ビジネスマンが書く日本史とは (六)
前稿《ビジネスマンが書く日本史とは (五) 》に書いたように半藤一利氏は,名指しこそしていないが,自他共に認める戦後民主主義者であり戦後民主主義の旗手である大江健三郎を,《昭和10年代生まれの連中は、どうにもならないくらい "戦後民主主義の申し子"。アメリカイズムと言いますか、もうアメリカの影響を受けまくっている》と揶揄した.
大江健三郎を始めとするとする多くの戦後民主主義者に思想的洗礼を受けて育った私たち団塊の世代の精神の世代的特徴は「義」を尊ぶことにある.(後述)
戦後民主主義を批判 (《アメリカイズムと言いますか、もうアメリカの影響を受けまくっている》は単なる下品な揶揄であり,まともな批判ではないが) するなら,大江健三郎や加藤周一,鶴見俊輔らの名をきちんと示すのが礼儀であり義である.それができないのなら,半藤,出口両氏が自画自賛する二人の「教養」なんぞ,私たちが生きていく上で糞の役にも立たぬものだ.
半藤氏が,大江健三郎ほかの戦後民主主義者を嫌悪するのは,氏が昭和天皇の臣下を自任していることと通底している.そしてそれは半藤氏に軍隊経験がないことに基づいている.
いわゆる団塊の世代の,そのまた父親の世代は,天皇の名において招集されて兵站のない前線に送られ,天皇の名において上官に殴打され,天皇陛下万歳を強制されながら旧式銃を構えて突撃させられた.
戦後,彼らは死地から帰還し,自分たちと共に国のために死ぬものと信じていた昭和天皇が,盛装してマッカーサーを表敬訪問し,情けなくも並んで写真を撮り,生きながらえる道を模索したことを知った.
それ以来,戦地から復員した下級の兵たちは昭和天皇に背を向け,天皇を「天ちゃん」と呼んで軽侮するようになった.昭和天皇を偶像視する「臣一利」なんぞは,後方安全地帯にいた者のタワゴトに過ぎないのである.
しかし考えて見れば,半藤氏より少し若い大江健三郎にも軍隊経験はない.だとすると半藤,大江の違いは,想像力の有無であるに違いない.作家としての想像力以前に,人間としてまともな想像力があれば,先の戦争が終ってもまだ天皇の臣下=臣一利なんぞと,愚かなことを言うわけがないのだ.
とはいえ戦後,国民の戦争体験が風化を始めると,半藤氏らの世代の中に生き残った皇国史観の影響下に,いつしか「戦時中,軍部に対して拒否権を発動できなかった天皇」「平和を希求した天皇」像が現れ,定着するかに見えた.
しかしその一方で,「内奏」や「御下問」を通じて積極的に戦争指導を行った天皇像もまた国民の中に漏れ出てきた.
こうして国民の持つ昭和天皇のイメージが「平和を求めた悩める天皇」と「戦争指導者=大元帥」に分裂したとき,他ならぬ昭和天皇自身の口から,昭和天皇の本心が明らかになってしまった.
それは,昭和天皇と皇后が米国訪問から帰国した昭和五十年十月三十一日,午後四時から約三十分間,初めての公式記者会見を行った時の天皇の発言であった.
(続く)
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