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2016年5月

2016年5月31日 (火)

家人

 昨日の記事で,最近の若い人たちが年齢差を一個二個と数えるという言葉の誤用について書いた.
 しかしいつの時代にも「最近の若い人たち」は居たわけで,いわゆる団塊の世代も昔は「最近の若い人たち」だったから,私たち団塊世代に責任がある言葉の誤用も,もちろんある.

 昔々,インターネットの私的利用が爆発的に普及する前に,パソコン通信〈←死語 (^^;) 〉というものがあった.
 日本のパソコン通信は1980年代に始まり,パソコン通信ホストを運営していた団体は1990年代にはニフティサーブとPC-VANの寡占状態となっていた.
 私がパソコン通信を始めたきっかけは,所属していた企業の研究室の中でパソコンのネットワーク (といっても簡単なファイル共有程度の話だが) を作ろうとしたことであった.
 当時の私は化学屋で,この手の技術的知識が貧弱であったため,ニフティサーブのフォーラムで諸先輩方に色々と教えていただいたのである.
 そうこうしているうちに,1998年のことだったと思うが,ニフティサーブに「昭和20年代フォーラム (FS20)」ができた.これは諸分野の技術的なことではなく懇親を趣旨とするフォーラムであり,アクティブなメンバーは団塊世代の人たちだった.

 というのが,この記事の長めの前置きである.
 ある日,FS20のアクティブな女性メンバーが雑談会議室で自分の夫を「家人」と書いていたのを読んだ.
 私は悪気はなかったのだが,「家人」という言葉は,古い家制度の中で夫が妻を使用人と同列に呼ぶときの言い方ですと書いた.妻が夫を家人と呼ぶのは誤用だし,夫が妻を家人と呼ぶのは正しい用法ではあるが,古くからある女性差別の言葉だから好ましくないという趣旨だった.
 ところがこれが原因で一悶着が起きた.フォーラムメンバーに「家人」は「家族」のことだと主張する人がいて,妻が夫を家人と呼んで何がいけないのかと強く反論されたのである.

 記憶が不確かなのであるが,昔々,ピンクのヘルメットを着用した妙な格好のフェミニストたちが差別用語の言葉狩りをして,「家人」はその一つだったような気がする.
 確かに女性差別用語であるから「家人」という言葉は批判されても仕方ないが,それならば使わないようにすればいいだけなのに,その軽薄なフェミニスト(尊敬すべきフェミニストたちは言葉狩りなんて愚かなことはしなかった) に影響された若い女性たちは,妻が夫を呼ぶときにも「家人」を使うようになった.これが昭和後半に生じた「家人」誤用の始まりだったと思う.

 辞書的にはどうかというと,中型から大型の国語辞典,例えば広辞苑第六版では「家人」の語義を
1.家の内のもの。妻子眷属。特に、妻あるいは召使。
 2.家来。けにん。

としている.
 また明治大正期や昭和期に書かれた小説随筆類では「家人」は家父長の男性だけが用いる言葉であり,間違いなく「妻」の意味に使われていると思っていい.(「子」や「召使」の用例は少ないのではないか)
 しかるに上に書いたように,昔の文学作品を読まなくなった世代の女性たちが「家人」を「家族」の意味に用いる誤用を始めた.
 これだけならまだそれほどの実害はないのだが,最近のIT企業「はてな株式会社」が運営するインチキネット辞書「はてなキーワード」には次のようなことが書いてある.

Hatena Keyword  
家人【かじん】
 家族の人。とくに、夫を称して妻が使うことが多いようだ。

(当ブログ筆者註;この記事を書いて暫くした八月十五日に上のリンク先を確認したところ,「家族の人…」云々の語義説明が削除されて空白になっている)
(再度の註;一ヶ月後の九月十五日に再びリンク先を確認したところ,また元の「家族の人云々」が書き込まれていた.どうなっているのだろう)

 これでは,団塊世代が始めたと思しき誤用「家人=家族」どころか,「夫を称して妻が使う」では本来の用法と全く逆転している.

 誤用もここまで来ると呆れたもので,最近の若い連中はまことに嘆かわしい.
 と常々思っている私であったが,昨日,平松洋子さんの最新刊『小鳥来る日』(文春文庫) を読んでいたら,こんな文章に出くわした.(この文庫本は,平成二十三年四月から二十四年十二月まで毎日新聞の日曜版に連載された平松さんのエッセイをまとめたものである)

もう何十年もまえの話になるけれど、二十代の後半のころ、家人にそれとなく注意された一件がいまでも脳裏をよぎることがある。》 (同書 p.152)

 「ありがとう」と題したこのエッセイで,平松洋子さんは夫を「家人」と呼んでいる.
 平松さんのお歳は,私と一世代は違わない.
 しかも彼女はプロの物書きであるからして,戦前の文学作品はかなり読んでいるはずだ.
 だとすると,平松さんは昔の文学作品にある「家人」を「家族」の意味に誤解して読んでいたことになる.これは,「家人」が妻を使用人であるかの如く見下す差別語であったことを,平松さんは読み取れなかったことを意味している.
 現代随筆の名手平松洋子にしてこれか.ブルータスよ,と私は暫し悲しい思いがしたのである.

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2016年5月30日 (月)

神様三個

 今の若い人は普通に使うが,私のような爺さんは使わない言葉の一つに,年齢差の言い方がある.
 それは例えば「あの人は私より年が三個下です」だ.若い人は年齢差について,一歳を一個,二歳を二個と数えるのである.
 この言い方がいつ頃から使われるようになったかよくわからないが,このあいだテレビで,三十代後半と思われるママさんタレントが使っていた.ということは,つい最近のはやり言葉というわけではなさそうだ.

 私のような今の高齢者は年齢差をどう数えるかというと,一歳,二歳……,かあるいは一つ,二つ……,である.
 これから想像するに「あの人は私より年が三個下です」は「あの人は私より年が三つ下です」から派生した誤用だろう.しかし若い人たちは「三つと三個って,同じじゃん」と思っているのではないか.そこから「あの人はわたしより年が三個下です」までは一直線だ.

 この調子では,私があの世に行くまでに書籍も「個」,一升瓶も「個」で数えることになるのではないか.遺体も「個」,神様も「個」だ.
 もう既に箪笥を「棹」で,刀を「振」「口 (「く」または「ふり」と読む)」で数えるなんてことは雑学知識となり果てているくらいだから,きっとそうなる.もうすぐそうなる.
 てなことを書いていて気がついたが,アメリカ辺りでは何でもかんでもワン,ツー……で済ませることができる.日常では加算名詞も不加算名詞もへったくれもない.私だって海外旅行すれば「コーヒー,ワン,プリーズ」と言うなあ.
 もしかすると日本の若い人が「個」を使うのは「グローバル化」かも知れない.だとすると,きっと「年が三個下」はおしゃれなんだろう.
 それならまぁ仕方ないかと私は諦めるが,神社の宮司さんたちは,三柱の祭神を若いやつに神様三個とか言われたら怒ってください.お願いします.

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2016年5月29日 (日)

腰抜けどん兵衛

 漫然とテレビを眺めていると,タレントが全国あちこちに旅をしてその土地の旨いものを食うという趣旨の番組がよく放送されていて,おいしそうなので,つい見てしまう.
 しかしそういう場合にも自分の食い物の好みはあって,最高級の銘柄牛で,どうみても重さの半分は脂身だなあと思われる霜降り肉のすき焼きが画面にどーんと映し出され,食べタレが「あま~い!」とか「まいう~」とか言っても何ら感動しないのであるが,これがうどんや蕎麦であると身を乗り出して見ることなる.

 で,そういう番組を見て思うのだが,今は讃岐うどんのようにコシの強いうどんの全盛期のようだ.
 食べタレの「うどん」食レポは「コシがある=旨いうどん」が定番だ.「おー,このうどんはコシが全然ないから,すごくおいしい!」とは決して言わない.
 でも私が思うに,あまり人気のないコシの弱いうどん (今や隆盛のB級グルメブームを焚き付けた人物である野瀬泰申氏は弱腰うどんと呼んでいる) でも,おいしいうどんはおいしい.「茹で置きしてノビてしまったうどん」と「ふんわりとした弱腰うどん」は別物なのである.

 このように我が国のうどん界 (海外にうどん界があるかどうか知らないが) は,コシの強いうどんを好む多数派と,弱腰うどんを好きな少数派がいるという構図なのだが,どんな世界にもダークサイドはあるもので,弱腰うどんと似て非なる腰抜けうどん (ノビたうどん) が好きな人々がいる.
 そして,これまで世を忍ぶ日陰の存在であった腰抜けうどん愛好者が,つい最近,腰抜けのどこが悪い!と大きな声をあげて日向に踊り出たのである.
 いわゆる「10分どん兵衛」だ.

 「どん兵衛」や「赤いきつね」などのフライ麺は,多孔質であるために湯もどしするとふにゃふにゃになるのであるが,お湯を入れて5分後の状態は,麺の中心部に湯もどしが不完全な固いところが残っており,こうすることで疑似的なコシを演出している.
 ところが「10分どん兵衛」は,お湯を入れて10分後の,疑似コシがなくなって腰抜けになったところから食べる食べ方なのである.
 「10分どん兵衛」の考案者はマキタスポーツであるが,「10分どん兵衛」がネットで評判となるや,日清食品も「10分どん兵衛」を公式に認めた.

 そこで私も遅ればせながら「10分どん兵衛」と「10分赤いきつね」を作って食べてみた.
 どうであったか.
 あー私は普通のどん兵衛がおいしいと思います.やはり腰抜けうどんはダークサイドですな,ということで.

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2016年5月28日 (土)

沖縄の旅 補遺

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(一)
 沖縄にきて二泊目の夕食は,那覇安里十字路に近い「うりずん」で摂った.この店は同行者がネットで探した.
 食べログのレビューは高評価で,献立を見てみると割と安価な値段が書かれているが,一皿の量が少ないから,満足するまで食べたら,かなりの金額になった.
 酒は安くはない.店構えは普通だが,もしかしたらこの店は高級店なのだろうか.
 品書きには,安直な居酒屋ではお目にかかれぬ沖縄料理が満載で,居酒屋メニューとは一線を画するという印象であった.
 私たち一行は色々と注文して食い,はずれ (単に私の口に合わなかっただけという意味) もあったが,総じて旨い.
 特に私の気に入ったのは,麩チャンプルー.旨かった.
 これを旅から帰って自宅で再現しようと思ったのだが,あとで調べたら材料の車麩は,私が知っている車麩とは別物であった.それがわかっていれば空港で買って帰ったのに.
 残念だ,と思ったら沖縄車麩はアマゾンで購入可能であることがわかった.よかったよかった.

