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2016年8月29日 (月)

滅びゆく和風ということ (一)

 週刊文春 (9/1号) の「私の読書日記」の筆者は,今週号は池澤夏樹氏である.
 その冒頭で氏は《もともと日本人は詩の才能に恵まれていると言っても、最近流行の空疎なニッポン讃美にはなるまい》と書いている.
 これに続いて最近出版された幾冊かの詩集についての書評が書かれているのだが,このブログでの話はそのことではない.池澤氏が指摘する《最近流行の空疎なニッポン讃美》のことである.

 出版界のことはよくわからないのだが,テレビ番組では確かに陳腐な日本讃美が目につく.
 そこで試みに「日本讃美」関連語でネット検索したところ,TBS系列のバラエティー番組「所さんのニッポンの出番」が今秋で終了するという情報がヒットした.
 この「所さんのニッポンの出番」は,一度みたら呆れるほど,池澤氏が言う通りの《空疎なニッポン讃美》な内容で,これじゃあ善良な国民の視聴率はとれない.視聴率低迷で番組放送打ち切りは納得の結果である.
 ところで,ネット上で日本讃美とされている番組が色々出てくる中に,テレビ東京の「和風総本家」も入っている.
 しかし私が思うに,この「和風総本家」という番組は全然日本讃美ではない.番組制作サイドの意図はどうか知らないが,結果的に視聴者が番組から受け取るメッセージはむしろ日本讃美とは逆になっている.

 私がテレビをよく観るようになったのはそんなに以前のことではない.だから過去に放送された「和風総本家」の内容は承知していないのだが,最近のものは Wikipedia【和風総本家】に次のようにある.

2011年頃より特定のテーマに基づいた人物や事柄を取り上げたVTRが中心の回、特に日本の職人に関する回が多く、初期のような日本独特のマナーや風習などの紹介は少なくなっている。現在ではほぼ毎回が職人について取り上げた回となっている。

 放送回によっては「現代の名工」が登場することもあり,陶芸や漆器,織物など伝統工芸の,工房を構えた作家が登場することもないわけではないが,ここで番組が《職人》と呼ぶのは市井の人々である.工房ではなく作業場で実用品を製作する技能者である.
 例えば先週の放送では,定番企画「世界で見つけたMade in Japan」に,京都府亀岡にある丸尾山で,たった一人で粘板岩を採掘し,砥石に加工販売している職人,土橋要蔵さんが登場した.

 かつて京都府のこの辺りは砥石の採掘加工が地場産業として盛んであり,土橋要蔵さんは家業「砥取家」を継いで三十五年になる.ここで採掘される青砥と呼ばれる粘板岩の中砥は,家庭用の日常使いの砥石であるが,中でも京都府亀岡産のものは最高級品とされる.

 しかし戦後,木造住宅建設の工法が様変わりし,現在は建築現場で大工が鉋や鑿を研ぐことがなくなり (予め加工された柱などを現場で組み立てるのが大工仕事になった),そのため砥石の需要は激減したのだという.
 それに追い打ちをかけたのが人造砥石の出現であった.
 今はもう一般家庭では砥石で包丁を研ぐ人はごく少数だろうし,使う砥石は人造砥石だと思われる.かく言う私は,二十代,三十代の若い頃は天然砥石を使用して父親に習った仕方で台所の包丁を研いでいたが,今はもう面倒くさいのでシャープナーでちゃちゃっと研いでいる.

 さて古くから日本各地で天然砥石が産出したものであったが,上のような事情でもはや店頭で探すことは難しくなりつつあるようだ.
 土橋要蔵さんは亀岡の砥石職人としては最後の採掘者になるだろう.鎌倉時代から八百年続いた亀岡の砥石が滅びるのはそう遠くない.
 こうして,砥石という道具そのものが商品ライフサイクルを終えたのが昭和という時代であった.
 私たちは昭和に,戦後に,二十世紀に,様々なものを捨て去って来た.取り返しがもうつかないのである.私たちが失ったものを思い出し偲ぶことの,どこが日本讃美なのであろうか.
(続く)

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