedia【キングコング: 髑髏島の巨神】に次のようにある.

レジェンダリー・ピクチャーズ製作の怪獣映画を同一世界観のクロスオーバー作品として扱うモンスターバースシリーズとしては第2作目の映画である。

撮影前に脚本は複数の脚本家たちの関与を受けた。キングコングとゴジラの連続した世界観が求められたため、『GODZILLA ゴジラ』のマックス・ボレンスタインが初稿を書き、次いでジョン・ゲイティンズが第2稿執筆のため雇われた。

 つまり『キングコング:髑髏島の巨神』と『GODZILLA ゴジラ』は同一の世界の物語だというのである.
 では『GODZILLA ゴジラ』がどんな作品だったかというと,Wikipedia【GODZILLA ゴジラ】にこう書かれている.

ガーディアン誌は「日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている腹立たしいリブートだ」と批判している。

 このように酷評されたのは,『GODZILLA ゴジラ』では「第二次大戦後に米国が太平洋で行った核実験は,実はゴジラを倒すために行われたのであった」という設定になっていたからである.これをガーディアン誌は《日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている》と批判したのである.
 ゴジラを倒すために核兵器を使用したというが,米国が一体何発の核兵器を太平洋で爆発させたか知ってるのか.ゴジラが何千匹も出てきたというのかお前ら.
『シン・ゴジラ』では,米国の圧力によって東京で核兵器が使われようとする.これを回避するために日本政府側は死力を尽くす.このことが『シン・ゴジラ』のメッセージの一つであり,リアルの日本人の胸を打つのであるが,『GODZILLA ゴジラ』においては米軍は無思慮に核兵器の使用を強行し,しかも失敗する.日本人からすれば,あほかお前ら,という愚かなシナリオである.
 同じ怪獣ゴジラを登場させておきながら,日米の映画人を比較すると核兵器に対する感覚がこれくらい異なるのだ.
 この,初代ゴジラに対する一切のリスペクトを払うことなく作られた恥ずべき超駄作『GODZILLA ゴジラ』と同じ世界観の上に作られた『キングコング:髑髏島の巨神』もまた駄作となるのは必然であったと言えよう.
(《髑髏島の巨神 (五)》続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月28日 (金)

紅茶摘む (笑)

 昨日,関東では日テレ (毎日放送制作) が放送している『プレバト』を観た.
 この番組の目玉は俳人夏井いつき先生が出演者の俳句を添削する「俳句才能査定ランキング」で,このコンテンツのおかげで同番組は二桁視聴率なんだそうである.

 さて昨日の「お題」は茶畑の風景写真だった.東名高速の牧之原台地辺りだろうか,道路にあるトンネルの上も茶畑になっているという,なんだか見たことがあるようなショットだった.
 それはともかく今回は宮澤エマさんが登場したのだが,夏井先生から最下位という厳しい評価をされてしまった.宮澤エマさんが夏井先生に提出したのは次の句.

春暑し 窓下げ踊る髪と茶葉

 まあそのなんだ,人間は俳句なんか下手でも何の問題もないのである.いわんや宮澤エマさんのごとき美女においてをや.
 それはさておき,夏井先生は当該句の添削に際して《「茶葉」は製茶したものをいいます.茶畑で風にそよぐ茶の葉は「茶葉」ではありません》という趣旨の発言をした.

 しかし「茶葉」の語義はそうではない.
 製茶する前の段階は「茶樹 (あるいは「チャノキ」) の葉」であり,製茶したものは「茶葉」だとする見解を,茶に関する知識の少ない人,例えば夏井先生が言っても面と向かって文句をつける人はいないだろう.しかしこれは夏井先生の独自研究であり,つまりあからさまに言えば間違いである.

 いくつかの例を挙げる.
 最初に (国立研究開発法人) 農業・食品産業技術総合研究機構 野菜茶業研究所のサイトから,研究報告《「チャ品種「そうふう」「さえみどり」は機能性成分ケルセチン配糖体が多い 》の一部を引用する.

成果の内容・特徴
1.「そうふう」、「さえみどり」は「やぶきた」と比べてケルセチン配糖体を約2.5倍多く含む(表1)。2007年の二番茶の茶葉(一心四葉摘み)の場合、茶葉の40倍量の水で浸出(4°C、1時間)した場合100 mL中に12-13 mgのケルセチン(アグリコン換算)が含まれている。一般的なタマネギ100 g(新鮮重量)に含まれるケルセチンは約40 mg(アグリコン換算)。

 上の引用箇所において,「茶葉」は茶樹から摘んだ未加工の葉を意味している.
 この研究報告はほんの一例であり,茶の科学において,「茶葉」を製茶していない茶樹の葉の意味に使うことは一般的なのである.

 次の例は広辞苑第六版から.

ちゃ-ば【茶葉】 茶の木の葉。茶の原料となる葉。

 これも未加工の茶樹の葉だと書いている.

 さらに次は Wikipedia【茶】に掲載されている画像とそのキャプションである.

640pxtealeaves
摘採直後の茶葉。同じ木から摘んだものでも、葉の小さいものの方が重量当たりの価値が高い(インド・ダージリン)。(ブログ筆者註;この画像は自由な引用使用が可である)

 この画像の説明文にある《摘採直後の茶葉》は,画像を見れば一目瞭然,紛れのない正しい「茶葉」の用法である.

 まだまだあるが,これくらいにしておく.
 夏井先生は,大学卒業後の数年間を中学で国語教師として勤めたという.しかし国語教師としては,『プレバト』を観た限りでは,思い込みが激しいのか間違ったことを言うことが多い.番組収録の前に,歳時記だけでなく,辞書とか簡単な資料を調べてから発言をなさるべきであろう.

 夏井先生の知識レベルは,俳句才能査定ランキングで名人位にある芸人フジモン (藤本敏史) の句の査定で混乱ぶりを露呈した.フジモンは次の句を披露したが,これはインドの茶畑を連想した句だと本人の弁.

茶畑や 朝のサリーの色ぬくし

 だが夏井先生は,次のように添削してしまったのである.

紅茶摘む 朝のサリーの鮮やかに

 言うまでもなく紅茶は茶樹の葉の加工品である.日本だろうがインドだろうが,茶畑で紅茶を摘むことはあり得ない.
 しかるに夏井先生は,宮澤エマさんに,こともあろうにあの美しい宮澤エマさんには「茶葉は茶畑にはない」と言い切って最低点をつけておきながら,フジモンの句では,掌を返すようにして,茶畑で紅茶を摘む情景の描写に添削しちゃったのである.高田純次も驚くテキトーさに,私はヘナヘナとテレビの前の安楽椅子から崩れ落ちたのであった.
 暇な年寄りはテレビを観ながらブツブツと著名人に文句をつけるのが楽しみであるが,その点で夏井先生は,ツッコミを入れる対象として得難い人材である.ていうか,私は夏井先生の大ファンで,毎週『プレバト』を心待ちにしているのである.なぜなら沈香も焚かず屁もひらずという人間はつまらぬからだ.屁をこきつつも沈香を焚ける人間がよろしいと私は思うのである.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月26日 (水)

国難に起つ聖職者

 NHK (民放も本来は同じだろうが) の本領は,報道,ドキュメンタリ,ノンフィクション等のジャンルにある.ドラマも放送しているが,例えば戦国時代の女城主が日本在来馬ではなく馬格の大きい洋種馬に打ち跨って登場する荒唐無稽な大河ドラマ (大学教授が時代考証しているのに) とか,我が国のウイスキー業界の黒歴史 (=模造ウイスキー) に触れずにメーカー創業者の人生を描いた朝ドラとか,こんなものに国民の金を無駄に使用して欲しくないと思うようなものばかりだ.

 それはともかく,NHKなればこその番組の一つが『証言記録 東日本大震災』だ.
 先日 (4/23),第63回「災害派遣医療チームの格闘」が放送された.
 これまで『証言記録 東日本大震災』は,震災直後の DMAT (Wikipedia【災害派遣医療チーム】) の活動に何度か触れてきたが,第63回「災害派遣医療チームの格闘」は,なぜ DMAT が初動で失敗したのかを正面から取り上げた.
 初動の失敗といっても,DMAT 事務局や被災地に集結した医師たちを責める人は一人もいない.阪神・淡路大震災を契機に誕生した DMAT は,普通の日本人が一生のあいだに何度も経験するわけではない災害に対処する組織であるから,いまだ経験知を積み重ねているのである.
 第63回「災害派遣医療チームの格闘」に登場した医師たちに,私たちはただただ感謝するするしかないが,中でも震災発生直後に岩手県で医療支援の中枢を担った秋冨慎司医師は番組中で次のように,率直で真摯な反省の弁を述べられた.

あんなに大きな災害が来てしまうと 災害拠点病院ですら被害を受けて機能不全に陥ってしまう そのときに我々県の方でカバーする しなければいけないという視点が非常に抜けていた それは本当に反省をしています
 これが首都直下とか神奈川県から鹿児島まで沿岸が全部やられる南海トラフ巨大地震とか そうなったらもう全く対応できないと思うんですよ
 今 東日本大震災の教訓を活かして 来たる大規模国難のような 大規模災害のための準備をですね もう一度あのときのことを思い出して準備をして欲しいと思うんです それが震災で亡くなった人たちへの供養だと思います

 昔は聖職とされる職業がいくつかあった.それらの中には社会の尊敬を受けなくなったものもあるが,医師は今でも聖職と呼ばれるべきだろう.
 またかつて,陸上自衛隊隊員の経歴を持つ作家浅田次郎は,我が自衛隊が一度も実戦経験を持たぬことを誇りに思うと書いたが,被災地で奮闘する自衛隊が私たちの誇りであることは国民のコンセンサスだろうと私は思う.
 医師と自衛隊は,国難大規模災害にあたっての国の砦である.彼らの存在を力強く思うと共に,私自身も災害に対する備えをもう一度点検せねばと思ったことである.

[追記]
「災害派遣医療チームの格闘」の放送が終了したあと,東日本大震災被災地復興応援歌「花は咲く」のリオデジャネイロ・オリンピック メダリスト バージョンが発表された.
 たくさんのアスリートの歌声の中で,私は特に吉田沙保里さんの歌唱がすばらしいと感動した.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月25日 (火)

昭和の時代考証 (五)-3

 先週の『ひよっこ』は,大晦日になっても正月を迎えても,矢田部みね子 (有村架純) の父,実 (沢村一樹) が出稼ぎ先の東京から戻らなかったところで終わった.
 年末に,みね子の母,谷田部美代子 (木村佳乃) は仏壇の引き出しに入れてある現金を数えて思案に耽る.夫が行方不明になってから送金が途絶え,家計が逼迫していたからである.
 そこへ,近所の農家で美代子の幼馴染である助川君子(羽田美智子)がやってくる.
 君子は矢田部家の困窮を案じており,美代子に現金を渡そうとするが,美代子はそれを押し戻して受け取らない.
 そこで君子はいったん家に戻るが,再び来る.そして背中の竹籠一杯の食料を持ってきて美代子に「これはお歳暮だ」と言う.
 美代子とみね子は,君子の親切に感謝して「歳暮」をありがたく受け取るのであった.