(二)
 私が昔書いた旅行記にも,ひめゆり平和祈念資料館が書籍や資料集の通信販売をオフィシャルにはおこなっていないことを,一つの見識であると記した.
 資料館が通信販売しないことは,ひめゆり学徒隊の悲劇をテキストとして知るのではなく,資料館に足を運んで展示を観て欲しい,沖縄戦跡を訪れて欲しい,平和の礎を眺めつつ平和ということに思いをはせて欲しいというメッセージだと思うからである.

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 十三年前の沖縄旅行の時に,バスガイドさんが最後に歌ってくれた「別れの曲」に感動した私は,資料館に行かないと入手できない「別れの曲」のCDを欲しいと長年思ってきた.
 それが今回の旅でようやく,展示会場の出口にある資料販売窓口にて購入できたので,大変うれしい.これは商業音楽ではないから,うれしさがひとしおだ.
 しかも,CD『ひめゆり』(「沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校校歌」と「別れの曲」を収録した 8cmCD) と書籍を何冊か購入したら,係員の女性が「これは非売品ですが,私たちからのプレゼントです」と言い,私は思いがけずカセットテープ版の『ひめゆり』を頂戴した.
 このカセットテープ版の『ひめゆり』は,もはや誰も買わなくなった在庫品なのだろうが,私はまだラジカセを持っている.ありがたく,大切にしようと思うのである.

(YouTube にある「別れの曲」を再掲載する.前半の女声合唱が『ひめゆり』収録のオリジナルである)
沖縄・ひめゆり学徒の記憶「別れの曲 (うた)」

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『ひめゆり』のCDとカセットテープ

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2016年5月27日 (金)

沖縄の旅 戦争(5) 〈工事中〉

工事中!

 現在の (「今上」という語が嫌いなのでそう書く) 天皇御夫妻は,東日本大震災やこの間の熊本地震など,国民に不幸が降りかかると,高齢の体を押して被災者の激励に出かけられる.
 そういった際の報道を読み聞きする度に,私はお二人を立派であると心から尊敬するのであるが,その一方でお気の毒に思うこともある.
 お気の毒に思うとは,現天皇が,父である昭和天皇の無責任を一身に背負い,尻拭いのために生きてこられたことである.昭和天皇の無責任とは,自分の戦争責任について頬かむりしたまま世を去ったことである.

 ここで,昭和五十年にあった古い話を持ち出す.
 この年,昭和天皇は米国を訪問した.帰国した同年十月三十一日午後四時から約三十分,公式記者会見を行ったが,その時になされた重大な下記二件の応答は今も語り継がれている.

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1975年訪米時の、昭和天皇、香淳皇后とフォード大統領夫妻
Wikipedia【香淳皇后】から引用 (パブリックドメイン画像)

〈記者代表が,天皇の戦争責任についてどう思っているかを質問したことに対して〉
天皇「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答え出来かねます」

〈記者代表が,先の戦争における原子爆弾投下を天皇はどう思っているかを質問したことに対して〉
天皇「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが,こういう戦争中であることですから,どうも広島市民に対しては気の毒であるが,止むを得ないことと私は思っています」

 天皇から上の応答を引き出した以後ずっと昭和天皇が世を去るまで,我が国のマスコミ各社は「天皇と戦争責任」「天皇と原爆」の論議を封印してしまった.
 しかしマスコミがどう幕引きしようと,戦争中の要所要所で昭和天皇が戦争指導を行ったことは史実として残った.
 それは例えば沖縄,である.

 昭和十九年十一月,大本営は台湾からフィリピンへ兵力を増援し,その穴埋めに沖縄守備軍 (第32軍) から最強の一個師団を引き抜いて台湾に移動した.
 翌十二月,大本営は戦略変更を行い,以後は本土決戦へ集中することとした.
 年を越して昭和二十年一月,大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定し,「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」との戦略を明示した.
 二月,近衛文麿が早期和平を天皇に進言したところ,天皇は,今一度戦果を挙げなければ和平の実現は困難であるとした.
 これによって沖縄守備軍自身は,沖縄戦を本土決戦のための捨て石作戦であると認識した.ここに沖縄島民の運命が定まったのである.
 戦力を大幅に減らされた沖縄守備軍は,本島南部での持久戦を行うことにし,北部と中部にあった飛行場は事実上,防衛が放棄された.この持久戦の構想は第32軍高級参謀八原博通大佐が主導したものである.
 ところが大本営はアメリカ軍を航空戦力主体で迎撃する全く異なる戦略を持っており,この食い違いが沖縄戦の悲劇の伏線となった.

 昭和二十年三月二十三日から,沖縄本島へのアメリカ軍艦載機の空襲が始まり,艦船の艦砲射撃も始まった.
 四月一日にはアメリカ軍は本島中西部に上陸し,南部への進撃を開始した.
 この戦況に対して大元帥である昭和天皇は梅津陸軍参謀総長に戦争指導を行った.
 Wikipedia【沖縄戦】から抜粋引用する.

4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇 (大元帥) が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が) 不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。

第32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀の持久戦術により、アメリカ軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。
4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した。
八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢なアメリカ軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」と強く主張し反対したが、他の参謀らは長を熱烈に支持した。牛島司令官も、かねてよりの中央からの督戦も気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。

 しかしこの反転攻勢は大失敗に終わった.

また日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している。また、日本の戦車第27連隊は九五式軽戦車の殆どが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅するなど、日本軍の総攻撃は大失敗に終わった。日本軍の遺棄死体は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となった。

 天皇および大本営と,持久戦を主張する八原高級参謀の間を右往左往していた牛島司令官は,反転攻勢の失敗によってようやく八原の持久作戦に従うことになった.
 これ以降のことを八原の『沖縄決戦 高級参謀 の手記』で見てみよう.

工事中!

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2016年5月26日 (木)

沖縄の旅 戦争(4)

Okinawa_flamethrower
日本軍の潜む洞窟を火炎放射器で攻撃するアメリカ兵
Wikipedia【沖縄戦】から引用 (パブリックドメイン画像)


 八原博通高級参謀について,さらに続ける.
 八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書き残した「牛島満の最後の命令」を,再度下に書けば,次の通りである.

親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘実に三か月、すでにその任務を完遂せり。諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。
 今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし

 近年書かれたブログ記事の中には,『沖縄決戦 高級参謀の手記』の記述を読み誤り,かつ勝手な改変を加えたものが多い.例えばこの記事にはこんなことが書かれている.

6月18日、組織的戦闘は不可能となり、最後の命令がでます。
「親愛なある
(ママ)諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに三ヶ月、すでにその任務を完遂せり。自今諸子、おのおのその陣地に拠り所在上級者の指揮に従い、祖国のために最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり」
「諸子よ、生きて虜囚の辱めをう来る
(ママ)こと無く、悠久の大儀に生くべし」
これは長野参謀が起案し、「生きて虜囚の・・・」は長参謀長が加筆したと言われています。


20160526b
 (↑は上に引用したブログのスクリーンショット)

 この文章が,八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書いた「牛島満の最後の命令」を下敷きにしていることは明白であるが,元の命令文章から無断で《諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》を削除し,《さらば、この命令が最後なり」》の後に《「諸子よ、生きて虜囚の辱めをう来る(ママ)こと無く、悠久の大儀に生くべし」》を繋げるという乱暴を行っている.
 筆者はおそらく若い人であろう.これはブログからブログへ不正確な引用が繰り返されると元の文章が失われる好例で,この文章が書かれた時期 (2010年7月11日) から推測すると,絶版で入手困難となっていた八原の『沖縄決戦 高級参謀の手記』を参照していないと思われる.

 それは余談として,八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書いた「牛島満の最後の命令」に戻ると,私はこの命令の文章に強い違和感を覚える.
 八原による「牛島満の最後の命令」の書き出しは《親愛なる諸子よ》であるが,これでは全く軍司令官の命令になっていない.司令官が兵に対して,親愛の情を込めて呼びかけてどうするのか.命令の文語文としては誤りであると言わざるを得ない.
 また,八原が記した「牛島満の最後の命令」作成の場面には,次のようにある.

参謀長は両翼概ね同時に崩れつつあるのを見て、これでよいのだと独言し、満足そうである。軍の統帥が至当に実施された責任感よりする喜びだ。今や一々軍命令を発して、諸隊を指揮するには戦線はあまりにも混乱している。通信連絡もまたこれを許さない。

 このあとに《沖縄の旅 戦争(3) 》に書いた《軍司令官は麾下各部隊に下すべき最後の命令の起案を命ぜられた。……》が続く.
 ところがこの時点では,八原自身が書いているのだが,摩文仁で戦闘状態にある各兵団との連絡は,電話は完全に途絶したが,無線はまだ生きていた.そして徒歩伝令もまだ可能であった.

 八原の悪文のために解説が要るが,《参謀長は両翼概ね同時に崩れつつあるのを見て、これでよいのだと独言し、満足そうである》は,「司令部洞窟から見て左右両翼が同時に崩れ始めた=両翼共にまだ司令部の指揮下にあった」ということの逆説的表現なのである.片方がもし指揮下になければ,そちらがもっと早く崩れたはずだというわけである.それ故に長参謀長は《軍の統帥が至当に実施された責任感》から喜んだというのだ.

 しかし常識的な感覚からすると,自軍が崩れつつあるのに長参謀長が《これでよいのだと独言し、満足そう》に喜んだというのは奇妙である.重要なのは戦闘が優勢か敗勢かということであって,司令部の統帥下にあるか否かではないからだ.

 摩文仁の戦闘をここまで実質的に指揮してきた八原は,この無能な参謀長に対して怒りを覚えたに違いない.しかし,戦後になっても旧軍人のままであった八原には,かつての上官を著書中で公然と非難することができず,それがこのわかりにくい文章となって表れている.
 しかしそれはまた別のこととして,《通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》はおかしい.ここは《沖縄戦を考える 》に記載されている《すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり》でなければならぬところである.
 上に,八原による「牛島満の最後の命令」の文章に違和感を覚えると書いたのは,まず《親愛なる諸子よ》では命令の形になっていないということ,次に《通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》では,指揮系統が崩壊してしまっており,最後の命令を出すことができないし,出す意味もない,ということである.当然ながら,最後の命令は指揮系統崩壊の直前に発せられねばならないのである.

 八原による「牛島満の最後の命令」は,戦後二十五年も経ってから不確かになった記憶を辿って書いた作文であろう.そのため無意識的に,指揮系統崩壊の時制が進行形でなく過去形で書かれてしまったものと推測される.実際に下達された命令は別の文章であったはずだ.

 さて最後に,Wikipedia が「牛島満の最後の命令」をどのように書いているかを見てみる.
 Wikipedia【沖縄戦】の「その後の戦闘」から引用

しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦い悠久の大義に生きよ」であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。

 摩文仁における組織的戦闘が終わったあともなお九月まで沖縄戦が続いたことに関する,この項の記述に異論はないが,しかし「牛島満の最後の命令」が《最後の一兵まで戦い悠久の大義に生きよ》であったとの記述は.明らかな誤りである.
 命令に《最後の一兵まで戦い》と書かれていたとしているのは,私が調べた限り,ネット上の資料としてこのWikipedia【沖縄戦】の「その後の戦闘」だけである.この項の筆者がなぜ「最後まで敢闘し悠久の大義に生きよ」を勝手に改変し,最後の一兵云々の文言に書き換えたのか,意図がわからない.

