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2017年4月21日 (金)

昭和の時代考証 (五)-1

 週刊文春今週号 (4/27号) の連載コラム,亀和田武『テレビ健康診断 624回』のタイトルは「一九六九年の奥茨城にじんわり『ひよっこ』」であった.
 亀和田武は昭和二十四年一月栃木県の生まれで,義務教育の学年でいうと私より一学年上である.
 亀和田武はコラムニストであるという.コラムニストとはつまり雑文書きである.同世代の呉智英 (昭和二十一年生まれ) や関川夏央 (昭和二十四年生まれ) のような批評家としての才能があるわけではなく,さりとて一世代下の堀井憲一郎 (昭和三十三年生まれ) のような奇才でもなく,中途半端な雑文家であるが,週刊文春にはテレビ番組批評の連載コラムを書き続けている.
 その亀和田が今週号で『ひよっこ』について次のように書いている.

日本中が浮かれまくり、会社員と公務員の大半は、自らを中産階級と信じて疑わなかったあの時代、恩恵に浴せない人々がいた。
 遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
 みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ。奥茨城に戻れるのは、稲刈りや田植えなどの繁忙期だ。

(…中略…)
 東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。そして、そこに暮らす人々は、小金持ちを羨むことなく、つましく支えあって生きている。

 テレビ番組を批評するのはいいが,ドラマの筋書きを勝手に捏造してはいけない.
『ひよっこ』のヒロイン,矢田部みね子の父はなぜ東京に出稼ぎにでているか.
 亀和田は《みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ》と書いているが,そうではない.
 以前,不作の年があり,矢田部家はその時に農協に借金ができたのである.その借金がなければ矢田部家の家族は農業で食っていけるのであるが,米と野菜作りだけでは現金収入が足らず,農協への借金返済ができない.そこで父親は農閑期の畑を家族にまかせて,出稼ぎに出たのである.
 これはドラマ『ひよっこ』の大前提の話であるから,祖父と両親がみね子に家の経済状態を言って聞かせるシーンで,収入は米がいくら,野菜がいくら,母親の内職がいくら,と視聴者に説明されたのである.有村架純ちゃんの笑顔がかわいいので,亀和田は見とれて上の空でテレビを観ていたのだろう.きっとそうに違いない.
 で,みね子の父の出稼ぎの理由が借金返済のためであり,村が貧しいからではないから,奥茨城村で出稼ぎに出ているのはみね子の父だけという設定になっている.詳しいことは略するが,そのことが,村の「聖火リレー」でみね子がアンカー走者になることに繋がっていくのだ.
 では,不作の年に矢田部みね子の家だけが農協に借金を拵えてしまったのはどうしてか.
 これはドラマ中で説明がなされていない.妙な話である.
 夏が寒冷であったなどの理由であれば,奥茨城村一村全体が不作に見舞われるはずだ.
 無理に説明するとすれば,冷害はそれほどのものではなかったが,奥茨城村で矢田部家だけは,経営規模が元々小さい (所有農地が少ない),あるいは土地が悪くて反収が低い,といった理由で,不作の打撃が大きかったというところか.
『ひよっこ』の脚本家に農業知識を求めても仕方ないので,まあそんなところにしておこう.

 さて亀和田武は次のように書いている.

遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。

 私の郷里は群馬だが,私より一歳年上の亀和田は,群馬の隣県である栃木の生まれである.私と亀和田は同時期に北関東で少年時代を過ごしたのである.(余談だが関川夏央少年はその頃,新潟にいた)
 亀和田は,群馬,栃木,茨城の北関東各県の人々が,かつて《出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた》と断定的に言うが,それは私が知っていることと異なる.亀和田武は少年時代に北関東農村部の状況をその目できちんと見ていたのかと私は言いたい.
 北関東は,冬でも全くの農閑期ではなかった.栃木と茨城の農村事情は確認する資料を持っていないが,昭和三十年代の群馬は,渋川市以北の山間部は別として,南半分の関東平野北限地帯では二毛作が行なわれていた.つまり春から秋にかけては稲作が行なわれ,秋に稲を収穫したあと翌年の春までは麦が栽培されていた.従って群馬は出稼ぎ地帯ではなかったのである.資料を示せないが,まず間違いなく栃木も同じであり,群馬や栃木よりも気候温暖な茨城は言うまでもない.『ひよっこ』の脚本でも,みね子と仲の良い同級生の時子の家は米作と酪農を兼業しており,また同じく同級生の三男の家は米の他に果樹園芸をやっているという設定だ.(NHKの番組紹介サイトに記載がある)
 時子の家も三男の家も,どちらかといえば裕福で,出稼ぎ農家ではないのである.奥茨城村で父親が出稼ぎに出ているのは,借金を抱えている矢田部家だけというのであるから,ドラマ中の架空の村である奥茨城村は,昭和三十年代の北関東のありふれた村だと考えていい.
(この項,続く)

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