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2016年8月

2016年8月31日 (水)

滅びゆく和風ということ (二)

「和風総本家」には,番組中にいくつかの定番企画がある.
「○○密着24時!」「初めてのニッポン」「世界で見つけたMade in Japan」「日本という名の惑星」「日本を支えるスゴイ機械」「○○を支える人々」などである (以上は Wikipedia【和風総本家】からの引用).

 上に挙げた企画の中では「世界で見つけたMade in Japan」が,この番組の基調音を成している.
 例えば,「ばれん工房 菊英」(神奈川県中郡大磯町) 代表の後藤英彦さんは,「和風総本家」に過去二度取り上げられた.
 後藤さんは,馬楝 (ばれん) を作る職人である.
 馬楝は古く中国から伝えられたもので,我が国で改良されて木版・版画を摺る際に用いられている道具だが,それを作る職人は現在,ほぼ後藤さん一人になってしまったらしい.教材級の彫刻刀とセットになって文房具として売られている形だけ馬楝に似せた道具があるけれど,それは本来の馬楝とは全く別物なのだと,私は恥ずかしながらこの番組を観て初めて知った.だから後藤さんが作る昔ながらの作り方によるものは,偽物とまでは言わないが安価なものとは区別して「本馬楝」と呼ぶらしい.

 それで,馬楝を作る職人が絶えつつある現在,既に版画作家となっている人や趣味で版画を彫っている人たちは手持ちの本馬楝があるからいいだろうが,美術を志してこれから版画に取り組もうとする若い人たちは,本馬楝の職人が絶えたあと一体どうするんだろうと思わざるを得ない.
 ま,版画に門外漢の私がそんな心配をするのはお門違いであるけれど,しかしこうして我が国の貴重な職人技が絶えていくというのは,おそらくその職人技術に対する報酬が低すぎるためだろうとは容易に推測できる.「ばれん工房 菊英」の公式サイトにも,馬楝が商品として採算のとれないものであることが訴えられている.

 才能ある版画作家は,クリエイターだ.版画で収入をえられるだろうし,芸術家として社会的な評価もされるだろう.しかし馬楝の職人はどうか.馬楝は遂に道具でしかない.しかし,それが失われて初めて私たちはその価値を知るのである.
 ここに至って私たちは,日本文化というものの底を支えてきた様々な職人技が過去に置き捨てられてきたという事実を直視する必要に迫られるのだ.

 事は馬楝だけでない.
 前回の記事《滅びゆく和風ということ (一)》に書いた京都府亀岡の土橋要蔵さんが作る天然砥石だが,ポルトガルで民族楽器を製作している楽器作家が,楽器のネックに彫刻を施す際に使う鑿を研ぐのに使っていて,その作家は土橋さんの砥石を激賞していた.
 この砥石にしても馬連にしても,そして「和風総本家」が取り上げてきた他の職人技にしても,多くが不遇の技術である.
 番組のナレーションで「○○を作る職人は昭和三十年代には百人を超えていましたが,需要が激減し,今は□□さんほかの数人になってしまいました」と語られるのが,それこそお約束のようになっている.これが日本讃美であろうはずがない.
 「世界で見つけたMade in Japan」は,報われぬ職人たちに,欧米でのユーザーの称賛と感謝の声を動画にして届けるのが通例だ.それを観た職人たちが異口同音に「ありがとうございます.続けてきてよかったと思います」と言う.眼がしらに涙を浮かべるかたもいる.
 「和風総本家」は娯楽番組の体裁であるけれど,私たちが失ってきたもの,捨て去ってきたものの記録でもある.知的財産権とか番組制作側の都合はどうか知らないが,過去の放送分を販売してくれないかと思う.

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2016年8月29日 (月)

滅びゆく和風ということ (一)

 週刊文春 (9/1号) の「私の読書日記」の筆者は,今週号は池澤夏樹氏である.
 その冒頭で氏は《もともと日本人は詩の才能に恵まれていると言っても、最近流行の空疎なニッポン讃美にはなるまい》と書いている.
 これに続いて最近出版された幾冊かの詩集についての書評が書かれているのだが,このブログでの話はそのことではない.池澤氏が指摘する《最近流行の空疎なニッポン讃美》のことである.

 出版界のことはよくわからないのだが,テレビ番組では確かに陳腐な日本讃美が目につく.
 そこで試みに「日本讃美」関連語でネット検索したところ,TBS系列のバラエティー番組「所さんのニッポンの出番」が今秋で終了するという情報がヒットした.
 この「所さんのニッポンの出番」は,一度みたら呆れるほど,池澤氏が言う通りの《空疎なニッポン讃美》な内容で,これじゃあ善良な国民の視聴率はとれない.視聴率低迷で番組放送打ち切りは納得の結果である.
 ところで,ネット上で日本讃美とされている番組が色々出てくる中に,テレビ東京の「和風総本家」も入っている.
 しかし私が思うに,この「和風総本家」という番組は全然日本讃美ではない.番組制作サイドの意図はどうか知らないが,結果的に視聴者が番組から受け取るメッセージはむしろ日本讃美とは逆になっている.

 私がテレビをよく観るようになったのはそんなに以前のことではない.だから過去に放送された「和風総本家」の内容は承知していないのだが,最近のものは Wikipedia【和風総本家】に次のようにある.

2011年頃より特定のテーマに基づいた人物や事柄を取り上げたVTRが中心の回、特に日本の職人に関する回が多く、初期のような日本独特のマナーや風習などの紹介は少なくなっている。現在ではほぼ毎回が職人について取り上げた回となっている。

 放送回によっては「現代の名工」が登場することもあり,陶芸や漆器,織物など伝統工芸の,工房を構えた作家が登場することもないわけではないが,ここで番組が《職人》と呼ぶのは市井の人々である.工房ではなく作業場で実用品を製作する技能者である.
 例えば先週の放送では,定番企画「世界で見つけたMade in Japan」に,京都府亀岡にある丸尾山で,たった一人で粘板岩を採掘し,砥石に加工販売している職人,土橋要蔵さんが登場した.

 かつて京都府のこの辺りは砥石の採掘加工が地場産業として盛んであり,土橋要蔵さんは家業「砥取家」を継いで三十五年になる.ここで採掘される青砥と呼ばれる粘板岩の中砥は,家庭用の日常使いの砥石であるが,中でも京都府亀岡産のものは最高級品とされる.

 しかし戦後,木造住宅建設の工法が様変わりし,現在は建築現場で大工が鉋や鑿を研ぐことがなくなり (予め加工された柱などを現場で組み立てるのが大工仕事になった),そのため砥石の需要は激減したのだという.
 それに追い打ちをかけたのが人造砥石の出現であった.
 今はもう一般家庭では砥石で包丁を研ぐ人はごく少数だろうし,使う砥石は人造砥石だと思われる.かく言う私は,二十代,三十代の若い頃は天然砥石を使用して父親に習った仕方で台所の包丁を研いでいたが,今はもう面倒くさいのでシャープナーでちゃちゃっと研いでいる.

 さて古くから日本各地で天然砥石が産出したものであったが,上のような事情でもはや店頭で探すことは難しくなりつつあるようだ.
 土橋要蔵さんは亀岡の砥石職人としては最後の採掘者になるだろう.鎌倉時代から八百年続いた亀岡の砥石が滅びるのはそう遠くない.
 こうして,砥石という道具そのものが商品ライフサイクルを終えたのが昭和という時代であった.
 私たちは昭和に,戦後に,二十世紀に,様々なものを捨て去って来た.取り返しがもうつかないのである.私たちが失ったものを思い出し偲ぶことの,どこが日本讃美なのであろうか.
(続く)

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2016年8月27日 (土)

週刊誌ジャーナリズム

 もう一年以上前に見たブログ記事《週刊文春、またでっち上げ記事事件で裁判に負けた。》を持ち出す.

 このブログ《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》の筆者は昨年七月九日,週刊文春がある国会議員に,裏付けの乏しい記事で名誉を傷つけられたとして訴訟を起こされ,裁判で完敗したことをブログの話題にした.
 問題の文春記事は四年前の二月に掲載されたもので,裁判 (控訴審判決) は昨年七月八日に報道された.
 ま,この裁判のことはどうでもいいのだが,気になったのは《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》筆者が次のように書いていることだ.

本来の週刊誌として勝負すべき誌面で、外部ライターに、こういうネタで何か書いてくれと発注するようになってから、週刊文春も売ってなんぼの偽装商品製造販売業者になってきたなら残念だ。
活字にするならせめて裏を取ってから記事にしたらどうだ。
出版社が判決で「ほとんど裏付けが乏しいまま事実として掲載した」と言われた日には、週刊文春も昔あった「週刊アサヒ芸能」と同じレベルになったということか?

 《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏は

本来の週刊誌として勝負すべき誌面で、外部ライターに、こういうネタで何か書いてくれと発注するようになってから、週刊文春も売ってなんぼの偽装商品製造販売業者になってきたなら残念だ。

と書いているが,実は週刊誌の記事は,昔からこの人が言うところの《外部ライター》が書いて来たのだ.
 Wikipedia【週刊誌】にこうある.

出版社系週刊誌の記事を執筆する記者は出版社の正社員ではないフリーライターやフリージャーナリストである。フリーライターの無署名記事による週刊誌報道を確立したのは『週刊文春』で記者を務めた梶山季之である。多く週刊誌では取材専門の多数のデータマンが現場取材し取材データに基づいてアンカーマンが原稿を執筆する仕組みになっている。

 梶山季之,私たちの世代には懐かしい名前だ.
 梶山季之は,週刊誌草創期の昭和三十四年,『週刊文春』創刊に際しフリーライターグループ「梶山軍団」を作り名を売った (ただし私たち一般読者が「梶山軍団」の勇名を知ったのは,彼が作家として大売れに売れて以降のことである).まさに梶山季之こそは,Wikipedia【週刊誌】が書く通り,フリーライターが主導する現在の週刊誌ジャーナリズムを確立し,ついでに流行作家の執筆スタイルも確立した人物であった.

 《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏は知らぬだろうが,週刊誌の記事は,本来《外部ライター》が書くものなのである.あれだけの内容分量の記事を毎週,とてもではないが社員だけで編集出版できるわけがない.そんなことは,まともな者なら考えるまでもなくわかることだが,《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏は,平気で上の引用箇所のようなことを書いた.どうやら世間のことを知らぬ人のようである.

 週刊誌ジャーナリズムは,スキャンダル記事の完璧な裏がとれなくても,書くのである.それが週刊誌の使命だといってもいい.週刊文春も新潮も現代もポストも,裁判の敗訴は茶飯事なのである.

出版社が判決で「ほとんど裏付けが乏しいまま事実として掲載した」と言われた日には、週刊文春も昔あった「週刊アサヒ芸能」と同じレベルになったということか?

 この《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏が昨夏に上のヨタ記事をアップしたあと,週刊文春の快進撃が始まったのは周知のことである.

