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2016年5月11日 (水)

会津の旅 (十九)

 前回の《会津の旅 (十八) 》からの続き.

 飯盛分店公式サイトに《石碑にはナチスのマークとドイツ語で》との記述があり,これが嘘であると前回の記事に書いた.
 その嘘とは《ナチスのマーク》との文言である.

 ここで昔々の話をする.
 私の父親の世代の男たちは,兵として戦場に行った.戦闘機や戦車に搭乗し,戦艦に乗り込んだから,軍備の実物を知っている.
 その息子たちが小学生の頃,週刊少年漫画誌が創刊された.少年マガジン (1959年創刊) や少年サンデー (1959年創刊) だ.漫画誌が月刊だった頃は,あまり軍備の記事はなかったような記憶があるが,週刊誌にはよく戦闘機や戦車の解説記事と,実物写真や精密なイラストが載っていた.
 当時の人気漫画としては,いわゆる団塊世代の思い出に残る『紫電改のタカ』が代表的作品として挙げられる.
 そして漫画週刊誌創刊と時期を同じくして,国産プラモデルの歴史が始まった.Wikipedia【プラモデル】に,

1950年代後期から1960年代は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが

とある通り,当時のプラモデルの主力製品は戦闘機,戦車,軍艦の模型であった.
 またちなみにテレビドラマも,漫画週刊誌および国産プラモデルのブームに少し遅れて,「コンバット!」が国内放送開始され,大きな評判となった.このテレビドラマによって,Wikipedia【コンバット!】の「装備品・車輌」「豆知識」「脚注」に書かれているような,戦争の実相に無関係な軍備と兵器のムダ知識が少年たちの頭に蓄積されたのである.ここに最初は「おたく」,次に「オタク」と呼ばれた一種のマニアが生まれたのであった.

20160510d_combat_1962
Wikipedia【コンバット!】から引用.
パブリックドメイン.


 それはともかく,軍備プラモデルの中でも人気があったのは国産戦闘機 (日本陸軍の戦車はあまりにもお粗末なものであったために不人気で,プラモデル製品はほとんどなかったと記憶している) であり,次いでドイツ空軍機と戦車であった.特にドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットは,第二次大戦に投入された戦闘機としては最も美しいフォルムのものとして,少年たちには零戦と並ぶ人気があった.
 上に時代背景を長々と書いたが,要するに今の日本の高齢者たちはドイツの紋章に関する知識があるのだということを以下にひけらかす.

 古くドイツやプロイセンで用いられてきた十字型の紋章をクロスパティーという.
 クロスパティーの中でもドイツ騎士団が用いたものが下の図である.

20160510e

Wikipedia【クロスパティー】から引用.
パブリックドメイン.


 そしてこれから派生したものが有名なバルケンクロイツ (黒十字) である.カタカナ語として発音するとハーケンクロイツと語感が似ているが,全くの別物であることに注意が必要である.
 下に示す二つの黒十字のうち,上は第二次大戦中にドイツ空軍機の機体に描かれたもので,下は現在のドイツ連邦軍の国籍標識に使用されているものである.

Balkenkreuz_svg

Wikipedia【黒十字】から引用.
パブリックドメイン.


Bundeswehr_kreuz_black_svg

Wikipedia【黒十字】から引用.
パブリックドメイン.


 上の黒十字とは別に,ドイツを中心に中世以来使用されてきた鉄十字と呼ばれる紋章があり,通常は鉄十字をデザインした勲章を指す.

Ic1870

普仏戦争時の鉄十字章.
Wikipedia【鉄十字】から引用.
パブリックドメイン.


Ironcross
ナチスが用いた鉄十字章.
Wikipedia【鉄十字】から引用.
パブリックドメイン.


 ここでドイツ碑に彫刻された紋章を見てみると,一本の線刻であり簡略されすぎているが,鉄十字章である.

20160503b

山口弥一郎『白虎隊物語』から引用.

 しかし私のような年代の者は,この碑は当時のドイツ大使館員が私費を寄贈して作られたものだという会津弔霊義会の説明と,そこに鉄十字が彫られていることに強い違和感を覚える.
 というのは,例えていえば,日本人が外国の施設に石碑を贈るとして,そこに菊花の紋章を刻むだろうか,ということである.鉄十字は,ドイツ国家が勲章に使用する紋章であって,一大使館員が勝手に石碑に彫刻するようなものではないはずなのである.
 だがこれについては可能な推測が一つある.
 ドイツ大使館員フォン・エッツ・ドルフ氏は石碑の製作費用を会津弔霊義会に依頼したあと本国に帰還したため,できあがった石碑を見ていない.もしかするとドルフ氏が会津弔霊義会に指示したデザインは碑文だけであり,鉄十字章はなかったのではあるまいか.
 しかるに会津弔霊義会は,既に建てられていたイタリア記念碑にファシスト党章が刻印されていたことから,これとドルフ氏の寄贈碑を対にして飯盛山山腹に日独伊三国同盟を演出せんがために,勝手に鉄十字章を付け加えたのではないだろうか.そしてさらにその上,ドルフ氏の経歴を,ドイツ大使館付武官の大佐であると捏造した.
 ところが会津弔霊義会はドイツの紋章に無知だったために,線刻の鉄十字章をナチスの党章だと思い込んでしまったのであると私は考える.(ナチス党章はハーケンクロイツであるし,ナチスが用いた鉄十字章は十字の中心にハーケンクロイツが描かれるものである.しかもナチスの鉄十字章が制定されたのは,飯盛山にドイツ碑が建てられた昭和十年から四年後の1939年であったのだ)
 この会津弔霊義会の勘違いが,今も飯盛分店公式サイトに《ナチスのマーク》という文言が残っている理由であるのだろう.

