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2016年6月19日 (日)

米を量る

 私の生まれ育った家では,電気炊飯器を購入したのが昭和何年であったか,記憶が定かでない.

 以下は昔話である.
 群馬県には前橋市に刑務所があり,私の父親は刑務官であった.
 父親は新潟の長岡からずっと山に入った土地の農家に生まれ,先の戦争が終結した時には新潟の海軍病院で療養していたが,敗戦と同時に病院を出て,佐渡出身で海軍病院の見習い看護婦をしていた女を連れて,郷里の新潟県から土地勘のない群馬県に移住し,そこで二人は所帯を持った.
 戦地からの復員者に比べれば,生きるか死ぬかの苦労はしなかったであろうが,手に持てるだけの荷物を持ち,軍用毛布 (今の私たちが毛布と呼ぶものとは全く異なるもので,固くずっしりと重いものであった) を背負っての移住であったという.その二人,つまり私の両親は,終戦直後の暮しについて,あまり詳しいことを子供たちに語らなかったが,食うものにも事欠く「赤貧洗うが如し」そのものであったらしい.母親は栄養失調で失明しかかったと,後に聞いた.

 前橋市の南西郊外,昭和三十年代の旧町名で宗甫分町 (そうほぶんまち) にあった我が家は,炭住つまり炭鉱の住宅よりもさらにみすぼらしい板壁四軒長屋の公務員官舎であった.
 ちなみに吉永南央さんの人気推理小説『紅雲町珈琲屋こよみ』シリーズに登場する群馬県高崎市の紅雲町は,前橋市にかつて実在した紅雲町から町名をとったと思われるが,その紅雲町の隣町が宗甫分町であった.
 五人家族が住むその長屋は,一家族分が六畳と三畳と台所でできていた.三畳間には押入れが一つあり,その下の段に米櫃が置いてあった.
 私の一番古い記憶では,その米櫃は一斗缶半分の大きさのブリキ箱で,蓋が付いていた.いわゆる天切缶である.
 父親の給料がでると,この米櫃に配給米 (参照;Wikipedia【米穀配給通帳】) を少し買ってきて入れる.そして食いおわったらまた米屋に行く.
 この頃の我が家の米櫃の中には,飯茶碗が一つ入っていた.米の計量は,この茶碗で行うのである.台所には「かまど」があり,炊飯は羽釜と薪で行った.米の量も水加減も,経験則に則って行う,かなりテキトーな計量だったと思われる.
 羽釜の中に手を入れ,沈んでいる米の上の面に掌をついて水加減をする昔風のやりかたを,覚えているかたもいるだろう.当時の飯炊き担当である主婦たちは,自分の掌では,新米の場合はここまで水を入れる,というやり方で水を加減した.米と水の比率という考え方をしなかったのは,なぜなのかよくわからない.農家は米の飯を食っていただろうが,庶民すなわち俸給生活者たちは麦飯を食っていたから,経験則のほうが手っ取り早かったのかも知れない.
 余談だが,料理の本には飯炊きのやり方が書いてあったのだろうけれど,学歴尋常小学校卒の,難しい字を読めない貧しい女たちは本など読まなかった.読めなかった.大橋鎭子という女性の功績は,そんな時代の女の暮しを少しでも変えようとしたことであったろう.

 やがて昭和三十年代後半に入ると,さすがの最下層公務員の家庭でも暮らし向きは安定し,米櫃の大きさは二倍になった.米と混ぜる押し麦を入れていた袋は不必要になった.
 その頃,近所に木工の腕の立つ器用な人がいて,一合と五合の升を作ってくれた.一合升は日々の炊飯の際に米を量るのに用いた.五合升は,よく覚えていないが,豆などを計量するのに使用したものではなかったか.
 おそらく私の両親は,大きな米櫃を新調し,これに一合升を入れたとき,感無量だったと想像される.毎日少しずつ暮らしがよくなっていった日々.私は,そのときの両親の様子をうっすらと記憶している.

 だが,その一合升はすぐに無用のものとなった.
 我が家に東芝の炊飯器がやってきたのである.
 東芝炊飯器には,米の計量カップが付いていた.
 これを使用して米を量れば,子供でも飯が炊ける時代がやってきたのである.
 そして,いつの間にか一合升は私の家から姿を消した.あれはどこへ行ったのだろう.無洗米専用の計量カップのことを新聞で読んだとき,そんなことを思い出した.

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