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2016年9月10日 (土)

一切は (補遺)

 意外に思ったのだが,昨日の記事《一切は》にたくさんの閲覧があった.
 少し強調したおきたいのだが,散文で使われる表現を俳句に持ち込んでいけないという法はない.その俳句が詩になっていればいいのである.
 つまり問題は詩になっているかどうかだ.
 今年の「松山俳句甲子園」における個人賞 (優秀賞) を得た俳句,

一切は足音と風 天の川

に対する私の疑問は,現代の高校生が果たして「一切は」なんていう表現を,自分の心から湧き上がってくるところの,必然性のある言葉として使っているのですか,ということなのである.
 もしかしたらこの句の作者は「一切」を語呂がいいからと簡単に使ったのかも知れない.その結果,句が明治大正の文芸のようになってしまった.
 句意からすれば「足音」は自分の足音に違いない.天の川が夜空に見えるところを一人か,あるいは数人で歩いている.会話もなく,あたりは静寂の闇に包まれ,自分の足音と風の音しか聞こえぬというのだから,街中ではない.
 ではどこだ.農村の外れの道か,山中の林道か,あるいは海岸通りか.句の鑑賞者には一向にわからぬ.たぶんこれは,天の川という題を与えられたからひねくり出したものである.それ故,作者がいまどこにいるのかの立ち位置も分明でない.つまりこの句は想像の産物なのである.違うというなら解題してみせよ.

 思うに,題を与えられて作る俳句が,必然性のない言葉の羅列が,詩と呼ぶに値するのか.そんなことを高校生にさせていいのか.大いに疑問である.
 夏井いつき先生はテレビ番組「プレバト」中でこの句を激賞しておられたが,こんなむりやり感のある俳句は,私にはどうしてもよいとは思えないのである.

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