 上に《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏は世間のことを知らぬ人のようであると書いたが,《週刊文春も昔あった「週刊アサヒ芸能」と同じレベルになったということか?》が大爆笑だ.
 週刊アサヒ芸能は徳間書店から刊行されている週刊誌で,今も健在だ.
昔あった「週刊アサヒ芸能」》はどこから持ち出した嘘だ.世の中のことを知らぬならブログなんか書かないほうがいい.

 ちなみに週刊アサヒ芸能の特徴は,スキャンダルのスッパ抜き特ダネではない.
 同誌は,やくざ関係とエロ記事が売り物である.エロはわずか一ページ「淑女の雑誌から」のみとすることを方針としている文春とは,全く週刊誌としてのジャンルが違う.というより,アサヒ芸能がかつて「山口組の機関誌」と呼ばれた (組分裂前のこと) ように,アサヒ芸能は他のどんな週刊誌も同じレベルには到達できないのである.(笑)
 《阿智胡地亭の非日常Ⅱ》氏はアサヒ芸能を読んだこともないのに,こんなことを書いたのだが,ブログ記事は裏をとってから書きましょう.(爆)

 で,本題.
 週刊文春今週号 (9/1号 p.110) に,《小川敏夫さんに対するお詫びと記事の取り消し》という謝罪広告が掲載されている.文春を小川氏が訴えた訴訟で,控訴審で謝罪広告掲載が言い渡され,最高裁第3小法廷 (岡部喜代子裁判長) が今年五月三十一日付で文春側の上告を退ける決定をしたからである.

 一方,新聞は誤報の謝罪をしない.数行の訂正記事を,読者の目につかない隅っこのテキトーなところにこっそり載せるだけである.
 これに対して,間違ったらデカデカと誤報であったことを読者に知らせるのが週刊誌というものなのである.
 ついでに書くと,新聞はちゃんと裏がとれていても報道しないことがある.いうなれば新聞記事は大本営発表には抵抗しないのだ.先の戦争の前からずっと,新聞が信用できない所以である.

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2016年8月24日 (水)

どこの馬の骨管理栄養士

 雑学の専門家としてテレビで人気の林修先生のこと.
 あることについて林先生が知ってるか知らないかだけが眼目の毎日放送「林先生が驚く 初耳学!」は視聴していて楽しい.司会の大政絢さんは美人だし.

 問題はテレビ朝日「林修の 今でしょ!講座」だ.司会の宇佐美佑果アナは美人なのに残念である.
 林先生は,歴史などの本を読めば知識として身に着く (ただし単なる知識としてだけだが) 分野のことはほんとによく御存じで感心するが,学問レベルの見識が問われる分野のことになると,テレビ局 (問題を作成するゲストやスタッフ) のいいなりである.
 番組制作会社のスタッフがどこから探してくるのか,得体の知れない「講師」が出てきて嘘八百を並べ立てたりしているのを観ると,林先生がピエロみたいでかわいそうだなあと思ってしまう.

 昨日は昨日とて「林修の 今でしょ!講座」は二時間スペシャルの「体に良い夏野菜!その食べ方『もったいない』講座」と「瓦版~スクープ記事で読み解く江戸時代」 だったので,ちょっと覗いてみたら,案の定の様子だった.

 まず,「体に良い夏野菜!その食べ方『もったいない』講座」だ.
 管理栄養士でシニア野菜ソムリエとかいう肩書の岸村康代なる人物が登場した.
 余談だが,大体において野菜ソムリエを名乗る人間にロクなやつはいない.しかもシニアだとさ.ワインのソムリエを馬鹿にしているとしか思えぬ.
 それから管理栄養士なんてのは世の中に溢れている.学校を出ればもらえる単なる職業資格である.肩書じゃあない.有名総合病院の栄養管理部長などといった力量と実績あるかたのお話なら正座して拝聴するが.

 で,どこの馬の骨とも知れぬ怪しげな管理栄養士岸村康代が,生徒 (林修,早見優,松木安太郎,大久保佳代子) に「枝豆の栄養を逃さずに調理する方法は?」という問題を出した.あなたは枝豆をただ単に茹でたりしていませんか,それはもったいない食べ方ですよというわけだ.
 林修先生は,電子レンジで加熱調理すると答えた.
 早見優さんと松木安太郎氏の回答は省略するが,大久保佳代子さんは焼くとよいと答えた.
 林,大久保のお二人は,茹でると湯に栄養分が溶け出てしまうからという趣旨の回答であった.
 これに対してどこの馬の骨とも知れぬ怪しげな管理栄養士岸村康代は,「正解は〈フライパンで蒸す〉です」と述べた.
 その説明によると,電子レンジ加熱するのも,焼くのも,温度が高くなりすぎるので,蒸すくらいの温度がよいということであった.
 それにも文句はあるが,それはさておく.
 大問題は,画面に映された「枝豆をフライパンで蒸す」は,フライパンに枝豆が浸ってしまうくらいのたくさんの水が入っていて,しかも沸騰している.これでは鍋の代わりに蓋付のフライパンを使用しているだけではないか.もう全然「蒸す」になっていない.どこの馬の骨とも知れぬ怪しげな管理栄養士岸村康代は,蓋をして茹でることを「蒸す」のだと勘違いしているのである.その歳になるまで一体何を勉強してきたのだ.私は情けなくて腰から脱力し,椅子から転げ落ちてしまった.へなへな.

 もうほんとに,テレビで栄養関係の雑学番組を放送するのはやめて欲しい.頼むから.
 それから,「蒸す」と言いながら「茹で」てしまう岸村康代は,もっと調理の勉強をしてくれ.お願いだ.名門大妻女子大卒の名が泣くぞ.
 とボロボロに貶したが,番組の柱のもう一つ「瓦版~スクープ記事で読み解く江戸時代」は,講師が国際日本文化研究センター准教授である磯田道史先生で,こちらはもう実に観て楽しかった.講師の格が違うと,こんなにも番組がおもしろくなるのだなあと感心した次第である.

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2016年8月23日 (火)

夏休みアニメ

 小説,漫画,アニメ映画,テレビドラマなど様々なジャンルで用いられてきたアイデアで,人間の心と体は分離できる別のものという設定がある.
 海外文学には全く知識がないので間違っているかも知れないのだが,少なくとも日本では,東野圭吾の『秘密』がこのアイデアを使った最初の作品だった.
 細かくいうと「大人になった自分の意識」が「子供のときの自分の意識」転移するというSF小説が先行していたような記憶があるが,これはタイムトラベルSFの変奏曲としていいのではと思う.
 その種のSF作品は別として,東野圭吾『秘密』は,妻と娘の心と体が入れ替わるという設定 (このSF的設定に『秘密』の力点があるのではない) のもとで,夫婦の愛情を哀切に描き,《第120回直木賞、第20回吉川英治文学新人賞、第52回日本推理作家協会賞 (長編部門) にそれぞれノミネートされ、最終的には推協賞を受賞し》(Wikipedia【秘密 (東野圭吾)】) た作品で,東野圭吾はこれで大ブレイクしたのであった.

 この『秘密』の印象が鮮烈だったせいで,これ以後のものは例えば,男女高校生の心と体が入れ替わって起こるドタバタ青春ラブコメ,みたいなものばかりではないかと,最初から私は食指が動かなかった.
 ではあるのだが,この八月つまり今週公開のアニメ『君の名は。』がちょっと気になっている.はたして大人の鑑賞に耐える作品なのかどうか.(タイトルの「君の名は」に,日本語の作法として余分な句点「。」がついているのは,「モーニング娘。」の幼稚な二番煎じ小細工だ.またこの「。」のせいで,歴史的名作の菊田一夫『君の名は』への尊敬が感じられないのもNG)

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2016年8月22日 (月)

音がうるさい醤油(笑)

 食品には限らないのであるが,とりわけ食品の場合は,包装容器の品質と環境に与える影響のバランスが重要である.
 もうかなり前からのことだが,食品製造業者は,そのような観点から合成樹脂製容器の改良に取り組んできた.
 茶などの飲料用ペットボトルは,既にぎりぎりまで厚みを減らしている.
 しかし単純に厚みをどんどん薄くすればいいというものではなく,空気の透過性やボトル強度も考慮しながら少しずつ改良していくのである.
 昔の飲料ペットボトルは踏みつぶすときにバキバキと大きい音がしたものだが,最近のものはパキパキと簡単につぶれるようになっている.もちろんこの改良は食品メーカーとボトルメーカーの協力で行うわけだ.

 さて環境に対する負荷という点では,ボトルは薄ければ薄いほどよいわけだが,中身の食品の品質の点では必ずしもそうではない.
 最近,「キッコーマンいつでも新鮮味わいリッチ減塩しょうゆ卓上ボトル」という長い名前の醤油を買ってみた.
 キッコーマンのサイトにあるこの商品のコピーを下に引用してみる.

使いやすさとフレッシュキープ機能を兼ね備えた新開発の卓上ボトルだから、開栓後常温保存で90日間しょうゆの鮮度が維持でき、最後まで新鮮なままおいしくお使いいただけます。
一滴単位から注ぐ量の調節がしやすいスクイズ式(押し出し式)の、食卓で使用しやすい200mlボトルです。

 この商品の特徴は,敢えてボトルの厚みを増やして硬質にすることで空気の透過性を減少させ,中身の醤油の鮮度を三ヶ月維持できるようにしたことと,開口部を細くして《一滴単位から注》げるようにし,無駄に醤油を廃棄することを防ぎ,かつ結果的に私たちの食塩摂取量を減らしやすくしていることの二点である.
 もちろん環境には優しくないが,それは消費者の選択にゆだねようというのである.

 比較のために,ヤマサの全く同じコンセプト商品も買ってみた.
ヤマサ超特選減塩しょうゆ」である.
 同様に商品説明を下に引用する.

二重構造ソフトボトルで酸化を防いで鮮度を開封から90日キープします。一滴ずつ調整してお使いいただけます。

 この商品は,中身を小皿に注いでから食卓に置くと,ボトルが元の形に復元すると同時に空気を細い開口部から吸い込む.
二重構造ソフトボトル》と書いてあるが,キッコーマンの商品より硬質で復元力が高いのか,あるいは開口部が細いせいなのか,空気を吸い込む時に「ぴー」と音がしてうるさい.(笑)
 ヤマサのこの商品容器は,あと一歩の微妙な改良が必要であると思った.

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2016年8月21日 (日)

幕末大豆 (七)

 前稿の終わりに

さらに《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》の問題は,政府機関が日本産大豆を入手したとし,その後,二十世紀に栽培が本格化されるまでのことが曖昧なことである.
 なぜ大豆が伝播してから本格栽培まで五十年もかかったのか.
 《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》には次のように書かれているだけで,そのあとはいきなり二十世紀に飛んでしまうのだ.

と書いた.
 なぜ《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》には,アメリカに日本産大豆が伝播してから五十年間のことが書かれていないかというと,この総説の執筆者が持っているタネ本に書かれていないからであろう.それ以外の理由は考えられない.
 実際に農業をした経験がなくても,農学や植物学に関する基礎的な知識があれば,ネタ本に書かれていないことでも,「伝播から五十年も本格栽培まで時間を要したのはなぜか?」との疑問が当然湧くはずだ.疑問が湧けば,「何か障害があったのだろうか?」と,さらに調べただろう.
 ところがこの総説《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》の執筆者はそれをしなかった (できなかった).力量もないのに机の上で,タネ本をコピペして本 (資料) を作ってしまう人がやりがちなことである.