 という先週のストーリーをわざわざ紹介したのは,君子の歳暮の中に肉があったからである.
 包の大きさからすると豚肉 (北関東では牛肉を食べることは希であった) 五百グラム程であろうか.
 若い人には信じがたいことだろうが,昭和三十九年当時の豚肉五百グラムは,なかなかの贈り物であった.
 この頃,私の育った家では,一家五人がカレーライスを作って食べるときに使う豚肉の小間切は百グラムであった.食い盛りの子ども三人を抱える家庭で,大鍋に投入された百グラムの豚小間切は,注意深く探さないと見つからないのであった.(北関東の庶民の食事が如何に食肉から縁遠かったかは,戦後の少年時代を栃木県で過ごした東海林さだおがエッセイに「肉なしカレー」の思い出として何度か書いている)
 一方,『ひよっこ』の中で描写されていたのだが,矢田部家五人のカレーライスには,魚肉ソーセージ一本が用いられた.農村に肉屋はないから,魚肉ソーセージのカレーは普通のカレーであったろう.
 余談だが,実を言うと,私の父は歴とした国家公務員 (刑務官) であったが,その年収は,『ひよっこ』中で説明された矢田部家の年収を下回っていたのである.奥茨城村で一番貧乏な矢田部家は,私の家よりは良い暮らしであったのだ.(泣)
 このように貧しい矢田部家 (しつこいようだが,私の家よりは貧乏ではない) に,助川君子はど~んと豚肉をプレゼントする.これは脚本家が,奥茨城村で矢田部家だけが貧しいことを描写するためのエピソードに違いない.このことが,みね子が集団就職することの伏線なのだろう.

 話かわって,少し前まで私は,テレビ東京系列で放送されている『昼めし旅~あなたのご飯見せてください~』を毎日観ていた.今はもう飽きたのでやめたが.
 どんな番組かというと,同局サイトの番組紹介に次のようにある.

番組内容
毎日食べる「ご飯」、おいしいお店を紹介するグルメ番組は沢山あるけど、実際は一体どんな人がどんなものを食べているのでしょうか?
毎日愛妻弁当の店長…漁が終わった後の早めの昼食…有名店のまかない飯は?
ニッポンの「リアルなご飯」にスポットをあて、「あなたのご飯見せて下さい」を合い言葉に「昼めし旅」を敢行!
時には観光スポット、時には田舎、そして地元の駅前や商店街など、芸能人や番組スタッフが様々な場所へ旅をしながら、その土地ならではのお昼ご飯や人気店、魅力的なご飯をご紹介!
さらに、「ご飯」を通してのそこに住む人の人生や物語(ドラマ)を描いてゆきます。

 これは月曜から金曜までオンエアしているテレ東の主力番組で,上の惹句にあるように《時には観光スポット、時には田舎、そして地元の駅前や商店街など、芸能人や番組スタッフが様々な場所へ旅をしながら、その土地ならではのお昼ご飯や人気店、魅力的なご飯をご紹介!》するわけだが,何年かこの番組を観続けた印象でいうと,レポーターが取材する対象の半分が《時には田舎》の農家や漁師の家庭だった.
 例えばの話であるが,典型的な内容は次のようなものである.
 レポーター (テレ東の若いAD) が,辺り一面に水田や畑や果樹園が続く田舎道を歩いていると,農作業している老人がいる.「何を作っているんですか」と声をかけて,作業を見せてもらったり,土地の話を聞いたりする.そしてやおら「あなたのご飯見せて下さい」と言うと,老人は快諾し,レポーターを軽四輪トラックに乗せて家に戻る.
 老人の自宅に着くと,そこにあったのは,大豪邸だった.
 見かけは昔風の農家だが,中に入るとリフォーム済みである.息子夫婦のために手を入れたとかで,十二畳のDKは,若い女性が見たらため息をもらすような,高価なシステムキッチンである.思わずレポーターが「すごいお家ですねー」と感嘆すると,老人は「農家はみんなこんなもんだ」と事も無げに言う.
 都会のマンションのように六畳間に家具がいくつも押し込まれているなんてことはない.老人の家は,十二畳とか十八畳間が一階と二階に全部で六部屋あるという,都市部勤労者世帯の人々が唖然呆然とするような間取りなのである.しかもその豪邸に住んでいるのは老人夫婦と息子夫婦の家族四人だという.
 『昼めし旅』は,まあ,ざっとこんな番組である.
 上に書いたのは田舎での取材だが,そうではないこともある.毎回の放送の半分は芸能人がレポーター役で,地方都市のありふれた商店街を旅することも多い.
 再び例えばの描写をすると,一人暮らしのお婆さんがやっている雑貨屋をレポーターが訪ねる.店の奥が台所と四畳半の狭い住居スペースで,「あなたのご飯見せて下さい」と言うと,お婆さんは四畳半の小さなテーブルで,「いっつも残りもんだよ」と言いながら朝飯の残り物を食べるのであった.
 以上が『昼めし旅~あなたのご飯見せてください~』の番組内容概略である.私は一年以上もこの番組を観てきたが,現代日本の貧富格差があまりにも赤裸々に描かれるところが辛くて,もう最近は観ていない.

 ところで,現代日本における貧富の格差についていえば,ワーキングプアのことがある.
 この間の日曜日,朝六時十五分から《もっとNHKドキュメンタリー 高校生ワーキングプア 》が放送された.
 これを観た私は朝から泣いた.おそらくこの番組に出てくれた三人の高校生は特殊ではない.「貧乏が見えにくくなっている」と言われる現在,彼らは貧しいが,しかしまたどこにでもいる少年たちだと思うと,泣けたのである.(ちなみに私は「再放送希望」をポチッとした)
 子供の六人に一人が貧困状態にあると言われる現在,週刊文春のテレビ批評コラムに亀和田武が能天気に

日本中が浮かれまくり、会社員と公務員の大半は、自らを中産階級と信じて疑わなかったあの時代、恩恵に浴せない人々がいた。
 遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
 みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ。奥茨城に戻れるのは、稲刈りや田植えなどの繁忙期だ。
(…中略…)
 東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。そして、そこに暮らす人々は、小金持ちを羨むことなく、つましく支えあって生きている。

と,見てきたような嘘を書いたその農村は,今どのような状態になっているか.
(この項続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月23日 (日)

昭和の時代考証 (五)-2

 テレビ番組批評というのは書評と同じだ.本を読まずに書評は書けないし,観てもいないドラマの番組批評は書けないはずである.
 しかし亀和田武は,昨日の記事に書いたように,『ひよっこ』の筋書きを全く知らないのに週刊文春のコラム『テレビ健康診断 624回』に「一九六九年の奥茨城にじんわり『ひよっこ』」を書いた.
 普通の神経の持ち主なら恥ずかしくて連載コラムの執筆者から降りるところだが,亀和田に「そのコラム,間違ってますよ」と親切な指摘をしてやる読者はいないだろうから,これまでと同じに,これからも『テレビ健康診断』を書き続けていくのだろう.
 亀和田がトンチンカンな『ひよっこ』批評を書いたのは,頭の中に〈出稼ぎ=貧乏な村〉という幼稚な図式があるせいだと思われる.
 だから,みね子の父が出稼ぎに出たのは農協から借りた金を返済するためなのに,奥茨城村は貧乏な村だと決めつけてしまったのだ.
 たぶん亀和田武は,自分が生まれ育った北関東の風土に無関心なのだろうし,おまけに「出稼ぎ」という言葉を抽象的に知っているだけで,それがどんな地理的歴史的な意味を持っているかを知ろうともしないから,こんな恥を晒してしまったのである.

 それでは,Wikipedia【出稼ぎ】をみてみよう.

日本における出稼ぎ
日本における出稼ぎは、戦前は農村や山村などにおいて製炭などに従事する労働力を他村から受け入れることがあった。戦後の高度成長期 (1970年代まで) に顕著となり、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。出稼労働者の所得確保の一方で、高度成長に伴う旺盛な需要により労働者不足に悩む都市部への重要な供給源となった。また出稼ぎを題材にした映画や楽曲が多数作られた。(ああ野麦峠や吉幾三の津軽平野など)
新潟県出身の田中角栄が首相になると、出稼ぎをしなくても雪国で暮らせるようにしようにと日本列島改造論が唱えられ、全国で公共事業が増えた。その結果、出稼労働者は、1972年度の54万9千人をピークに次第に減少している。
2003年8月に独立行政法人労働政策研究・研修機構が実施した「出稼労働者就労実態調査票」によると、北海道、青森県、岩手県、秋田県、山形県、新潟県、石川県、兵庫県、長崎県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の12道県のハローワークが作成した「出稼労働者台帳」 (2003年3月末現在有効なもの) に記載された出稼労働者数は41,620人であった。
2010年度は1万5千人にまで減少し、出身地域別の内訳は、北海道32.0%、東北60.7%、九州・沖縄4.7%、その他2.6%である。
2011年度には送出地の北海道・青森・岩手・沖縄のハローワークに出稼労働者就労支援員 (送出地担当) が配置されていた。その目的は「地元における安定した就労を促進しつつ、やむを得ず出稼就労する者に対しては職業相談員によるきめ細やかな職業相談を実施するとともに、受入事業所の指導等を実施」することであり、2015年度も北海道・青森・岩手等に配置されている。

 上の記述に明記されているように,大規模な「出稼ぎ」は戦後の一時期に発生した現象である.
 戦前あるいはそれより以前のことについていうと,人間の移動が制限されていた江戸時代には珍しく富山藩主が薬売りを他領へ商売に出ることを奨励した例 (これは産業規模に成長した) とか,やはり江戸時代に全国各地に発生した職能集団「杜氏」が代表的であるが,これらは近代以降の「出稼ぎ」が単純労働力であったのとは質的に異なるものであった.
 明治以降では,ノンフィクション文学作品『あゝ野麦峠』を原作とする同名の映画 (Wikipedia【あゝ野麦峠(1979年の映画)】参照) によって広く知られたが,戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘たちが,野麦峠を越えて長野県の製糸工場へ働きに出た.明治の中頃には,全国に六百五十五あった器械製糸場のうち三百五十八工場が長野県に集中していたのである.彼女らは「出稼ぎ工女」と呼ばれたが,実際には,彼女らはいわゆる出稼ぎではなく製糸工場に就職したのであった.
 このような例について一つ一つ述べるのは省略するが,一般的な意味での「出稼ぎ」は季節労働 (Wikipedia【季節労働】) であった.上に示した Wikipedia【出稼ぎ】に,

戦後の高度成長期 (1970年代まで) に顕著となり、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。出稼労働者の所得確保の一方で、高度成長に伴う旺盛な需要により労働者不足に悩む都市部への重要な供給源となった。

とある通りである.
 冬でも積雪がないため園芸農業ができる地方は出稼ぎをする必要がなく,また出稼ぎにでる余裕はなかった.(例えばドラマ中の奥茨城村)
 しかし上の引用にあるように,東北,北陸,信越地方などの寒冷地方では冬は全くの農閑期になってしまうため,男手は出稼ぎに出て都市部における労働力となり得たのである.
 Wikipedia【出稼ぎ】に,2003年の出稼ぎ労働者の送り出し地方のハローワークとして

北海道、青森県、岩手県、秋田県、山形県、新潟県、石川県、兵庫県、長崎県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の12道県

が挙げられているが,これは高度成長期の職業安定所から継続しているのであろう.
 出身地域は北海道,東北,北陸でほとんどを占め,残りわずかが地元で労働力を吸収できない沖縄県からの労働者だったと考えられる.