 飯盛ミヨセは山口弥一郎に《しかしね、こんどの戦争がどうしたか知らないけれど、折角遠い国から贈ってくれたこの碑に罪はあるまいて》と語った.(『白虎隊物語』p.19)
 飯盛ミヨセは進駐軍の目の前で,碑文が削られたドイツ碑におおいかぶさって抵抗し,自分が「ナチスのマーク」と信じていた鉄十字を守った.信じがたく愚かな女と言うほかはない.
 もしもドイツ碑に彫られた鉄十字が「ナチスのマーク」だとするならば,その碑自体が罪なのである.《こんどの戦争がどうしたか知らないけれど》とは何たる言いぐさか.この女の頭の中では,あの戦争があたかもなかったものであるかのようだ.

20160510a
飯盛分店公式サイトから引用.

 私がこの三月の下旬に会津若松を訪れたときは,会津戦争の一エピソードである白虎隊自刃の地である飯盛山をちょっと見学する程度の気持ちであった.
 しかし旅から帰って色々と勉強し,会津弔霊義会と飯盛家の歴代の女たちに憤激に近い感情を抱くに至った.
 飯盛山で自刃した少年たちの最大の悲劇は,国民を軍国主義に動員していくための材料に使われたことである.そして彼らの悲劇は軍国主義の時流に乗って私腹を肥やさんとした者たちにも利用された.
 会津弔霊義会と飯盛家は,軍国主義台頭の風潮に迎合して飯盛山の観光地化を図ろうとし,そのためには歴史の捏造を厭わなかった.そして飯盛ミヨセらが,軍国主義化した飯盛山の宣伝塔の役を担った.

 飯盛山で自刃した白虎隊士は,白虎隊全体からすれば,出陣翌日に敗走したほんの少数の少年兵たちであった.会津の郷土史家が書くところによれば,白虎隊の主力部隊は会津戦争開戦後に若松城外に出て奮戦を続け,後に籠城戦を戦い,そして明治まで生き延びた.
 武士として讃えられるべきは彼らのはずである.しかし,会津戦争の一エピソードに過ぎないわずかな隊士たちの自刃を称賛する立場の者たちにとって,白虎隊主力少年兵の歴史は抹消されねばならないものであった.そしてその者たちの意図した通り,白虎隊主力部隊の歴史は日本国民に忘れ去られた.
 白虎隊自刃隊士を称賛するとはどういうことか.
 少年兵たちは,敵に捕らえられる恥辱よりは潔く死を選ぶ,として自刃していった.これは後の昭和陸軍の『戦陣訓』に大きな影響を与えた.

『戦陣訓』のうち「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」は以下の通り.
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ

 昭和十八年七月三日,サイパン島守備隊南雲忠一中将は玉砕の際に「サイパン島守備兵に与へる訓示」を発した.いわく《断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし
 生きて虜囚の辱を受けず.そしてその結果は戦死約二万一千名,自決約八千名,捕虜九百二十一名であり,南雲自身も自決したと伝えられる.

 沖縄戦最後の六月十八日に第32軍司令官牛島満中将は,ひめゆり学徒隊に「爾後各個の判断において行動すべし」として解散を命じた.
 次いで二十三日,「生きて虜囚の辱を受くることなく悠久の大義に生くべし」との最後の命令を発して自決した.翌二十四日,沖縄守備軍主力の歩兵第22および第89連隊は軍旗を焼いて玉砕し,六月二十五日に沖縄本島における組織的な戦闘は終了した.そしてこの一週間に,ひめゆり学徒隊死亡者の八割が戦争の犠牲となり,このうち学徒隊九名と教師一人は沖縄最南端の荒崎で自決した.

 飯盛ミヨセは,戦前から土産物屋で会津戦争を矮小化した玩具の竹刀を売りながら,飯盛山を訪れる観光客を相手に,敵に捕らえられる恥辱よりは潔く死を選んだ白虎隊士中二番隊の自決を語って聞かせるのを生業とした.
 ミヨセらが意図した飯盛山の軍国主義的観光地化は,やがて昭和二十年六月,沖縄の少女たちの自決に繋がっていったのである.

 そろそろ飯盛家は,飯盛分店公式サイトにある虚偽の記述を削除して黒い過去を清算すべきではないか.私はそう思うし,会津の郷土史家が会津弔霊義会と飯盛家の歴史捏造に関心を持たれることを望む.

 さあ,長々と飯盛山について書いてきた.次回からは会津若松観光を書こうと思う.
(《会津の旅 (二十) 》に続く)

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