絵画鑑賞はとても大変
週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に,福岡伸一先生と作家の原田マハさんの対談《フェルメールをめぐる冒険》が載っている.
この対談の中で,原田マハさんは,次のように語っている.
《要するに、アートワークを一枚のピースとしてだけではなく、それ以外の背後にあるものまで含めて、全部視界の中に入ってくるように鑑賞する体験が大事。だから絵は、ぜひ外に出かけて、身体的な体験として鑑賞していただきたい。》
原田さんは,この引用の前の文章で,絵画の画像を見たのでは単なる「点」としての体験であって,鑑賞したことにならないという趣旨のことを言っている.この「点」体験に対して,絵画の本物の作品を見たり,さらには画家がその絵を描いた土地を訪問したりするのは「面」の体験であり,それが大事だと主張している.
たくさんの絵画を観てきて,しかも美術館学芸員であった人にそう言われると,はいそうですか,と引き下がる他はないが,もし原田さんが言う通りであるとするなら,つまりゴッホの絵を鑑賞するには,本物の絵を観ることはもちろんであるとしても,その上さらにフランスのアルルやサン=レミに行く必要があるとするなら,なんと絵画という芸術は普遍性のないものだと思わざるを得ない.
例えば日本のあまりお金のない若い画学生が,今開催されている展覧会でルノワールを観て感動したとする.彼に対して原田さんは「フランスに行かないと本当の感動はできません.あの絵を鑑賞するには,ムーラン・ド・ラ・ギャレットを実際に見てみることが大事なのです」と言うわけだ.
しかし,画家が絵を描いた土地は物理的なものだが,時代のことはどうするのだ.タイムマシンに乗らない限り,画家が絵を描いた時代を体験することはできないが,それは構わないのか.画家が住んだり絵を描いたりした土地が時代と共に大きく変貌してしまったとしても,それは無視していいのか.なぜだ.
音楽分野で,こんなことを言う人はいないのではないだろうか.音楽には物理的実体がないから,例えば「ベートーヴェンの交響曲第5番の〈本物〉」という概念すらない.
文学も同じ.レイモンド・チャンドラーの作品を理解するために私たちは二十世紀半ばのロサンゼルスに行かねばならない,なんてことはない.
原田さんの言う通りだとすると,私たち普通の日本人は遂に,日本国内で絵を描いた画家以外の作品を鑑賞することとは無縁で終わることになる.そうだと言われれば,はいと言って引き下がるが.
ところで,先日の記事でも紹介した中野京子先生の『名画の謎 旧約・新約聖書篇』(文春文庫) に,ミケランジェロの『アダムの創造』を解説する次の文章がある.
《神は今しもアダムに命を吹き込むところだ。互いの指はもう少しで触れ合うところまできている。
『旧約聖書』を思い出してほしい。神は土を捏ねて造ったアダムの鼻の孔に、風船みたいに息を吹き込んだのだった。ミケランジェロは、それではとてものことに絵にならない、と思ったのだろう (確かに、そんなシーンはあまりパッとしない) 。鼻は指へと変えられた。指から指へ、命は電流のように伝えられる。
何と印象的な、美しいシーンだろう。
『E.T.』(スティーブン・スピルバーグ監督) のポスターがこれを引用していたことを、誰もが覚えているに違いない。》
覚えているに違いないも何も,私はそもそもあの指が触れ合うシーンが『アダムの創造』からの引用だとは知らなかった。(恥)
このような指摘を読んで,知的な刺激を受けることは本当に楽しい.
私は,観光ツアーならともかく,ミケランジェロを鑑賞しに一人でイタリアに行く気力はもうないが,『アダムの創造』の画像から『E.T.』に想像力を馳せるようなことなら,この老いた頭でもまだできるだろうと思う.原田マハさんに,そんなことは絵の鑑賞とは無関係だと言われるであろうことは間違いないが.
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