 その点で,加藤昇氏は,さすがに民間企業の研究開発部門長を勤めた経歴のかたであるから,アメリカにおける大豆栽培の歴史に農学の観点から踏み込んで調べられたようで,そのことが加藤氏の総説《大豆の話 》から推測される.
 事実,《大豆の話 Ⅰ-7 海を渡った大豆 》に次のようにある.

しかし、その後アメリカでは大豆栽培に取り組み始めて、いくつかの障害に直面することになるのです。それは、アメリカの土壌には満州や日本のような根瘤バクテリアが存在せず、そのことがダイズ育成の大きな壁となるのです。豆科植物は空中より窒素を取り込んで自分の栄養源とする優れた働きを備えています。豆科に属さない植物は窒素分をすべて土中から吸収しなければなりませんが、大豆のような豆科植物は根瘤バクテリアが働いて空気中に含まれている窒素ガスを利用できるのです。そこで当時のアメリカ人たちが考えたのが、人工培養の土壌バクテリアを大豆種子にまぶして播種すると大豆の根に根瘤バクテリアが付着して生育状態が改善されるという方法です。この方法を見つけたことにより大豆栽培は大きく前進することになりました。それまでは大豆を栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶというやり方で土壌バクテリアを広めつつ、作付け面積を広げていたので遅々として進まなかったようです。根瘤バクテリアを広めることにより、従来の栽培方法に比べて3-4倍の単収と大きな種子を収穫することが出来るようになったとされています。

 まさに加藤氏が書いているように,十九世紀末 (1888年) にマメ科植物に窒素固定能力を有する細菌が共生していることが発見されるまで,アメリカの農民たちは試行錯誤の努力を繰り返したのである.
 そのことを調べようともしなかった《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》の筆者は,こんなことを書いている.

「栄力丸」の乗組員から得た大豆種子、ペリー調査団から得た大豆種子は全米で育ち、農家から高い評価を得ることとなりました。彼らから、大豆が有する価値についての報告が特許庁に送付され、メディアにも多くの記事が掲載されました。1855年のある農業関係紙には、「自分は3年間大豆を栽培し、カナダからテキサスまで栽培を試みた。この高い能力を有する作物(大豆)は、とうもろこしが栽培されている地域(現在のコーンベルト地帯)での栽培が適しており、18~24インチの条間をもって栽培するのが適切である。鶏や豚には加熱処理をしてから給餌するのが良い」とする中西部の農家の談話が掲載されていました。

 この文章には,根瘤バクテリアのことが全く書かれていない.マメ科植物の栽培についての資料で根瘤バクテリアに触れないのは致命的な欠陥だろう.
 これはすなわち《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》の筆者には,幕末における日本から北米への大豆の伝播について書くだけの見識がなかったということだ.

 本来,このように農学の歴史に関わる学際的な総説は,大学農学部の研究者によって書かれるべきである.加藤氏の総説は氏の個人サイトに掲載されているものであるから,いつかは閲覧できなくなるであろう.そうなったときに植物油協会のサイトの《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》がレファレンス的資料になってしまうのは,まことに残念なことである.

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2016年8月20日 (土)

ルノワール展

 人生ハウツー本とでも言うのか,「成功する人は何事も先送りにせず今すぐやる人だ」とか「お金持ちになる十の生活習慣」とかいうタイトルの本が,電車の車内広告なんかでよく目につく.大抵は紙の書籍ではなく電子本だ.そして著者はどんな人なのか,聞いたこともない名前だ.
 いや,そういう本や著者を貶そうというのではありませぬ.中身を読んでないからね.
 たぶん嫌になるくらいホントのことが書いてあるのだろうと思う.
 先送りにしないことが成功の秘訣って,その通りだと思う.
 雑学テレビ番組の雄,「今でしょ」で有名な林修先生もそんなことを言ってた.
 しかるに私はというと,何事もすぐやることのできない人間なのである.

 国立新美術館で開催されているルノワール展は,四月から始まってこの八月二十二日までだ.明後日の月曜日で終わる.
 この期間中,会場がどれくらい混雑していたかということが,「混んでます」というツイート数でおよそわかるようなのだが,そのデータを見ると,展示が始まってから暫く経った五月と六月はそれほど混んでいなかったようだ.
 あとから考えれば,そりゃそうだよね,という結果である.

 それなのに,私はずるずると先延ばしにして観にいかなかった.
 そしてはっと気が付いたら終了の一週間前になっていた.
 これはいかんと思って先日の火曜日,朝イチで国立新美術館へ行ってきた.国立新美術館は火曜日が休館日だが,このあいだの火曜日はルノワール展終了間際だからであろうか,開館されていたのである.

 結果からいうと,混雑してはいなかった.絵を観るにはまあまあ快適の部類の込み具合だった.
 例えば『ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会』の前にはロープが張ってあり,絵のすぐ前は「一列に並んで立ち止まらずに歩きながら観る人たち専用のレーン」で,ロープの外側 (絵から少し離れた位置) は遠くてもいいからじっくり鑑賞したい人たちの場所という具合に分けられていたのだが,「立ち止まらないレーン」はスカスカに空いていたのである.
「じっくり鑑賞エリア」に立っていても,「立ち止まらないレーン」は人がいないのだから鑑賞の邪魔にはならない.それで私は「じっくり鑑賞エリア」で長いこと立ってこの名画を観たのであった.
 そんな状況だったから,会場内は逆行可能で,一度観た絵のところにまた戻って観たりもできて,通常休館日の火曜に出かけたのは正解だったかもしれないなと思ったことであった.

 さて今回のルノワール展の公式サイトに書かれている惹句を引用すると以下の通り.

ルノワールの全貌を代表作とともに辿る!

印象派時代の最高傑作
《ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会》初来日!

《都会のダンス》&《田舎のダンス》
 45年ぶりにそろって来日!

円熟期の代表作
《ピアノを弾く少女たち》もやってくる!

最晩年の知られざる大作
《浴女たち》初来日!

 ということで,見応えある絵画展であった.
 それなのに,夏休み中の女子中学生たちは,有名な作品の前をスマホに目を落として入力しながら,絵の前を一顧だにせず通り過ぎていくのであった.美術の先生に,観にいくようにと言われたから来ただけなのかな.
 ま,君たちはまたいつかその気になればパリに行けるからいいんだけどね.

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2016年8月18日 (木)

静かに行く者は (三)

 前稿までに書いたことについて訂正が必要になった.
静かに行く者は (一) 》で私は次のように書いた.引用部分を緑の字で示す.

 この「静かに行く者は……」が世に知られたのは,城山三郎『静かに 健やかに 遠くまで』(海竜社;現在は新潮文庫に) で,城山が座右の銘として紹介したことによるらしい.(城山三郎は平成十九年〈2007年〉没)
 そこで『静かに 健やかに 遠くまで』の Kindle 版を買って読んでみた.すると本文に件の言葉は現れず,著者あとがきにあたる「終わりに」に次のように書かれていた.

《本書のタイトルにした『静かに 健やかに 遠くまで』は、私の最も好きな次の言葉を縮めたものである。
「静かに行く者は 健やかに行く
  健やかに行く者は 遠くまで行く」
 いまとなっては、その書名も著者名も思い出せないが、高名の経済学者の業績と人物を紹介した本の中に出てきた言葉で、学生時代の終わりか大学教師になって間もない私が読み、すっかり、その虜になった本の中に出てきた言葉である。
 たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で、彼がモットーとして言葉として紹介されていた。原語では、
  Chi va piano, va sano
  Chi va sano, va lontano
 それこそローマ字読みで気持ちよく口ずさむことができ、くり返すうち、意味まで伝わってくる気がしてくるではないか。》

 なるほど,『静かに 健やかに 遠くまで』にこう書いてあったのかと確認できた。
 しかし,城山三郎が《学生時代の終わりか大学教師になって間もない》頃の《高名の経済学者の業績と人物を紹介した本》というと昭和三十年よりも前の出版物ということになり,無理を承知であれこれ調査はしてみたのだが,書名は全くわからなかった.
 ただ,城山が《たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で》と書いているのは,城山の記憶違いの可能性があるとも思われた.
 というのは,丸山徹『ワルラスの肖像』(勁草書房) を紹介したブログに,この本の目次が掲載されていたからで,それを抜粋引用すると次のようである.

《第一章 一八七〇年前後
     ――ウィーン会議から普仏戦争まで
     旅の経済学者/ウィーン会議(一八一四)/ウィーン体制の崩壊/
     二月革命(一八四八)/ドイツの発展/普墺戦争/普仏戦争(一八七〇)/
     イタリアの統一/新教授就任/ガーヴ・ド・ポー河の谷間にて/
     静かに行く者は健かに行く》

 この文章を書いたあと,さらに《静かに行く者は……》について調べを進めると,城山三郎が《静かに行く者は……》を座右の銘にしたと記しているブログには二種類あり,一つはその出典として上記の『静かに 健やかに 遠くまで』(海竜社,2002年) を挙げ,もう一種は随筆集『打たれ強く生きる』(日本経済新聞社,1985年) を挙げている.
 私は『静かに 健やかに 遠くまで』だけを読んだのだが,念のため今日,『打たれ強く生きる』(Kindle 版) も読んでみた.
 すると奇妙なことが判明した.
 『打たれ強く生きる』に収められているエッセイ「ぼちぼちが一番」には次のような箇所があるのだ.

経済学者ワルラスが好んだという言葉がある。
「静かに行くものは健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く」
 わたしもこの言葉が大好き、ひそかにこれまでの人生の支えとしてきた。これからもそうして行きたい。

 これは一体どうしたことだ.
 1985年に出版された『打たれ強く生きる』には,《静かに行く者は……》は《ワルラスが好んだという言葉》だと書かれているが,それから十七年後の2002年に出版された『静かに 健やかに 遠くまで』には《たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で》となっている.
 『静かに 健やかに 遠くまで』が出版されたのは,城山三郎の晩年である.これに対して『打たれ強く生きる』が書かれたのは,城山が『男子の本懐』『粗にして野だが卑ではない:石田禮助の生涯』などを著わして気力充実していた頃である.だとすれば『打たれ強く生きる』の記述の方が事実であろう.
 私が《ただ,城山が《たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で》と書いているのは,城山の記憶違いの可能性があるとも思われた》と書いたのは,実は正しかったのである.
 それにしても,まさか城山三郎ともあろう人が,若い頃の記憶だけでなく,作家として最盛期に自分が書いた本の内容を忘れてしまっていたとは,誰が想像できただろう.老いというものについて,粛然と思いを致さざるを得ない.

 以上,訂正を要することとは,《静かに行く者は……》がイタリアの経済学者パレートのモットー (の邦訳) であったというのは,城山三郎の記憶違いであったということである,この言葉はパレートの師であったワルラスの座右の銘 (の邦訳) であったとするのが正しい.
 従って,私が《静かに行く者は (二)》で,山本安英が《いや,誰のモットーであるか知っていれば,そもそも座右の銘にはしなかったであろう》と推測したのは余分であった.この箇所は削除する.