 ところで Wikipedia【出稼ぎ】には,田中角栄の日本列島改造論に基づいて全国各地で公共事業が行われるようになり,出稼ぎが終焉を迎えたことは書かれているが,なぜ戦後の高度成長期に出稼ぎが甚だしくなったのかという前史は明記されていない.次はそれについて.
(この項続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月22日 (土)

なんだその態度は

 下の画像は,イオンのPBで「黒糖かりんとう」という商品の包装である.パッケージの右上に切り込みがあり,「切り口」と書かれている.「この袋は縦に切ってください」というわけだ.

40170422b

 ところが,包装を裏返して裏面を見ると,袋の一番上の辺りにハサミのマークと「ここからお切りください」と書いてある.これは「横方向に切ってください」ということだ.

20170422a

 縦に切るのか,横に切るのか.この黒糖かりん糖を買った消費者は,どちらの指示に従えばよいのだろう.
 しかも,縦方向に切る場合は,袋上部の切り込みを使用するとハサミがなくても開封できる (樹脂製の袋には方向性があり,縦方向なら手で容易に切断できるため) ので,その指示は納得できるのだが,横方向に切る場合は,どうせハサミを使わにゃならんのに,自分の切りたいところではなく横点線の位置で切断せよとの意味不明な指示だ.その位置で切断しなければいけない理由を示せと私は言いたい.余計なお世話だ.昔懐かしのパーティーカットにしてみたい人もいるだろうに,なんだその態度は.
 て息巻いてみましたが,どうでもいいですか.ですよねー.(高田純次風にどうぞ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月21日 (金)

昭和の時代考証 (五)-1

 週刊文春今週号 (4/27号) の連載コラム,亀和田武『テレビ健康診断 624回』のタイトルは「一九六九年の奥茨城にじんわり『ひよっこ』」であった.
 亀和田武は昭和二十四年一月栃木県の生まれで,義務教育の学年でいうと私より一学年上である.
 亀和田武はコラムニストであるという.コラムニストとはつまり雑文書きである.同世代の呉智英 (昭和二十一年生まれ) や関川夏央 (昭和二十四年生まれ) のような批評家としての才能があるわけではなく,さりとて一世代下の堀井憲一郎 (昭和三十三年生まれ) のような奇才でもなく,中途半端な雑文家であるが,週刊文春にはテレビ番組批評の連載コラムを書き続けている.
 その亀和田が今週号で『ひよっこ』について次のように書いている.

日本中が浮かれまくり、会社員と公務員の大半は、自らを中産階級と信じて疑わなかったあの時代、恩恵に浴せない人々がいた。
 遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
 みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ。奥茨城に戻れるのは、稲刈りや田植えなどの繁忙期だ。

(…中略…)
 東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。そして、そこに暮らす人々は、小金持ちを羨むことなく、つましく支えあって生きている。

 テレビ番組を批評するのはいいが,ドラマの筋書きを勝手に捏造してはいけない.
『ひよっこ』のヒロイン,矢田部みね子の父はなぜ東京に出稼ぎにでているか.
 亀和田は《みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ》と書いているが,そうではない.
 以前,不作の年があり,矢田部家はその時に農協に借金ができたのである.その借金がなければ矢田部家の家族は農業で食っていけるのであるが,米と野菜作りだけでは現金収入が足らず,農協への借金返済ができない.そこで父親は農閑期の畑を家族にまかせて,出稼ぎに出たのである.
 これはドラマ『ひよっこ』の大前提の話であるから,祖父と両親がみね子に家の経済状態を言って聞かせるシーンで,収入は米がいくら,野菜がいくら,母親の内職がいくら,と視聴者に説明されたのである.有村架純ちゃんの笑顔がかわいいので,亀和田は見とれて上の空でテレビを観ていたのだろう.きっとそうに違いない.
 で,みね子の父の出稼ぎの理由が借金返済のためであり,村が貧しいからではないから,奥茨城村で出稼ぎに出ているのはみね子の父だけという設定になっている.詳しいことは略するが,そのことが,村の「聖火リレー」でみね子がアンカー走者になることに繋がっていくのだ.
 では,不作の年に矢田部みね子の家だけが農協に借金を拵えてしまったのはどうしてか.
 これはドラマ中で説明がなされていない.妙な話である.
 夏が寒冷であったなどの理由であれば,奥茨城村一村全体が不作に見舞われるはずだ.
 無理に説明するとすれば,冷害はそれほどのものではなかったが,奥茨城村で矢田部家だけは,経営規模が元々小さい (所有農地が少ない),あるいは土地が悪くて反収が低い,といった理由で,不作の打撃が大きかったというところか.
『ひよっこ』の脚本家に農業知識を求めても仕方ないので,まあそんなところにしておこう.

 さて亀和田武は次のように書いている.

遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。

 私の郷里は群馬だが,私より一歳年上の亀和田は,群馬の隣県である栃木の生まれである.私と亀和田は同時期に北関東で少年時代を過ごしたのである.(余談だが関川夏央少年はその頃,新潟にいた)
 亀和田は,群馬,栃木,茨城の北関東各県の人々が,かつて《出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた》と断定的に言うが,それは私が知っていることと異なる.亀和田武は少年時代に北関東農村部の状況をその目できちんと見ていたのかと私は言いたい.
 北関東は,冬でも全くの農閑期ではなかった.栃木と茨城の農村事情は確認する資料を持っていないが,昭和三十年代の群馬は,渋川市以北の山間部は別として,南半分の関東平野北限地帯では二毛作が行なわれていた.つまり春から秋にかけては稲作が行なわれ,秋に稲を収穫したあと翌年の春までは麦が栽培されていた.従って群馬は出稼ぎ地帯ではなかったのである.資料を示せないが,まず間違いなく栃木も同じであり,群馬や栃木よりも気候温暖な茨城は言うまでもない.『ひよっこ』の脚本でも,みね子と仲の良い同級生の時子の家は米作と酪農を兼業しており,また同じく同級生の三男の家は米の他に果樹園芸をやっているという設定だ.(NHKの番組紹介サイトに記載がある)
 時子の家も三男の家も,どちらかといえば裕福で,出稼ぎ農家ではないのである.奥茨城村で父親が出稼ぎに出ているのは,借金を抱えている矢田部家だけというのであるから,ドラマ中の架空の村である奥茨城村は,昭和三十年代の北関東のありふれた村だと考えていい.
(この項,続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月20日 (木)

横浜中華街 山東

 会社員時代の同期の男から,横浜辺りで昼飯を食おう (酒を飲もうという意味) とのメールがあった.
 彼は東京が生活圏で,滅多に横浜まで来ることはない.横浜なら私に土地勘があるから店は私が選ぶことにし,ミシュランガイドの横浜・川崎・湘南版 (2015年) を探すと,安くてよい店として中華街の「山東」が掲載されていた.私には勝手知ったる横浜中華街であるが,「山東」に入るのは初めてなので,この店に決めて返信.

 石川町北口改札で待ち合わせ,西門から善隣門へ抜け,中華街大通りを東へ歩く.聘珍樓の手前の薬局の角を左折すると「山東一号店」(本店) がある.その向こうに「山東二号店」があり,二号店のほうが店構えは大きい.
 私たち二人のすぐ前を歩いていたグループ客が,ぞろぞろと一号店に入った.入口ドアから中を覘くと店はかなり狭く,グループ客で満杯になりそうだったので「二号店に行こう」と店の前を通り過ぎたら,ドアが開いて後ろから「だいじょぶよー」と声を掛けられた.グーループ客は二階に案内したから,一階でよければ客はいなくて空いていると言う.
 席に着くと店員さんがメニューを持ってきたが,そもそもの目的が酒だから,あれこれ料理を選ぶのは面倒くさい.
 それでメニューには記載がなかったが「ランチのコースはありますか」と訊いたら,二千円でできるとのこと.料理はそれに即決して,「あと,紹興酒をボトルでください」と注文した.時刻はちょうど午後一時で,「山東」では本格的な昼酒客は少ないらしく,店員さんの顔には少々驚いたような色が浮かんだ.
 そりゃそうだろうね.中華料理店は居酒屋じゃないのだから.
 でも,仕事に追われて老後の趣味を持てなかった団塊の爺たちが,今や定年で暇を持て余しているこれからの時代は,料理店においても昼酒がニッチからメジャーになりつつある.場合によっては朝酒のビジネス展開すらありうるとも言われている.誰が言っているかというと私だ.
 新しい日本の昼酒黎明期を目前に,私たち二人が,横浜中華街のミシュランガイド掲載店「山東」にとって黒船であるかも知れぬ.時代の夜明けを「山東」従業員の皆さんと共に寿ぎたい.

 さて前菜盛り合わせ (かなり盛りがよい) と瓶ビール一本でまずは乾杯し,それから直ちに紹興酒に移行する.
 ネットで下調べした情報では水餃子が「山東」のウリであるらしい.確かに,なかなかの美味であったし,他にも定番中華料理である海老のチリソースなども結構なお味であった.
 料理がうまいと話しも弾む.
 だが昔会社員だった人々は,仕事がらみの昔話をすると,現役のときの社内序列,地位がどうであったかを避けて通れぬことが多い.
 だから負け組の会社員だった私は昔話が嫌いだ.ヾ(- -;) こらこら
 それで私たちはこの日,病気の話で大いに弾んだのである.ヾ(- -;) おいおい
 ガンだの心筋梗塞だの,お互いの術後経過を話し終えたあとは,北朝鮮問題に話題が移ったのであるが,私たちが飲み食いを始めてからずっと隣のテーブルにかなり年輩の御老人がいて,私たちの話に耳を傾けていた.
 初めは客かと思っていたのだが,そのうち御老人が料理を運んできたりしたところをみると,どうやら「山東」の人のようであった.かといって,オーナーは女性だと公式サイトに書かれているから御主人ではなさそうで,よくわからない.

 結局この日の午後一時から日暮れるまで延々六時間,私たちは紹興酒のボトルを何本も空にして飲み続けた.料理はランチコースに少し追加したかも知れぬが記憶がない.
 そろそろ帰ろうと勘定を済ませて道路に出ると,御老人が玄関の外に出てきて手を振って見送ってくれた.私たちは酔った勢いで,ありがとうござましたーおいしかったでーすと大きな声を上げ,「山東」を後にしたのであった.

20170420a

 横浜の中華街には,中小規模の店で時として極めて接客態度の悪い店があり,そんな店に入ってしまうと大変に不愉快な思いをすることがある.
 ことがある,どころではなく,三十年ほど前は小さい店の半分は中国式接客の無礼な店だったと思う.釣銭を放り投げてよこすとかね.
 「海員閣」は漫画『美味しんぼ』で傲慢な店として描かれたことで知られているが,その程度の店は他にいくつもあった.
 私の経験では,ある日家族揃って某店 (今はもうない) に入り,ランチを注文したあと「薬を飲みたいのでお水をください」と言ったら,ふてぶてしい顔付きの女店員に「水だってただじゃないよ.うちはお金払えばお茶だすよ」と言われたことがある.
 また関帝廟通りに面したS風楼なんか,初めて入った時に店員の無礼な態度にカッときて,皿を叩き割ってやろうと思ったくらいだ.こんな店に「食べログ」で高評価点を付けてありがたがっている連中の気が知れない.
 横浜中華街は,飲食店の接客の点で非常に低水準であり,そんな有様だから,ミシュランガイドに掲載されているのは「山東」一軒しかない.
 これまで大切な食事の際は,そこそこ安心できる老舗の大きな店を選んでいたのだが,小さな店でも「山東」のように良いところがあるとわかったのは収穫だった.また寄せてもらいます.ごちそうさまでした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月19日 (水)

髑髏島の巨神 (三)

 前稿《髑髏島の巨神 (二) 》の続き.
 
