恋のロンドン橋
昔の歌は素敵だ,という話.
私は水割りの酒は飲まないので,持っているウイスキー用のグラスはオールド・ファッションド・グラスが二つだ.
一つはもう四十年ほど前に買ったとても薄手の「たち吉」のもの.来客があった際に使うので五個か六個かを揃えて購入したが,今は陋屋を訪う人もなくなったので,一つ残してあとは捨てた.
もう一つは DURALEX の PICARDIE.
これはカフェとかレストランで使われる業務用グラスでは定番中の定番品.安くて武骨で,ぞんざいに扱っても割れないところがすばらしい.割れないから,買えば一生使える.麦茶でも牛乳でも,私は何でもこれで飲む.
いかにも高そうなグラスには高い酒を注がないといけないような気がしないでもないのだが,チープ感溢るる PICARDIE にはトリスが似合うような気がしないでもない.
そしてトリスに似合う昔の歌は,Jo Stafford にとどめを刺す.ような気がする.
というわけで,Jo Stafford を聴きながらトリスのグラスを傾ける.
三年前に私は《お電話ありがとう》と題した記事を書いた.
彼女の歌の中ではこの“Thank You For Calling (邦題;お電話ありがとう)”(YouTube は《Jo Stafford Thank You For Calling 》) が最高だと思う.
不実な男と,そいつを忘れられない女.
しみじみとトリスに似合う.ような気がする.
ところで,Jo Stafford の歌というと,これよりも“On London Bridge (邦題;霧のロンドン・ブリッジ)” (YouTube は《霧のロンドン・ブリッジ ジョー・スタッフォード/歌詞 》)を挙げる人が多いのではないか.
戦後の日本人の記憶にも残ったほどの Jo Stafford の大ヒット曲“On London Bridge”がどんな歌かというと,男女が電撃的な恋に落ちる出会いの歌である.
私もいい歌だと思うのだけれど,歌詞に理解できない箇所がある.
それを説明するために,“On London Bridge”の歌詞の一番を下に記す.
I walked on London Bridge last night
I saw you by the lamp post light
Then bells ring out in sleepy London town
And London Bridge came tumbling down
The sky was hidden by the mist
But just like magic when we kissed
The moon and stars were shining all around
And London Bridge came tumbling down
まず歌い出しは「昨日の夜,わたしがロンドン橋の上を歩いていたら,街灯のところにあなたが立っていた」である.
二人の出会い.それは結構なことだが,問題はそのあとだ.
唐突に「眠りに就こうとしていたロンドンの街に鐘が鳴り渡り,ロンドン橋が崩れた.夜の空は霧に覆い隠されていたけれど,わたしたちが口づけをかわしたとたん,まるで魔法のように霧が晴れて月と星が輝き始め,そしてロンドン橋が崩れた」と歌われるのである.
もちろん,一目会ったその日から恋の花咲くこともあることは,朴念仁の私でも承知している.
また相手の氏素性もわからぬのにキスしてしまうロンドン娘の無節操もここでは不問に付す.
恋に落ちたとたん,実際は冷たい霧の漂う暗い夜空なのに,心の中では鐘が鳴り月も星も明るく輝くという,舞い上がるような気持ちの高ぶりも理解できる.恋はそういうものだ.
しかるに,ここで突然にロンドン橋が崩れたのである.なぜだ.意味がわからない.
Just you and I over the river
Two hearts suspended in space
And there so high over the river
A miracle took place
Two empty arms found to love to hold
Two smoke rings turned to rings of gold
A simple dress became a wedding gown
When London Bridge came tumbling down
二番の歌詞は歌う.二人の心は空高く舞い上がり,そして奇跡が起きたと.
“Two empty arms found to love to hold”は容易に理解できる.
次に“Two smoke rings turned to rings of gold”だという.
もちろん事前に指輪なんか用意していないから,
「指輪はどうするの?」
「僕にいい考えがある.二人で煙草の煙の輪を吹いて,それを僕たちの結婚指輪にするのさ」
「ああ,とてもいい考えだわ,あなた」
ということになって,それが“Two smoke rings turned to rings of gold”なのだ.
それから,なにしろ突然に橋の上で結婚するわけだから,着ているのは普段着だ.