 Wikipedia【牛島満】の「評価」から引用

また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったり自決に追い込まれたことへの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。

 この記述も誤りである.既に述べたように,《生きて虜囚の辱めを受くることなく》は単なる降伏否定ではない.この言葉は,会津戦争における白虎隊自刃が軍国主義に利用されたことに起源がある.意味は,戦闘で行動不能となって結果的に捕虜になることも許さない,捕虜になるくらいならその前に自ら命を絶てということなのである.
生きて虜囚の辱めを受くることなく》は沖縄戦以外を扱う歴史書にも登場するから,Wikipedia【牛島満】の筆者のように読み誤ることのないよう注意したいものである.

 以上,八原高級参謀が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書き残した「牛島満の最後の命令」についての考察を終わる.

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2016年5月25日 (水)

沖縄の旅 戦争(3)

20160522c
「平和の礎」建設趣旨の石碑


沖縄の旅 戦争(2) 》中に,牛島満の最後の命令を次のように記載した.

全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)

 上に記した引用元のウェブページ《沖縄戦を考える》は,おそらく東北大学大学院の柳原敏昭教授が書かれたものである.

 しかし,牛島の最後の命令が作成された際に,その場にいた陸軍大佐八原博通高級参謀〈明治三十五年 (1902年) 10月2日 - 昭和五十六年 (1981年) 5月7日〉が,戦後かなりあとになって出版した『沖縄決戦 高級参謀の手記』(1972年8月刊) には,上記のものとは全く別の文章が「牛島満の最後の命令」として記載されている.
(ちなみに読売新聞社は昭和四十二年一月一日から昭和五十年までの長期にわたり『昭和史の天皇』を連載し,これは同社から全三十巻にまとめて刊行された.この連載において読売新聞社は八原博通元高級参謀にインタビューを行ったが,その時既に八原博通は沖縄戦に関する手記を執筆していた.この時のインタビューが縁で,後に八原は昭和四十七年に読売新聞社から『沖縄決戦 高級参謀の手記』を出版することになった.この単行本は絶版であるが,昨年五月に中公文庫の一冊として復刊された.私は読売の単行本を持っていないが,中公文庫のKindle版は所有している)

 ともかく『沖縄決戦 高級参謀の手記』によれば,「牛島満の最後の命令」の場面は次のようである.

軍司令官は麾下各部隊に下すべき最後の命令の起案を命ぜられた。
 作戦命令の数は戦闘開始以来、積もり積もって二大冊となった。長野がわが子を愛撫するように命令綴を抱擁し、「高級参謀殿、これが最後の軍命令です! 参謀殿自ら起案して下さい」と言う。その声は鎮痛で感動に震えている。私は「従来命令の相当部分は貴官に起案してもらった。この最後の命令も貴官に頼むよ」と彼になかば押し付けた。
「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘実に三か月、すでにその任務を完遂せり。諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。
 今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらばこの命令が最後なり」
 右命令案を見られた参謀長は例の如く筆に赤インクを浸し、墨痕淋漓次の如く加筆された。
「……最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし……」
 軍司令官はいつものように、完全に終始一貫され、黙って署名された。最後の軍命令を下達し終わると、私は一切の重責から解放された安易さに、無限の深谷に落ちて行くような恍惚の快感に領せられてしまった。

 以上の八原の記述をまとめると,下記の二点になる.
(1) 「牛島満の最後の命令」は次の通りである.

親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘実に三か月、すでにその任務を完遂せり。諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。
 今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし


(2) この命令作成に関与したのは,起案した長野参謀,加筆した長参謀長,署名して承認した牛島満の三人であり,私 (八原博通) は関与していない.

 ここで一つ問題が持ち上がる.
 現在ネット上に流布している「牛島満の最後の命令」は,細かい言い回しの違いを含めると筆者により様々な文章があるが,言い回しの違いを無視すれば二種類になる.
 両者の違いは「生きて虜囚の辱めを受くることなく」の有無である.これがあるとないでは意味が全く違ってしまうのだ.
 「生きて虜囚の辱めを受くることなく」がなければ降伏禁止の命令だが,「生きて虜囚の辱めを受くることなく」が挿入されると,捕虜になるくらいならその前に自殺せよとの命令になる.
 私が十三年前に書いた沖縄旅行記では,「生きて虜囚の辱めを受くることなく」の文言がない「牛島満の最後の命令」を採用したが,本当はどちらなのか私にはわからないので,今回の旅行記では八原バージョンの「牛島満の最後の命令」も,ここに併記しておく.

 ただし,八原高級参謀の『沖縄決戦 高級参謀の手記』は,あまり信頼性のないものであると私は考える.
 というのは,書かれた内容に整合性がないのだ.(後述する)
 この本は,牛島司令官と長参謀長が自決したあと司令部の洞窟を脱出して逃亡したために旧軍関係者から「沖縄を見捨てた卑怯者」(*) 呼ばわりされた八原の釈明の書なのである.そのため,戦後世代の私ですらも「これはヘンだ,嘘ではないか」と思う箇所がある.従って八原と同時代の元軍人たちからすれば,全く信用できない内容のものだったのではないか.
 八原博通は昭和四十七年に『沖縄決戦 高級参謀の手記』を出版して釈明に努めたが,昭和五十六年に没するまで,元軍人たちの視点からは遂に「沖縄を見捨てた卑怯者」のままであった.その事実が,『沖縄決戦 高級参謀の手記』の信頼性を物語っていると私は思うのである.

(*) Wikipedia【八原博通】 から引用.

20160522d
「平和の礎」に刻まれた牛島満

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2016年5月24日 (火)

沖縄の旅 戦争(2)

20160522e

 十三年前の平成十五年,十二月に沖縄旅行をして,帰ってから旅の記録を個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した.(その個人サイトは更新を停止した.この同名ブログはその後身である)

 今の若い諸君には想像もできないだろうけれど,十年以上も前は,情報源としてのネットはまだまだ発展途上だった.
 Wikipedia にしてからが「日本の Wikipedia は芸能人情報ばかりだ」などと言われていて,専門的なことは信頼性が低く,欲しい情報を手に入れるには,検索サイトを駆使し,山ほどあるゴミ情報の中から,ある事柄の当事者とか専門家が建てた個人サイトを探し当てる必要があった.
 あの頃,ひめゆり平和祈念資料館の公式サイトはとても内容貧弱で,旅行記を書くのには全然役に立たなかった.
 それが私の沖縄旅行の翌年に館内の展示を大幅に模様替えし,それに合わせてガイドブックを改版し,さらには公式サイトが驚くほどきれいに整備された.隔世の感がある.

 私が十三年前に書いた沖縄旅行記は,書くのに少し努力した思い出があるので,そのうちの沖縄戦に関わる部分を,下の破線 (-----) 間に,読みやすいようにフォントの色を変えて,このブログに転載する.(旅行記全体も,そう遠くない時期にこのブログに収載する予定である)
 再掲載にあたって,旅行記原文中で,「ひめゆり学徒隊」とすべきところを「姫百合学徒隊」と書いていた誤りを訂正した.
 自決した大田司令官の有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」は,旅行記原文ではあちこちの書籍やウェブ資料にある断片的な記述を寄せ集めて再構成したものであったが,現在は Wikipedia【大田実】にほぼ確からしい全文が掲載されているので,それに差し替えた.
 同様に,牛島満の南京攻略時の有名な命令と,自決前に発して多数の犠牲者を生んだ最後の命令も,現在アクセスできる他のサイトへのリンクを張った.
 また「平和の礎」と「沖縄県平和祈念資料館」へのリンクも,切れていたのを更新した.
 旅行記の終わりに平成十五年時点の「戦没者刻名者数」を記述してあるが,これは「平和の礎」のサイトに毎年更新された数が記載されているので,そのままとした.

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 さあいよいよ今度の旅行も大詰めである.
 私が沖縄を訪れてみたいと思ったのは,まだ一度も来たことがないということもあったが,それよりも三年目を迎えたこのサイトのことがあったからである.
 私はこのサイトを私の自分史にしたいと思っている.今現在のことも書くが,過去の様々なことも記してきた.その昔の事々の中でも,懐かしさを覚えるのは,私が大学生だった頃の思い出である.
 この旅行記の上の方にも書いたが,私の学生時代は沖縄の祖国復帰運動が最高潮に達した時代にあたっている.沖縄返還運動の集会にも行ったし,沖縄の歴史に関する勉強会にも出た.しかし自分が見たこともない遠い土地とそこに暮らす人々に対する理解は,やはり難しかったと言わざるを得ない.
 あれから三十余年.埋もれかかった記憶を掘り起こし,このサイトに少し記しておきたいと私は思ったのだった.

 [ 沖縄南部戦跡へ ]

  沖縄の歴史は,差別の歴史である.かつて十六世紀まで独立王国であった琉球は,慶長十四年(1609年),薩摩藩主島津家久の軍によって征服された.薩摩藩は征服後も琉球の王国体制を温存しつつ,王国の人事権を掌握し,かつ過酷な徴税もした.
 その一方で琉球と中国との密接な関係は維持され,その結果琉球は,従属国として江戸幕府の体制の一部でありながら,対外的には独立国であるという二面性を持つこととなった.すなわち琉球は体制内の異国であった.

 十八世紀半ばの幕末維新期,艦隊を率いて琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国・通商を迫り,琉球はやむなくアメリカとの間に琉米修好条約 (1854年) を締結した.

 幕府が倒れ明治政府が発足するとただちに琉球の処遇 (廃藩置県) が問題となった.明治政府は王国体制を廃止して琉球藩とし,続いて沖縄県を設置しようとしたが,琉球はこれに抵抗した.また伝統的に琉球と深い関係にある中国 (清朝) も宗主権を主張して抗議したため,政府の対琉球政策は暗礁に乗り上げた.しかし明治十二年(1879年) 三月二十七日,政府は琉球処分官・松田道之を派遣し,松田は三百名の兵士と百六十余名の警官を率いて琉球藩を廃して沖縄県を設置すると国王に通告し,三月末で首里城を明渡すよう命じた.この強引な威圧の前に,琉球国王尚泰はやむなく王宮を明け渡し,ここに四百五十年に及ぶ琉球王国は滅亡した.

 こうして琉球は沖縄県として日本の一部となったが,属国としての沖縄観は長く残った.例えば,琉球処分の直後から明治政府は清国の国内の通商権と引換えに宮古・八重山を割譲するという秘密外交交渉を進めたが,それはこのような沖縄観によるものと考えられる.
 また沖縄県民が形式的に国政に代表を送ったのは,帝国議会が開設されて二十二年目の,ようやく1912年になってからであった.