(続く)

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2016年8月17日 (水)

インチキ女医野澤真木子

 先程 (午後四時過ぎ),たまたまテレビ東京の「L4YOU!『女性が集まる専門外来』」という番組を観たら,野澤真木子という女医が,痔の患者はオリーブ油を摂るとよいと発言した.

 番組司会者の草野満代さんが「他の植物油は?」と質問したら,この女医は「オリーブ油は他の油よりも腸管で吸収されにくいので,大腸で便の滑りがよくなるのです」云々という趣旨の答えをした.

 トンデモである.栄養学の知識皆無のインチキ医者である.
 「オリーブ油が腸管で吸収されにくい」というのが事実なら,現在用いられている食事のエネルギー計算が根底から覆ってしまう.

 栄養学を勉強しなおせ.というか,元々医学自体もちゃんと勉強したことないんじゃないか.
 こんな無知女が女医と称して治療にあたっているとは,驚天動地である.
 医師免許剥奪せよ.といっても無理だから,女性の皆さん,この野澤真木子という女の治療を受けてはなりませぬと,ここに書いておく.
 民放テレビに出てくる医者にはトンデモ医者が多い (大抵はナントカクリニック院長とかいう肩書の開業医である) が,この女は特に酷いので驚いて腰から脱力した.へなへな.

 余談だが,この女はクリニック公式サイトに自分の写真を載せているが,テレビで見た顔とかなり違うので驚いて腰から脱力した.へなへな.
 何よりも事実を尊ぶのが科学であると私は思うが,女医の顔写真は別らしい.

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幕末大豆 (六)

 前稿までに,現在米国で栽培されている大豆の遠いルーツは日本産の品種であったと述べた.
 この日本産大豆の北米への伝播に関して,私たちが現在手にすることのできる邦文資料は二つある.
 一つは,かなり前に植物油製造会社に勤務されていた加藤昇氏が調査して発表した《大豆の話 》である.
 もう一つは,一般財団法人日本植物油協会がその公式サイトに最近掲載した《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」 》である.
 日本植物油協会による総説のほうが最近の調査に基づくものだからより正確だろうと思うと,それがそうでもなくて,明らかな誤りが見受けられる.例えば以下の各節.

1850年12月、アメリカの商船オークランド(Auckland)号が、香港から砂糖などの商品を積載してサンフランシスコに帰還する途中で、日本の樽廻船「栄力丸」が難破して漂流しているのを発見しました。

 ところが,Wikipedia【浜田彦蔵】によれば,次のようである.

幼い頃に父を、嘉永4年(1851年)の13歳の時に母を亡くす。その直後に義父の船に乗って海に出て途中で知人の船・栄力丸に乗り換えて江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月12日)に南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。

 この難破事故に限らず,歴史上の事象の発生が西暦何年であったかなんてことは,パブリックに参照される可能性の高い業界団体作成の資料としては決して間違って記載してはいけないものであるが,植物油協会の上記総説は嘉永四年を《1850年》と誤記載している.栄力丸が救助されたのは1851年が正しい.
 また次の箇所も誤り.

エドワード医師は、ニューヨーク農業学会、マサチューセッツ園芸学会と特許庁(Office of the Commissioner of Patents)にその大豆を提供しました(1862年にリンカーン大統領の指示によりアメリカ農務省が発足するまで、農業に関する業務は特許庁の所管でした。)。これらの機関は、その大豆種子を農家の間に広め、アメリカの農家が大豆を栽培する最初の動機となりました。アメリカにおける大豆のサクセス・ストーリーがここから始まりました。

 ところが,Wikipedia【アメリカ合衆国農務省】によれば,次のようである.

1849年、特許庁は新設されたアメリカ合衆国内務省に移管された。

 つまり,エドワード医師が大豆種子を提供した先は米国特許庁だとしているが,エドワード医師が大豆を栄力丸乗組員から贈呈された時,既に政府組織は改組され,特許庁は内務省に移管されてしまっていたのである.
 となると次に,この内務省内の農業所管部署の名称が何であったかが問題であるが,加藤昇氏の総説《大豆の話》に《農業委員会》とあるのがそれかも知れない.
 この総説《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》は,こういう誤りが調べればいくつも出てくるので,全体の信憑性が大きく疑われるのである.

 さらに《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》の問題は,政府機関が日本産大豆を入手したとして,その後,二十世紀に大豆栽培が本格化されるまでのことが曖昧なことである.
 なぜ大豆が伝播してから本格栽培まで五十年もかかったのか.
 《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》には次のように書かれているだけで,そのあとはいきなり二十世紀に飛んでしまうのだ.

「栄力丸」の乗組員から得た大豆種子、ペリー調査団から得た大豆種子は全米で育ち、農家から高い評価を得ることとなりました。彼らから、大豆が有する価値についての報告が特許庁に送付され、メディアにも多くの記事が掲載されました。1855年のある農業関係紙には、「自分は3年間大豆を栽培し、カナダからテキサスまで栽培を試みた。この高い能力を有する作物(大豆)は、とうもろこしが栽培されている地域(現在のコーンベルト地帯)での栽培が適しており、18~24インチの条間をもって栽培するのが適切である。鶏や豚には加熱処理をしてから給餌するのが良い」とする中西部の農家の談話が掲載されていました。

 私見であるが,この総説の執筆者氏は,この種のことを書くには基本的な知識,すなわち農学,植物学などの学問基盤も,実践知識も不足している.それ故,タネ本に書かれていないことは,そもそも疑問に思わず,だから触れることができないのである.
 言い過ぎのようだが,有体に言えば,この執筆者には総説を書くほどの力量がないということである.それが露呈しているのが,まさにこの,伝播から本格栽培までの五十年史なのである.

(続く)

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2016年8月15日 (月)

高貴(笑)な鳥頭

 竹田恒泰というタレントがいる.Wikipedia【竹田恒泰】によると

旧皇族の竹田家(旧竹田宮家)に生まれる。北朝第三代崇光天皇の25世子孫であり、明治天皇の女系の玄孫にあたる

とある.
 週刊誌の皇室関係記事にコメントをしたり,テレビ番組に出演することがあり,その際の肩書は作家とされることがある.これは,同じく Wikipedia【竹田恒泰】によると

2006年(平成18年)に著書『語られなかった皇族たちの真実』で山本七平賞を受賞

しており,それが作家と呼ばれる理由だろう.著書は,数だけは多い.
 しかし,血筋は良いのだが人格はかなり問題のある人物のようで, Wikipedia【竹田恒泰】には女子高生の太腿を盗撮したと書かれてしまっている.これはメディアに大きく報道されたのでご記憶のかたも多かろう.

2014年に自身が運営するブログに電車内で弁当を食べる際に頂きますと口にした女子高生に感動して太腿を盗撮した。その画像はブログ上にアップロードされて画像は削除されていない。竹田は「日本は大丈夫だ、と思いました。」と文を寄せている。当ブログ読者は「お隣の方も竹田さんに撮られてるって例え気が付かなくても嬉しくって心臓もドキドキしちゃいそうですね☆」と称賛のコメントを残した。

 さてその太腿盗撮男の竹田恒泰が,天皇が生前退位の意向を示されていることをNHKが報道した先月十三日,自分のTwitterアカウントで次のように発言した.
 以下《》は,livedoor NEWS からの引用である.

(2016年7月13日 19:53)
陛下が退位のご意向を表明されたというニュースが入ってきました!

 続いて翌十四日には次のように発言した.

(2016年7月14日 13:08)
なぜ産経新聞までも「生前退位」という言葉を使うのか? ここは「譲位」という言葉を使うべき。「譲位」なら生前を前提とするので不敬な「生前」の言葉を使わなくて済む。「退位」はただ位を退く意味。清朝の末代皇帝が退くのも「退位」だった。「譲位」は「生前」かつ皇太子に譲る事を前提とする。

 太腿盗撮男の竹田恒泰は前日に自分も「退位」と言っておきながら,それを忘れて翌日には新聞やテレビなどが一斉に「生前退位」と報道しているのは「不敬」だと書いている.
 この太腿盗撮男,品性下劣なだけでなく,頭も悪いようだ.

 太腿盗撮男の竹田恒泰が,一日経つとみんな忘れる鳥頭であるのはさておき,世は平成の今時に「不敬」などという言葉を持ち出すのはほとんど馬鹿に近い.慶應義塾大学大学院において非常勤講師として一時期勤務した経歴の持ち主であるが,クビになったと Wikipedia【竹田恒泰】にある.無理からぬことである.血筋だけでは学者になれないのだ.

 太腿盗撮男の竹田恒泰がいうところの「不敬」とは,不敬行為や不敬罪を意味する.戦前の我が国において,天皇,皇族など君主の一族に対し,その名誉や尊厳を害するなどの行為と,それによって成立する犯罪をいった.
 しかし日本国憲法下,現行法では「不敬」は存在しない.
 私は現在の天皇と皇后を心から尊敬しているが,昭和天皇は日本史上,最低の無責任野郎だと思っているので,このブログで何度かそう書いた.
 しかしそれを理由にしてこのブログが警察の捜査を受けないのは,不敬罪が存在しないからである.

 しかしまあ,こういう人物が慶大大学院では憲法を教えていたという.慶応の院生がかわいそうでならぬ.orz

 余談だが,太腿盗撮男の竹田恒泰が《なぜ産経新聞までも「生前退位」という言葉を使うのか? 》と書いているのが面白い.太腿盗撮男の竹田恒泰は産經新聞を戦前的新聞だと思っているわけで,ここは一つ,産經新聞は太腿盗撮男の竹田恒泰に抗議してもいいのではなかろうか.

 もう一つ追加する.太腿盗撮男の竹田恒泰は《ここは「譲位」という言葉を使うべき。》と書いている.言うまでもなく正しい日本語は《ここは「譲位」という言葉を使うべし。》である.日本語もおぼつかない太腿盗撮男に憲法を講義されてしまった慶應院生に深く同情する.

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2016年8月14日 (日)

静かに行く者は (二)

 失礼ながら,新劇女優が,経済学研究者向け専門書である経済学者評伝を読むとは思われないから,どのような経緯で山本安英が「静かに行く者は……」を知ったのかは不明である.

 しかし私は今,一つの想像をしている.
 おそらく山本安英は,書物でこの言葉を知ったのではない.
 若き日の城山三郎が愛読した専門書 (著者不詳) に書かれていて,以来城山が座右の銘にした言葉は
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
である.
 これは,イタリアの経済学者パレートが師から受け継いだモットーを,その専門書の著者が邦訳した文章そのものと思われる.
 一方,山本安英が茨木のり子に与えた色紙の言葉は以下の通り.
静かにゆくものは すこやかに行く 健やかにゆくものは とおく行く
 私はこの二つの違いは,文字で読んだか,あるいは耳で聞いたかの違いであろうと思う.