 インドシナの地に米国がゴ・ディン・ジエムを大統領として傀儡政権を樹立したのが1955年,南ベトナム解放民族戦線の結成が1960年,これに対抗したケネディ政権が南ベトナム派遣軍事顧問団を大幅に増強して戦争が泥沼化していく様相を見せ始めたのが1961年.
 トンキン湾事件 (1964年8月) のあと,ケネディ政権を引き継いだジョンソン大統領は,北ベトナムとの戦闘に関する無制限の指揮を執る権限につき議会の承認を得た.そしてジョンソン大統領は陸軍を戦争に投入するなど大規模な介入を開始し,結果,アメリカは泥沼のベトナム戦争に突入していった.
 このような経過で,宣戦布告なしに,いつ始まったのかあいまいな戦争が始まった.

 しかし南ベトナム解放民族戦線の結成を起点に取れば十三年後の1973年 (昭和四十八年) 1月23日,北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官は,和平協定案を仮調印した.
 同27日,南ベトナムのチャン・バン・ラム外相,アメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官,北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相,南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の四者間でパリ協定が調印された.

20170419a
パリ和平協定への調印を行うアメリカのロジャーズ国務長官
(Wikipedia【ベトナム戦争】から引用;パブリックドメイン画像である)


 同29日,ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した.
 戦争が最も激しかった時に五十四万人に達したアメリカ軍は,終結宣言の時点で二万四千人になっていたが,宣言後に軍の撤退を開始し,二ヶ月で撤退を完了した.
 しかし軍事顧問団は引き続き南ベトナムに駐留したままであり,ベトナム戦争の完全な終結には,まだ1975年4月30日のサイゴン陥落まで待たねばならなかった.陥落の前日29日から30日まで,南ベトナムのラジオから季節外れの「ホワイト・クリスマス」が流れる中 (ブログ筆者註;《私のクリスマスソング 》),在留アメリカ人1373名と南ベトナム人その他の5595名が撤退する作戦が完了した旨の報道を,学生時代に東京におけるベトナム反戦運動を目にした私は感無量で聞いたことを思い出す.

 さて『キングコング:髑髏島の巨神』は,映画中で明示されていないが,ニクソン大統領の戦争終結宣言の日から始まる物語である.
 特務研究機関モナークの一員であるウィリアム・ランダは,前年に打ち上げられた地球観測衛星ランドサット1号 (ランドサット計画初号機) が太平洋上に発見した未知の島・髑髏島の資源開発のための地質調査を行いたいとしてウィリス上院議員を説得し,協力を得ることに成功した.
 しかし実は資源開発調査とは真っ赤な嘘であった.ランダは髑髏島の地底は空洞になっていて,そこに太古からの生物が棲息しているとの仮説を立てており,それを証明する調査をしたかったのであった.これは十九世紀以来の疑似科学「地球空洞説」を疑わせるチープな設定だが,疑似科学がどうのこうのと目くじらを立てたのではそもそも怪獣映画は成立しないので,これは問題ない.『キングコング:髑髏島の巨神』に限らずすべてのファンタジーは,私のような頭の中が子供の大人向けなのである.おい.
 さて,ランダはウィリス上院議員を騙して,軍の協力を取り付けた.南ベトナムから撤退中の戦闘ヘリ部隊に,ランダらの調査団一行を髑髏島へ輸送してもらい,さらに偽りの「調査」に協力をしてもらうのである.

 その戦闘ヘリ部隊に指名されたのが,プレストン・パッカード大佐の部隊であった.
 パッカード大佐は調査団輸送任務の前に,彼の個室で物思いに耽る.
 私は前回の記事の最後に《ではパッカード大佐は本当にバカなのか.私は違うと思う.バカなのは脚本を書いたやつなのである》と書いた.
 物思いに耽るパッカード大佐の姿に観客が期待する人間像は様々であろうが,例えば次のような設定はどうだ.

 長きにわたったベトナム戦争の体験が,パッカード大佐を戦闘マシーンに変えた.敵を殺すことが自分の存在価値と化したのである.
 そんなパッカードは本国への帰還を前にして自己喪失感を抱く.戦場こそが俺の居場所だ.帰国して,本国で死んだように生きるのは嫌だと.
 こうした思いのパッカードは,髑髏島でヘリ部隊が壊滅したとき,至福の高揚感を覚える.俺は,神の如き巨大なコングと戦って,この島で死ぬ.死に花を咲かせる.散華.それが自分の生き方なのだと決意する.
 例えばであるが,パッカードを上記のように性格設定し,丁寧に心理描写をすれば,今作『キングコング:髑髏島の巨神』と全く別の作品になったであろう.

 あるいは大佐にまで昇った優秀な軍人としてパッカードを描いてもいい.コングと自分の部隊の戦力差を正確に判断し,緻密な作戦計画を立て,母艦の米軍本隊の救援の元に,最後にコングに勝てぬまでも,調査団と残存部隊全員を母艦へ生還させるとしてもよい.それも一つの物語となるだろう.

 ところが本作におけるパッカード大佐は,軽火器とナパーム弾でコングに勝てる気になっている.
 私たち日本人は,ゴジラを頂点とする巨大怪獣の装甲の堅さを知っている.昭和二十九年のゴジラ初登場以来,陸自61式戦車の90mmライフル砲はゴジラの皮膚にかすり傷すらつけることができなかった.空自の戦闘機に搭載の空対地ミサイルも,陸自の地上発射型各種ミサイルもゴジラの敵ではなかった.
 最近ようやく『シン・ゴジラ』において,米軍爆撃機が放った大型貫通弾で初めてゴジラに傷を負わせることに成功するも,その直後に爆撃機隊はゴジラのレーザー光で全滅したのである.
 かつてその無敵無敗のゴジラを海に沈め,悠々と南海の彼方に泳ぎ去ったキングコングを相手にほとんど丸腰で立ち向かうパッカード大佐の姿を見て私たちは,前のめりの姿勢でスクリーンを凝視するのではなく,「あーあ,そんなんじゃ勝てねーよ」と呆れてシートに背を預けるしかないのである.
 案の定,パッカードはいとも簡単に死ぬ.愚かすぎて観客は全然同情できない.(笑)

 話を,スクリーンに描かれた南ベトナムの米軍基地 (たぶん現タンソンニャット国際空港の辺りだろう) に戻す.
 パッカード大佐役で名優サミュエル・L・ジャクソンが,撤退作戦でごった返す基地のシーンに登場した時,観客は何を思ったか.
 多くのサミュエル・ジャクソンのファンは,紫色のライト・セイバーを振るってクローン大戦を生き抜いたジェダイ最強の戦士,メイス・ウィンドゥとパッカード大佐とを重ね合わせるのではないだろうか.
 しかし凡庸な脚本家と映画監督は,パッカード大佐を道化師にしてしまった.この一点だけでも,『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作怪獣映画と呼ばれて然るべきなのである.
(《髑髏島の巨神 (四) 》へ続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月17日 (月)

昭和の時代考証 (四)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』が第三週に入った.
 この稿は《NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と書いて始めたものだ.第一週の放送に関しては時代考証が変だと異議を申し立て,第二週の内容については,ヒロイン矢田部みね子の家庭,矢田部家の飯についての疑義を述べた.
 先週 (第二週) の終りあたりで,みね子の父,実が出稼ぎ先の簡易宿泊所から失踪したことが判明し,ドラマは導入部が終ったところだ.
 みね子の母,美代子が常磐線に乗って上野駅に到着したシーンでは,当時の上野駅のモノクローム動画がテレビ画面に映し出された.私の記憶にもある懐かしい映像であった.
 それはいいのだが,画面が上野駅のセット撮影のシーン (これは上野駅の実際とかなり雰囲気が異なっていたが,上野駅をセットで作るのは無理というものだから仕方ない) に切り替わったとき,駅構内に浮浪者 (註) と思しき人が一人歩いていた.私はこのシーンに違和感を覚えたので,以下の (註) にそのことを書く.

(註) 今の言葉では「ホームレス」だが,当時は報道でも「浮浪者」と呼んだので本稿でも,時代背景を反映させるために「浮浪者」と書いておく.
 
Wikipedia【ホームレス】には,

かつては乞食・ルンペンなどと呼ばれており、特に日本では浮浪者という名称が定着していたが、差別用語との指摘を受けて放送禁止用語となったことにより、海外での同様な状況を指す英語の the homeless に由来する「ホームレス」という呼称がマスメディアを中心に外来語として定着した。

と書かれているが,これは正しくない.
 平成十三年 (2001年) 一月に実施された中央省庁再編により,旧厚生省と旧労働省を廃止統合して厚生労働省が発足したちょうどその頃だと思うが,平成十四年公布の「
ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(平成十四年八月七日法律第百五号) の検討に入っていた厚労省が,《かつては乞食・ルンペンなどと呼ばれており、特に日本では浮浪者という名称が定着していた》ことに鑑み,行政上の用語としてより適切な言葉はないかと考え,有識者等の意見を入れた結果「ホームレス」を採用したのであった.ちなみに同法の定義は以下の通りである.

(定義)
第二条 この法律において「ホームレス」とは、都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう。

「乞食」「ルンペン」「浮浪者」が差別用語であるとしてメディアから排除されたのはもっと前のことで,それ以後から「ホームレス」が一般化する前までは,新聞社,テレビ局により多くは路上生活者,まれに無宿者 (むしゅくしゃ) 等色々な呼び名が使用されていた.しかし厚労省が採用した用語にメディアも倣って,これ以後「ホームレス」が定着したのであった.
 ただし法律と行政の用語である「ホームレス」は極めて限定的であり,実際に私たちの周りの路上生活者やそれに近い人々は意図的に網羅していない.そのためメディアでは「ホームレス状態にある方」と呼ぶことが多い.
 ちなみにバブル経済崩壊後,東京都では青島都知事が都庁周辺から「ホームレス状態にある方」を徹底排除した.
 新宿駅から都庁への道路で,貧困者支援団体のデモが抗議する中,「ホームレス状態にある方」を引きずるようにして警視庁機動隊がどこかへ連れて行くのを,私も現地にいて見た.その光景を今も忘れない.
 JRも夜間は入口にシャッターがある駅ビルではこれを閉めて「ホームレス状態にある方」を追い出した.これがために真冬の東京 (同じ施策をやった大阪も同様) では,夜が明けると「ホームレス状態にある方」の凍えた遺体が通勤客に発見されるということが起きた.その状況を報道するテレビの報道番組を私は今でも思い出す.

 さて私の記憶では,ドラマ『ひよっこ』の時代の少し前に,上野駅構内から浮浪者が排除された.日本と東京はこの頃,終戦直後の貧しい雰囲気を都内から一掃しようと躍起になっていたのである.
 私は昭和三十五年の秋,小学校の東京修学旅行で上野駅に着いた.
 この時は駅舎の外に,少ないながらもまだ戦災孤児がいたのを記憶している.担任の先生が戦災孤児の説明してくれたのだった.しかしこの頃はもう大部分の浮浪者や孤児は上野公園にいたのだろうと思う.
 当時は,東京オリンピックを観にやってくる海外からの観光客らに,復興成った日本を見せることが国と都の至上命題であった.
 都内を流れる生活廃水で汚れた河川を暗渠化したのと同じ発想で,浮浪者と戦災孤児は人の目に触れぬよう繁華地帯から追い出されたのであった.