 明治・大正期の沖縄はサトウキビ以外の換金作物を持たない貧しい農業県であった.県民は高い税金を払うためにサトウキビ作を拡大し,これが自給食糧であるサツマイモや米の栽培を衰退させた.
 この黒糖依存の農業生産構造は,第一次世界大戦後の不景気のために黒糖価格が暴落した時,県民の生活を悲惨の極みに陥れた.いわゆる「ソテツ地獄」である.
 こうして沖縄は経済的疲弊から立ち直ることなく第二次大戦の戦時体制に突入して行くが,この頃作成された沖縄連隊区司令部の報告書「沖縄防備対策」(1934年) には,沖縄社会の性格について以下のように書かれている.(平凡社世界大百科事典「沖縄」項から引用)

(1) 憂いの最大は県民の事大思想である。(2) 依頼心が強く他力本願である。(3) 一般に惰弱の気風がある。(4) 古来任惟の伝統がなく,団結,犠牲の美風に乏しい。(5) 武装の点でほとんど無力である。青年訓練所,在郷軍人においてすら銃器を有せず,有事の際の郷土防衛はきわめて困難。

 このような軍の対沖縄観には,体制内従属国・沖縄に対する偏見と差別意識が露骨に表れていると言える.戦争の激化に従い,沖縄県民に対する政府の差別は方言の使用をスパイ行為とみなす方言撲滅運動など,さらに理不尽なものとなっていった.

 日本軍は昭和十七年(1942年) 六月五日のミッドウェー海戦で四隻の主力空母を撃沈され,太平洋における制海権と制空権を失った.これ以後,ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開され,遂に翌年二月七日,ガダルカナル島を放棄した.
 ソロモン諸島を奪還した連合国軍は大攻勢を開始し,補給線を断たれた南方諸島の日本軍守備隊は相次いで全滅していった.
 九月三十日,大本営は千島,小笠原,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマなどを含む地域を絶対国防圏と指定して死守せんとしたが,昭和十九年(1944)年六月十九~二十日のマリアナ沖海戦での敗北と七月八日のサイパン島陥落で構想は破綻した.
 アメリカ軍は同年十月二十日,フィリピン南部のレイテ島に上陸し,日本の連合艦隊は続くフィリピン沖海戦でほぼ壊滅した.そして艦船を失った日本軍は以後,神風特別攻撃隊をもって絶望的抗戦に打って出た.

 アメリカ軍は,この年十月十日,那覇市など島の人口密集地を空襲して,死者五百四十八人を出した.
 この空襲で,沖縄防衛に任ずる陸軍の第三十二軍直轄の病院であった沖縄陸軍病院は病棟と兵舎を焼かれ,半分近い衛生器材を失い,病院長・陸軍軍医中佐広池文吉は病院を南風原 (はえばる) 国民学校 (現,南風原小学校) へ移転した.

 三月二十三日,南風原国民学校で速成の看護教育を受けていた沖縄県立第一高等女学校および沖縄県女子師範学校の寮生全員と自宅通学生の二百二十二名が「ひめゆり学徒隊」として動員され,教師ら職員十八名も第三十二軍司令部から陸軍臨時嘱託として沖縄陸軍病院勤務を命ぜられ,これにより総勢二百四十余名が沖縄陸軍病院に配置された.
 南風原の病院に集められたひめゆり学徒隊は兵舎で寝起きし,本部指揮班・炊事班・看護班・作業班に編成され,当初は壕掘りと衛生材料の運搬に従事していたが,三月二十九日,兵舎で卒業式を終えたひめゆり学徒隊の女生徒達は三ヶ所の壕に分散して配置された.

 アメリカ軍は,昭和二十年(1945年) 三月十七日に硫黄島守備隊を全滅させると共に,太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥指揮下のバックナー中将が率いる第10軍は,三月下旬から,約千五百隻の艦船と延べ五十四万八千人の兵力で沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った後,三月二十六日に慶良間諸島の座間味島に,翌二十七日に渡嘉敷島に上陸した.この攻撃で逃げ場を失った二島の村民は集団自決した.
 続いて四月一日には沖縄本島中部嘉手納海岸 (読谷,嘉手納,北谷) に上陸した.日本国内唯一の地上戦闘であった約四ヶ月にわたる沖縄戦の開始である.

 沖縄守備第三十二軍 (司令官牛島満中将) は,第二十四師団,第六十二師団,独立混成第四十四旅団の陸軍八万六千四百人,海軍約一万人,および現地徴集の防衛隊員,学徒隊員約二万人の合計約十二万人で構成されていたが,アメリカ軍戦力の約四分の一以下という圧倒的に劣勢な戦力しかなかった.
 当初,大本営は沖縄を巨大な空母に見立てた航空作戦を方針としていたが,牛島司令官の部下であり実際の戦略策定を指揮していた八原高級参謀は,海岸線でアメリカ軍を迎え撃つのではなく,無数の洞窟がある沖縄の地形を利用した持久戦を主張した.
 八原はアメリカ軍の近代的物量戦略の凄さを甘く見ていたのである.それは後に沖縄県知事となった大田昌秀の著作『これが沖縄戦だ』に記された次の八原の発言に伺うことができる.

敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ

 初め沖縄には北支から転戦した第九師団他の精鋭部隊がいて,八原の持久戦論はそれを根拠にしていた.ところが大本営はフィリピン・レイテ沖の海戦に台湾の部隊を投入し,更にその穴を埋めるために第九師団をを台湾に派遣した.その結果,主戦力を失った八原の作戦は最初から齟齬をきたしていた.

 上陸したアメリカ軍は沖縄本島を南北に分断し,そこから日本軍沖縄守備隊が待ち受ける首里戦線へと南下した.沖縄守備軍の司令官は牛島満中将,参謀総長は長勇中将であったが,この二人は多数の一般中国人を殺害し,略奪・強姦・放火を重ねたとされる南京攻略の指揮官でもあった.

****************************************************
 昭和十二年(1937年)七月七日,日中戦争開始の時に
最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・
都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将
だった.
 その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,
牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,
第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した
有名な攻撃命令は以下の通りであった.
(
読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)

 《一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京
 城西南角を奪取せんとす。
 一、古来、勇武をもって誇る薩隅日三州健児の意気を示す
 は、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、
 南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
 チェスト行け。
  昭和十二年十二月十二日 一〇時
    旅団長 牛島満


  (註;「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である)
****************************************************

 八原らは米軍がある程度南進するまではさしたる反撃はせず,首里戦線に引き寄せてから和田孝助中将率いる砲兵隊の約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ,一挙にアメリカ軍主力部隊を殲滅しようと考えた.
 この日本軍の楽観的な作戦を遙かに上回るアメリカ軍の猛攻を受け,沖縄守備軍は,じりじりと戦力を消耗し,前線で激戦を戦った藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力は半減した.しかしなお,和田中将指揮する第五砲兵隊,後方に控える雨宮中将麾下の第二十四師団,独立混成第四十四旅団の残存部隊,そして大田少将率いる海軍部隊などの兵力は健在であった.

 南風原の陸軍病院には,アメリカ軍の本島上陸後,負傷兵が続々と送られてきた.南風原では手掘りの横穴壕が掘られ,壕には通路と二段ベッドがあった (どのようなものかは『ひめゆり平和祈念館』で再現展示されているのを見ることができる).壕の数や規模から想定すると二千名が収容でき,延べ一万名がここに送られたという.

 沖縄守備軍司令部では,八原高級参謀が最後まで持久戦をとるべきだと主張したのに対し,長参謀総長や若手参謀らは全軍を挙げて総攻撃に出るべしとして意見の対立が生じたが,最終的な幕僚会議における採決の結果,牛島満司令官は五月四日早朝を期して総反撃攻勢に転じることを決断した.

 五月四日午前四時五十分,首里の沖縄守備軍の総攻撃が開始された.
 九州本土の知覧や鹿屋から飛び立った神風特別攻隊機も海上のアメリカ艦船群を攻撃した.この時の日本軍砲兵隊の攻撃の凄まじさは米兵が初めて体験するほどのものだったというが,アメリカ軍はただちに応戦した.攻撃開始と共に防衛線から前に出た守備軍主力部隊は,アメリカ軍の重砲火を浴びて退路を断たれて立ち往生した.
 村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊は,アメリカ軍の集中砲火のために進退極まり,大半の兵員が戦車と共に為すすべもなく戦死した.
 守備軍が誇った四百門の巨砲は,アメリカ軍艦載機の攻撃の前にその威力をほとんど発揮することなく破壊し尽くされた.こうして午前八時頃までに沖縄守備軍の攻撃はほぼ鎮圧された.

 五月五日の午後六時,牛島満中将は自室に八原高級参謀を呼んだ.総攻撃の失敗を認めて攻撃中止の決定を告げ,残存兵力と島民とをもって南部に兵を引き,最後の一人まで持久戦を戦い抜くよう指示したとされる.莫大な島民犠牲者を出すことになった作戦が始まったのである.

 アメリカ軍第十軍司令官バックナー中将は,沖縄守備軍の反撃が失敗に終わったのを見届け,全軍に五月十一日を期して総攻撃を開始せよと命令した.
 アメリカ軍の攻撃が開始されたこの日,神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団に体当たり攻撃を敢行し,米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与えた.僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると,他の特攻機がそのエンタープライズも大破させた.
 しかしアメリカ軍上陸部隊は総攻撃開始後,じりじりと首里司令部に迫った.第六海兵師団主力部隊は多くの損害を出しながら,首里北側の沢岻,大名,石嶺の各高地守備陣を陥落させ,遂に司令部に直撃弾を浴びせ始め,首里の陥落は時間の問題となった.

 五月二十二日夜の首里司令部協議で,三つの案が検討された.守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する,知念半島に撤退する,首里陣地で最後まで徹底抗戦する,の三案である.
 第六十二師団の上野貞臣参謀長は部隊の大部分を首里戦線で失った上,移送困難な何千人もの重傷者がいるので最後まで首里で戦うべきだという意見を述べた.
 第二十四師団の木谷美雄参謀長は喜屋武方面への撤退案を述べた.
 独立混成第四十四旅団の京僧参謀は,喜屋武地区ではなく知念半島方面への撤退案を支持した.
 八原高級参謀は,かねて首里から南下して喜屋武岬方面への撤退を考えており,結局,牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを決断した.
 司令部には島田叡沖縄知事も加わっており,島田知事は,軍が首里で玉砕せず南に撤退して住民を道連れにするのは愚策であると憤ったとされる.

 南風原の陸軍病院では,五月二十三日から負傷者と弾薬の後送が開始され,二十五日,南部へ移動を開始して伊原地区の自然壕に移った.南部への撤退に際して,多くの重傷患者が置き去りにされた.