 百科事典で得た私の知識に過ぎないが,山本安英の周囲にいた人々は,新劇関係者やいわゆる進歩的知識人であった.
 それらの人々が,《ベニート・ムッソリーニを評価したため、彼の社会学理論はファシスト体制御用達の反動理論との批判を受け》 (Wikipedia【ヴィルフレド・パレート】から引用) たパレートのモットーを山本安英に教えるはずがない.
 想像ではあるが,山本安英はラジオか何かで偶然
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
を聞いたのではなかろうか.誰のモットーかは知らずに.

 こうして,元の言葉を正確には知らない山本安英の中で
静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く
は,いつしか
静かにゆくものは すこやかに行く 健やかにゆくものは とおく行く
に変化した.オリジナルを知っていれば,変えることはしなかったであろうが.いや,誰のモットーであるか知っていれば,そもそも座右の銘にはしなかったであろう.

 山本安英は,この言葉の出典 (経済学専門書) を知らぬから,茨木のり子に色紙を与える時にも,それを言わなかった.
 そのため茨木のり子は,すっかりこの言葉が山本安英のオリジナルであると信じこんでしまったのだろう.

(続く)

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2016年8月13日 (土)

幕末大豆 (五)

 前稿末に《さて上記のエドワード医師がイリノイ州に伝えた大豆とは別のルートで,北米に大豆種子が伝播したことも知られている.
 その別ルートとは,あの「黒船」の
マシュー・ペリーなのである.
と書いた.

 つい最近のことだが,農林水産省ウェブサイトの報道・広報コンテンツ《 aff 2016年6月号 特集1 大豆(1) 》に以下の記事が掲載された.

日本は中国から伝わった大豆を自国の食文化に取り込み、根づかせました。
その大豆を日本から母国のアメリカに持ち帰ったのが、19世紀、「黒船」で日本を訪れた東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーです。以来、アメリカでは搾油(さくゆ)用や飼料用として需要が高まり、やがて一大生産国となります。

 この記事の末尾に《取材・文/下境敏弘》とある.プロフィルの記載がないところから判断すると農水省の職員と思われるが,調査が杜撰すぎる.
 一般財団法人日本植物油協会は,農水省お膝元の大きな業界団体の一つではないか.何はともあれ,そこに取材に行かなくてどうする.お役所仕事よろしく省内の適当な部署で話を聞いて,そのまま書いてしまったのであろう.
 日本植物油協会へ取材に行けば,ペリー艦隊来航に先立つこと三年,難破船栄力丸の乗組員からエドワード医師を経由して,既に米国に日本産大豆が渡っていたことを教示されたであろうに.
 もしも下境某が手抜き取材をせずにきちんと調査をしたならば,ここは正しく

「その大豆を日本から母国のアメリカに伝えた一人に,19世紀,「黒船」で日本を訪れた東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーがいました

と書けたであろうに,中央官庁が誤情報を流布するという情けない事態が起きてしまった.
 実際には,日本植物油協会の《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》 (掲載日 2013年10月18日) に書かれているように,日本産大豆伝播の「黒船」ルートは,二つあった経路の一つであったのだ.

 前稿で,加藤昇氏の《大豆の話》も,日本植物油協会の《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》も,根拠文献が示されておらず,総説というものの書き方を知らないと指摘した.
 しかし自然科学の素養があるかたの書くものはさすがに違う.
 このブログ記事《ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」2012-12-25 09:15:10 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>》を御覧頂きたい.
 書き出しからして,下に引用するように,資料の提示なのである.

アメリカ農学会(American Society of Agronomy)が1973年に出版した専門書シリーズ16巻「大豆」の中に,次のような一文がある。
「… Brone (1854) wrote that two varieties of Soja bean, one “white”- and the other “red”-seeded, were procured by the Japan Expedition (Perry Expedition, 1853-1854), and both were used by the Japanese for making soy. …」(A.H. Probst and R.W. Judo “Origin, U.S. history and development, and world distribution”, Soybeans, American Society Agronomy, 1973 )

 これで読者は,American Society of Agronomy が 1973年に出版した専門書に,幕末の日本から米国に伝播した大豆に関する記載があるよと教えてもらったことになる.
 しかも文末に次のような謝辞が述べられている.ひょっとしたら大学などで教鞭を取っておられたかたかも知れない.おそらく私と同世代のかたではないかと思われるが,感服した.

去る12月の或る日下田市立図書館を訪れ,係の方から図書閲覧の便宜と情報提供を賜った。御礼申し上げる。

 こうしてその専門書が下田市立図書館に所蔵されていることを読者は知るが,これは伊豆の下田が「黒船」来航の地であるからと思われる.
 当該専門書は,大学の農学部図書館にはあるとしても,一般市民が利用できる普通の公立図書館にあるという種類の書籍ではないからである.

 ともあれ,総説的なブログ記事のお手本がこれである.日本植物油協会の記事はともかくとして,農水省の広報担当官は自らの社会的責任というものを自覚して欲しいものである.

(続く)

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2016年8月12日 (金)

静かに行く者は (一)

 もう四十年五年も前のことだ.
 大学農学部で同じ研究室所属の男が,実験の手があいた時に「コーヒー飲みにいかないか」と私を誘った.「近くに木下順二が来る喫茶店があるんだ」

 農学部の正門を出て本郷通りを北に暫く歩くと,その喫茶店はあった.
 とても狭い店で,「木下順二はカウンター席のそこら辺に腰掛けてお茶を飲むらしいよ」と,その東京生まれ東京育ちの男は教えてくれたが,実際に木下順二の姿をその店で目にしたことはないとも言った.
 私はその頃,木下順二にも『夕鶴』にも知識皆無だったので,コーヒーを飲みながら彼の『夕鶴』論を暫く拝聴して,また研究室に戻った.

「幸運の女神の前髪をつかめ」という言葉がある.
 幸運は,遭遇したらその一瞬,躊躇することなくつかまえねばいけないというのである.すれ違ってからでは,彼女を捉えようにも,もう間に合わないのだ.「幸運の女神の前髪をつかめ」は,続くフレーズでそのことを次のように言っている.
「幸運の女神は頭の後ろがハゲている」
 なんだそれは.(--;)

 それはそれとして,木下順二が来る喫茶店に,たまたまとはいえ入ってお茶を飲んだのだから,今から思えばそれを機会に私は『夕鶴』を鑑賞しておけばよかったのだ.しかし私はそうしなかった.
 こうして女神の前髪をつかまなかった私は,それ以後,演劇に無縁の人生を過ごすことになった.だから今でも,学生時代のあのことのあと,『夕鶴』を観に行けばよかったのにとつくづく思う.そうすれば,たとえ演劇鑑賞の楽しさに開眼することができなくとも「昔,若い時に山本安英の『夕鶴』を観ましてね,いやあ今でも目に浮かびます.えっ山本安英を観たことがない? ほうそれはそれは.いやいやいやアッハハハハハ.あの山本安英を観たことがない? それはそれはいやいやいやアッハハハハハ」などと,ひとを小馬鹿にして吹聴できたのである (← 不純).しかし実際は吹聴される側なのが残念だ.(--;)

 関川夏央『人間晩年図鑑 1990 - 1994年』(岩波書店;この稿とは別にまた触れる) を読んでいたら,日本を代表する詩人の一人である茨木のり子と山本安英の交友について書かれていた.
 関川夏央によれば,茨木のり子が亡くなったあと,彼女が三十一年間一人で住んでいた東京西郊の家には,山本安英の色紙 (夕鶴記念館が現在所蔵している) が残されていた.
 その色紙に書かれていたのは次の言葉である.

静かにゆくものは すこやかに行く 健やかにゆくものは とおく行く

 この言葉は,確か城山三郎の書いたものの中にあったものだと微かな記憶がある.山本安英自身のではないと思うが,確信がなかったので少しウェブを検索して調べてみた.
 するとわかったのは,以下のようなことである.

 この「静かに行く者は……」が世に知られたのは,城山三郎『静かに 健やかに 遠くまで』(海竜社;現在は新潮文庫に) で,城山が座右の銘として紹介したことによるらしい.(城山三郎は平成十九年〈2007年〉没)
 そこで『静かに 健やかに 遠くまで』の Kindle 版を買って読んでみた.すると本文に件の言葉は現れず,著者あとがきにあたる「終わりに」に次のように書かれていた.

本書のタイトルにした『静かに 健やかに 遠くまで』は、私の最も好きな次の言葉を縮めたものである。
「静かに行く者は 健やかに行く
  健やかに行く者は 遠くまで行く」
 いまとなっては、その書名も著者名も思い出せないが、高名の経済学者の業績と人物を紹介した本の中に出てきた言葉で、学生時代の終わりか大学教師になって間もない私が読み、すっかり、その虜になった本の中に出てきた言葉である。
 たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で、彼がモットーとして言葉として紹介されていた。原語では、
  Chi va piano, va sano
  Chi va sano, va lontano
 それこそローマ字読みで気持ちよく口ずさむことができ、くり返すうち、意味まで伝わってくる気がしてくるではないか。

 なるほど,『静かに 健やかに 遠くまで』にこう書いてあったのかと確認できた。
 しかし,城山三郎が《学生時代の終わりか大学教師になって間もない》頃の《高名の経済学者の業績と人物を紹介した本》というと昭和三十年よりも前の出版物ということになり,無理を承知であれこれ調査はしてみたのだが,書名は全くわからなかった.
 ただ,城山が《たしか、イタリアの経済学者パレートについての叙述の中で》と書いているのは,城山の記憶違いの可能性があるとも思われた.
 というのは,丸山徹『ワルラスの肖像』(勁草書房) を紹介したブログに,この本の目次が掲載されていたからで,それを抜粋引用すると次のようである.

第一章 一八七〇年前後
     ――ウィーン会議から普仏戦争まで
     旅の経済学者/ウィーン会議(一八一四)/ウィーン体制の崩壊/
     二月革命(一八四八)/ドイツの発展/普墺戦争/普仏戦争(一八七〇)/
     イタリアの統一/新教授就任/ガーヴ・ド・ポー河の谷間にて/
     静かに行く者は健かに行く

 少々お高い本なので買っていないが,この目次を見ると,「静かに行く者は健かに行く」は十九世紀の経済学者レオン・ワルラスに関わりがあるらしい.
 そこで「ワルラス」を検索語にしてさらに調べると,次のブログ《山屋の一日 》がヒットした.
 おお,ここに書かれていることこそピッタシカンカン (死語) ,根拠資料が示されていないが,創作とは思われぬ説得力ある説明であり,私が知りたかったことだ.ブログ《山屋の一日》筆者に感謝する.

 以上,この二日間,私がネットサーフィン (死語) して得た知識をまとめると以下の箇条書きの通りである.

