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2016年5月10日 (火)

会津の旅 (十八)

 前回の《会津の旅 (十七) 》からの続き.

 いつの世にも,どこにでも,時流に乗りたがる者たちがいる.
 飯盛山で自刃した少年たちの最大の悲劇は,国民を軍国主義に動員していくための材料に使われたことである.そして軍国主義の時流に乗って私腹を肥やさんとした者たちにも利用された.
 Wikipedia【観光史学】から引用する.

「軍都」会津若松の時代
1908年 (明治41年) 以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年 (昭和3年) にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。

 上の引用にある《ベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑》については,Wikipedia【下位春吉】から引用する.

この時期に下位は当時の若松市 (現・会津若松市) の市長に対して、「ムッソリーニが白虎隊の事績に感激して記念碑を建立したがっている」という進言をおこなった。これは下位の創作であったが、新聞報道がなされて有力者からの賛助も集まったため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた記念碑が若松市の飯盛山に実際に建立された。

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下井春吉像.Wikipedia【下井春吉】から引用.
パブリックドメイン


 すなわち通称イタリア記念碑は,下位春吉によって巧妙に作られたフィクションであった.
 次に,駐日ドイツ大使館員ハッソー・フォン・エッツドルフが寄贈した石碑を軍国主義に利用することが行われた.
 会津弔霊義会は最初,文民である大使館員のエッツドルフを意味不明な《ドイツの武士》とし,次に《ドイツ大使館付武官HASSO von ETZDOR 大佐》にエスカレートさせ,恥知らずにも事実を歪曲した.

 会津弔霊義会は,この二つの石碑と白虎隊士の墓の三点セットで日独伊三国同盟を宣伝し,もって飯盛山の観光資源として利用せんとしたのであろう.旧制度下においても公益性が要求されていた財団法人としては許されざる行為であった.

 しかしこの嘘は,昭和六十二年に宮崎十三八によって事実と異なることが指摘され,次に昭和六十三年に九頭見和夫氏の総説によって,会津弔霊義会による全くの創作であることがあきらかになった.
 しかるに会津弔霊義会は昭和六十二年に,時代錯誤としか言いようがないが,イタリア記念碑を復刻した (宮崎十三八は『会津地名人名散歩』に昭和六十二年だと明記している.ところがなぜか飯盛分店は現在も公式サイトに,これを昭和六十年であると記載している.昭和六十二年にドイツ碑寄贈者の経歴が虚偽だったことが明らかにされたため,イタリア記念碑の復刻時期を遡らせる必要が生じたのであろうか) .

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飯盛分店公式サイトから引用

 しかし当然ながらもはや日独伊三国同盟は観光資源として価値を失っていた.
 しかもドイツ碑の寄贈者がドイツの軍人だという嘘が公知になってしまった.
 それで会津弔霊義会は,時期は明確でないが『会津地名人名散歩』の出版時期から推定すれば平成元年以降のある時,ドイツ碑の説明を次のように変更した.

フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国 (現ドイツ連邦共和国) 大使館政治担当外交官Hasso von Etzdorf 氏が白虎隊精神を讃美して贈られた碑文と十字章である。
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

 旧制度下でも財団法人は,税法上の特典がある代わりに公益性を要求されていたから,それが日独伊三国同盟を顕彰するかのごとき石碑を保有していたのでは,発覚すれば財団法人認可を取り消されかねないからであろう.
 ただしドイツ碑再刻の時期については事実を捏造したままである.

 このように会津弔霊義会による歴史捏造は一部が修正されたが,一方の飯盛分店は会津弔霊義会と違って土産物を商う民間業者にすぎないから,↓のように言いたい放題である.

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飯盛分店公式サイトから引用

 上の飯盛分店公式サイトからのハードコピー (イタリア記念碑,ドイツ碑) は,この記事の掲載日 (2016/5/10) に作られたものである.
 さて上に示したドイツ碑の説明には嘘が三つ書かれている.
 一つは,寄贈者の経歴を《ドイツ大使館付武官》《大佐》であるとしていること.事実は,ドイツ大使館員であった.
 二つ目は,《石碑にはナチスのマークとドイツ語で》としていること.
 最後に《米軍司令官より碑文とマークを削られ》としていること.事実は碑文だけが削られたのであった.これは二つ目の嘘と関連があるので後述する.

 一番目と三番目の嘘は,既に史料を挙げて明らかにしてきたところである.
 それでは次に,二番目の虚偽について説明する.

(《会津の旅 (十九) 》に続く)

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