 五月二十四日,首里はアメリカ軍に占領された.後退した守備軍は二十七日夕刻から二十八日にかけて,強制動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を軍に同行させ,豪雨の降る中で本島南部への撤退を開始した.残存兵力は一説に四万という.
 守備軍首脳陣は小隊に分かれて南下し,第三小隊までは摩文仁方面へ直行し,牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らの第五小隊は津嘉山に移動してそこを一時的戦闘司令部にした後,三十日に摩文仁に撤退した.
 第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下を始め,翌日,最前線に位置していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も戦闘司令部に合流するため撤退を開始した.
 五月三十一日,首里陥落.

 守備軍の撤退によって戦場の中に取り残された傷病兵達は,毒薬や手榴弾で自決していった.また迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感で恐慌に陥った老人や子供,婦女子ら島民の群れが軍のあとを追って南へ逃げた.
 既に戦闘能力をほとんど失った正規軍に,動員部隊,老人や子供,婦女子が混じり合って敗走する群れは,追撃するアメリカ軍の砲撃の犠牲となった.何千もの死体が雨でぬかるみとなった道に置き去りにされていたという.

 これに遡る五月二十六日,小禄半島にいた大田海軍司令官の部隊約一万人は砲台や機関銃座を爆破し南部へ撤退したが,それを知った守備軍首脳は大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう命令した.そして小禄へ戻った海軍部隊はほとんど武器もないままアメリカ軍の攻撃にさらされた.
 六月五日,ようやく守備軍司令部は大田海軍司令官に南部への撤退を促したが,既にその時,海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲されており,脱出不可能と知った大田司令官は同日,司令部に電信を送り小禄地区にて最後まで戦うと通告した.
 玉砕を覚悟した大田司令官は翌日,海軍次官宛に沖縄県民の健闘を伝える訣別の電報を送った.(
Wikipedia【大田実】から全文を引用;電文中□は不明字)

****************************************************
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

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 アメリカ第六海兵師団は六月十一日午前七時三十分を期して戦車部隊を先頭に総攻撃を開始した.
 その晩,大田司令官は牛島守備軍司令官に宛てて「敵戦車群ハワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と打電し,翌日,大田少将以下の海軍部隊首脳は自決した.

 多くの民間人犠牲者を出しながら喜屋武岬から摩文仁岳一帯に逃げ込んだ守備軍を,海上を覆い尽くした艦船群からの砲撃が襲い,航空機による銃爆撃と陸上からアメリカ戦車部隊と地上軍が守備軍に迫った.

 アメリカ軍司令官バックナー中将は,沖縄出身の一世や二世兵士のうち沖縄弁の得意な者にハンドスピーカーを渡し,洞内や壕内に潜む人々に投降を呼びかけた.また大量の降伏勧告ビラを撒いた.
 六月十日以降,バックナー中将は三度にわたり牛島満中将宛に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを無視した.

 六月十七日,第六十二師団が摩文仁北方で激戦を繰り広げたが,これが最後の組織的戦闘であった.同日,米軍は国吉~与座岳~真栄平~仲座の陣地線を突破.
 この日,現在『ひめゆり平和祈念資料館』の南にあった陸軍病院第一外科壕に米軍機の直撃弾が命中し,多数の看護婦や学徒が即死した.

 六月十八日の午後一時頃,戦況の視察と部隊を督励するために第二海兵師団第八連隊の前線監視所 (旧高嶺村真栄里) に出向いたバックナー中将は,守備軍側の狙撃兵の放った銃弾が胸に命中して戦死した.またこの日,沖縄県知事島田叡が,摩文仁の丘のどこかで倒れ,消息を絶った.

 同日,守備軍司令部は突然,一切の責任を放棄して,軍病院とひめゆり学徒隊に解散を命令した.それまで重傷者で阿鼻叫喚の有様の中,水汲み,傷病兵の排泄の世話,死体の処理などの過酷な任務を負わされていた少女達は戦場に孤立した.
 翌十九日,ひめゆり学徒隊の生き残りは第三外科壕 (現在「ひめゆりの塔」がある場所) に集合した.
 アメリカ軍は壕を攻撃する前に中の者に壕外に出てくるよう説得工作を試みたが,当時十四,五歳の少女達は捕虜になると米兵に暴行されて殺されるという守備軍の宣伝を信じて最後まで壕の奥に立てこもり続けた.
 アメリカ軍の最終的攻撃の直前に水汲みに壕外に出た三人と,攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人を除く多数の女子生徒と教師ら非戦闘員四十六人がガス弾によって非業の死を遂げた.ここを生き延びた者は荒崎海岸に逃げたが多数が砲撃で死亡し,あるいは自決した.
 戦後の調査によれば,何らの法的根拠もなく動員されてから解散命令を受けるまでの九十日間のひめゆり学徒隊死者は二十一名であるが,全犠牲者百九十四名のうち,解散命令後の死者は百二十八名であった.
 生存者の証言によれば,第三外科壕の中で女学生達は白衣を制服に着替え,別れにそれぞれの校歌を歌いながら死を迎えたという.

 一方,摩文仁の断崖にある洞窟では,八原高級参謀が牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りを進めていた.
 残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて展開しているアメリカ軍に一斉突撃を行い,その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きであったという.
 しかし摩文仁岳山頂の奪回は失敗し,牛島と長の二人は洞窟入口付近で相次いで自決した.自決の数日前に牛島司令官が発した最後の命令は,

全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)

であった.

 全島民三分の一に相当する十五万人を死なせた地獄のごとき作戦を立案主導してきた八原高級参謀みずからは「最後まで敢闘し悠久の大義に生」きることなく,牛島の自決を見届けると,壕を出て投降した.

 六月二十日  牛島司令官,陸軍大将に昇進
   二十二日 大本営,沖縄での組織的戦闘の終了発表
        米軍,第10軍本部で沖縄島占領式典
   二十三日 牛島司令官,長参謀長,摩文仁で自決
   二十六日 米軍,久米島上陸
 七月二日   米軍,沖縄作戦終結宣言
 八月六日   米軍,広島に原爆投下
   九日   米軍,長崎に原爆投下
   十五日  天皇,終戦詔書ラジオ放送
 九月二日   日本政府,米艦ミズリー号上で降伏文書に調印

 牛島司令官の自決後も多くの兵や住民が,あたかも牛島の最後の命令に呪縛されたように二,三ヶ月も死線をさ迷った後,九月七日,日本軍残存部隊は嘉手納の米第10軍司令部で降伏文書に調印し,沖縄戦は終結した.

(以上の部分を書きまとめるにあたっては,手元の資料の他,ウェブを「沖縄戦」や「ひめゆり」などのキーワードで検索してヒットする多数のサイトの記述を参照させて頂いた.ここで逐一URLを挙げないが,深く感謝申し上げる)

 おきなわワールドを出て私達は,そこからわずかな距離にある平和祈念公園へ向かった.公園のある一帯が摩文仁の丘である.

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 バスを降りて駐車場から歩いて行くと左手に平和祈念塔が望まれる.

200312_4

 さらに海に向かって行くと,案内図 (上の画像) の上方,扇形のように見える所に沖縄戦死者の名を刻んだ石碑がある.これが沖縄戦の終結五十周年を記念して建設された『平和の礎 (いしじ)』である.

200312_2

 この『平和の礎』については沖縄県庁のサイトのトップページから《平和》のリンク先にある《平和の礎 》をたどって詳細を知ることができる.
 その他に資料として次の二つのサイトを挙げる. 
  沖縄県営平和祈念公園 平和の礎
  沖縄県平和祈念資料館

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 『平和の礎』は,海岸へ向かう通路の左側に沖縄県県民,右側に他県出身者,そのさらに右に外国人の石碑が並んでいる.
 沖縄県は,『平和の礎』に刻銘される対象者は国籍を問わず沖縄戦で亡くなったすべての人々とするとしている.従って沖縄守備軍司令官・牛島満の名も,鹿児島県出身者のところにある.
 公園内にあるパネルに,この『平和の礎』に刻まれた沖縄戦死者の数が記載されていた.平成十五年六月二十三日現在で以下の通りである.
  日本
    沖縄県         148,446
    県外           75,457
  外国
    米国   14,008
    英国     82
    台湾     28
    朝鮮民主主義人民共和国    82
    大韓民国          326

  合計            238,429

 平和祈念公園の海に面した広場には円錐状の小さなモニュメントが置かれ,その先に私達を案内したガイドさんは,向こうに見える断崖を指さした.

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 その断崖は,希望を失った多くの島民が身を投げたところだという.その光景を目撃したアメリカ軍の兵士達は,崖を“Suicide Cliff”と呼んだ.
 私達一行は『平和の礎』でそれぞれに黙祷し,バスに戻った.

 次にバスは『ひめゆりの塔』へ向かった.
 『ひめゆりの塔』は漠然と思っていたのよりもずっと小さな石の碑であった.そして塔の横にはひめゆり学徒隊員の名を刻んだ納骨堂と,少女達が死を迎えた壕の入り口があった.

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 ガイドさんは「ここはひめゆり部隊の鎮魂の場所ですから,大きな声での説明は致しません」と言って,静かに昭和二十年六月の悲劇について語った.そして『ひめゆりの塔』という小さな鎮魂碑をここに置いたのは,一人の学徒隊員の父親であることを私は初めて知った.

『ひめゆりの塔』の周りで黙祷を捧げる人々の真摯な様子に,塔そのものにレンズを向けるのは不謹慎のように思われ,塔の後ろにある少女らの名が刻まれた石碑を,遠くから望むだけにとどめた.

 ここで黙祷した後,それから一行は『ひめゆりの塔』の脇を通ってその奥にある『ひめゆり平和記念資料館』を見学した.

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 資料館の展示室に掲げられたパネルの文章と遺品の数々は,沖縄守備軍によって戦場に棄てられたに等しい学徒隊犠牲者の鎮魂と,軍の無責任に対する怒りを,圧倒的な迫力で見学者に訴えかけているようだった.

 この『ひめゆり平和記念資料館』のサイト (下記の URL) はあるが,残念ながら資料館に収蔵された展示物の詳細を知ることはできない.学徒隊の悲劇を知るにはこの資料館に来て欲しいということであれば,それも見識であるかと思う.
 五つの展示室について資料館のサイトにある紹介を抜粋要約すれば以下の通りである.

第一展示室/沖縄戦前夜
「沖縄への皇民化政策」「皇民化教育と師範学校」そして敗退を重ねる十五年戦争の状況下に,学校が急速に軍事化され,職員や生徒達が戦場へ動員されていくまでの様子を描いている.また「捨て石」とされた沖縄戦の意味を太平洋戦争の経過の中で解説する.

第二展示室/南風原陸軍病院
 南風原陸軍病院壕内部の状況が展示され,南風原の地形模型,米軍上陸後首里陥落までの戦況地図,写真,現物資料が展示され,沖縄戦の中の姫百合学徒隊の献身を描いている.