・ "Chi va piano, va sano. Chi va sano, va lontano" は元々はイタリアの諺である.
・ 百四十年前,フランスの経済学者レオン・ワルラスに父オーギュスト・ワルラスが我が子を励ますために贈ったのがこの言葉だった.
・ レオン・ワルラスは "Chi va piano, va sano. Chi va sano, va lontano" を座右の銘としていたが,弟子であるヴィルフレド・パレート (パレートの法則は,私のような技術屋でも知っているほど,余りにも有名である) も "Chi va piano, va sano. Chi va sano, va lontano" をモットーとした.
  [以上の三項目は,ブログ《山屋の一日》筆者の示唆による]
・ 若い時に経済学徒であった城山三郎は,経済学分野の人物評伝のような書物にあった "Chi va piano, va sano. Chi va sano, va lontano" の和訳「静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く」に感銘を受け,以後これを座右の銘とした.
  [この項目は,城山三郎『静かに 健やかに 遠くまで』に書かれている]
・ このこととは全く別に,『夕鶴』で知られる新劇女優山本安英も「静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く」を座右の銘にしていた.
  [この項目は関川夏央『人間晩年図鑑 1990 - 1994年』による]

 失礼ながら新劇女優が,経済学研究者向け専門書である経済学者の評伝を読むとは思われず,どのような経緯で山本安英が「静かに行く者は……」を知ったか,不明である.
 しかし私は今,一つの想像をしている.それは……

(続く)

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2016年8月11日 (木)

幕末大豆 (四)

 前稿で,サンフランシスコに到着した栄力丸乗組員を検疫したエドワード医師が,乗組員から大豆種子を贈られたと書いた.
 実は三年ほど前,前記加藤氏の《大豆の話 》がウェブ上に現れてからかなり遅れて,一般財団法人日本植物油協会の公式サイトに《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」 》と題したコンテンツが掲載された.(掲載日 2013年10月18日)
 以下にこの記事から引用する.

エドワード医師は、ニューヨーク農業学会、マサチューセッツ園芸学会と特許庁(Office of the Commissioner of Patents)にその大豆を提供しました(1862年にリンカーン大統領の指示によりアメリカ農務省が発足するまで、農業に関する業務は特許庁の所管でした。)。これらの機関は、その大豆種子を農家の間に広め、アメリカの農家が大豆を栽培する最初の動機となりました。

 この記事では,栄力丸乗組員からエドワード医師に贈られた大豆は,ニューヨーク農業学会,マサチューセッツ園芸学会と特許庁(Office of the Commissioner of Patents)に提供されたとある.
 ところが先に紹介した加藤昇氏の書いた記事では,エドワード医師のその後のことは次のように書かれている.

エドワード医師はこれをイリノイ州に持ち帰って、農業委員会にこの大豆を提出しており、農業委員会はこれをイリノイ州の広域の農家に配布しています。イリノイ州といえば今やアメリカ大豆生産のメッカですが、この地に最初に持ち込まれたのが日本大豆であったということになります。1853年にその栽培報告書が提出されていますが、その中では大豆のことを"Japan Pea"、"Japanese Fodder"、"Japan Bean"などと表現されていたことは既に書いたとおりです。

 上に《農業委員会》とあるのは当時のイリノイ州政府に農業委員会があったのか,あるいは米国義会上院の農業委員会のことなのか,あるいは合衆国政府の機関なのかよくわからないのだが,私はこれに関する知見を持っていない.
 この加藤氏のサイトの調査は,一昔も前に書かれた大豆関係情報としては最も詳しいものだが,文献リストが記載されていないのが残念である.
 そして一般財団法人日本植物油協会の公式サイトにある《植物油 INFORMATION 第87号「アメリカ大豆搾油業の黎明」》も根拠文献が書かれていない.
 これでは読者は,この二説のいずれが妥当か調査 (=根拠資料の批判的検討) のしようがない.
 加藤氏も《植物油 INFORMATION》の筆者も,実は私は存じ上げているのだが,マネージャーであって研究者ではない.それで総説の書き方におけるトレーサビリティの重要性をご存じないものと思われる.残念だが,書き直して欲しいと言うほど親しくはないので仕方ない.

 さて上記のエドワード医師がイリノイ州に伝えた大豆とは別のルートで,北米に大豆種子が伝播したことも知られている.
 その別ルートとは,あの黒船のマシュー・ペリーなのである.
(続く)

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2016年8月10日 (水)

でもクロマツが群馬の木なんだって (四)

 前稿の末尾に,「赤城山に造林されたマツについて (中間報告)」について,

これは参考資料等をすべてまとめた出版物を研究会で報告する際の口頭発表要旨にあたるもののようである.

と書いた.
 すなわちこの資料は地方自治研究全国集会という公的な場において発表されたもので,発表後にかなり年月が経過しているが,特段にこれを否定する資料がウェブ上に見当たらないことからすると,内容に信用性があると考えられる.
 原文を読めばそれに尽きるのであるが,重要な箇所を (長文のため緑字斜体で) 抜粋引用する.

[引用開始]
(4) なぜクロマツを植林したのか?
 1858年以後、数年で植栽されたマツは、現在、100年生以上になっているはずである。赤城白川を下流から上流に向け、クロマツを求めて歩いてみると、龍蔵寺町近くで約100年生のクロマツの伐根を1本発見できた。同様な太さの松が、周辺にあった。クロマツは、海岸に多いマツで内陸には少ない樹種である。なぜ、船津伝次平は、クロマツを植えたのであろうか?
 既に記したように、牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」では、
  ① 植栽したクロマツは、江戸からクロマツの苗木を運んで植栽
  ② 赤城参道には、クロマツの並木があったことから、その実生苗を堀取り植栽の2説の記録が紹介されている。
 植栽本数は、75本/1,000平方メートルなので、400haでは、75万本必要となり、3年間で植栽したので、1年間では、25万本の苗木が必要となる。25万本を、江戸から運ぶのも、実生で掘り取り、植栽するのも容易なことではない。また、マツは、早春に植栽しないと、活着が悪い樹種なので、3月から5月の2ヵ月間程度で植栽したものと推察できる。クロマツの苗木は、江戸から持って来たのか? 並木近くから掘り取ったのか? 本年度は、結論が出なかった。
 県内でクロマツを捜すと、敷島公園や前橋城跡にクロマツの大木があることから、何かアカマツではなくクロマツを選択する意味が存在したはずである。この問題は、今後の検討課題とする。

[引用終わり]

 私はこの原稿の (一) で

従って実用的価値はアカマツ材とクロマツ材は同等だと思うが,ならば群馬の自然に逆らってまで,わざわざクロマツを植林したのはなぜか.然るべき理由があるはず.うーむ気になる.

と書いた.
 しかしながら群馬県の林業専門家による調査研究によっても,船津伝次平が赤城山南麓に,スギやヒノキではなく,アカマツでもなく,まさにクロマツを植えたという事実の然るべき理由は判明していないのである.
 実は私は林学方面について全くの門外漢でもないので,あれこれ想像するに,クロマツは古くから海岸沿いに防風防砂を目的として植林されてきたため,船津伝次平にはクロマツは強い樹木であるという先入観があったのではないか.クロマツは耐潮性に優れてはいるが,山麓に大規模植林した場合,他の樹種と比較してどのようなメリットがあるかは首を傾げるところがある.有体にいえば,クロマツの選定は,先入観に基づく誤解だったのではなかろうか.林業専門家が,船津伝次平によるクロマツ選定の理由を解明できなかったのは,そういうことであろうと思う.ただしこの植林事業は,赤城山南麓の涵養林として大きな成功を収めたのであるから,船津伝次平の偉業であることに変わりはない.

 さて,群馬県林業関係者にとって船津伝次平は幕末の偉人であるから,その業績の発端となったクロマツを,全国植樹祭群馬大会で香淳皇后が植える木に選定したのは,当時としては自然なことであったろう.しかも調べてみたら,皇后植樹の場所は他ならぬ赤城山南麓 (前橋市〈旧富士見村〉) なのであった.
 そういう経緯があったためと思われるが,昭和四十一年十月十一日に,県の木にクロマツが指定された

 以上をまとめると,(1) 群馬県の木がクロマツに指定されたのは,おそらく昭和二十六年の全国植樹祭で香淳皇后がクロマツを植えたことによる.(2) 香淳皇后がクロマツを植えたのは,おそらく船津伝次平の植林事業に因むものであろう.(3) 船津伝次平が赤城山南麓における植林事業にクロマツを選んだ理由は不明である.

 結局,私の疑問は晴れなかったのであるが,自分の郷里に関する知識が一つ増えたことで満足することにしよう.

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2016年8月 9日 (火)

不忠(笑)安倍晋三

 時事通信 (2016/8/9 13:36) によれば,安倍晋三首相は九日,長崎市で記者会見して次のように述べた.

天皇陛下のご公務の在り方などについては、天皇陛下のご年齢やご公務の負担の現状に鑑み、天皇陛下のご心労に思いを致し、どのようなことができるのか、これから十分に論議を行い、議論し、検討を行っていきたい

 天皇は昨日,自分は高齢のために公務を十分に果たせなくなるかも知れないが,そのような事態になっても,公務を減らしたりすることのないよう希望する (=生前退位) と国民に呼びかけた.
 これは,安倍晋三が述べたように《公務の在り方などについて》《公務の負担の現状に鑑み》《検討を行って》いったのでは,国民と天皇との関係において「公平」が保たれないことを指摘したものだ.

 しかるに安倍は,本日の記者会見において,天皇の御希望を真っ向から否定した.天皇はさぞがっかりしておられるだろう.
 天皇の御希望を叶えるためには皇室典範改正が必要だが,週刊文春先週号の報道によれば,安倍政権の有力な支持団体である「日本会議」は皇室典範改正に強い反対を表明し続けてきた.
 つまり安倍は皇室典範改正に反対なのである.これは本日の記者会見で述べたことと符合する.
 天皇にも人権を! 国民は,安倍の専横を許してはならない.

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でもクロマツが群馬の木なんだって (三)

 前稿の末尾に《「上毛かるた」には,群馬県人にもあまり知名度の高くない人物が登場する.上野国原之郷 (現在の群馬県前橋市富士見町原之郷) 出身で,幕末から明治時代にかけて活動した農業研究家の船津伝次平である》と書いた.
 実はこのブログで,上毛かるたと船津伝次平のことを書くのは二度目である.
 最初の記事は三年前の《鶴はシベリアから》である.
 三年前に Wikipedia【船津伝次平】に書かれていたのは次のようなことである.

群馬県民の間では、知名度だけはほぼ100%である。ただし、何をした人物かはほとんど理解されていない。知名度の高さの理由は、群馬県人の間で圧倒的な普及度のある上毛かるたの「ろ」の札(「老農船津伝次平」なる句)で船津が詠われているためである。

 たったこれだけであった.船津伝次平の人物と業績については全く触れていなかった.
 ほとんど百科事典項目が立てられているだけで中身のないこの記述は,かつて「秘密のケンミンSHOW」で,「上毛かるたは,書かれている内容を群馬県民が理解していない」ことの典型例として船津伝次平が嘲笑されたことをそのまま反映していたのである.
 しかるに現在の Wikipedia【船津伝次平】には,人物概要,略歴,逸話・趣味,顕彰,著書,登場する作品,関連項目,外部リンクの各細目が立てられ,百科事典の人物項目として必要な形が整えられている.
 これは郷土史家や群馬県の農林業者,研究者など関係者の編集によるものと思われ,三年前の,船津伝次平を愚弄するのが目的のような記述と比較すれば,天と地ほどの差がある.百科事典利用者としてありがたく感謝したい.
 Wikipedia【上毛かるた】についても,関係者が

子供時代を群馬県で過ごした人は、上毛かるたの読み札を暗記している。したがって、上毛かるたは群馬県だけと云う事実を、成人になって知る場合もある。

という,上毛かるたを嘲笑する記述を編集削除して, Wikipedia【上毛かるた】を,Wikipedia【船津伝次平】と同様の百科事典項目としての品位あるものにして欲しいと思う.

