« 会津の旅 (十九) | トップページ | 会津の旅 (二十一) »

2016年5月12日 (木)

会津の旅 (二十)

 前回の《会津の旅 (十九) 》からの続き.

 さて私は飯盛山の白虎隊士墓前広場で暫し感慨に耽ったあと,飯盛分店からさざえ堂に向かい,山を降りて行くことにした.

20160511a

 するとさざえ堂の脇に古びた宇賀神堂があった.宇賀神は古くから民間で信仰された何だかよくわからない神様である.
 もっと何だかわからないのは,この堂の脇に,激動の昭和を風雨に打たれ続け (嘘),もはや壊れそうな「おみくじ自販機」が置かれていたことだ.「おみくじ自販機」って,昔は各地の観光地でよく見かけたなー.
 下の画像では全体がよくわからないが,ネット上によくできた動画があるので,それを示す.

20160511b

 ただし飯盛山のおみくじ自販機は,ガラスケースの中にいるボロボロの巫女様が,白虎隊の鉢巻をしているという,わけのわからないものになってしまっている.
 しかもこんなことが書いてある.

20160511c

 店主,字が下手すぎである.(笑)

 さざえ堂の前にある石段をおりると,厳島神社があった.

20160511d

Wikipedia【厳島神社 (会津若松市)】によると,

1700年(元禄13年)には会津藩主松平正容によって、飯盛山周辺の580間が寄進され鳥居や仁王門、青銅の大仏も建立された。明治期に大仏は市内の七日町にある阿弥陀寺へ移されたが、鳥居は今も残る。

だそうで,今でこそ山の陰でひっそりと淋しい雰囲気を漂わせているが,往時はなかなか立派な神社だったのであろう.上の引用中の《市内の七日町にある阿弥陀寺》には旅の二日目に行く予定だ.

 さて飯盛山観光を終えて,私は再び「街中周遊バスあかべぇ」に乗り,次に観光施設の「会津武家屋敷」に向かった.

20160511e

 この会津武家屋敷は,観光施設ではあるけれど手入れもよく,小さいながらも資料館などがあって,訪問しても損はないと思う.特に敷地内にある「旧中畑陣屋」というのは武家屋敷 (書院造) の実物を移設したもので,県の重要文化財だという.

 会津武家屋敷をざっくりと見て回り,場外に出るとすぐ「あかべぇ」のバス停があるので,ここから鶴ヶ城へ行く.

20160511h

20160511g

 鶴ヶ城の桜は蕾だった.(翌月再訪した時はもう散っていた)
 鶴ヶ城は全国に建てられた観光城の一つにすぎないが,内部は会津藩の資料館になっている.展示史料を足早に閲覧した感想では,想像したほど会津怨念史観に毒されてはいないようだ.

 怨念史観といえば,東日本大震災のあと,義捐金を贈ってくれた萩市民に対する会津若松市長の幼稚で無礼極まる態度が思い出される.
 現在,会津地方に住む人々のほとんどは会津藩士の子孫でもなんでもないわけだから,若い人たちには冷静に郷土史を勉強して欲しいものであるが,市長や行政当局がこの体たらくでは道は遠いのかも知れない.

 ところで戊辰戦争から西南戦争に至る明治の歴史で最もわかりにくいのは,警視庁の抜刀隊だ.
 Wikipedia【抜刀隊】には次のように記述されている.

田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により、政府軍 (陸軍) では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において人員の大多数を占める鎮台の兵は、主に徴兵令によって徴兵された平民で構成されており、士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。
こうした状況下による事態を打開すべく、主に陸軍の後方支援をしていた警視隊 (警視庁警察官は薩摩士族を中心に全国の士族で構成) の川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部らが、征討参軍 (実質的総司令官) 山縣有朋陸軍中将に対し、植木口警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、彼らの力を借りることは不本意であったが、山縣はこれを許し、植木口警視隊から百十余名をもって第一次抜刀隊が編成された。

 ここに登場する《川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部ら》は皆,薩摩藩士族の出身である.
 それらの者が白兵戦部隊の臨時編成を発案したというのは別に構わないのだが,しかし大警部の上に大警視川路利良がいたはずで,その川路を飛び越えて川畑らが,陸軍の総司令官である山縣有朋陸軍中将に上申するということが可能だったのだろうか.川路はその時どうしたのか.それが最大の疑問.
 一方,Wikipedia【川路利良】

激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退ける。

と,わずか一行で片付けて,抜刀隊の創設に川路はあまり関与しなかったかのような書きぶりになっている.
 そういう史実としてよくわからない辺りが小説家の腕力の振るい所であるわけで,戦中派天才老人山田風太郎は『警視庁草紙』で,江戸幕府最後の南町奉行である駒井相模守信興に川路利良を絡ませ,大西郷下野の朝から,西南の役に向かう警視庁抜刀隊の銀座行軍の朝までを描いた.山田風太郎明治小説の白眉でありますな.