第三展示室/南部撤退
 南部撤退の状況を南風原陸軍病院とその分室の撤退図とジオラマで展示している.

第四展示室/鎮魂
 広い壁三面に二百余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記載したパネルが並んでいる.展示室中央には生き残りの生徒たちの証言の本二十九冊が展示されている.また『ひめゆりの塔』の前にある第三外科壕が実物大に複製されている.

第五展示室/回想
 この部屋は見学者がこれまでの展示を回想し,感想文を寄せるために設けられている.

特別展示室/ひめゆりの青春
 ここには当時の学園生活の資料が展示されている.

 

 『ひめゆり平和記念資料館』からツアー解散の那覇空港へ戻る途中で,ガイドさんがひめゆり学徒隊員達の校歌を歌ってくれた.彼女が歌い終わると,自然に車内に拍手が湧いた.
 この三日間,彼女は沖縄の基地問題や環境破壊のことについて,そして沖縄戦の悲劇について私の知らなかったことを幾つも教えてくれた.目取真さんという,いかにも沖縄っ子らしい名のそのガイドさんに深く感謝して,この旅行記を終える.

【補遺】
 昨年暮れ,この一文を書いている時のノートとして『雑事雑感』に三つの記事を掲載した.
2003年12月23日 沖縄旅行ノート(1)

2003年12月23日 沖縄旅行ノート(2)

2003年12月29日 沖縄旅行ノート(3)

 また関連記事として1月5日に次のことを書いた.

2004年1月5日 毅然ということ

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2016年5月23日 (月)

沖縄の旅 戦争(1)

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 自称リベラルの評論家宮崎哲弥が週刊文春にコラムを連載して久しい.
 この評論家は,評論家の常として自分の立ち位置を少しずつ調整変更しながら現在に至るが,戦争というものに対する見解は大きくは変えていない.
 その宮崎哲弥が週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に掲載された《時々砲弾 連載204》の中で,彼の戦争観を再論している.

 宮崎の戦争観の基礎は「正戦論」である.
 正戦論とは,戦争には「正しい戦争」と「正しくない戦争」があるとする論理であるが,論者により意味するところに幅がある.
 宮崎の正戦論がどのようなものであるかについて,私は十三年前の春に短い記事を自分の個人サイトに載せた.その記事の十日前にイラク戦争が勃発し,戦闘開始直後に陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんなど五名の捕虜がイラクに捕らえられたのであるが,私の記事は,イラク戦争開始と同時に書かれた宮崎哲弥のコラムに異議を唱えたものである.下の破線 (-----) 間に,フォントの色を変えて転載する.
(原文は,このブログと同名の,既に更新を停止した個人サイト《江分利万作の生活と意見》のコンテンツ《雑事雑感》に掲載したものだが,近く@ニフティの個人サイトサービスが終了となるため,ココログの同じ日付に移植してある.またこの連載で既に書いたように,この年に私は初めて沖縄を訪れた)

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2003年3月31日
あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに

 先週発売の週刊文春4月3日号『宮崎哲弥の新世紀教養講座』のサブタイトルは「イラク戦争を読み破る〈1〉倫理的に正しい戦争の条件」である.ここで宮崎氏は 加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書)を引用して次のように書いている.《》に直接引用する.

戦争観には三つの種類がある。
(A) 正しい戦争と不正な戦争が分別可能とする正戦論。
(B) 国家主権の発動たる戦争に正も不正もないとする無差別戦争観。
(C) すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義。
 加藤は「9.11」以降、世界は(B)の無差別戦争主義に流されつつあると嘆く。国連憲章違反の疑いが濃厚な、新決議なしのイラク戦争はその現実的帰結といえよう。
 この状況に歯止めを掛けるのは、(C) の絶対平和主義ではない。それは理念としては正しいが現実的妥当性がない。(A)の正戦論こそが戦争抑止の決め手として期待できる。そうである以上、倫理的に正しい戦争はあり得る、といわねばならない。
 正戦の条件は大雑把にいって二点。(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じるものであること、(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること、である。


 三つの戦争観を挙げて正しい戦争の条件を示した部分は『戦争倫理学』に拠っているのだが,文脈から判断すると宮崎哲弥氏はこれに同意している.
 どうもおかしい.ヘンである.例えば,明白な自衛戦争であり,かつ相手の戦闘員に限定した攻撃であれば,どんな残虐な殺し方をしてもいいのか(殺すことはすべて残虐であるという立場に私は立つ者であるが,それはさておき,宮崎氏の議論の流れに沿ってそう書く).生物兵器や化学兵器を使用しても構わないのか (技術的には可能だろう).それを正しいと認めるのか.
 加藤尚武,宮崎哲弥の両氏の議論がヘンなのは,やむを得ず必要悪として許されることに「正」の字をあてていることである.絶対平和主義に現実的妥当性があるかどうかは見解の相違があるだろうから,仮に絶対平和主義は現実的でないとしよう.それでもそれは「倫理的な殺し合い」を認める根拠にはならないと私は思う.必要不必要ということと,倫理的であるか否かは別次元のことである.


 イラク側が捕虜米兵の映像を公開した.許されざることである.捕らえられた五人の兵士の一人に黒人女性の陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんがいる.放送されたテレビ映像で,ショシャーナさんは負傷しており,年齢を答えるのがようやくなほどに怯えていた.読売新聞《Yomiuri Online 3/27 01:10》によると,ショシャーナさんは二歳の娘を育てるシングルマザーで,家族のために料理を作ることと娘の世話が何よりの楽しみだったという.叔母のマーガレット・ヘンダーソンさんは「あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに」と語っている.
 イラク戦争はアメリカによる侵略戦争である.国内政治的に極悪非道のフセイン政権であるが,彼らは今,自衛戦争を戦っている.
 非戦闘員を殺戮しているのはむしろアメリカ軍の方である.しかし,ならばイラクの戦いは正義か.
 想像したくないが,ショシャーナさんは処刑されるかも知れない.ご飯を作りにいっただけの女性が殺されるかも知れない.それが戦争の非倫理性なのだ.

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(〈上記の文章に関する註〉 ニューヨーク通信によれば,ショシャーナさんは生還してこの年の N.Y. 市の大晦日イベントにゲストとして招かれたとある)

 宮崎哲弥の言う正戦の条件は次の二点である.
(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か,それに準じるものであること
(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること

 上の二条件が満たされていれば,宮崎はその戦争「正しい戦争」と呼ぶ.
 その観点で先の戦争 (アジア・太平洋戦争) を見てみよう.
 まず条件 (1) は,極めて恣意的な判定が可能な条件であるといえる.
 なぜなら,敗戦まで日本政府は大東亜戦争を自衛戦争でありアジア解放戦争であるとしていたが,敗戦後は村山談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって 平成7年8月15日」と小泉談話「内閣総理大臣談話 平成十七年八月十五日」により,先の戦争は侵略戦争であったとする政府公式見解を明確にした.
 しかし昨年,終戦の日前日に安倍晋三は「安倍内閣総理大臣談話」を発表し,その文中で,先の戦争は侵略戦争であったとする従前の政府見解を覆し,同時に外務省のサイトから村山談話と小泉談話の痕跡を消し去った.
 つまり,ある戦争が自衛戦争であるか侵略戦争であるかなどということは,どうにでもなる空論なのである.

 次に条件 (2) はどうか.
 広島と長崎への原爆投下は非戦闘員を無差別殺戮したものであるが,原爆投下を正当化する論者は,戦後ずっと,あれは日本本土全体が焦土と化すのを避けるためであったとしてきた.これは,原爆投下は非戦闘員の殺傷を最小限度に留めるためのものであったとする正戦論に他ならない.
 視点をミクロに,先の戦争の局地戦としての沖縄戦,その最終段階における,ひめゆり学徒隊の伊原第三外科壕の悲劇を見てみよう.
 生徒らや引率教師らが潜む壕に,米兵は投降を呼びかける.

この壕に住民はいないか。兵隊はいないか。いたら出て来い。出ないと爆破するぞ。いいか》 (ガイドブック『ひめゆり平和祈念資料館』p.102 から引用)

 恐怖におののく少女たちは出て行かない.そしてガス弾が打ち込まれる.
 宮崎哲弥の正戦論によれば,殺傷を最小限度に留めるために非戦闘員への投降が呼びかけられているから,これは「正しい戦争」の行い方に則っている.その結果,

壕にいた96名 (うち教師5名・生徒46名) のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。》 (Wikipedia【ひめゆりの塔】から引用)

 だがしかし私は,私以外の多くの戦中戦後世代の人々と同じく,伊原第三外科壕における殺戮を「正しい」とは認めない.「非戦闘員の殺傷を避けるか最小限度に留めること」などという屁理屈はどうでもよい.認めるなと私の良心が命ずるのだ.

 したり顔に正戦論を説く自称リベラルの宮崎哲弥は,その正戦論に基づいて沖縄戦を,ひめゆり学徒隊の悲劇を,評論してみせるがよい.もし恥を知らぬのであれば,生き残ったひめゆり学徒に向かって「倫理的に正しい殺戮はあり得る」と語るがいい.

 かつてフセインの戦いを倫理的に正しい戦争であると言った宮崎哲弥のごとき鈍摩した感性の持ち主に,私たちがならぬためには,宮崎がどう言おうと,《すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義》に立たねばならない.それが,亡くなったひめゆり学徒の遺言であり,生き残った学徒たちが戦後を生きた志であると信ずる.

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『ひめゆり平和祈念資料館』 (ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック)
『生き残ったひめゆり学徒たち ― 収容所から帰郷へ ―』(ひめゆり平和祈念資料館編)

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2016年5月22日 (日)

沖縄の旅 観光スポット

 今回の沖縄旅行の同行者は私の他に三人で,三人共に沖縄は二度目の旅であった.
 首里城は,みんな以前の旅行で見学済みだったから,これはパスして,美ら海水族館とテーマパークの琉球村,史蹟の斎場御嶽に行くことにした.

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 前に来たときには気が付かなかったのだが,美ら海水族館の大水槽の横にはカフェがあって,この店の大水槽に面したテーブル席から,アクリル板越しに魚が観察できる.

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 大水槽の正面から観るよりも視界は狭いが,長い時間ゆっくりと眺めるなら,カフェでお茶やらビールとかを飲みながらがいい.

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 琉球村では琉球古民家が第一の見もの.登録有形文化財の民家がいくつも保存されている.

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 そのうちの旧西石垣家 (↓の画像〈上〉) では島唄ライブが行われ,旧島袋家 (↓の画像〈下〉) では琉球舞踊を観ることができる.

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 琉球村では一日に二回の「道ジュネー」というパレード↓が行われるのだが,演舞の予定時間を調べていかないと見損なう可能性大.

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 このお婆さん↓はパレード出演者の一人で,御歳九十六歳だという.一升瓶を頭に載せていられるのは,腰が全く曲がっていないということ.ただただ感心するしかない.