「ウェデングドレスはどうしましょう?」
「君は美しいから,その服でいいさ.普段着でもどんな花嫁よりもきれいだ」
「ああ,うれしいわ,あなた」
ということになって,それが“A simple dress became a wedding gown”なのである.
まさに 恋は盲目 恋は奇跡である.
しかるに,二人の恋の奇跡はロンドン橋が崩れたときに起きたのだ.なぜ橋が崩れ落ちなけりゃいかんのであるか.それがわからない.
魔法のように夜霧が消えて月も星も輝き,煙草の煙が結婚指輪になり,普段着がウェディンクドレスになったという愛の奇跡でじゅうぶんではないか.
なんで橋が崩れ落ちるのだ.余分としか思えないが,イギリス人の感覚では,恋に落ちることと橋が落ちることは,何か通じるところがあるのだろうか.
Wikipedia【ロンドン橋落ちた】から引用
(パブリック ドメイン画像)
“London Bridge came tumbling down”を辞書的に訳せば「ロンドン橋崩れた」であるから,日本人である私は,ただちにマザーグースの「ロンドン橋落ちた」を連想する.
日本人である私は,と書いたのは,日本語では橋が「崩れる」のも「落ちる」のも,「崩れ落ちる」と言うくらいであるから同じようなもんだが,英語のニュアンスではどうなんだろう.
Wikipedia【ロンドン橋落ちた】によると,マザー・グース「ロンドン橋落ちた (London Bridge Is Falling Down)」の原歌詞で「落ちた」は“broken down”または“falling down”であるらしい.
(当該箇所を引用すれば《1番の"broken down"の箇所を"falling down"とすることも多く、特にアメリカ合衆国では"falling down"が一般的である。》である)
この Wikipedia の解説によれば「霧のロンドン・ブリッジ」の歌詞の“London Bridge came tumbling down”は,マザーグースを引用しているのではなさそうだ.
ところが,だ.それじゃあこの歌詞の意味なんなんだと思って,この種のことに関する信用できる情報源である《二木紘三のうた物語 》を調べた私は腰が抜けるほど驚いた.
ここで演奏される mp3 の冒頭はなんと「ロンドン橋落ちた」の旋律ではないか.
二木紘三先生はそれについてこう書いている.
《なお、上のmp3作成に私が使った楽譜では、頭の2小節に「ロンドン橋落ちた……」のメロディが使われていますが、ジョー・スタッフォードのレコードにはありません。どういういきさつでそうなったかは不明です。》
その楽譜の出版元は海外だったのだろうか.もしそうだとすると,やはり「ロンドン橋落ちた」に「霧のロンドン・ブリッジ」は何か関係があるのかも知れない.しかし日本で出版された楽譜なら,楽譜の作成者が勝手につけ加えたものということになる.
また《二木紘三のうた物語》は,“London Bridge came tumbling down”の意味について全く触れていない.たぶん謎の歌詞なのではないだろうか.
「ロンドン橋落ちた」の成立年代は何世紀も前だとされるが,歌われているロンドン橋には,人柱の伝説とか,マイナスのイメージがある.恋にふさわしくない.
しかしそんな古い話ではなく,“On London Bridge”が作詞作曲された頃のイギリスで,日本には伝わらなかったけれど,そして今はもう忘れられたけれど,恋にまつわる何かしらの物語がロンドン橋にあったのではないだろうか.私が英語圏のウェブサイトにおける情報検索に堪能ならぜひやってみたいものなのだが.
(筆者註;ロンドンから遠く離れた同時代の日本のこと.「岸壁の母」という昭和二十九年の大ヒット曲の題を聞いても,若い人には何のことやらわからないだろうが,かつて戦中世代の方々で岸壁の母の物語を知らぬ人は一人もいなかったはずだ.それと同じことである.忘れ去られた物語.あー,例が古すぎですか.Jo Stafford と菊池章子はほぼ同時代の歌手なんですけどね)
| 固定リンク
「 続・晴耕雨読」カテゴリの記事
- エンドロール(2022.05.04)
- ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも(2022.03.22)
- マンガ作者と読者の交流(2022.03.14)
コメント