 次に通説というか俗説というか (NHK『堂々日本史』15巻など),警視庁抜刀隊には元会津藩士の巡査が多数応募し,西郷軍に「戊辰の復讐,戊辰の復讐っ」と叫んで切り込み,戊辰戦争の恨みを果たしたということになっている.
 福島県出身の私の知人なんかは「ということは会津一刀流薩摩示現流より強いのだ」と鼻から火を噴き耳から煙を吐いて自慢する.ほんとかよ,というのが二つ目の疑問.

 とはいうものの,ここで史料を持ち出して元会津藩士たちと警視庁抜刀隊の話に入ると旅行記が先に進まない.いずれ別に稿を立てて書くことにしたい.

 さて今の鶴ヶ城趾には麟閣という茶室がある.(下の画像)
 千利休が自害したあと,茶道の弟子である会津藩主蒲生氏郷が利休の子である千少庵を会津に招いた.その時に建てた茶室である.

20160511i

 鶴ヶ城に観光に来たら,ついでにこの茶室は必見かな.時季がよければきれいな庭を観ることができるはず.

20160511j

 城趾を出てバス停に行く途中に「北出丸カフェ」 (上の画像) というお店があって,ネットで評判がよかったのだが,そろそろ宿のチェックイン予定時刻が迫って来た.翌日また来ることにして,一旦会津若松駅に行き,ホテルからのお迎えバスに乗った.
 お泊りは東山温泉にある御宿東鳳で,宿をここにしたのは楽天トラベルで顧客満足度が非常に高かったことと,夕食がバイキングなので会津の郷土料理が食べられるかもと期待したからである.

 というわけで御宿東鳳のサイトを見てみよう.(下記の引用は,このブログ記事の日付現在のもの)

2011年春にオープンしたバイキングレストラン「あがらんしょ」は会津ならではのお料理を食べたいというご要望にお応えします。
名物の小汁(こづゆ)、馬刺し料理などの郷土色豊かなお料理をはじめ、食材の美味しさを生かした和洋のお料理や地元のB級グルメ料理、スイーツやフルーツなどのデザート等、豊富なメニューをお楽しみいただけます。

 そんなことはありません.「いかにんじん」も鰊の山椒漬もなかったです.ほんとにがっかりでした.

バイキングでも冷えたお料理ではありません。
各料理ブースがオープンキッチンに生まれ変わりました。
目の前で調理、ご提供するから出来たてのお料理が、あつあつの状態でお召し上がり頂けます。

 そんなことはありません.小汁 (こづゆ) は室温にまで冷めていて,ほんとにがっかりでした.

城下町を一望できる幅15mのパノラマウィンドウからの四季を感じる眺望で、会津の伝統を感じながらお食事をお楽しみ頂けます。

 窓は大きかったですね.以上.おい.
 このホテルのバイキングレストランは,地酒飲み放題があるのが取り柄だろう.
 大した料理がないので,馬刺の握り鮨を肴にずっと地酒の「栄川 純米」を飲み続け (お高めの酒は飲み放ではなく,別会計になる),何杯目だったか覚えていないが,お酒カウンターにお代わりを取りに行ったら,カウンターの中ににいたサーブ係の兄ちゃんに「そんなに栄川っておいしいですか」(顔に「これって安酒っすけど」と書いてあった) と言われた.
 何を言うか,君.郷土の酒に誇りを持ちたまえ.栄川は安いけど悪くないぞ.よくもないけどな.おい.

(続く)

|

« 会津の旅 (十九) | トップページ | 会津の旅 (二十一) »

冥途の旅の一里塚」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 会津の旅 (二十):

« 会津の旅 (十九) | トップページ | 会津の旅 (二十一) »