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 以上の美ら海水族館と琉球村は観光施設なので気楽に楽しめばいいと思うが,斎場御嶽 (公式サイト) はそうはいかない.琉球の信仰について多少なりとも勉強していないと,見学しても何が何やらわからない.

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 私はとりあえず Wikipedia【琉球神道】Wikipedia【御嶽 (沖縄)】を読んではみたが,あまり興味が湧きませぬ.私の沖縄への関心はそういう分野のことではなく,戦争と平和のことだからである.そして戦争と平和と沖縄は,私の遠い青春の記憶に繋がっている.

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2016年5月21日 (土)

沖縄の旅 ヒラヤーチーと沖縄そば

 東京にはもちろん沖縄料理店があって,私が会社員だった頃は,たまに酒を飲みに行ったものだ.
 沖縄料理は,よく知られているように本土各地の郷土料理とは食文化的に全く趣の異なるもので,東京の沖縄料理居酒屋で飲むとか,数日の観光旅行で味わい尽くせるものではないと思う.
 最近の若い人は一時期,沖縄に心酔することがあるらしく,こういう諸君は年に何度も沖縄に足を運び (私の娘もよく沖縄に行っているようだ),どうかすると沖縄に住み着いたりする.そうすれば沖縄料理というか沖縄の家庭料理が日常食になるわけであるが,私みたいな者はたまに東京の沖縄料理に舌鼓を打つしかないのが残念だ.

 ところで私が好きな沖縄料理は,ヒラヤーチーだ.
 外観はここに掲載されている画像のように様々である.実際,私の今回の沖縄旅行で何度も食べてみたが,味も見た目も店によって色々であった.
 私がなぜヒラヤーチーを好きかというと,これは戦後暫くのあいだ日本各地の家庭で代用食 (米飯の) として食べられていたものだからである.それが本土ではいつしか家庭料理としては全く忘れられて,今では沖縄に残っているわけだが,おいしいというより郷愁をそそる食べ物である.

 沖縄料理の代表選手が何かは難しいが,沖縄そばが代表候補であるのは間違いないところだろう.
 本土のラーメンは豚骨コッテリ系が全国制覇して既に久しく,昔風の中華蕎麦よりさらにあっさりした沖縄そば (画像) は,本土の若い人たちには人気薄だと思われる.
 だがしかし沖縄旅行に行ったなら,一回は食べなければ沖縄の食文化に対して礼を失するというものだ.
 そういうわけで沖縄そばを食いに出かけたのは,登録有形文化財である八重瀬町大頓の屋宜家だ.この店の沖縄そばが旨いかどうかということより,沖縄の民家の雰囲気を楽しみに行ったのである.

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 さて席に着いて品書きを開いてみたものの,前夜の大酒の祟りで,とてものことに「じゅーしー」(炊き込みご飯) とのセットは胃の腑に入りませぬ.
 そこで私たち一行は「本ソーキそば」の単品と,これに島豆腐や「すくがらす島豆腐」などの一品料理を一緒に注文して食べた.
 ちなみに,「すくがらす島豆腐」はどうみても酒肴ですな.昼飯のおかずとしては個性強すぎである.
 あいにくこの日は沖縄の梅雨入り直後で,時折激しく雨が降る悪天候のため,屋宜家の軒先にはブルーシートが掛けられていて,趣き的にちょっと残念であった.

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2016年5月20日 (金)

沖縄の旅 那覇のライブハウス

 私が最初に沖縄に行ったのは,もう十三年近く前 (平成十五年) のことだ.
 その時は観光旅行だったけれど,二回目,三回目は会社の出張だったから,目的地で仕事をした後は那覇で夕食を摂り,ライブハウスで民謡を聴いて,一泊して帰ってきた.
 だから今週の月曜日から木曜日までの沖縄旅行は,本当に久しぶりに沖縄に来たという感じだった.

 一泊目は恩納村の「かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ」で,二泊目,三泊目は那覇の「沖縄都ホテル」に連泊した.
 その三泊目の夜だが,まずタクシーで,ゆいレール牧志駅付近まで行き,それから国際通りを西にぶらぶらと歩いた.
 すると,国際通りから左に入った小路に「国際通り屋台村」という飲食店街があった.足を踏み入れると,なんだか新しそうな施設で,いかにも客単価が安そうな店が並んでいたのだ.
 とりあえず「飛梅食堂豚トン味」という屋台店に入って,シークヮーサーのサワーを飲みながら,店の人に「ライブハウス,評判いいとこありませんか」と訊ねたら,「ちょんちょん」 という小さな店が若い人に人気だという.
 屋台村を出て,教えてもらった「ちょんちょん」に入ったのが七時過ぎで,七時半から一回目のライブが始まった.

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 この店のお客さんたちはノリがよくて,例のカチャーシーでは全員で踊った.
 余談だが,あとで Wikipedia【カチャーシー】を読んだら,以前は「初心者の観光客は阿波踊りになってしまう」とユーモラスに書いてあり,初心者の私は大いに納得して笑ったのだが,これが今は編集削除されているのは残念である.(笑)

 さて同行者と「もう一軒行こう!」ということになって,次は牧志駅に近いところにある「とぅばらーま」に行った.
 この大きな店では,よく知らないけれど八重山民謡伝承者として有名らしい宮良康正さんという人のライブをやっていた.

 ところが,演奏はとてもよかった (と私みたいな素人でも思う) のだけれど,客席は満員なのに妙に暗く静まりかえっていて,手拍子も囃子言葉も入れず,演奏の終わりのカチャーシーの時はステージに五人ほど上がって踊っただけであった.そのうちの一人が私であるが,満員の客席がみんな白けているのに数人だけで踊るのはかなり恥ずかしかったと白状しておく.この店の客層はどういう人たちなんだろう.ライブそのものはよいのだけれど,那覇の夜を明るく楽しみたい観光客にはお勧めしない (笑)

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2016年5月19日 (木)

沖縄の旅 幸多かれと

 私たちが歌う「歌」は,それを構成する歌詞と,メロディーなどの音楽的要素で構成されているのだが,それ以外の,歌が作られた背景のようなものが極めて大きな意味を持っている場合がある.

 沖縄戦に看護要員として動員されたひめゆり学徒隊の愛唱歌「別れの曲」はたくさんの人が耳にしたことがあるだろう.
 ところが,かなり前のことだけれど,閉館した私の個人サイトに沖縄旅行記の記事を載せた時は,ネット上に一つしかアップされていなかった.
 それはそれで貴重な音源だったのだが,元の歌の持つイメージを少し損ねている部分があったのが残念だった.

 しかし今日,沖縄旅行から戻って調べてみたら,上記のファイルとは別の「別れの曲」が昨年の六月に YouTube で公開されていたのを見つけた.
 沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の校歌と共に歌い継がれるこの歌の作詞者,太田博少尉は昭和二十年六月に糸満市伊原で戦死.作曲者の学徒隊引率教師,東風平恵位先生は六月十九日に第三外科壕で亡くなられた
 修学旅行で沖縄を訪れた経験のある生徒たちが,折に触れてこの美しい歌を口ずさみ,いつまでも忘れませんように.

沖縄・ひめゆり学徒の記憶「別れの曲 (うた)」

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2016年5月18日 (水)

宮澤賢治の服装

(この記事は予約投稿です.筆者はただ今旅行中)

 朝日新聞 DIGITAL に,六年前に創刊されたコミック誌『思い出食堂』(少年画報社) が部数を伸ばしているという内容の記事が載っていた.現在八万部だというから大したものだ.
 編集長の村松淳夫氏は《グルメや大食いではない、しみじみとした子ども時代の原体験につながるような漫画雑誌ができないか、と社内で提案されたのがきっかけ》と語っている.(朝日新聞の記事《なつかしの食べ物でほっこり ごはん漫画も昭和ブーム?》 〈2016年5月4日掲載〉から引用)

 それで,『思い出食堂』がどんなコミック誌か興味を覚えたので,古本を二冊買ってみた.
 「No.26 豚汁・定食編」と「No.27 東北・うに丼編」だ.
 このコミック誌は《オール新作よみきり漫画》と銘打ってはいるが,連作短編 (「横浜百年食堂」など) もあって,高井研一郎が相変わらず達者だし,他にも「いいな」と思わされる作品がちらほらある.

 ただ,「No.27 東北・うに丼編」の最初に載っている魚乃目三太「宮澤賢治の食卓」の絵を見て私は違和感を覚えた.
 というのは,魚乃目三太の描く宮澤賢治はネクタイを締めた背広姿で,これではまるで官吏か旧制高等学校の教授みたいだと思ったからである.

 私の持っていた宮澤賢治のイメージはこれ↓.

Miyazawa_kenji
Wikipedia から引用.パブリックドメイン.

 しかし,あの《松岡正剛の千夜一夜 》他,多くのサイト (例えばここ) に,教壇に立つ賢治の写真が掲載されていて,それを見ると賢治が着ているのはスリーピース・スーツなのである.
 うわあっ,知らなかったっ,と私は頭を抱えてしまった.
 上に引用した宮澤賢治を写した代表的な写真は,花巻農学校を退職したあとのものなのであろうか.
 ともあれこれで積年の思い込みを正すことができた.魚乃目三太氏に感謝する.

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2016年5月17日 (火)

純愛の砂

(この記事は予約投稿です.筆者はただ今旅行中)

 深夜,一人静かに昔の歌に耳を傾ける.
 私は少年の頃から騒がしい曲が好きではなかった.ビートルズ来日で世間が大騒ぎしている時も,あんな曲のどこがいいんだろうと思っていた.今はもうカラオケに行くことはなくなったが,現役会社員当時は,飲めば大抵はカラオケに行き,同期入社の団塊オヤジがイエスタデ~イなどと歌うと,次に私はわざと「愛國の花」なんぞを歌ったものだ.

 以前の記事で大津美子の「ここに幸あり」のことを書いた.その時に紹介したキングレコードのCD『SP原盤再録による大津美子ヒットアルバム』(KICX3177) には,「ここに幸あり」の他に素敵な歌がいくつか収められている.
 その一つが「純愛の砂」.
 録音がひどいが,ネットにある「純愛の砂」を挙げておく.(このサイトが著作権的にどうなのか知らないけど ^^;)

 戦後,昭和中頃の流行歌の価値は,なんといってもその歌詞とメロディのリリカルな美しさにある.
 これぞプロの仕事といっていいが,しばらく後の時代につまらぬ歌を大量生産した演歌系商業作曲家と作詞家らの到底及ぶところではない.
 それじゃ演歌の連中と対極にあるシンガーソングライターたちに独創性があるかというと,そんなことはない.天才的な何人かのソングライターは別として,ストリート出身のポップス歌手たちの,手垢にまみれた「大切な何か」などという歌詞を聞くとうんざりする.