 閑話休題.
 矢田部美代子が実の失踪届を出しに赤坂の警察署を訪れたとき,ナレーション (増田明美) が「この頃,東京にやってきて行方不明になる人を蒸発者ということがあり,年間一万人近くになった」旨のことを語った (録画を消去してしまったので正確ではない).

 昭和中頃の行方不明者の状況を Wikipedia【失踪者】から一部抜粋する.

 年度      総数  男性  女性  成人  少年 所在確認数
1966(昭和41)年  91,593 46,144 45,449 46,783 44,810 63,667
1970(昭和45)年 100,753 49,195 51,558 55,761 44,992 74,218
1980(昭和55)年 101,318 48,398 52,920 55,206 46,112 88,821

 上の表から,東京オリンピックのあと,昭和四十一年の数字では大雑把に男性/女性/成人/少年の各セグメント比率が同じくらいなので,失踪届出の総数から所在確認数を引いた二万八千人のうちの七千人が成人男性失踪者と見做していいだろう.これはおそらく農村からの出稼ぎ労働者で失踪した人の数に近いのではないか.
 これに対して Wikipedia【蒸発】を見ると,

その他の用法
人に関して
液体で可視物として存在していたものが気体という不可視のものになってしまうことから転じて、人が突然行方不明になって (失踪して) しまうことにも「蒸発」を用いる。
1960年代には集団就職で上京した若者による失踪事案が多く、1967年 (昭和42年) に公開された今村昌平監督の映画『人間蒸発』や、1968年 (昭和43年)に矢吹健が歌唱した『蒸発のブルース』により流行語となる。
1970年代には約9,000名もの蒸発者が生じ、社会問題にもなった。

と書かれている.しかしこの《約9,000名もの蒸発者》が単年度のおよその蒸発者なのか,《1970年代に》蒸発した人の合計なのかが不明だ.
 不明ではあるがしかし,『ひよっこ』のナレーションから推測すれば,これは単年度の蒸発者ではなかろうか.
 私が出稼ぎ労働者の失踪と推定した七千人に,少年の失踪事案を足せば,ほぼ『ひよっこ』のナレーションの「年間一万人」に近くなるのではないかと想像する.
 交通事故死者数の推移に関するデータによると,昭和三十九年 (1964年) には死者約一万三千人であったが,現在 (2016年) は大きく減少し,四千人を下回っている.
 これに対して年間失踪者の実数も平成二十五年 (2013年) に約千八百人で,高度成長期に比較して激減している.
 半世紀,遥けくも来つるものかは.感慨深いものがある.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月16日 (日)

昭和の時代考証 (三)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』の第二週が終った.
NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と私は前々稿に書いた.
 第一週の放送に関しては時代考証が変だと文句をつけたが,第二週の内容については,時代考証の誤りではなく,矢田部家の飯についての疑問を述べたい.

 まず下の画像を御覧頂きたい.(録画データから静止画を切り出すのはたぶん許可を要するので,面倒くさいからテレビ画面を撮影してそれをトリミングした.これなら正当な引用の範囲で使用できる)
 茨城県の北部で農業をしているヒロインの家庭では,麦飯が常食であると第一回の放送で説明がなされた.
 その時の食事風景では家族が食べている麦飯を録画して観察できなかったのだが,第二週の放送で,皆揃ってカレーライスを食べる場面があり,下の画像はそのカレーライスである.

20170416a

20170416b

 さて私たちが麦飯と呼んでいるものは,通常は米と押麦を炊いたものである.これについては Wikipedia【麦飯】の記述が正確妥当なので下に引用する.

精麦
麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠次郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。
昨今ではさまざまな精麦が開発されている。
丸麦   大麦の外皮を取り除き、精白した状態そのままのもの。
押麦   精白した大麦に水と熱を加えて2つのローラーで押したもの。粒の真ん中に黒条が残る。麦とろに良く用いられる。
切断麦  黒条(中央の線)を縦に半分に切り、水と熱を加えて2つのローラーで押したもの。
米粒麦  黒条から縦に半分に切り、米粒状に剥いたもの。押麦や切断麦は水洗いの際に浮きやすいのに対し、米粒麦は米と混ざりやすくなっている。

 上の記述にあるように,戦後の一般家庭で食べられていた麦は押麦である.
 押麦が発明される以前は丸麦が食べられていたのだが,これは米と一緒に炊いたのでは堅くて食べにくい.そのため丸麦を食べるには,米とは別にあらかじめ炊いておき,軟化したもの (えまし麦という) を米に混ぜて炊くという二度手間が必要であった.
 そのため,炊事に火を用いてよいのが一日一度に限られていた江戸時代の都市部一般町人 (お上から火災予防のためにきついお達しがあった) は,麦飯ではなく米の飯を食わざるをえなかった.
 体によいとかの理由で玄米や丸麦を食べていた人は昔からいたであろうが,一般国民に麦飯が広く普及したのは昭和の戦後である.
 で,『ひよっこ』のヒロインの家庭は農家であるが,これまでの放送内容からすると,米の単作 (一毛作) である.
 これは特に無理のない設定であるが,その場合は,麦飯を日常食とするとしてもその麦は押麦以外ではあり得ない.なぜなら,自給できない故にわざわざ購入する麦を,押麦ではなく炊飯コストの高い丸麦にする理由がないからである.

 そこで上の画像だが,押麦と丸麦は実物を一目見れば瞭然であるが,残念ながら上の画像は解像度が低くてよくわからない.
 次の問題は色である.カレーソースと共に映っている炊かれた米も麦も非常に濃い黄褐色をしている.これは,カレーソースの色に色調が影響されているのではなく,カメラを少し引いたシーンでも同じ色調であった.
 私は今も時折麦飯を食うが,こんな色の麦飯は見たことがない.普通の麦飯はやや灰色を帯びてはいるが黄褐色ではない.これほど黄褐色なのは玄米御飯に違いないと思われる.
 だとすると,使われている麦は押麦ではなく,搗精度の高くない丸麦だと思われる.(玄米と押麦を一緒に炊くのは無理だ)
 だがしかし,そうすると,ヒロインの矢田部家ではわざわざ丸麦を買って食べていることになり,それはおかしい.
 ドラマでは詳しい説明がなされていないが,矢田部家の飯は一体どのようなものであるのか.若い人は「あれが麦飯なのねー」と思うだけだろうが,私のような年寄りは疑問に思う.爺さん婆さん視聴者が納得できるような説明して欲しいと思う.

 あと,もう一つ.失踪した夫の消息を訊ねにヒロインの母が東京に行く日の朝,炊事をするシーンで,研いだ米を電気炊飯器に入れて蓋をしたが,このとき麦を入れなかった.
 えまし麦も押麦も,研いだ米を炊飯器に入れる時に混ぜなければいけない.
 米と押麦を一緒に研いで,それを同時に炊飯器に入れたとドラマの演出家は言い訳するかも知れないが,昔から押麦は研がずに用いる.研いだ米を羽釜とか鍋,あるいは電器炊飯器に入れ,それに押麦を加え,それから水加減をして炊くものなのである.
(参考;全国精麦工業協同組合連合会のサイトのQ&Aから引用.
Q. 麦は洗わずに使えるって本当?
 A. 精麦製品の原料となる麦は、外皮が硬いため、製造工程で麦粒の40~50%は、削り取られていきます。したがって、その過程で糠も除去されますので、特にお米のようにとぎ洗いする必要はありません。

 言い忘れたが,有村架純ちゃんはかわいいが,ヒロインの母の木村佳乃さんもいいなあ.美人は麦飯の炊き方なんか知らなくても全く構いません.よかったよかった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月15日 (土)

髑髏島の巨神 (二)

 前稿《髑髏島の巨神 (一) 》の続き.

 映画『キングコング:髑髏島の巨神』は,伏線らしい伏線がない非常に単純なストーリーである.ある一つのシーンが暗喩するものが何であるかについて考察したり,巧妙に隠されたオマージュを探し出したりする必要はない.観客はコングの戦闘アクションを手に汗握って観ていればいいだけである.つまり有体に言えば,凡庸な映画作品である.

 ではこれが,根底からダメな,箸にも棒にもかからぬ駄作かというとそうではなく,きちんとしたシナリオでちゃんとした監督が撮れば,よい作品になったかも知れないのである.て,全然だめじゃん.

 以下の文章に関して参考までに「あらすじ」は Wikipedia【キングコング:髑髏島の巨神】 を,映像については《映画『キングコング:髑髏島の巨神』予告編》を参照して頂きたい.

 『キングコング:髑髏島の巨神』には暗喩はないが,誰でもすぐわかるオマージュはいくつも出てくる.
 この映画のネタバレサイトが揃って指摘しているのが,『地獄の黙示録』へのオマージュだ.ただし,オマージュというのは,過去の別作品に対する映画監督の敬意を表すものであるから,ただ単に似たようなシーンがあったり,映像表現の模倣が行なわれているだけでは,オマージュとは言い難い.
 そのような本来の意味でのオマージュではないと私は思うが,まず《映画『キングコング:髑髏島の巨神』予告編 》に,米軍戦闘へり UH-1 の編隊飛行の映像,とりわけスタートしてから三十六秒後 (0:36/2:23) 近辺で,夕日を背にして編隊の行く手にコングが立ちふさがるシーンがある.
 次に尺が二分二十二秒の《地獄の黙示録特別完全版 日本版予告編 Apocalypse Now Redux Japan Trailer》の,スタート後一分二十六秒 (1:26/2:22),画面に原題 "Apocalypse Now Redux" が浮かび出るシーンを見て頂きたい.
 明白に前者は後者を意識したものであることがわかる.
 つまり『キングコング:髑髏島の巨神』は,『地獄の黙示録』と同じベトナム戦争の末期に時代を設定しているので,とりあえず『地獄の黙示録』を想起させるシーンを撮ってみましたということだろう.
 しかし,ただそれだけなのである.私たちが『キングコング:髑髏島の巨神』を観て困ってしまうのは,この作品に『地獄の黙示録』と似たような戦闘ヘリ編隊の飛行シーンがあるというだけで,それ以外に,共通の世界観とか,そういったものが欠片もないことである.

 『地獄の黙示録』はベトナム戦争の暴力の中で壊れた人間の精神を描いた作品ということに一応なっている.「一応なっている」というわけは,否定的な見解があるからだ.例えば村上春樹は次のように述べている.

公開当時、70ミリ版で3回、35ミリ版で1回見たという村上春樹は、評論『同時代としてのアメリカ』の中で次のように述べている。「『地獄の黙示録』という映画はいわば巨大なプライヴェート・フィルムであるというのが僕の評価である。大がかりで、おそろしくこみいった映画ではあるが、よく眺めてみればそのレンジは極めて狭く、ソリッドである。極言するなら、この70ミリ超大作映画は、学生が何人か集まってシナリオを練り、素人の役者を使って低予算で作りあげた16ミリ映画と根本的には何ひとつ変りないように思えるのだ」》 (Wikipedia【地獄の黙示録】から引用)

 この村上春樹の見解に私は同意する.今は『地獄の黙示録』を米国映画史上で重要な作品とする人も多いだろうが,公開当時は,見終わったあと,「で,ベトナム戦争の,何を描きたかったんです?」との評価がほとんどだったと記憶している.ストーリーは「反戦」とは無関係であり,別にベトナム戦争を背景にする必然性はないかと思われたからである.

