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2017年1月17日 (火)

巡り来る 3.11 (一)

 前回の記事《震災後文学》の続き.

 木村朗子氏は《作家たちは「3.11」をどう描いてきたのか 》の末尾に津島佑子『ヤマネコ・ドーム』(講談社 2013年) を挙げて,次のように書いている.

津島祐子は震災による放射能被害の問題に真っ向から向き合った数少ない作家であった。表紙にアメリカの核実験で放射能汚染されたルニット島の汚染物を埋めた場所、ルニット・ドームの写真が使われているのが、ただの不気味な予言から、ここ数年で現実味を増したことに気づかされる。
ルニット・ドームには、除染して出た汚染物質を埋めてあるのだ。いま福島のあちこちに除染後の汚染物質をつめたフレコンバックが積み上げられている。あれは中間貯蔵施設に埋める予定なのである。ルニット・ドームは、近い未来の福島の姿である。そのことが早くに絶望とともに示されていたことを覚えておきたい。

 木村氏が《近い未来の福島の姿である》と書いているルニット・ドームは《作家たちは「3.11」をどう描いてきたのか》の文末に,上空から撮影した画像が掲載されている.
 ルニット・ドームは,中部太平洋マーシャル諸島にあるエニウェトク環礁 (Eniwetok Atoll) に存在する「放射能汚染土壌埋設施設」である.

 この環礁は戦前は日本の支配範囲にあったが,太平洋戦争末期の1944年の2月,エニウェトクの戦いの結果,米軍が支配した.
 戦後,米国はこの環礁から先住民を駆逐し,ここで1948年から1962年まで核実験を行った.
 戦時中に核兵器の研究を行っていた諸国のうち,原爆の実用化に成功するや広島長崎に投下した米国は,大日本帝国の日本国民向け宣伝文句以上の鬼畜にして,救いようがなく愚かであった.
 核兵器の破壊力しか研究の眼中になかった米国 (および核兵器保有諸国) は戦後,放射線被爆の人体実験に着手したのである.この悪魔の人体実験でモルモットにされた人々を「アトミック・ソルジャー」という.
 Wikipedia【アトミック・ソルジャー】には短い項目であるので,以下に解説のほぼ全文を引用する.

アトミックソルジャー (Atomic Soldier) とは、1945年~1960年代にかけて核実験演習に参加し、キノコ雲への突撃行為等によって放射線に被爆した兵士たちのこと。兵士たちには線量を測るフィルムバッジが付けられたが、被爆したアルファ線のみが測定された。また、兵士たちは事前に筆記テストを通じて、放射線の影響は取るに足らないものであると学習させられていた。
南太平洋エニウェトク島での水爆実験では、まとまった人数の兵士たちが動員されていた。水爆実験は年に数回、明け方に行われたが、兵士たちは整列した上で爆発に背を向け目を覆って立ち会わされた。


世界各国のアトミック・ソルジャー
アメリカ合衆国のみならず、イギリス、旧ソビエト連邦、中華人民共和国においても、残留放射能の残る核実験場で軍事演習や除染作業を行い、多数の兵士を被爆させて医学的データ等を採取した過去がある。
旧ソビエトでは1954年9月14日に南ウラル・チカロフスク州のトツコエで4万5千もの兵を動員した演習 (Totskoye nuclear test) も行われている。この実験は核爆発直後に敵味方役に分かれた兵士たちが戦闘演習を行い、実戦で戦闘が可能かを確かめるために行われた。この実験では多くの兵士が放射線障害の症状を訴えたとされるが、兵たちは秘密厳守を誓わされたうえ、記録が廃棄されたため実態は不明となっている。

194pxupshotknothole_encore_1953
アンコール実験で戦闘部隊本隊と連絡を取り合う陸軍通信部隊
(当ブログ筆者註;「アンコール実験」は1953年5月8日に実施された実験の名称.兵士たちの背後に見えるのは
原子雲である.画像キャプションは Wikipedia から引用した.画像はパブリック・ドメインである)

 

 上の画像は,繰り返し繰り返し行われた核実験のうち,1953年にネバダ核実験場で実施された「アップショット・ノットホール作戦」の際に撮影されたものである.
 このとき既に米国は,広島長崎における被爆者の状況を子細に承知していたはずであるから,アトミックソルジャーは悪魔への貢ぎ物以外の何物でもなかった.(この恐るべき人でなしの所業が一般日本人に広く知れ渡ったのは,広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』〈文藝春秋社刊[1982年];現在は文春文庫にある[1986年]〉によってであったが,ここでは触れない)

 自国の兵士を犠牲に供するだけに飽き足らず,米国政府は戦後手に入れたマーシャル群島の島民に悪魔の触手を伸ばした.
 Wikipedia【核実験】から当該部分を引用する.

マーシャル諸島での核実験
1946年7月1日からアメリカ軍占領下にある日本の委任統治領であるマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験を行い、1947年にアメリカ領となった後も核実験を継続し、エニウェトク環礁と合わせて67回の核実験を行った。
1946年7月、原爆実験クロスロード作戦では、日本の戦艦長門など約70隻の艦艇が標的として集められ、そこを原爆で攻撃して効果を測定した。1回目は7月1日に実験 (エイブル) し、2回目 (ベイカー) は7月25日に行なわれた。
その後、太平洋核実験場として指定され、1954年3月1日ビキニ環礁で水爆実験 (キャッスル作戦) では、実験計画では数Mtクラスの爆発力と見積もっていたものが、実際には15Mtの爆発力があったため予想よりも広範囲に死の灰が拡散して、多数の被曝者を出した。
・ビキニ環礁の島民は、強制的にロンゲリック環礁へ移住させられ、現在に至るまで帰島できない。
・日本のマグロ漁船第五福竜丸など数百〜千隻の漁船が死の灰で被曝した。
・240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、実験の3日後に住民全員が強制避難させられた。
・ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。

 Wikipedia のこの項目ではビキニ環礁だけ触れられているが,エニウェトク環礁に関しては Wikipedia【エニウェトク環礁】から一部引用する.

戦後住人は立ち退かされ、環礁は太平洋核実験場の一部となり、1948年から1962年までアメリカ合衆国の核実験に使われた。1948年4月30日のサンドストーン作戦(エックスレイ実験)を皮切りに、1952年には最初の水爆実験アイビー作戦 (Operation Ivy) が行われた。
核爆発による雲の調査のため1957年、1958年には幾つかのロケットが打ち上げられた。
1970年代に住民が島に戻り始めた。1977年5月15日、アメリカ政府は汚染された土壌などの除去を開始した。そして1980年に安全宣言が出されたが、30年を経ても島ではヤシの木や穀物が育たなかった。現在も島の北半分は放射能汚染レベルが高く活用できず、南半分で生活している。取り除いた放射能汚染物質をコンクリートで格納したルニットドームも存在する。プルトニウムの半減期は2万4000年だが、コンクリートの耐用年数は長くて100年であり、すでにひび割れも始まっている。

 ここに《1970年代に住民が島に戻り始めた。1977年5月15日、アメリカ政府は汚染された土壌などの除去を開始した。そして1980年に安全宣言が出された》とあるが,米国政府がやったことは汚染土壌を集めて,その上にコンクリートの蓋をしただけだった.そして根拠ない《安全宣言》のために島民は犠牲となったのである.これも人体実験と見ていい.
 以上,主に米国がやったことを書いてきたが,核保有国は皆同じであるとしていいだろう.米国の所業が広く知られているに過ぎない.
 一つ資料を追加すると,英文だが,英国ガーディアン (The Guardian) 紙の記事を挙げたい.

This dome in the Pacific houses tons of radioactive waste – and it's leaking

 ともあれ,木村朗子氏は次のように書いている.(再掲)

津島祐子は震災による放射能被害の問題に真っ向から向き合った数少ない作家であった。表紙にアメリカの核実験で放射能汚染されたルニット島の汚染物を埋めた場所、ルニット・ドームの写真が使われているのが、ただの不気味な予言から、ここ数年で現実味を増したことに気づかされる。
ルニット・ドームには、除染して出た汚染物質を埋めてあるのだ。いま福島のあちこちに除染後の汚染物質をつめたフレコンバックが積み上げられている。あれは中間貯蔵施設に埋める予定なのである。ルニット・ドームは、近い未来の福島の姿である。そのことが早くに絶望とともに示されていたことを覚えておきたい。

 この《ルニット・ドームは、近い未来の福島の姿である。そのことが早くに絶望とともに示されていた》に関連することが,最近のNHKで放送された.

(以下,《巡り来る 3.11 (二)》に続く)

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