静かに行く者は (二)
失礼ながら,新劇女優が,経済学研究者向け専門書である経済学者評伝を読むとは思われないから,どのような経緯で山本安英が「静かに行く者は……」を知ったのかは不明である.
しかし私は今,一つの想像をしている.
おそらく山本安英は,書物でこの言葉を知ったのではない.
若き日の城山三郎が愛読した専門書 (著者不詳) に書かれていて,以来城山が座右の銘にした言葉は
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
である.
これは,イタリアの経済学者パレートが師から受け継いだモットーを,その専門書の著者が邦訳した文章そのものと思われる.
一方,山本安英が茨木のり子に与えた色紙の言葉は以下の通り.
静かにゆくものは すこやかに行く 健やかにゆくものは とおく行く
私はこの二つの違いは,文字で読んだか,あるいは耳で聞いたかの違いであろうと思う.
百科事典で得た私の知識に過ぎないが,山本安英の周囲にいた人々は,新劇関係者やいわゆる進歩的知識人であった.
それらの人々が,《ベニート・ムッソリーニを評価したため、彼の社会学理論はファシスト体制御用達の反動理論との批判を受け》 (Wikipedia【ヴィルフレド・パレート】から引用) たパレートのモットーを山本安英に教えるはずがない.
想像ではあるが,山本安英はラジオか何かで偶然
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
を聞いたのではなかろうか.誰のモットーかは知らずに.
こうして,元の言葉を正確には知らない山本安英の中で
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
は,いつしか
静かにゆくものは すこやかに行く 健やかにゆくものは とおく行く
に変化した.オリジナルを知っていれば,変えることはしなかったであろうが.いや,誰のモットーであるか知っていれば,そもそも座右の銘にはしなかったであろう.
山本安英は,この言葉の出典 (経済学専門書) を知らぬから,茨木のり子に色紙を与える時にも,それを言わなかった.
そのため茨木のり子は,すっかりこの言葉が山本安英のオリジナルであると信じこんでしまったのだろう.
(続く)
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