家人
昨日の記事で,最近の若い人たちが年齢差を一個二個と数えるという言葉の誤用について書いた.
しかしいつの時代にも「最近の若い人たち」は居たわけで,いわゆる団塊の世代も昔は「最近の若い人たち」だったから,私たち団塊世代に責任がある言葉の誤用も,もちろんある.
昔々,インターネットの私的利用が爆発的に普及する前に,パソコン通信〈←死語 (^^;) 〉というものがあった.
日本のパソコン通信は1980年代に始まり,パソコン通信ホストを運営していた団体は1990年代にはニフティサーブとPC-VANの寡占状態となっていた.
私がパソコン通信を始めたきっかけは,所属していた企業の研究室の中でパソコンのネットワーク (といっても簡単なファイル共有程度の話だが) を作ろうとしたことであった.
当時の私は化学屋で,この手の技術的知識が貧弱であったため,ニフティサーブのフォーラムで諸先輩方に色々と教えていただいたのである.
そうこうしているうちに,1998年のことだったと思うが,ニフティサーブに「昭和20年代フォーラム (FS20)」ができた.これは諸分野の技術的なことではなく懇親を趣旨とするフォーラムであり,アクティブなメンバーは団塊世代の人たちだった.
というのが,この記事の長めの前置きである.
ある日,FS20のアクティブな女性メンバーが雑談会議室で自分の夫を「家人」と書いていたのを読んだ.
私は悪気はなかったのだが,「家人」という言葉は,古い家制度の中で夫が妻を使用人と同列に呼ぶときの言い方ですと書いた.妻が夫を家人と呼ぶのは誤用だし,夫が妻を家人と呼ぶのは正しい用法ではあるが,古くからある女性差別の言葉だから好ましくないという趣旨だった.
ところがこれが原因で一悶着が起きた.フォーラムメンバーに「家人」は「家族」のことだと主張する人がいて,妻が夫を家人と呼んで何がいけないのかと強く反論されたのである.
記憶が不確かなのであるが,昔々,ピンクのヘルメットを着用した妙な格好のフェミニストたちが差別用語の言葉狩りをして,「家人」はその一つだったような気がする.
確かに女性差別用語であるから「家人」という言葉は批判されても仕方ないが,それならば使わないようにすればいいだけなのに,その軽薄なフェミニスト(尊敬すべきフェミニストたちは言葉狩りなんて愚かなことはしなかった) に影響された若い女性たちは,妻が夫を呼ぶときにも「家人」を使うようになった.これが昭和後半に生じた「家人」誤用の始まりだったと思う.
辞書的にはどうかというと,中型から大型の国語辞典,例えば広辞苑第六版では「家人」の語義を
《1.家の内のもの。妻子眷属。特に、妻あるいは召使。
2.家来。けにん。》
としている.
また明治大正期や昭和期に書かれた小説随筆類では「家人」は家父長の男性だけが用いる言葉であり,間違いなく「妻」の意味に使われていると思っていい.(「子」や「召使」の用例は少ないのではないか)
しかるに上に書いたように,昔の文学作品を読まなくなった世代の女性たちが「家人」を「家族」の意味に用いる誤用を始めた.
これだけならまだそれほどの実害はないのだが,最近のIT企業「はてな株式会社」が運営するインチキネット辞書「はてなキーワード」には次のようなことが書いてある.
Hatena Keyword
《家人【かじん】
家族の人。とくに、夫を称して妻が使うことが多いようだ。》
(当ブログ筆者註;この記事を書いて暫くした八月十五日に上のリンク先を確認したところ,「家族の人…」云々の語義説明が削除されて空白になっている)
(再度の註;一ヶ月後の九月十五日に再びリンク先を確認したところ,また元の「家族の人云々」が書き込まれていた.どうなっているのだろう)
これでは,団塊世代が始めたと思しき誤用「家人=家族」どころか,「夫を称して妻が使う」では本来の用法と全く逆転している.
誤用もここまで来ると呆れたもので,最近の若い連中はまことに嘆かわしい.
と常々思っている私であったが,昨日,平松洋子さんの最新刊『小鳥来る日』(文春文庫) を読んでいたら,こんな文章に出くわした.(この文庫本は,平成二十三年四月から二十四年十二月まで毎日新聞の日曜版に連載された平松さんのエッセイをまとめたものである)
《もう何十年もまえの話になるけれど、二十代の後半のころ、家人にそれとなく注意された一件がいまでも脳裏をよぎることがある。》 (同書 p.152)
「ありがとう」と題したこのエッセイで,平松洋子さんは夫を「家人」と呼んでいる.
平松さんのお歳は,私と一世代は違わない.
しかも彼女はプロの物書きであるからして,戦前の文学作品はかなり読んでいるはずだ.
だとすると,平松さんは昔の文学作品にある「家人」を「家族」の意味に誤解して読んでいたことになる.これは,「家人」が妻を使用人であるかの如く見下す差別語であったことを,平松さんは読み取れなかったことを意味している.
現代随筆の名手平松洋子にしてこれか.ブルータスよ,と私は暫し悲しい思いがしたのである.
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