もう十年も前の映画で「ALWAYS 三丁目の夕日」という作品があった.
Wikipedia【ALWAYS 三丁目の夕日】には次のような記述がある.
《昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描くドラマに仕上がっている。》
《安倍晋三 (第90代内閣総理大臣) 著『美しい国へ』(文藝春秋)の中で、「映画『三丁目の夕日』が描いたもの」として、本作品が書かれている。》
《評論家の川本三郎は「単なるノスタルジー」という批判に対し、次のように擁護している。
大きな過去は歴史として尊重されるが、祖父母や父母が生きてきた近過去は否定される。おかしな話である。近過去を大事に思い出す。それは自分の足元をしっかりと固めることであり、亡き人々を追悼することでもある。
— 川本三郎 「『ALWAYS 三丁目の夕日』のノスタルジーのことなど」『映画を見ればわかること2』 キネマ旬報社、2007年10月、250頁。ISBN 978-4-87376-295-1。》
《批評家の石岡良治は、当時の日本にあったはずの不衛生な臭いが表現されてない、無菌化されてると否定的なニュアンスで語っている。》
上の引用にあるように川本三郎は《近過去を大事に思い出す。それは自分の足元をしっかりと固めることであり、亡き人々を追悼することでもある》と言うが,「亡き人々」のやったことを批判することなく「追悼する」のはおかしい.公平でない.「ALWAYS 三丁目の夕日」が描いた昭和三十年代は,日本の企業が我欲のままに利益追求に走ったロクでもない時代だったのだ.
経済の高度成長期,公徳心は地に落ち,生活環境は劣悪で,人々は生活廃水を公共水域に垂れ流し,ドブ川は悪臭を放ち,夏には赤痢が流行した.
私の小学校時代,夏休みが終わって小学校に登校したら,同級生の机に花が飾ってあり,聞けば赤痢で死んだのだということが数回あった.
あの昭和三十年代が懐かしいか,またあの時代に戻りたいかと問われたら,即座に私は嫌だと答えるだろう.川本三郎の頭の中には,不衛生と環境破壊の昭和時代はなかったことになっているのだろう.
東京ガスの豊洲工場は昭和三十一年 (1956年) から昭和六十三年 (1988年) まで三十年間操業した.
いま問題になっている豊洲市場の問題に関して発言を続け,テレビ報道番組にも度々出演し,先月 (9/16) 東京都が設置した「市場問題プロジェクトチーム」の東京都専門委員に就任した森山高至氏が,
《森山安房守が豊洲の東京ガスの工場の時代を掘り起こし、そして築地の師匠ののまとめで土壌汚染の問題にメスを入れる! 》
と題したウェブコンテンツの中で,次のように書いている.
《豊洲のガス工場の製造はちょうど魚焼きグリルの中でサンマを焼いている感じをイメージすれば分かりやすいでしょう。まずガンガン煙が出てきてブシュブシュと脂が滴り落ちてくる、で下のトレーに焦げた油が溜まる、それが土壌。30年間分あるね。》
少し日本語としておかしいが,この《30年間分あるね》は,冒頭に示したように東京ガスが豊洲の工場敷地で約三十年間操業したことを言っている.
昭和六十三年,同社は都市ガスの製造方法を石炭を原料とする製法から天然ガスへの転換を完了し,ここに恥ずべき環境破壊の歴史に一応の幕 (現在の東京ガスの地球環境保全に関する姿勢と行為がどうであるかは,同社内部の社員しか知らぬことである) を引いた.
昭和における環境破壊の歴史,は一人東京ガスだけのことではなかった.
日本中がそうだった.
例えば新日本窒素肥料 (現在のチッソ) 水俣工場は,アセトアルデヒド製造工程で副生されたアルキル水銀化合物を,《1950年代から60年代にかけて水俣湾 (八代海) にほぼ未処理のまま多量に廃棄した》.(Wikipedia【水俣病】から引用)
静岡県富士市内の製紙会社 (大昭和製紙,本州製紙他) は製紙排水を垂れ流し,田子の浦港で激しいヘドロ公害を引き起こした.
こんなことが日本のあちこちで行われた.
私の大学時代の友人は,昭和四十七年に農学部を卒業して東海地方の某農薬会社に就職したのだが,三年後に自己都合退職した.そのときに彼が私に言ったのは「この会社は世の中にあってはいけない会社だ」という言葉だった.
その農薬会社は,不良品を工場敷地に穴を掘っては埋めているのだと彼は言った.その会社はあちこちに社有地を持っていて,そこにもどんどん農薬を埋めた.経営者は全く罪悪感を持っておらず,その経営姿勢に呆れた私の友人は退職を選んだのだった.
私が就職した会社も同じだった.品質が劣化した在庫品は,工場のなかに穴を掘っては埋めていた.若かった私は「食品会社がこんなことをしていいのか」と労働組合の役員に申し立てたのだが,労使協調の組合幹部に「あいつは正義を振りかざすインテリヤクザだ」と烙印を押され,同時に経営者にも疎まれ,その後は同期入社の中で人事評価ビリが私の定位置になった.(笑)
年金暮らしになってから暫くして,取締役の地位に昇った後輩に会う機会があった.
そのときに,私が知る限りの,過去において全国各地の工場敷地に埋められたとされる有害物質のことを話した.一部の工場を売却するらしいという噂を聞いたからである.
その後輩は,工場敷地の土壌汚染について調査して報告すると私に言ったが,しかし報告はなかった.そして今年の株主総会で彼は取締役から引いた.彼にとってはどうでもいいことだったのだろう.
東京ガスにも,豊洲の敷地に産廃を埋めることに抵抗した社員がきっといたと思いたい.が,その人たちも会社員としては不遇だったかも知れぬという気がする.
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