 『地獄の黙示録』には狂気の軍人,カーツ大佐が登場するが,『キングコング:髑髏島の巨神』でも,髑髏島調査団を島へ輸送する任務を受けたヘリ部隊の指揮を執るパッカード大佐という人物が重要な役割を担う.
 パッカード大佐は,ヘリ部隊がコングのために壊滅したあと,コングに復讐するとして生き残った兵士と民間人を,私たちからみると無意味な対コング復讐戦闘に巻き込もうとする.
 ここがどうにも観客には理解できない点だ.
 映画中でパッカード大佐は「部下を殺された復讐だ」と語るのだが,そういうのは下士官の発想ではないのか.大佐という階級は上級の士官であるからして,戦闘においては,兵員を無駄に損耗することなく,最終的に勝利を収めるよう行動するのが任務ではなかろうか.
 例えば髑髏島から基地への帰還を支援する部隊が到着するのを待ち,軍上層部に怪獣の存在を報告し,キングコング打倒作戦を進言するなどすれば軍人として正しいであろう.
 ところがパッカード大佐は自分勝手な行動で兵士と調査団一行を危機に陥れながら,怪獣たちに手傷を負わせることもできずにあっけなく死んでしまうのである.
 観客としては,なんだよバカじゃないかこいつ,こんなやつに感情移入はできないよと思わざるを得ない.このバカみたいなパッカード大佐に比べると,髑髏島調査団の案内役として雇われた元英国特殊空挺部隊隊員のコンラッドのほうが余程軍人らしい冷静さを保って行動しているのである.
 ではパッカード大佐は本当にバカなのか.私は違うと思う.バカなのは脚本を書いたやつなのである.
(《髑髏島の巨神 (三) 》へ続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月13日 (木)

髑髏島の巨神 (一)

『キングコング:髑髏島の巨神』(ワーナー・ブラザース配給) を観てきた.

 キングコング映画といえば,私が東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』を観たのは中学一年生,昭和三十七年の夏だった.この作品はゴジラ映画の中で歴代最高の観客動員数を記録したことで知られる.

20170413a
(Wikipedia【キングコング対ゴジラ】から引用;パブリックドメイン画像である)

 当時,北関東の片田舎の前橋市あたりでは洋画上映館は確か一つしかなく,邦画館はいくつもあった (70mmフィルムの上映館もあった.どや!) が,もちろん大人の鑑賞に耐える邦画の名画を上映する映画館は,中学生なんかが入れば不良の烙印間違いなしであり,子供向け映画は東宝の怪獣映画くらいなもんだったのである.
 しかし実をいうと私は,怪獣映画を観に行くと親を騙して,洋画を観始めたのが中学一年生になってからだった.同じ中学で一学年先輩の糸井重里さんは早熟で,前衛的な洋画を観て書いたレビューを自分でガリ版印刷のパンフレットにして校内で配っていた記憶がある.栴檀は双葉より,である.
 そんなこんなで,昭和三十七年は私の映画鑑賞歴中で思い出が深い年だ.

 『キングコング対ゴジラ』を観たのは記憶しているが,米国メジャー映画会社RKOが配給した本家初代の『キングコング』(1933年) は,リバイバル上映館で父親に連れていかれて観たのだろうが,クライマックスのエンパイア・ステート・ビルの場面をうっすらと覚えているだけだ.

20170413b
(Wikipedia【キングコング(1933年の映画)】から引用;パブリックドメイン画像である)

 Wikipedia【キングコング (1933年の映画)】には次のように書かれている.

当時はターザン映画を始めとする「ジャングルを舞台とした秘境冒険映画」や「実写の猛獣映画」が盛んに作られており、本作でもその趣向が大いに取り入れられた。本作でのコングも兇暴な猛獣として描かれており、敵対するものは容赦なく葬る。アンの衣服を剥がしてその臭いをかぐシーンなど、まさに「美女と野獣」のイメージで描かれている

 だが女性の《衣服を剥がしてその臭いをかぐ》のは野獣のイメージなのだろうか.
 諸兄も大いに納得することと思うが,女性の衣服の匂いをかぐという行為の底に,その女性に対する特別な感情が存在することがある.犬が飼い主の匂いをかぐのとは少し区別されねばならないのだ.
「女性の衣服の匂いをかぐ」のは文学的な象徴であり,たとえば小学生だった貴女が,ある日の放課後,教室に置き忘れたハンカチを取りに戻ったとしよう.
 廊下側の窓から教室の中を覘くと,クラスの女子の憧れの的で中島健人によく似た同級生の少年A君が,貴女のハンカチを鼻に当てて物思いに沈んでいるのが見えた.貴女は,A君がそのハンカチをずっと持っていて欲しいと思いつつ,くるりと踵を返して教室を後にするであろう.
 だがまた別の日,下校しようと校舎玄関の靴箱のところに行ったら,高須クリニック院長に似ていると言えなくもない少年B君が貴女の靴の臭いをかいでいたとする.
 その光景を目撃した貴女は,恐怖にかられて絶叫しながら,廊下の掃除道具ロッカーからモップを取り出し,B君を「死ねこの野獣っ」とばかりに殴りまくり蹴りまくるであろう.どっちが野獣だよ.(ちなみにこのように絶叫する女を映画ではスクリーミング・ヒロインという)
 ハンカチの匂いをかぐのも靴の臭いをかぐのも似たような行為であるが,一方は少年のほのかな恋情を意味し,もう一方は変態性欲と見做される.
 私はどちらかというと靴の臭いのほうが
 初代コングは果たしてただの野獣だったのか,ヒロインのアンをどう思ったのか,DVDを買って確かめてみようかと思ったが,よく考えるとくだらないのでやめた.

 ところでリメイク作品であるパラマウント配給『キングコング』は,Wikipedia【キングコング (1976年の映画)】に下のように記述されている.

アンを単なるスクリーミング・ヒロインに終わらせず(悲鳴の回数は3作中最も少ない)、コングの優しさに気付いて心を開く女性として描く試みは、東宝の『キングコングの逆襲』 (1967年) の先例はあるものの、本国アメリカではこの1976年版が最初であり、コングが高層ビルに登って以降のショットのいくつかが2005年版に引用されている。

 つまりコングと人間の女性との感情の交流は,東宝『キングコングの逆襲』にオリジナリティがあるという.
 私はパラマウント版『キングコング』も『キングコングの逆襲』も観ていないので,上に引用した記述を読んで「へえ~」と驚いた.

 さて『キングコング:髑髏島の巨神』だが,これはシリーズ三部作の第一部なんだとか.
 私が先日いつもの辻堂のテラスモールでこれを観たとき,上映の終りにクレジットタイトルが延々と続いている最中,何人もの観客が席を立って出ていった.
 ところがクレジットが終ったところからラストシーンが始まったのである.こういうことがあるから,そのあと急ぎの用事がないのであれば,シアター内照明が点灯するまでシートに腰かけているのがいい.
 で,ラストシーンでは,このシリーズにゴジラ,モスラ,キングギドラが続いて登場することが示唆される.(ちなみにこのラストシーンで本作品の監修者が町山智浩だと明かされる)
 つまりこのシリーズは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』にキングコングが加わったようなものになるらしい.
 大変に豪華で結構なことであるが,今作『キングコング:髑髏島の巨神』を観た限りの感想では,次作以降もありきたりの怪獣映画になるのではなかろうか.
 そのことについて次回の稿で少し説明をする.
(《髑髏島の巨神 (二)》へ続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月12日 (水)

ビジネスマンが書く日本史とは (十二)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本連載の趣旨である)

 前回の記事では,宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が発売されたとき,琉球新報が社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》において指摘した三項目のうち,最初の一つ《最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない》について,誤解を招きやすい箇所《天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した》について註を施した.
 再度強調しておくが,「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」は,「もう一度戦果を挙げなければ和平交渉は困難だ」という意味ではなく,「もう一度戦果を挙げなければ東條英機ら陸軍主流派を排除する粛軍は困難だ (ブログ筆者註;この粛軍は近衛文麿が昭和天皇に進言した)」という意味である.これは『木戸幸一関係文書』(木戸日記研究会編,東京大学出版会,1966年,495~498頁) に書かれている.
 すなわち近衛が,戦争継続派である東條英機ら陸軍主流派を排除して和平交渉を進めるべしと上奏したのに対して,昭和天皇は,東條英機らの排除は無理であると近衛に答え,結果的に昭和天皇は近衛が主張した和平交渉開始を否定したのであった.いささかややこしいが,昭和天皇は近衛に対して,この時点では戦争継続の意志を婉曲に示したのであった.
 「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」を「もう一度戦果を挙げなければ (ブログ筆者註;日本が米軍との戦闘でもう一度戦果を挙げなければ,という意味) 和平交渉は困難だ」とする誤った解釈が流布している理由は不明であるが,そのように記述している書籍やネット上の記載文章がかなりあるので,注意を喚起しておく.実際,ネット上の右派論者たちは,この誤りを取り上げて「サヨクの情報操作」と非難している.

 さて琉球新報が社説で述べた二つ目の指摘は,戦争末期,和平交渉の仲介を依頼したソ連に対して日本側が示した和平条件の中に,領土として沖縄を放棄するとされていた理由はなぜかということである.社説の当該箇所を再掲する.

二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。

 昭和天皇の戦争継続の意志と戦局挽回への期待に反して,状況は悪化の一途をたどった.
 四十五年二月十九日に米軍は硫黄島に上陸し,翌月十七日に守備隊は全滅した.
 四月一日,米軍が沖縄本島への上陸を開始した.
 昭和天皇の臣下を自称する右派論客は,著作中で平和を希求する天皇像を描くことに腐心しているが,実は昭和天皇は近衛文麿の和平上奏を退けたあと積極的に戦争指導を行っていた.昭和史の解説書に書かれているように,昭和天皇の戦争指導は,「○○せよ」という命令ではなく,臣下に対する質問という形を取って行われた.「質問」は「指導」ではないというのは子供じみた言い訳にすぎない.

 しかし戦場現地の状況を把握していない昭和天皇の戦争指揮は,軍に混乱をもたらすばかりであった.

4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。》 (Wikipedia【沖縄戦】から引用)

 戦艦大和の出撃のときも同じであった.

第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。》 (Wikipedia【大和(戦艦)】から引用)

 昭和天皇の質問に対して臣下たちは,天皇の意志がどうであるかを察して行動した.これが世にいう「忖度」である.忖度は昔からの日本統治システムだったのである.

 それはさておき,六月二十三日午前四時頃 (異説あり),沖縄県民に多大な犠牲を強いた「捨て石」沖縄戦の最高指揮官たる第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が,最後まで戦うことなく摩文仁の軍司令部で自決した.翌二十四日頃,沖縄守備軍基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は軍旗を燃やして玉砕した.これによって沖縄守備軍の指揮系統は消滅し,沖縄戦が終った.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十三)》に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 9日 (日)

昭和の時代考証 (二)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』の第一週が終った.
NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と私は前稿に書いたが,第一週の内容で気に入らぬ点がある.

