« ソウルフード (六) | トップページ | ソウルフード (八) »

2016年7月 7日 (木)

ソウルフード (七)

 前回の記事で,越後の郷土料理 (菓子なども含めた広い意味で) である笹寿司と笹飴を紹介した.
 その越後は中蒲原郡の農家に生まれた私の父親は,若くして家を出て海軍に入った.
 戦前の日本の農家では,耕作地も家屋も資産も何もかも,すべて長男が独占相続した.
 従って次男三男以下の男たちは,生家で使用人として飼い殺しになるのを肯んじなければ,家を出て自活の途を探るしかなかった.
 農家相続に農業経営の才能なんぞは無関係で,次男三男はどんなに優秀でも長兄に代わって実家を相続することは許されなかった.
 理不尽だが,これは天皇制の縮図なのであった.長兄がどれほど無能であっても,継承順位は逆転できないのである.
 私の父親の場合は,生きるために,丁稚小僧でも大工でもなく海軍の水兵になったのである.
 そして《米を量る 》に書いたように,父は戦争末期には結核で海軍病院に入院していたが,終戦後に退院し,いきさつは知らないがとにかく刑務所看守の職を得て,群馬県に住むことになった.
 ちなみに最後の階級は兵曹長だったと自称していたが,正確な階級名はよくわからない.残っていた写真の服装から,成績優秀であったらしく准士官に昇っていたことは確かだと思われた.
(Wikipedia【准士官】には《1920年(大正9年)4月1日以降:1897年9月16日以降の海軍上等兵曹等の官名を改め、海軍兵曹長又は海軍(機関・軍楽・船匠・看護・主計)兵曹長とする。
海軍廃止時には海軍兵曹長のほか、海軍(飛行・整備・機関・工作・軍楽・衛生・主計・技術・法務)兵曹長が置かれていた。
》とある)

 そんな事情であったので,兄弟一番に頭脳優秀であったが結局は最下級の公務員にしかなれなかった私の父は,自然に実家の裕福な長兄とは疎遠になった.私が知る限り,父が郷里の中蒲原郡に出かけたのは,親の葬式があったときにまだ就学前の小さかった私を伴って帰省したときだけである.
 ただ,生家とは縁が切れた父には姉が一人いて,この伯母が初夏に時折,父宛にミカン箱ほどの荷物を送って寄こした.
 なかに入っていたのは米と,笹飴が少しと,あとは笹団子と粽であった.
 笹団子はかさばるものなので箱に入っていた個数は大したことはなかったと思うが,それでも伯母のような農家 (嫁ぎ先も農家であった) に比べれば困窮家庭と言っていい我が家にとっては,大変な御馳走であった.
 甘いものは明治の板チョコひとかけらも,森永のキャラメルひと粒も,中学生になって初めて食べた私にとって,小学生のときに口にした笹飴と笹団子は,天上の美味といっていいほどのものであった.

 上に初夏と書いたのは,六月頃に笹の葉が新しくなるからである.これを採ってきて笹団子と粽を拵えるのが,越後の農家の慣わしなのであった.
(続く)

|

« ソウルフード (六) | トップページ | ソウルフード (八) »

食品の話題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ソウルフード (七):

« ソウルフード (六) | トップページ | ソウルフード (八) »