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2016年5月 8日 (日)

会津の旅 (十七)

 前回の《会津の旅 (十六) 》からの続き.ただし前回の末尾行から再掲する.

 飯盛分店歴代の女主人による話の創作については,まだ突っ込みどころがたくさん残っているが,次にドイツ碑のことに話題を変える.次の画像は山口弥一郎が『白虎隊物語』に残した貴重な写真である.

20160503b
山口弥一郎『白虎隊物語』の巻頭写真ページから引用.

[[ 歴史を捏造する会津弔霊義会と飯盛分店 ]]

 私が持っている山口弥一郎『白虎隊物語』は昭和三十四年九月に発行されたものである.
 この『白虎隊物語』の《あとがき》に

この丸八印刷所の主人佐藤彦八氏が、私の要望に従って、車を走らせて自分得意とする写真の殆んど全部を撮ってくれた。

とあるから,上の写真は昭和三十四年九月以前,たぶん発行の数ヶ月前に撮影されたものであろうと思われる.
 この写真を見ると,ドイツ碑の表の文字がグラインダーで削られているが,鉄十字章は残されていることがわかる.

 《会津の旅 (十) 》で既述であるが,九頭見氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》には,ドイツ碑の横に会津弔霊義会が設置した案内板に書かれた文言が,次に示すように変遷したと記されている.

(1) (縦書き)
ドイツの武士より会津の少年武士
に贈る
ハッソフォンエッツドルフ

(2) (横書き)
フォンエッツドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ大使館付武官
HASSO von ETZDOR 大佐が白虎隊精神を
讃美して贈られた碑文と十字章で
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」 ― ドイツ人
第二次世界大戦後占領軍の手によって碑面を削り撤去された
ものを,昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

(3) (横書き)
フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国 (現ドイツ連邦共和国) 大使館
政治担当外交官Hasso von Etzdorf 氏が白虎隊精神
を讃美して贈られた碑文と十字章である。
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面
を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復
元されたものである。

 次に宮崎十三八『会津地名人名散歩』(平成元年刊行の初版第一刷) の 191 ページに掲載されているドイツ碑の写真と,189 - 190 ページに書かれている説明を下に示す.

20160507a

こうして消滅を免れたドイツ碑は、文字を削ったままで昭和二十八年に元の位置に復活し、三十七年頃には西独から来訪した青年団が帰国後に費用を送って来たので、ドイツ文字は前と同じく刻み直され、戦傷だけは消えた。
 しかしその後もこの碑の説明文は、「贈り主はナチスの将校で、三国同盟華やかなりし頃の遺物」とされていた。これでは会津観光の表舞台にあげることは難しく、やや肩身を狭くしながら、墓前広場の隅に立っていた。

 この宮崎十三八による説明は,『白虎隊物語』に載っている写真が昭和三十四年に撮影されたものであることと整合しており,おそらく事実である.
 また,九頭見氏の総説にある三種の案内板文章の他に,《贈り主はナチスの将校で、三国同盟華やかなりし頃の遺物》という趣旨のものがあったことになるが,掲示されていた時期が不明である.おそらく上記の (1) と (2) の間の時期であろうと思われる.

 以上を整理すると次のようになる.
 昭和二十年に飯盛山に進駐軍が来た際に,ドイツ碑は文章だけ削られて鉄十字章はそのまま残された.鉄十字章が削られなかった事実については後述する.
 昭和二十八年 (飯盛史子によれば,飯盛ミヨセが死去する直前の二十八年一月) に実態不明の者 (飯盛史子によれば,在郷軍人会であるが,それは明らかな虚偽である) により,飯盛ミヨセが私物化して飯盛分店に隠匿していたドイツ碑を,碑面の文章は削られたままにして元の位置に戻された.その時の碑の状態が,『白虎隊物語』に載っている写真である.
 その後の昭和三十七年頃,削られたままになっていたドイツ碑の文章は再刻された.これが『会津地名人名散歩』に掲載されている写真である.

 この事実経過に対して,会津弔霊義会が設置した案内板では

* 『会津地名人名散歩』の写真にある案内板 (平成元年時点で設置されていたもの)
第二次世界大戦後占領軍の手によって碑面を削り撤去されたものを,昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

* 平成二十八年現在も設置されている案内板
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

と,いずれも《昭和28年再刻のうえ復元された》と虚偽の記載をしている.復元 (元の位置に戻すこと) されたのは昭和二十八年だが,再刻されたのは昭和三十七年頃なのである.

 会津弔霊義会が,このような調べればすぐばれる嘘を今も飯盛山のドイツ碑案内板に掲示し続けている理由はなんだろうか.
 前に書いたように,私は旧制度下の財団法人に出向していたことがあり,会社を定年退職したあと新制度下の公益財団法人にいたこともある.その経験からして,上の謎を説明できる物語が一つ考えられる.

 以下はその物語であり,実際にある団体とは一切無関係である.
 財団法人は監督官庁に毎年の事業計画書と事業報告書および決算書類を提出しなければならない.
 某財団法人の昭和二十八年度事業報告書に,外国人から贈られた石碑の文面を再刻し,元の位置へ復元しましたと記載されていたとする.そして決算書類にはその費用が記載されたとする.
 ところが実際には,予算に計上した必要費用よりも少ない資金を使って元の位置に戻すことだけはやったが,碑の再刻は実行しなかったとする.(なぜそんなことをしたのか,予算額との差額は何に使われたのかは別の問題としてここでは触れない)
 さて,滅多にないことだが,監督官庁は財団法人の監査を行うことがある.
 このとき,事業報告書に,碑を再刻のうえ復元したと記載されているのに,碑の現物が再刻されていなかったら厄介なことになる.報告書および決算書類と事実の祖語を説明できなければ不正とされて,何らかの処分を受ける恐れがある.
 その事態を避けるために昭和三十七年頃に碑を再刻したものの,それだけではだめで,再刻した時期を過去に遡って昭和二十八年度だったと言い張る他はないのである.

 以上はあくまでフィクションであり,実在の団体とは無関係である.
 なぜ会津弔霊義会が《昭和28年再刻のうえ復元された》との虚偽を今も主張し続けているのか,本当の理由は想像するしかない.
(続く)

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