 ヒロインの母親である谷田部美代子 (木村佳乃) が炊事をしながら鼻歌で,元祖一発屋歌手の一人である渡辺マリが昭和三十六年 (1961年) に放った大ヒット曲「東京ドドンパ娘」を歌ったのである.
 またヒロイン谷田部みね子 (有村架純) も学校から自転車に乗っての帰り道に,やはり「東京ドドンパ娘」を歌っていた.

 「東京ドドンパ娘」のリリースは昭和三十六年で,ヒットした当時はラジオもテレビも商店街のスピーカーも猫も杓子もドドンパッドドンパッと歌ったのであるが,流行はあっという間に終息し,『ひよっこ』第一週の時代,つまり三年後の昭和三十九年 (1964年) の秋には,もう誰一人として渡辺マリの歌なんか見向きもしなくなっていたはず.
 東京オリンピックがもうすぐだという頃になっても,いまだに母も娘も揃ってドドンパッドドンパッは,時代考証的に明らかにおかしい.数人の団塊世代の知人に訊ねてみたが,ドドンパ娘ってのはオリンピックよりずっと前の歌だ,と皆が答えた.脚本を書いた人間が,「東京ドドンパ娘」で昭和感を出そうとしたのであるなら,大きな間違いである.もっと年寄りに訊いてよく調べて書けと言いたい.
 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴監督は同作品への批判に対して《当時の現実的情景の再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景の再生を重視した》と釈明したという.(《》は Wikipedia【ALWAYS 三丁目の夕日】から引用)
 NHKは,山崎監督と同じようにして嘘くさい「昭和」を朝ドラででっち上げたいのなら,それは年寄りが死に絶えてからにしたほうがいい.
 東京オリンピック直前は,商店街の街頭スピーカーは日がな一日中,前年からヒット街道を突っ走っていた三波春夫「東京五輪音頭」を流し続け,ラジオやテレビから聞こえるのはヒット曲を連発するザ・ピーナッツと坂本九の歌ばっかりだったのである.(西田佐知子「東京ブルース」と井沢八郎「ああ上野駅」もこの年の記念すべきヒット曲だが,田舎の女子高校生とその母親が歌うにはふさわしくない〈笑〉)
 それとも何か.皆様のNHKは,茨城の流行は東京の三年遅れだとでも言いたいのか.茨城を馬鹿にすっでねえ.
 ところで有村架純ちゃんの方言は今イチであるが,かわいいから許

| | コメント (4) | トラックバック (0)

香り穏やかな酒

 私は若い頃の一時期,社会人枠で静岡大学農学部に在籍していたことがある.所属していたのは,現在は名称が変わってしまっているが,当時は農産製造学研究室といった.
 その研究室の少し先輩の卒業生で,いささか古めかしいお名前であるが,河村伝兵衛さんというかたがおられた.勤務先は県の工業試験場であった.
 河村さんをよく知る人たちは,河村さんとも河村伝兵衛さんともいわず,ただ単に通り名の伝兵衛さんと彼を呼んだが,私はほんの少し会う機会があっただけなので,以下は河村さんと書く.
 河村さんは,その性狷介にして孤高といったらいいのか,組織人としては不遇であったが,のちに静岡県の清酒業界に大きな影響を及ぼし,清酒業界にとどまらず県内の食品業関係者で河村の名を知らぬ者は一人としていないといわれるほど著名な研究者となった.
 河村さんの業績は,別名静岡酵母とか河村酵母とか呼ばれる酵母を分離確立したことである.
 その結果,かつて全国水準からすると低レベルと言わざるを得なかった静岡県の酒は,全国区の水準にまで押し上げられた.今では静岡県の清酒の銘柄を一つも知らない愛飲家はいないのではなかろうか.

 昭和五十三年,河村さんは掛川の土井酒造場の杜氏であった故波瀬正吉氏と協同して,同酒造場の銘柄「開運」大吟醸の醪 (もろみ) から,一株の酵母を分離した.
 この酵母を用いた大吟醸酒は,土井酒造場と満寿一 (静岡市) の二蔵で試験醸造が行なわれ,昭和五十五年 (1980年) に国税庁醸造試験所全国新酒鑑評会で金賞を受賞する成功を収めた.
 この後,この酵母を河村さんは HD-1 (H は杜氏波瀬正吉氏,D は土井酒造場からとったものとされている.これが静岡酵母第一号である) と命名し,県内の多くの酒造会社に広めた.そして昭和六十一年 (1986年) の前記全国新酒鑑評会において,静岡県内から二十一蔵が出品したが,十七蔵が入賞し,その内の十蔵が金賞を受賞するという快挙を成し遂げた.
 これで静岡県の吟醸酒は一気に全国に知られるところとなったのであるが,その原動力は河村さんの酵母研究であった.
 ところが静岡県の酒造会社は恩人とも言うべき河村さんに正当に報いることがなかった.
 県内の有力蔵である土井酒造場磯自慢酒造は,公式サイトに河村さんの特設ページを作って顕彰しても良いくらいのものであるが,ここに河村さんの名は見えない.また静岡県酒造組合のサイトでは,静岡酵母が,河村さんが不遇の技術者人生を過ごした静岡県工業試験場の業績であるかのように記載されている.
 このような有様では,やがて河村伝兵衛さんの名は忘れ去られるのだろう.いつの時代でも技術者は縁の下の力持ちで終わるのがお約束なのであろうか.
 上のようなことを記したのは,昨日,河村さんの訃報を見逃していたことを知って驚いたからである.河村さんは昨年十二月六日に亡くなっていた.享年七十三.

 以上は長い前置きである.
 孤高の技術者河村さんを思い切り持ち上げておいてこう言うのはなんだが,実を言うと私は大吟醸酵母 HD-1で醸した酒が好きでない.一言で言うと,その果実様吟醸香は華やかすぎる.淡白な酒肴より存在感が勝ってしまうのでは,清酒として如何なものかと思うのである.
 その点で,私が気に入っているのは,会津の末廣酒造嘉永蔵の大吟醸「」である.
 この酒の穏やかな香りは,余計な主張をすることなく,例えばほうれん草のおひたしとか赤身とか,そんな肴の友にまことに適任である.震災後,私は酒を福島に出かけて買い込んだり,通販で取り寄せたりしているが,銘柄は暫くは「舞」でゆこうと思っている.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 7日 (金)

美しい飯 (二)

 昨日の記事の続き.

 未来食堂で「ただめし券」を使った客は,券の裏面にメッセージを書いて残していく.
 それは例えば「《3日食事してなかったので すごい食べました ありがとうございます》といった短い言葉である.
 そんなメッセージが書かれた使用済みの「ただめし券」を,小林さんはファイルに入れて保存している.
 どうやら「ただめし券」は使い捨ての食券ではなく,小林さんと,店の手伝いをした人と,「ただめし券」を使って食事をした人とを結ぶツールのようなものであるらしい.

 小林さんが「ただめし券」を発想した原点は,彼女が高校生の時,進路のことで悩み,わずかなお金を持って神戸から上京したプチ家出の経験だと,番組のナレーションは説明した.
 小林さんはアルバイトをしながら東京で一人暮らしを始めたのだが,誰とも会話することのない孤独な日々であったという.
 そんなある日,バイト先の名前も知らない同僚たちが,お昼御飯の時に彼女に唐揚げ弁当を手渡し,一緒に食べようと声をかけてくれた.
 私が想像するに,同僚たちは小林さんに,このまま放っておいたらドロップアウトしてしまいそうな危うさを感じ取ったのであろう.
 手を差し伸べられた小林さんは同僚たちに,ありがとう,いただきます,と言って,涙が止まらなくなったという.
 私は独りじゃないんだ.そう思ったのだ.

 こんな経験をしたあと小林さんは東京工業大学数学科に進み,卒業後はIBMやクックパッドにエンジニアとして勤務したが,その後はどんどん飲食業に接近していく.
 昨日の記事の中程に記したことだが,小さな定食屋に過ぎない未来食堂が公式ウェブサイトを持ち,事業計画を公開するなど,食堂開業を「起業」としてアピールしている方法論は,会社員時代の経験に裏打ちされていると思われる.

 ここら辺のことは小林さんの著書『未来食堂ができるまで』(小学館.他に Kindle版がある) に譲るが,小林さんの東京工大卒の技術者としての人生を大きく方向転換させ,未来食堂の起業に向けて走らせた原動力は,高校生の時の家出体験だと,番組中で次のように語った.

横に誰かがいるっていうことが,それが,なんか自分にとって必要なことなんだなって,その時に気づいたんですね.
 自分と同じように今にも落ちそうな人.
 未来食堂って一個の,ただのちっちゃなお店なので,知ってる人を少しでも増やして,落ちそうな人まで届けたいんですよね

 未来食堂は,「今にも落ちそうな人」に,あなたは独りじゃないんだというメッセージを届けるためのものなんだと彼女は言いたいのであろう.彼女が作る定食はメッセージなのだ.
 だから彼女は「未来食堂はブランドです」と『カンブリア宮殿』MCの村上龍に語った.

未来食堂の理念は「誰もが受け入れられて,誰もがふさわしい場所」です.今,飲食店という形で未来食堂が形になりましたけど,これはまだ第一形態.これを見た誰かが,私よりも優秀な誰かが,第二形態に変えていけるんじゃないかって思ってるんですね.もっとこういう面から見たら大きくなるとか,いろいろな人が加わることによって,よりよい形になっていく.そこまで自分は走り続けて,未来食堂というブランドを高めていく.それが自分のやるべきことかなと思います.

 小林さんは新聞など他のメディアで,《いろいろな人が加わることによって,よりよい形になっていく》ことを「未来食堂はオープンソース」だと表現した.これはいかにもIT技術者出身の人らしい言い方だと,微笑ましく感じられた.
 とまれ,小林さんの志「食事というものを通じて,あなたは独りじゃないんだというメッセージを届けること」は,何人もの共感者を得ているらしく,それは店のホワイトボードに貼られた何枚もの「ただめし券」を見ればよくわかる.使用済み「ただめし券」のファイルにも,お金に困った時に「ただめし券」で空腹を満たした人が,「ただめし券」の裏側に,今度は手伝いに行きます,とメッセージを残していた.未来食堂のオープンソース化は順調に進行しているようだ.
 十数年前に,神戸から東京に出てきた家出少女に手渡された唐揚げ弁当は,いま「ただめし券」という形になった.未来食堂がこれから,小林さんの開業の志を支援者と利用者にどう伝え,飲食店という枠を超えてどう成長していくのか見守りたい.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 6日 (木)

美しい飯 (一)

 先月の記事 (3/25) 《飯の粒が立っている 》に次のように書いた.

一昨日 (3/23) 放送のテレビ東京『カンブリア宮殿』は …… 例によって例の如きいつものビジネス成功譚であって,とくにどうということはないが ……》

 『カンブリア宮殿』など日経がスポンサードしているビジネス情報番組は,現役の会社員が観れば「ふむふむなるほどねー」と一応思いはするだろうが,まあいつもはそれだけの,右の耳から入って左の耳に抜けても構わぬ軽い番組ではある.
 ところがこのあいだの放送 (3/30) は,いつものビジネス成功譚ではなかった.

