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2016年11月18日 (金)

鎌倉のパエリア (二)

 藤沢駅南口から鎌倉駅行のバスは,常盤から鎌倉大仏で知られる高徳院へと向かう.

 鎌倉と言う土地は,海を背にして三方を山に囲まれ,攻むるに難く守るに易い,いわば天然自然の城であった.ここに幕府を開いた頼朝は慧眼であったと言うべきである.
 私たちが「城」と聞いてイメージするのは,鎌倉時代のあと,戦国時代初期における戦時の要塞として作られた「山城」,さらには戦国後期に建造された堂々たる平山城 (ひらやまじろ) や平城 (ひらじろ) だろう.平山城や平城は要塞であると共に政治支配の拠点でもあった.
 だがしかし鎌倉時代は,『吾妻鏡』などの史料に城らしきものの記述があるが,それは Wikipedia【日本の城】には次のように書かれている.

平安時代後期、治承・寿永の乱においては『吾妻鏡』や『平家物語』、『山槐記』などの記録史料・日記に城郭の存在が記され、この頃の「城郭」は堀・掻盾(は誤植だろう) 逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードであると考えられている。

 この記載の通り,鎌倉に石垣や櫓で構成された戦国の「城」があった形跡はない.戦時には,鎌倉幕府の武士たちが居住していた地域に通じる街道を封鎖し,そこが防衛線になったのである.
 この防衛線が突破されれば,あとは乱戦となった.つまりこの時代に要塞に立て籠もる持久戦はなかったのである.
 実際,私たちは城がない時代の戦がどのようなものであったかを『太平記』に書かれたいわゆる「新田義貞の鎌倉攻め」を読んで知ることができる.
 新田の軍勢は,鎌倉に通じる細い街道が山を越えるところ (「切通」) で幕府軍と激しい戦闘を戦った.七つあった切通のうち,新田軍が鎌倉に突入せんとした三ヶ所,すなわち巨福呂坂,極楽寺坂,化粧坂のうち,最も有名なのは稲村ヶ崎を迂回した新田本隊が突入した極楽寺坂の戦いである.
 概略は Wikipedia【鎌倉の戦い】にあるので,一部を引用してみよう.

極楽寺坂
極楽寺坂 (極楽寺切通し) では幕府方の大仏貞直が陣を張り守備していた。しかし、幕府軍の守りは固く、坂の突破は難航したため、18日の未明に大館宗氏率いる新田勢の一部が稲村ヶ崎の波打ち際を通って鎌倉へ突入した。しかし長崎氏ら幕府勢の包囲攻撃にあい、稲瀬川付近で大館宗氏ら十一人が戦死、生き残った兵は退却し、宗氏子息の氏明が指揮を執り、南方の霊山に立てこもったとされている。『太平記』では宗氏の戦死は、大仏貞直の近習の本間山城左衛門の突撃のためとされている。他の複数史料が宗氏の稲村ヶ崎突破を書いており、また、稲村ガ崎の十一人塚に伝わる宗氏戦死に関する伝承などからも、『太平記』の記述には検討の余地があるとする説がある。

 ここに記載がある《稲村ガ崎の十一人塚》については,このブログの基になった個人サイト「江分利万作の生活と意見」に「小さな旅」のような文章を載せたことがあるが,それはニフティの個人サイトサービスの終了に伴って消滅させた.機会があればまたこのブログで稿を改めて触れることもあるだろう.塚は,この坂で奮戦討ち死にした十一人のもののふの記憶を現在に伝えるものである.
(続く)

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