 さて,Wikipedia【船津伝次平】には伝次平の業績として次のことが書かれている.

1858年(安政4年)1月 - 名主に就任。赤城山植林事業に参入。

 《赤城山植林事業》とは,赤城山南麓の大規模な造林地をいう.
 群馬県林務部の報告書 (平成元年四月)「松くい虫被害跡地の造林指針」によれば,群馬県内のマツはアカマツが主で,クロマツは赤城山南麓の大規模な造林地に集中している.
 つまり群馬県内のクロマツは,船津伝次平による赤城山麓の植林事業によるもののようだ.
 これを詳しく解説してくれる記事はないかと探したら,容易にみつかった.
 それが「赤城山に造林されたマツについて (中間報告)」である.
 このテキスト自体には日付が書かれていないが,別に検索したところ,2002年10月29日~31日に徳島市で開催された第29回地方自治研究全国集会で発表されたものであることがわかった.
「中間報告」と題してあり,最終報告がウェブ上に見当たらないことから推測すると,これは参考資料等をすべてまとめた出版物の口頭発表要旨にあたるもののようである.
(続く)

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2016年8月 8日 (月)

でもクロマツが群馬の木なんだって (二)

 昨日の記事の末尾に《群馬の自然に逆らってまで,わざわざクロマツを植林したのはなぜか.然るべき理由があるはず.うーむ気になる》と書いた.
 幕末における日本産大豆の北米への伝播エピソードは中断して,こっちの話から片付ける.

 まず事の発端は,昭和二十四年に箱根の仙石原において,昭和天皇と香淳皇后の臨席をもって「愛林日植樹行事」が開催されたことだった.
 この植樹行事を契機として,翌年は山梨県で「全国植樹祭 第1回大会」が開催され、これ以降各都道府県の持ち回りにより毎年開催されている.
 そしてその「第2回大会」は昭和二十六年 (1951年) 四月四日,群馬県で行われた.
 Wikipedia【全国植樹祭】から一ヶ所引用する.

大会式典では、天皇の「おことば」、天皇・皇后による「お手植え・お手まき」行事

が行われるのだが,群馬大会で香淳皇后によって植樹されたのがクロマツだった.
 植樹される木を宮内庁が決めるわけはなく,もちろん群馬県当局が選定したはずである.
 その際,現在ならば県民に投票してもらうとかの公開的手段が採用されるであろうが,戦後間もない昭和二十六年では行政の発想として無理なことだったろう.
 ともあれ,誰が決めたか不詳であるが,皇后の植樹はクロマツとなった.

 では,なぜクロマツが選ばれたか.

 あらぬ方向に話は飛んで,「上毛かるた」から始めねばならない.
 一億総白痴化嘘情報拡散番組「秘密のケンミンSHOW」で,群馬県民を愚弄するのに用いられた,あの「上毛かるた」である.
 この番組の影響は Wikipedia【秘密のケンミンSHOW】にも及び,例えば次のようなことが書かれている.

子供時代を群馬県で過ごした人は、上毛かるたの読み札を暗記している。したがって、上毛かるたは群馬県だけと云う事実を、成人になって知る場合もある。

 馬鹿を抜かせ.
上毛かるたの読み札を暗記している》と,なぜ《したがって、上毛かるたは群馬県だけと云う事実を、成人になって知る場合もある》のか.論理がむちゃくちゃである.日本語になっていない.テレビばかり見ているからこんな文章しか書けなくなるのだ.
 また,わざわざ「上毛かるた」と称しているのに,それが全国でかるた遊びに使われているなどと考える馬鹿がどこにいるのか.
知る場合もある》という記述の根拠を示せ.まさか出典は「秘密のケンミンSHOW」だなどと抜かすのではあるまいな.
 Wikipedia がダメな点は,このようにまともな日本語になっていない上に,根拠を示せないテレビ番組の受け売り的な記載が見られることである.
 ついでに書くと,長野県の県歌「信濃の国」にも次のような記載がある.

「信濃の国」は、「日本で最も有名な県歌」とも言える歌である。現在でも、県外から (多くは国からの出向) 県幹部職員を着任させる時、県会に同意了解を求めるが、他県出身の人事を快しとしない県議員からは、「信濃の国」を知っているかどうかを詰問する風景が見られることもある。

 明らかにこれは,書いた人間が詰問という言葉の意味を知らないか,あるいは知っているとすれば長野県議会を侮辱するものである.そんなことが人事了承の条件になろうはずがないからである.もしこれが事実なら,新聞記事でいいから《詰問する風景が見られることもある》という根拠を示せ.まさか出典は「秘密のケンミンSHOW」 だなどと (以下略)

 それはさておき,「上毛かるた」に戻る.
 「上毛かるた」には,群馬県人にもあまり知名度の高くない人物が登場する.上野国原之郷 (現在の群馬県前橋市富士見町原之郷) 出身で,幕末から明治時代にかけて活動した農業研究家の船津伝次平である.
(続く)

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2016年8月 7日 (日)

でもクロマツが群馬の木なんだって (一)

 昨日の記事に

「和風総本家」のナレーションによると,群馬県は過去,経木の材料であるアカマツ材の大産地であり,それで経木の生産地でもあったのだとのことである.
 そういわれれば,群馬県には山でも平野部でも非常にアカマツが多いのに気が付いた.

と書いたら,その直後に群馬県生涯学習センターのサイトで,こんな記事を見つけた.引用する.

群馬は内陸部にありながらクロマツが多いのは、火山灰土の赤城山ろくなどに植林をしたからです。
クロマツは群馬県の木に指定されています。

 おいおい.(笑)
 クロマツを「県の木」に指定するってことは,アカマツよりも多いってことか.
 たしかに前橋とか桐生の公園ではクロマツも多く見かけるけれど,それは鑑賞用だろう.
 と思うのだが,用材としても使えるほど県内に植林したクロマツは多いのかと驚いた.
 クロマツ材は何に使うのだろう.
「和風総本家」で,桐生市にある経木工場の画面に映ったのは,確かにナレーション通りアカマツ材だったが.

 ちなみに,製材してしまうと,アカマツ材とクロマツ材の鑑別は非常にむずかしい.
 大昔,農学部の講義で,この二種の木材を鑑別できる人は日本でも数少ないと聞いた.
 その代わり,樹皮や葉,新芽がついている状態 (立木など) では容易である.鑑別法を書いた記事はたくさんある.

 従って実用的価値はアカマツ材とクロマツ材は同等だと思うが,ならば群馬の自然に逆らってまで,わざわざクロマツを植林したのはなぜか.然るべき理由があるはず.うーむ気になる.

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2016年8月 6日 (土)

経木の材料はアカマツ材だ

 昨夜放送の「和風総本家」を録画して観たら,私の郷里群馬県の経木製造工場が登場した.
 昭和二十年頃に群馬県全体で六十工場あったのに,今では五工場しか残っていないのだという.
 実は私が生まれ育ったのは前橋市の古い町名では宗甫分町というところである.
 宗甫分町の北側に紅雲町 (吉永南央さんの推理小説『紅雲町珈琲屋こよみ』は群馬県の高崎市がモデルだが,紅雲町という町名は隣の前橋市に実在する) があり,宗甫分町と紅雲町の境に,経木製造工場があった.番組を観ながらその工場を懐かしく思い出したが,今はもう廃業してしまっただろう.

 昭和の前半当時,食品等の包装資材に合成樹脂製のものはまだなく,肉魚介だけでなく納豆,味噌,佃煮など色々なものの包装に経木が用いられた.乾物屋の商品とか,八百屋の野菜や芋など,水分が少ないものは新聞紙で拵えた袋が使われたが.

「和風総本家」のナレーションによると,群馬県は過去,経木の材料であるアカマツ材の大産地であり,それで経木の生産地でもあったのだとのことである.
 そういわれれば,群馬県には山でも平野部でも非常にアカマツが多いのに気が付いた.
 となると,Wikipedia【経木】には

経木 (きょうぎ) とは、薄い木の板である。材質は主にスギ、ヒノキが用いられる。通常は柾目で削られている。

とあるが,これは訂正を要するのではないか.
 経文を書きつける経木は上の引用で正しいとしても,包装材の経木はアカマツ材を板目に削ったものだとしなければいけないだろう.
「和風総本家」,なかなか勉強になる.

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2016年8月 5日 (金)

幕末大豆 (三)

 食品会社に勤めていると,食べることや料理,それから日本の食文化に興味関心を持つようになる人が多い.
 日本の食文化について勉強すると,日本伝統食品の重要な素材である大豆について詳しくなる.そんな人たちのあいだで,常識というほどではないけれども比較的よく知られているのは,1850年12月に米国商船オークランド号 (Auckland) がサンフランシスコに帰還する航海途中で,日本の樽廻船「栄力丸」が難破漂流 (現在の南鳥島付近) しているのを発見して救助した歴史的事件である.そしてこれが北米に大豆種子が持ち込まれる契機となったのである.

 この遭難救助事件が有名であるのは,乗客の一人に,幕末に活躍した通訳にして貿易商であった濱田彦藏がいたためである.
 濱田彦藏についてはまた別の機会に書くかもしれないが,ここでは Wikipedia【浜田彦蔵】から《翌元治元年6月28日 (1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる》とあることを引用するにとどめる.

 さてオークランド号は,救助した栄力丸の乗組員十七名をサンフランシスコに連れて帰国した.
 当時の日本の状況はというと,日米和親条約締結が嘉永七年 (1854年) であるから,明治以降「鎖国」と呼ばれるようになった状態に我が国はあり,そのためオークランド号は日本の港に寄港して栄力丸乗組員を送り届けることができなかったのである.
 ここからあとの詳しいことは Wikipedia【浜田彦蔵】には記載がないが,オークランド号がサンフランシスコに到着しても,当然ながら検疫的見地から,直ちには栄力丸乗組員たちは上陸を許可されなかった.しかしその後,医師 Benjamin Franklin Edwards が乗組員の診察を行い,健康であると判断されたので彼らは晴れてサンフランシスコの地を踏んだ.
 この時,栄力丸乗組員からエドワード医師に,診察の謝礼として舟に積んであった大豆が贈られた.この大豆こそが,後に米国における大豆栽培農業に実際に用いられることになった最初の大豆種子なのである.
(続く)

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2016年8月 4日 (木)

幕末大豆 (二)

 前稿で,北米に大豆が伝播したのは十九世紀であるが,農業として (研究レベルではないとの意味) 栽培が始まったのは二十世紀の初めであると述べた.
 すなわち米国で豆料理といえば,十六世紀の欧州に起源を持ち,それが北米に伝えられて現在のような料理となったベイクドビーンズと,十九世紀のテキサス州が発祥の地であると一般に考えられているチリコンカーンであるが,いずれもインゲンマメの料理である.大豆の料理ではない.北米では二十世紀になってようやく大豆の農業栽培が始まり,しかも家畜飼料または油脂原料として生産された.その大豆を,十九世紀西部開拓時代のカウボーイたちが料理に使うはずがない.まるで時代が違うのである.

 さて,上に《北米に大豆が伝播したのは十九世紀である》と書いたそのことに触れておく.
 これについてウェブ上の資料として最初に現れたのは,植物油製造会社で研究開発のトップをしておられた加藤昇氏が十数年前に個人サイトに掲載した《大豆の話 》である.
 このサイトのコンテンツ《海を渡った大豆》の記述は,当ブログ筆者の知るところと同じであり信用に値する.
 これに対して Wikipedia【ダイズ】は問題のある記述がなされている.その部分を以下に引用する.

世界への伝播
ヨーロッパやアメリカに伝わったのは意外にも新しく、ヨーロッパには18世紀、アメリカには19世紀のことである。ヨーロッパにダイズの存在を伝えたのはエンゲルベルト・ケンペルだといわれており、彼が長崎から帰国した後、1712年に出版した『廻国奇観』において、ダイズ種子を醬油の原料として紹介した。ヨーロッパでは1739年にフランスでの試作、アメリカでは1804年にペンシルベニア州での試作が最初の栽培とされている。ベンジャミン・フランクリンの手紙の中に、1770年にイギリスにダイズ種子を送る旨が記してある。ヨーロッパでそれ以前にダイズの存在を知られていなかった理由として、既に他の豆類が栽培されていたことや、土壌が合わなかったこと、根粒菌が土壌にない場合があったことなどが挙げられている。

 この記述は全く支離滅裂である.
 まず,ケンペルの『廻国奇観』は《ダイズ種子を醬油の原料として紹介した》のであり,そのことと大豆の伝播とは無関係である.
 次に唐突に《ベンジャミン・フランクリンの手紙の中に、1770年にイギリスにダイズ種子を送る旨が記してある》と書かれているが,前後の文章との関係が不明だ.
 また《ヨーロッパでは1739年にフランスでの試作、アメリカでは1804年にペンシルベニア州での試作が最初の栽培とされている》とあるが,出典が不明である.

 Wikipedia【ダイズ】の記載は何が言いたいのかよくわからない文章だが,実は,米国に最初に大豆種子を持ち込んだのは日本人であることが知られているのだ.

(続く)

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2016年8月 3日 (水)

幕末大豆 (一)

 私のブログで,よく閲覧されている記事に《西部開拓豆料理 》と《カウボーイとアルミニウム 》がある.
 前者は,西部劇の中でカウボーイたちがよく食べているベイクドビーンズについて書いた.
 たくさんのブログで,ベイクドビーンズは大豆の料理であると書かれていることに対し,それは間違いであること指摘したものである.(食べてみれば大豆でないことはすぐわかるのに,なぜそんなことを書くのだろう〈笑〉)
 後者は,やはりカウボーイたちがベイクドビーンズなどの食事をするときに,食器にアルミの皿を使っていたとブロガーたちが書いていることについて,それも誤りであると指摘したものだ.

 ブログはブログから作られる.
 というのは言い過ぎかも知れないが,他人が書いた記事を,さも自分の知識経験や調査に基づくかのような書き方 (受け売り,孫引き,引用であることを示さない etc.) をする筆者が多い.
 こういうブロガーたちは,元の情報に関して自分で確認をせずにそのまま書く傾向があり,そのため伝言ゲーム的に情報の歪曲が広まり,最後は大嘘になってしまうのである.
 ベイクドビーンズが大豆料理かどうかなんてことは,嘘記事を書く前にちょっとの手間をかけて Wikipedia【大豆】を読んでから書けば,恥をさらさずに済むことなのである.
 では以下に Wikipedia【大豆】から引用する.

ダイズが伝播後19世紀にかけては、アジア圏以外では重要な作物とはみなされておらず、緑肥や飼料作物としての生産に留まっていた。20世紀に入り搾油用の需要が拡大していった。ヘンリー・フォードは、油脂の採取、繊維・プラスチックの開発目的で大豆農園を経営していた。作物 (油糧作物) として注目されるようになったのは1920年代以降であり、ヨーロッパで食料として初めて収穫されたのは1929年とされる。アメリカで本格的にダイズが栽培されるようになったのは、1915年にワタミハナゾウムシの侵入によってアメリカ南部の綿花が大打撃を受け、それまでアメリカの製油業の中心であった綿実油が不足してからである。ワタに代わる新たな製油材料として、それまでも徐々に栽培を拡大させてきたダイズは一気に脚光を浴びることとなった。1920年代には製油用や飼料用としての需要の高まりにより、さらに大規模に栽培されるようになった。

 ここに簡単に書かれているのは,北米大陸に大豆が伝播したのは十九世紀 (後述) ではあるが,栽培されるようになったのは《1915年にワタミハナゾウムシの侵入によってアメリカ南部の綿花が大打撃を受け、それまでアメリカの製油業の中心であった綿実油が不足してから》だという事実である.
 しかも重要なことは,北米で大豆の栽培が始まった二十世紀以降も,大豆は大豆油の原料または家畜飼料として栽培されてきたということである.アメリカ人にとって大豆は,豆として料理に使う食材ではなかったのだ.(今でもそうである)

 西部劇 (特に昔のテレビ番組) について書くブロガーたちの記述を読んでいると,その一定部分は,実は西部劇の時代,西部開拓時代がいつだったか知らないのではなかろうかという気がする.
 アメリカ独立戦争 (1775年4月19日から1783年9月3日),南北戦争 (1861年4月12日から1865年6月) そして南北戦争直後に始まる西部開拓時代 (1860年代に始まり1890年のフロンティア消滅までの時代区分) は中学校で習う基礎知識中の基礎知識だ.
 そしてこの西部開拓時代が西部劇の主な舞台なのである.

 ちなみに,教科書にはないけれど,ワイアット・アープら市保安官たちとクラントン兄弟によるOK牧場の決闘 (1881年10月26日) がいつの時代の話なのかは古い映画ファンなら知らぬ者はいない.
 これは日本でいうと清水次郎長が当時の「賭博犯処分規則」により静岡県警に逮捕された明治十七年 (1884年) の三年前のことである.(この年の四月に天田愚庵が『東海遊侠伝』を出版している)
 清水次郎長は明治の人物であり,アメリカでいうなら西部劇の時代の人だったと言うと驚く人がいる.このように幕末から明治にかけては,日米の歴史を突き合わせて勉強するとなかなかおもしろいのである.

(続く)

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2016年8月 2日 (火)

正確さを欠く雑学テレビ番組

 日本テレビ「世界一受けたい授業」(7/30) を録画しておいて観た.
 この放送で取り上げられた話題の一つ《名作「ローマの休日」の大スキャンダル! ハリウッドに最も嫌われた男の正体とは!?》は,映画『ローマの休日』の脚本を書いた人物についてであった.
 まず Wikipedia【ローマの休日】から,Wikipedia の記述詳細を示すために,少し長いが,以下に引用する.

概要
ウィリアム・ワイラーが製作・監督。ローマを表敬訪問した某国の王女が滞在先から飛び出し、一人でローマ市内に出て知り合った新聞記者との切ない24時間の恋を描いている。トレビの泉や真実の口など、永遠の都ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。
王女をオードリー・ヘプバーン、新聞記者をグレゴリー・ペックが演じている。この時に新人だったオードリー・ヘプバーンは1953年度のアカデミー賞において、アカデミー最優秀主演女優賞を受賞している。
この他に衣裳のイーディス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞をまた脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀原案賞をそれぞれ受賞した。
ただしイアン・マクレラン・ハンターの受賞については、この作品はもともとダルトン・トランボが執筆して当時の赤狩りでハリウッドを追われたため、名義を借用したものであった。アカデミー賞選考委員会は1993年にダルトン・トランボへ改めて1953年度最優秀原案賞を贈呈している。

監督ウィリアム・ワイラーと脚本ダルトン・トランボが男女の出会いと別れという月並みなテーマを、フレームに映る全ての事実の積み上げと互いの細かい感情のやり取りから普遍的なお伽話にまで昇華させた映画となった。

製作
製作決定
本作の脚本家であるダルトン・トランボが、この可愛い王女の独創的な物語を書き上げたのは、1940年代の半ば頃で、この脚本を当時の映画製作会社リバティ社が映画化権を取得したが、取得に当って映画監督のフランク・キャプラが大きな役割を果たしている。1948年にリバティ社がパラマウント社に買収された後に、フランク・キャプラを監督にして製作に入ることになった。しかしこの時にキャプラがエリザベス・テイラーとケーリー・グラントでの配役を提示したが、製作費で会社側と折り合えず、結局キャプラは降りてしまった。
その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーが、この脚本を知りローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ウィリアム・ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。
製作時にアメリカ本国ではマッカーシー上院議員らによる「赤狩り」と呼ばれる非米活動調査委員会での共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でもハリウッド・テンと呼ばれた人物たちがパージされ、本作の脚本家であるダルトン・トランボもその一人であったため友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが本作の脚本にその名前をクレジットした。ウィリアム・ワイラーがローマへ携えた草稿はトランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。ワイラーはイギリスの作家ジョン・ディントンを雇い、その草稿に磨きをかけて製作中に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時に画面に出された脚本家のクレジットはハンターとディントンが共有した。

 この『ローマの休日』の脚本を巡るダルトン・トランボ,イアン・マクレラン・ハンター,ジョン・ディントンの関係は,もう二十年以上も前 (1993年) から有名な,映画ファンなら知らぬ者のないエピソードである.
 ではなぜ先日放送された「世界一受けたい授業」が,《名作「ローマの休日」の大スキャンダル! ハリウッドに最も嫌われた男の正体とは!?》などと最近わかった事件のように取り上げたのか.
 これは,三年前に出版された書籍『ローマの休日を仕掛けた男~不屈の映画人ダルトン・トランボ~』(ピーター・ハンソン著,中央公論新社,2013年10月発行) が映画化され,日本ではこの七月に公開されたのが理由である.
 つまり,「世界一受けたい授業」の惹句《名作「ローマの休日」の大スキャンダル! ハリウッドに最も嫌われた男の正体とは!?》は,なんのことはない,映画の宣伝なのである.

 それに「世界一受けたい授業」では,『ローマの休日』の脚本が,ウィリアム・ワイラーとジョン・ディントンの果たした役割を無視して,ダルトン・トランボ一人の手になったかのように放送していたが,それは少し違うんじゃないか.ダルトン・トランボは原案者なのであるからして,先日の「世界一受けたい授業」は誤解を招く放送内容であると言わざるを得ないのである.そのあたりの事情を,上の引用中,フォントの色と下線でわかりやすくした.

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