 その回の紹介文をテレビ東京同番組のウェブページから引用する.

人や地域のつながりが希薄化する中で、2つの"食堂"が、小さな奇跡を起こそうとしている。都心のオフィス街に2年前にオープンした風変わりな食堂が注目を集めている。「未来食堂」は、客が店を手伝う「まかない」、それによって手に入れる「ただめし」など、客と店が"つながる"不思議なシステムが盛りだくさん。徹底した"効率経営"と、"客と一体化した店作り"で、食堂の新たな可能性を模索している。一方、「子ども食堂」は経済的困窮や孤食に陥る子どもたちに向けて、低料金で温かい食事を提供する取り組み。地域のボランティアが中心となって、いまや全国で300カ所以上開設されている。子どもたちの新たな"居場所"としてその役割に期待が寄せられている。独自の発想と信念で、失われた社会の"絆"を取り戻そうとする、2つの"感動食堂"を紹介する!

 この惹句に書かれている未来食堂 (トップページ左上にあるタイトルバナーをクリックして欲しい.小さな定食屋で公式ウェブサイトを持ち,事業計画書を公開し,プレスリリースを掲載するという驚くべき店だ.これは店主の経歴によるものだろうが,それについては後述),東京は神田神保町の教育会館地下にある個人営業の大衆食堂である.まだ三十二歳の若い店主,小林せかいさんは,この食堂をビジネスとしてきちんと意識しているようだが,しかし日経のビジネス番組が取り上げるほど営利の飲食ビジネスとして大きな成功をしているとは言い難い.毎月の粗利で八十万円程度の黒字経営ではあるが,そこら辺の料理店やラーメン屋で,もっと利益を上げている店はザラにあるだろう.
 だがこの未来食堂の意義,価値は,毎月の利益がどうのということにあるのではない.この食堂は,大抵の人があっと驚く仕組みを持っているのだ.

 まず,この食堂は狭い店内に十人ほど客が腰掛けられるコの字型ウンターがあって,中で小林さんが忙しく立ち働いているのだが,未来食堂がユニークなのは,誰でも小林さんの手伝いを買って出ることができるということ.
 皿洗いでも調理でもいいが,手伝いをすると,その人は一食分の「ただめし券」をもらえるのである.
 これは以前から類似のシステムがある.一番有名なのは,暴力団などの反社会勢力との関係を疑われた大東隆行元社長が射殺された事件で知られる中華料理チェーン「餃子の王将」の一部店舗がやっている「皿洗いキャンペーン」である.(参照《「王将フードサービス」特集 なぜ、皿洗いをすれば定食をタダにするのか 》)  
 この王将 (京都の出町店) の「皿洗いキャンペーン」は美談のように言われることがあるが,実は皿洗いをすれば一食の飯がただになるという,ただそれだけのことである.王将側は皿洗いの人件費を計算にいれると別段の損があるわけではないから,美談とは少し違うだろう.
 上に紹介したウェブ雑誌記事《「王将フードサービス」特集 なぜ、皿洗いをすれば定食をタダにするのか》では

また、皿洗いをやった客は王将に親しみを感じるでしょう。今はお金を持っていなくとも、将来はリピーターになる客なんです。だから、顧客の囲い込みにもなる

と損得づくのように言われてしまって,まあそこまで言われると,善意でやっているに違いない王将出町店の店長がお気の毒ではあるが.(笑)

 閑話休題.未来食堂の小林さんの発想のすごいところは,「皿洗いや調理を手伝うと飯がただになる」のではなく,「皿洗いや調理を手伝うと見知らぬ誰かに一食分の飯をプレゼントできる」という点にある.
 具体的には,手伝いをした人は,縦横五センチほどのメモ用紙に日付と自分の名前と例えば「この券を使ってください」などと書いて,店の入口にあるホワイトボードに貼り付ける.
 そのボードにはこんなことが書いてある.

ただめし券
誰でも使えます。はがしてもってくると一食無料になります。困った時は使ってください。会計時にみせてください。未来食堂では50分のお手伝いで一食もらえる"まかない"制度があります。ただめし券は"まかない"でもらった食券をどなたかが置いていったものです。

 給料日直前とか何かの事情で切羽詰まって飯を食う金に困った人は,入口のボードに貼り付けてある「ただめし券」を一枚取って席に着けば,ただちに定食が目の前に提供される.これが未来食堂の「ただめし券」システムである.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 4日 (火)

ビジネスマンが書く日本史とは (十一)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本稿の趣旨である)

 《ビジネスマンが書く日本史とは (十) 》に,昭和五十年十月に行われた天皇記者会見について書いたが,その補足をしておく.
 前回の記事で,この天皇記者会見において昭和天皇は,そもそも「天皇の戦争責任」は文学上の言葉のアヤに過ぎない (ブログ筆者註;実態が存在しないという意味) のであるから答える必要がないとし,広島への原爆投下については《やむを得ないこと》であったと放言したと書いた.
 「文学=言葉のアヤ」は文学を誹謗するものとして,戦後に活動を開始した作家らが強く反発した.また原爆投下を是認する天皇発言は,被爆者団体の激しい反発を招き,そのため宮内庁長官が釈明する事態となったのであった.
 この二つの重大発言に比較すると,現在ではあまり取り上げる論者がいないようであるが,劣らず重要な質疑がこの記者会見では行われた.それは沖縄のことであった.
 該当部分を『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』(文春文庫) から引用する.ただし,下の引用において「記者」とある人物の氏名と所属を当ブログ筆者は特定できていない.またその記者の発言は,『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』の著者自身が同書中で断っているが,発言そのままを文字に起こしたものではなく,著者が手を加えている.

記者 戦後、国内の各地をご巡幸になっておられますが、復帰した沖縄を、ご訪問になるご希望がございますか。
天皇 戦後、私は、今いわれたように各地を巡幸して激励しましたが、沖縄県には残念ながら行かれなかったのであります。機会があるならば、今いったように近い (将来) …… 行きたいと、私は希望しております。
 沖縄県は過去においていろいろ問題があったとは思いますが、今後りっぱに沖縄県の発展することを、私は祈っております。

 天皇に沖縄訪問の意志があるかを問うたのは悲惨な沖縄戦を経験した沖縄の報道関係者ではなかったかと推測されるが,その沖縄県の記者に対して昭和天皇は《沖縄県は過去においていろいろ問題があったとは思いますが、今後りっぱに沖縄県の発展することを、私は祈っております》と他人事のように答えた.過去に問題があったのは沖縄であり,自分ではないと言明したのである.
 しかし実際には,昭和天皇は沖縄戦と無関係ではなかった.今に至るも沖縄の戦争経験者とジャーナリストが昭和天皇の沖縄戦責任を追求するのは,この天皇の態度が発端であったと私は思う.
 一昨年の三月に宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が一般に発売されたとき,琉球新報は社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》を掲げた.

 上記の社説は《昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている》と述べているが,この社説は記述に不十分な点があるため,主要部分を以下の《》に引用し,次に私の註を施す.

最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。

 まず《最初は沖縄戦だ》の節は誤解を招く表現である.
 近衛文麿の行った終戦工作は Wikipedia【近衛文麿】に簡潔にまとめられているので,次の《》に引用する.

終戦工作
1941年 (昭和16年) 12月8日の太平洋戦争 (大東亜戦争) 開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年 (昭和17年) のイギリス領シンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
戦局が不利になりはじめた1943年 (昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。
1944年 (昭和19年) 7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくする様に考えていた。
1945年 (昭和20年) 1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。
戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、若槻禮次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衞は1945年 (昭和20年) 2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している。近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら
皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。
6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている。 だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった。

 琉球新報社説の《最初は沖縄戦だ》以下の記述は,日本が沖縄で「今一度戦果を挙げなければ」早期和平の「実現は困難」だと天皇が近衛の上奏に答えたかのような印象であるが事実はそうではない.近衛が皇道派の山下奉文を陸軍要職に就けて,徹底抗戦を主張する東條英機ら陸軍主流派を排除する粛軍を進言したのに対し,そのような粛軍は山下らが「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」であると答えたのである.これは《皇道派を嫌悪していた》昭和天皇にしてみれば,戦争継続を唱える東條英機のほうが,皇道派の山下奉文よりはまだましだったことを意味している.
 その結果,昭和天皇は,国の運命よりも沖縄県民の命よりも,己の好き嫌い人事を優先して東條らに与し,近衛の和平工作は蹉跌して日本は沖縄戦に突入していったのである.
 陸軍主流派の沖縄戦戦略については Wikipedia【沖縄戦】に次のように記述されている.

日本軍の戦略
……
さらに大本営では、1944年12月、新たに就任した大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長の宮崎周一中将が、上記の捷一号作戦の失敗を確認して、「島嶼攻防戦を放棄し、本土決戦の準備に全力を注ぐ」と戦略変更を行った。以後、兵力も物資も本土決戦の準備に集中させることとなる。また大本営は、1945年(昭和20年)1月に『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定し、「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」と戦略を明示した。 沖縄戦における日本軍の作戦は、これをもって「捨て石作戦」と呼ばれている。

 結局,昭和天皇が嫌う皇道派と結託した近衛は政治的に愚かであったが,早期和平によって沖縄戦を回避するよりも皇道派に対する嫌悪を優先し,それがために近衛らの早期和平の動きを遠ざけ,陸軍の沖縄「捨て石作戦」に与した昭和天皇はさらに愚かであった.
 上記琉球新報社説は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」をそのような意味に読者が理解できるように正確に書かれるべきであった.
(《ビジネスマンが書く日本史とは (十二)》に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 3日 (月)

昭和の時代考証 (一)

 先程のことだが,昨夜に録画したテレビ番組を再生して観ていたところ,番組が終わったのでテレビ放送に戻したらNHKの新朝ドラ『ひよっこ』であった.
 そういえば先日来のNHK新番組の宣伝で,ドラマの導入部が流れていたなあと思い出した.
 物語の背景は東京オリンピックの開催を控えた昭和三十九年 (1964年) 秋,茨城県の奥茨城村 (架空の村) で暮らす高校三年生のヒロインが卒業後に集団就職で上京し,ドラマが展開するという.
 茨木県北地域の自治体 (日立市,常陸太田市,高萩市,北茨城市,常陸大宮市,大子町) や観光団体が「茨城県北ひよっこ推進協議会」を立ち上げて,観光客誘致を行なっていくとローカルな報道があったと記憶している.
 ふむふむとは思ったのだが,番宣では,上京したヒロイン有村架純 (谷田部みね子役) ちゃんの後ろにセットであろう上野駅が見えた.
 この上野駅が,私の知っているその当時の上野駅と様子が違うので,おやおやと思った.

 で,今日の放送を何気なく見始めたとたんに,画面に「麦飯云々」のナレーションが流れ,茶碗に盛った飯がアップで映ったのだが,一瞬のことで断定できないものの,私には薄茶色の玄米飯のように見えた.押麦の黒条 (黒い部分) はなかったように思う.
 あれ?と思って録画を開始したが時既に遅し,そのあとの場面でヒロイン家族の食事シーンでは,出演者たちの茶碗にはちゃんと麦飯が盛られていた.
 うーむ,これは私の見間違いだろうか.
 とまれ,ヒロインは東京オリンピックの時に高校生三年生だから,私よりも年上の設定である.
 NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか.といいつつ爺さん実は有村架純ちゃんのファ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »