酸性紙の古書
一昨日 (12/27) に放送されたテレビ東京「開運なんでも鑑定団」を観ていたら,C・ダーウィン著『種の起源』初版本が出品されたので驚いた.
この初版本は国立遺伝学研究所の蔵書で,鑑定依頼者は所長の桂勲先生である.
以前は所員に貸出していた図書であるが,現在は展示室に保管している.今後の管理方法を検討したいので価値を鑑定して欲しいという依頼であった.
鑑定結果は,やはりそれくらいの歴史的価値はあるよねーというものであったが,それはさておき,私はこの本の保存状態の良さに大層驚いた.
どういうことかというと,古い本,特に紙が大量に製造されるようになった十八世紀中頃以降の紙には「酸性紙」の問題があるからである.
Wikipedia【酸性紙】から以下に長文引用する.
《酸性紙 (さんせいし、英語:acid paper) は、製造過程で硫酸アルミニウム (硫酸ばんど) 等を用いて製造された酸性の洋紙。
酸性紙はヨーロッパでの工業化に伴う紙の需要に応じ、生産技術が開発された19世紀半ば (1850年代) から大量に製造されるようになった。20世紀に入り、紙の大部分がそれまで主だった植物の繊維から製造した紙から、木材を化学処理してセルロース繊維を取り出したパルプを原料とした酸性紙に取って代わられた。このパルプを網で漉き濾し、乾燥させたものが紙である。
これ以前の技術の紙はインクが滲み、活字や図画などを印刷するには適さなかった。しかし、それを解決するため、製造工程の途中で紙に滲み止めにロジン (松やに) などを原料とした (サイズ剤、サイジング) が施されるようになった。陰イオンを持つ鹸化ロジンエマルションを、同じく陰イオンを持つ紙の繊維のヒドロキシ基に定着させるためには、硫酸アルミニウムを添加して、錯体のロジン酸アルミニウムを形成させる必要がある。しかし、硫酸アルミニウムの持つ硫酸イオンは空気中の水分と反応して紙の中で硫酸を生じ、紙を酸性にする。この硫酸は紙の繊維であるセルロースを徐々に加水分解する作用を持ち、経年変化で次第に紙を劣化させる。
酸性紙は前述のようにセルロースの劣化が起こりやすいため、製造から50年~100年間程経過した紙は崩れてしまう。この問題は本を大量に収集し、長期間保管する使命を持つ図書館で特に問題視され、早くから酸性紙を使用していた分だけ欧米では深刻であり、1970年代頃からアメリカやヨーロッパ諸国を中心に「酸性紙問題」として社会問題となった。酸性紙に塩基性のガスを噴霧し、中和する作業も行われるようになったが、作業の効率に限界があるため、後回しになったものが次々と劣化している。》
『種の起源』の初版発行日は1859年11月24日であるから,ちょうど酸性紙が多く使用されるようになった時代の最初の頃である.
しかし幸運なことに,『種の起源』は酸性紙に印刷されたものではなかった.これは人類の知的財産保存のために大いに喜ぶべき幸運であった.
さて酸性紙の劣化崩壊といっても実際を見たことのあるかたは少ないであろう.
私の蔵書に,いままさに崩壊しつつある本があるので,御覧に入れる.
我が国には,長い年月にわたり刊行が続けられている『日本食品標準成分表』という出版物がある.これは文部科学省科学技術・学術審議会資源調査分科会が調査公表している日常的な食品の成分に関するデータ集である.
歴史的には,昭和六年に出版された『日本食品成分総覧』がその最初である.
これが改訂されたのは昭和二十二年で,我が国の敗戦後,都市部において未曾有の食糧不足が発生したときであった.
食料不足が治安維持に危機的状況をもたらしかねないとして,GHQは日本政府に指示して緊急食糧輸入をすることとしたが,何がどのくらい不足しているのか,我が国には基礎的資料がなかった.
そこでGHQは日本政府に,国民栄養に関する資料の作成を要請したのである.
この要請を受けた政府は,戦後の食料事情を勘案してとりあえず 104 の食品を選んで栄養成分を分析し,結果を『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』(編集は「日本榮養士會」,出版社は「第一出版株式會社」) にまとめて出版した.言い換えれば,昭和二十二年に都市部の我が国民はわずか 104 の食品しか食べていなかったのである.いかに当時の食糧難が深刻であったか,わかる.
私が企業で研究所長をしていたある日,偶然のことから古本屋でその『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』を見つけた.
二十年以上も前に八千円ほどしたから安くはなかったが,占領軍の政策に関わる貴重な学術資料が店頭に出たのを目にした以上は買っておくべきだろうと思って購入したのである.
中をあらためると,中に戦後の厚生省で使用されていた原稿箋が一枚挟まれていて,鉛筆で記入がなされていた.また書籍中にも数値の訂正や註記が多くあることから,これは厚生省の官僚が所有していたものと推察された.それがやがて御本人が死去されたかどうかして家族が故人の蔵書を古書店に売り払うこととなり,その中にあった『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』が私の目にとまったのだろう.
家族が故人の蔵書を売ったのだろうと想像されるのは,『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』に挟まれていた原稿箋の書き込みを一読すると,この本はその厚生官僚にとって人生の記念品であったのだろうと思われたからである.つまり誰でもこのような記念品は死ぬまで手放さないと思うからだ.
『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』は,入手したときから酸性紙に印刷されたものであることが歴然としてしていて,丸く焼け焦げた斑点状に劣化していたのであるが,久しぶりに取り出してみると,劣化崩壊がさらに進み,黒く炭化した部分がパラパラと脱落して穴になってしまった.もはや判読できない箇所が多数ある.『暫定標準食品輸入食品榮養價分析表』が刊行されたのは戦後の出版用途の紙が逼迫していた時期であるから,雑誌や新聞に使われるようなザラザラした粗悪な紙が使用されており,それが劣化を一層早めたのかも知れない.
現在,日本中にこれが何部が残っているか知るよしもないが,そのどれもが私の蔵書と同じく劣化崩壊状態にあるだろう.もちろん国会図書館ではマイクロフィルムとして保存されているから,紙の本が失われても資料としてなくなってしまうわけではないから安心だが,実物がなくなってしまうのはいかにも残念である.
このままこの本を朽ちるにまかせるか,あるいは,刊行の趣旨を述べた序文の,読めるところだけでもこのブログに掲載しておこうかを考えているところである.
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント