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2016年5月 3日 (火)

会津の旅 (十六)

 前回の《会津の旅 (十五) 》からの続き.

[[ 飯盛フミ 語りすぎる女 ]]

 飯盛家が経営する土産物屋「飯盛分店」の公式サイトは,コンテンツが散らかっていて一覧性が非常に悪い.継ぎ足しのようにして制作したあとは手入れができなくなっているのかも知れない.
 あちこちに矛盾した記述があるのはそのせいかも知れないのだが,ともかく《歴史のおはなし 》と題したカテゴリにある《飯盛フミ (三代目) 奮闘記》には,昭和四十年にアサヒグラフ (この「奮闘記」では,アサヒグラフはアサヒグラビアと書かれている) に掲載された記事へのリンクが張られている.(これが少々わかりにくいため見落としやすい)
 以下の前提として,前回の記事の註記で触れたが,飯盛ミヨセの次男の嫁である飯盛フミと,九頭見氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》(昭和六十三年発表) に登場する飯盛史子 (総説中では義理の娘とされている) は同一人物の可能性があることをまず書いておく.
 九頭見氏の総説に書かれている飯盛史子からの聞き書きは次の二点.

(1)《ミヨセが「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」とのことである。
(2)《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。

 ところがアサヒグラフに掲載された飯盛フミの談話は以下の通りである.(但し,飯盛分店の公式サイトに載っている《飯盛フミ (三代目) 奮闘記》には,幼稚な誤字と誤り ―― アサヒグラフをアサヒグラビアと書いたり,吉川英治の『新・平家今昔紀行』を新日本紀行と書いたりしていて突っ込みどころ満載だ ―― があることから推測すると,《アサヒグラビア 昭和40年掲載記事より》と書いてあるが,実際にはアサヒグラフの記事を基にしてリライトしたものと考えられる.その際にアサヒグラフの記事に飯盛家が脚色を加えた可能性があるが,私は昔のアサヒグラフの記事を入手できていないので確証はない)

終戦直後に、おそれていた占領軍が地元の警察官同道でやってきた。まず白虎隊の墓近くに立つ独伊両国からの顕彰碑の撤去だ。昭和三年イタリアが贈ってくれたボンペイの古代宮殿の石柱がぶっ倒された。このときだ。先代ナヨタケが家人手を振り放って占領軍の前に飛び出した。
「オラもいっしょに殺せ。戦争に勝ったものは、こんな墓地まで荒らしていいとは、どこの国の法律にぇ。さあ、白虎隊にケチつけるなら、オラを殺せ。しゃべっちゃいらんに (しゃべってはいられない=問答無用の意)」
 怒りと土地なまりに通訳は逃げ出した。MPはおこる。警官はなだめる。業をにやして、指揮官が威嚇射撃を一発。
「よし、跡始末はお前に任せる。だが、これを建てることは許さんぞ」
 飯盛家にかくしていた石柱が会津黎明会の協力で再建されたのは昭和二十八年。二代目の死後だ。黎明会の男たちにまじって片棒をかついで墓地へ百七十八段の石段を一歩一歩のぼりながら、三代目はなんどもつぶやいた。
「おばんちや、あんたの遺志はフミがしっかりになって行きますがにぇ」

 以上が,飯盛フミがアサヒグラフの記者に語ったとされている話である.
 この談話によれば,飯盛山にやってきた進駐軍がイタリア碑を倒したときに飯盛ミヨセが進駐軍に対峙して険悪な状態になったが,ミヨセの剣幕に驚いた進駐軍側が折れて引き上げたことになっている.驚いたことに,進駐軍はドイツ碑には何もせずに帰ったことになっているのである.

 山口弥一郎『白虎隊物語』と宮崎十三八『会津地名人名散歩』の両書には一致して,進駐軍は最初にイタリア碑に取りつけられていた伊ファシスト党の党章であるマサカリの装飾を破棄し,さらに石柱に刻まれていた文章を削り取ったが,このとき応対していた飯盛ミヨセらは抵抗しなかったと書かれている.
 次に進駐軍がドイツ碑の破壊を命じたところ,ミヨセらはイタリア碑と同じく碑文を削り,これで勘弁して欲しいと望んだが,聞き入れられなかったという.
 それから何がどうなったか『白虎隊物語』にも『会津地名人名散歩』にも書かれていないので不明であるが,結局,ドイツ碑は現在の飯盛分店 (土産物屋) の側に持ってきて隠して置かれたとのことだ.
 山口弥一郎も宮崎十三八も飯盛ミヨセと面識があってこのように書いているのだから,事実関係は二人が書いている通りなのだろう.
 ということは,昭和四十年頃,飯盛フミがアサヒグラフ記者に語った談話は,フミの創作なのである.
 それはそうだろう.当時の進駐軍は,天皇よりも偉かったのである.その将校が,土産物屋の婆さんの剣幕に驚いて引き上げていったなどということがあるはずがないのだ.
 今の日本の高齢者たちは,連合軍最高司令官マッカーサーと昭和天皇が並んで写っている写真を知っている.

20160503a
Wikipedia から転載.この画像はパブリックドメインである.

 軽装の夏服を着て手を尻に回したマッカーサーと礼装着用で直立不動のヒロヒト.
 これこそが,Wikipedia【ダグラス・マッカーサー】

右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。

と書かれているところの,彼我の地位を歴然と表して敗戦国民の心を打ち砕いた有名な写真である.
 また昭和三十二年のジラード事件は,一般人でも米兵に射殺される可能性があることを日本国民に知らしめたのであるが,ましてや進駐軍将校の公務執行にケンカを売ればただちに射殺されてもおかしくない.
 おそらく飯盛フミは,進駐軍の,あるいは敗戦の何たるかを知らなかったのであろう.それよりは姑の武勇伝を拵えることに関心があったのだろうと思われる.
 さらにつけ加えると,飯盛フミ談話で,飯盛フミがイタリア碑を《飯盛家にかくしていた》としているが,飯盛家すなわち飯盛分店は白虎隊墓前広場からちょっとさがったすぐ近くにある.従って

黎明会の男たちにまじって片棒をかついで墓地へ百七十八段の石段を一歩一歩のぼりながら、三代目はなんどもつぶやいた。》 (下線は当ブログ筆者が付した)

は全くの嘘である.
 またこの奮闘記に唐突に登場する「会津黎明会」の正体が不明であることも指摘しておかねばならない.
 これではいくら何でも創作が甚だしすぎると反省したのか,ずっと後の昭和六十三年,飯盛史子が九頭見氏に語ったと思われる話では,前記のように飯盛ミヨセが《「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」

という話になり,イタリア碑のことには触れず,また進駐軍との折衝はケンカ沙汰ではなくドイツ碑の《石碑の上にかぶさった》ことにトーンダウンしている.

 またドイツ碑を元の場所に戻したのは,イタリア碑を元のところに運んだ「会津黎明会」ではなく,在郷軍人会であるという話に変化している.だがこれも変な話だ.在郷軍人会は昭和二十年八月に解散しているからである.飯盛フミの頭の中では昭和二十八年になってもまだ戦争が続いていたのだろうか.

 飯盛分店歴代の女主人による話の創作については,まだ突っ込みどころがたくさん残っているが,次にドイツ碑のことに話題を変える.次の画像は山口弥一郎が『白虎隊物語』に残した貴重な写真である.

20160503b
山口弥一郎『白虎隊物語』の巻頭写真ページから引用.

(続く)

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