 ところで,ネットで「純愛の砂」を探したら,こんなのがあった.
 大津美子のオリジナルを木端微塵に粉砕するほどの破壊的下手さ加減なのだが,これはカラオケおばさんが自分で歌ったのをアップしたのだろうか,声が震えている.

 これって,ウェブを検索すると上位にくるので,ついクリックしてしまう人が多いのではなかろうか.閲覧視聴して「しまった,こんなの見ちゃったよー」と思うのだが,あとの祭だ.そういうことが積み重なって,検索結果のトップを維持しているのだと思う.検索サイトというものの欠点だ.

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2016年5月16日 (月)

藤沢 清香園

(この記事は予約投稿です.筆者はただ今旅行中)

 先日,藤沢駅の南口にある有隣堂で本と文房具を買い,それから清香園で昼飯を食うことにした.
 久しぶりに中華が食いたかったのである.
 大衆中華 (レバニラ炒めとか支那そばとか ^^;) ではない藤沢の中華料理店は,古くからある南口の銀座アスター藤沢賓館,さいか屋レストラン階にある煌蘭藤沢店萬福楼 (本店とほか二店舗) などがある.

 銀座アスターは会食向きの料理店で,ランチもコースになる.一人で飯を食いに行く種類の店ではない.私も子供たちが独立する前,家族で中華を食おうというときは,この店を使ったものだ. 
 煌蘭の藤沢店には入ったことがないが,一人ランチする人もいるようだ.
 清香園と萬福楼は庶民的な中華料理店だが,清香園ではまだ食事したことがない.
 清香園は藤沢に創業本店があるが,横浜中華街にも店を出している.横浜中華街ではまだ十年にならない新しい店で,どこの通りにあるかは知っているが,いつも店の前を通り過ぎてしまう.他にたくさん店があるので.

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 さて藤沢の清香園.丸テーブル (お一人様席) でメニューを見てしばし思案し,Eランチ「豚肉と小貝柱の味噌炒め」と焼き餃子に決めた.
 あまり待たずにまず白飯と卵スープと漬物が到着し,続いて主菜もやってきた.
 「豚肉と小貝柱の味噌炒め」の材料は豚肉,小柱,にんにくの芽,ねぎ,カリフラワー.味付けは回鍋肉片と同じ味噌味で,かなり濃い.しかも量が驚くほど多い.
 これに対応して,白飯は大人用の茶碗二杯分は軽くある.その上,これがお代わり自由なのだ.というか,丼飯をお代わりする前提でおかずの量と味付けが決まっているような気がする.
 若い人なら苦もなく平らげるであろうが,年寄りは「ご飯半分」と事前申告した方がいいと思った.

 焼き餃子も,餃子の王将辺りの餃子に比べると重量感がある.そしてうまい.
 お会計は〆て千二百五十円.
 蕎麦屋で天ぷらを肴に蕎麦前を飲み,それから盛蕎麦を頼めば四千円だ.藤沢の居酒屋で昼飲みする場合も客単価は四千円ほど.いかに酒が高いものかよくわかる.
 清香園のランチ,圧倒的なコスパです.満腹です.ごちそうさまでした.

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2016年5月15日 (日)

会津の旅 補遺 (一)

 《会津の旅》を (二十一) まで書き終えた.
 これは飯盛山のことを書きたくて始めた旅行記だったから,省略したことがいくつかある.
 それらを順不同に書いてみたい.

1.『堂々日本史3』のこと
 私は,コラムニストが週刊誌に書くテレビ番組批評を読んで,NHK大河ドラマで何をやっているかぐらいは承知しているが,大河ドラマそのものは観ない.
 あの大河ドラマというのは,ほんとによくない番組だと思う.いくらテレビ好きの人でも,水戸黄門とか遠山の金さんのチャンバラ時代劇を史実とは思うまいが,大河ドラマに描かれていることは事実だったと思い込みやすいからだ.シナリオライターが勝手に話を盛り,時代考証は無きに等しい野放し状態なのに.

 大河ドラマでもそうだから,NHK取材班とやら (つまり専門家ではない) が制作する日本史に関する娯楽番組,例えば過去の作品「歴史への招待」「その時歴史が動いた」「堂々日本史」などは,中身は娯楽番組なのに日本史を描いたノンフィクションのように視聴者は見てしまう.
 私は《会津の旅》を書く過程で入手した会津戦争関係のある文献を読み,その文献中に参考文献として挙げられているものを辿っていったところ,娯楽番組を活字化したに過ぎない書籍『堂々日本史3』が堂々と論拠になっていて大変驚いた.実はこの文献を論拠にして書かれた文献もあって,そこにはもっともらしいことが書かれているが,なんとまあ大元はテレビの娯楽番組なのだった.

 『堂々日本史3』は,取り上げられた歴史的事件ごとに,作家と番組制作担当者の対談で構成されている.
 この本に書かれている歴史事件の一番最後は白虎隊の自刃で,タイトルは「白虎隊、生死を分けた二日間」である.
 この「白虎隊、生死を分けた二日間」では作家の立松和平が対談ゲストであるが,なぜ立松和平が堂々と日本史を語れるのか,説明できる視聴者はいないのではなかろうか.そもそも歴史家でも,歴史小説家でもない作家をゲストに呼んでくるところが,『堂々日本史』が娯楽番組たる所以であるが.

 案の定,立松は,会津戦争を会津藩の武士の観点からしか見ていない.
「複眼」という比喩の言葉があるが,私のような日本史の門外漢でも,ある一つの歴史的事件を観る際には,いろんな観点から (つまり比喩として昆虫の複眼のように) 眺めてみるくらいのことはする.
 しかしこの対談を読む限り立松は,考えることの初歩ともいえる複眼的な思考ができないようで,会津藩の圧政に苦しめられた百姓たちの視点などは,一切念頭にないと見える.たぶん立松は,会津藩降伏後に百姓たちが起こした一揆のことなど全く知らないのではないか.
 立松は歴史小説の作家ではないから仕方ないと言えぬこともないが,それにしても物事を知らぬこと甚だしい.対談の中で,こんなことを発言している.

特にこの戊辰戦争なんかは、勝った側・西軍のほうの歴史しか語り伝えられていない。でも、負けたほうにだって真実はあるんですから。

 この人は何を言ってるのだろう.一般読書人が容易に入手できる出版物で,会津側の歴史を書いたものはいくつもあるということを知らないのか.
 一般人より知識レベルの点で一周遅れの立松は知らないだろうが,問題はそれらの本が,「負けたほうの真実」を書かんがために,事実に基づかない似非「真実」を書いていることである.
 そして「負けたほうの真実」は,東日本大震災の時に義捐金を贈ってくれた萩市民に対する会津若松市長の無礼な発言に繋がっているし,会津人の「三春 (町) から嫁をもらうな」という浅はかな蔑視感情を,現在も煽り続けているのである.
 次回は三春町のことを書く.

(続く)

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2016年5月14日 (土)

藤沢 古久屋藤沢店

 某月某日の夕方.といってもつい最近のこと.
 かかりつけの医院で処方箋を書いてもらったあと,薬局で薬を購入し,ついでに早めの夕飯を食おうと思って,藤沢駅南口のダイヤモンドビル地下にある古久屋の藤沢店に行った.ダイヤモンドビル地下の,スーパーや惣菜店や瀬戸物屋などが無秩序に立て込んだ奥の,場末感漂う一角に古久屋はある.

 今でこそ藤沢の駅周辺には,比較的古参の松壱屋藤沢本店 (平成十年~) から新参のラーメン二郎湘南藤沢店 (平成二十二年~) まで何軒もラーメン屋があるが,私がこの土地に初めて住むことになった昭和五十年頃は,ラーメンといえば古久屋だった.
 もちろん大衆食堂のメニューにラーメンはあったが,専門店である古久屋のラーメンはそれよりワンランク上だと見做されていた.

 あれから幾星霜.今ではもう古久屋の評判を聞くことはさっぱりなくなったが,どうしているんだろう.元気でいるのだろうか.街には慣れたか.友達できたか.今度いつ帰る.あー帰らなくていいです.
 古久屋という会社自体は「寅そば」という別系統の店を多店舗経営しているから元気なんだろうけれど,昔懐かし本家本元の古久屋藤沢店に行ってみたのである.

 古久屋は昔から,戦後のデパートの大食堂みたいに,入口のレジで代金を先払いする方式だった.お金を払うとレシートを出してくれるのだが,そのレシートの一部が食券になっている.
 席についてテーブルの上にレシートを置いておくと,店員がやってきて食券部分をちぎって回収していく.それが,オーダーを受けたということになる.古久屋は,昭和三十年代が思い出されるそのやり方を,今でも続けていた.

 私が注文したのは五目焼きそば (\850) である.それは事前に食べログで,こういう激賞レビューを見ていたからである.
 さて店員に食券を渡したのが 16:25 だった.
 それから,五目焼きそばがやってくるまでのあいだ,店内を観察したのだが,内装は昭和五十年代と変わっていないように思われた.
 天井には二種類の小型で丸いシーリングライトが取り付けられていて,色は赤と緑色.これが交互に並んで弱く店内を照らしている.
 窓側にはペンダントライトがいくつも吊り下げられているのだが,色はピンクと黄色である.
 赤と緑とピンクと黄色.まるで昭和の場末スナックバーである.
 女の名はエリカといった.女は自堕落に煙草の煙を吐きながら言った.「言っとくけど,うちの店,やすくないからね」
 そんな雰囲気であった.よくわからんけど.

 古久屋は,店は広いけれど,広いだけに何だか物悲しさすら感じさせた.
 店内の客は,老夫婦が一組,老女が二人,老人が三人であった.老人のうちの一人は私である.老夫婦以外はすべて一人客で,少しずつ離れた席について,みな押し黙って食事中か,あるいは注文したものが届くのを待っていた.
 やや背を丸めてパイプ椅子に腰かけ,まだ丼も皿も置かれていないテーブルを見つめている老人たちは,もしかすると三十年前に注文したラーメンを待ち続けているのかも知れなかった.

 私の五目焼きそばが到着したのは 16:40 だった.
 唐突だが,料理写真とか映像とかの分野にシズル感という言葉がある.語源は英語の sizzle.
 意味は多岐にわたるけれど,出来立ての料理の場合であれば,その皿が放つ「出来立て感」とでもいうものだ.
 ところが私の前に置かれた五目焼きそばには,シズル感が全くなかった.

 シズル感はともかく,実際に食べてみたら麺とその上にかけられた野菜餡は室温だった.小エビの中華風天ぷらも同じ.
 それどころか味付き玉子,チャーシュー,煮たシイタケなどのトッピングは,冷蔵庫から出したばかりのように,ひんやりと冷たかった.
 「他の客のオーダーを受け間違って作りかけてしまった五目焼きそばがあり,それが調理台の上に放置されていたところに私が五目焼きそばを注文したもんだから,料理人はこれ幸いと冷蔵庫からトッピングを出して上に乗せて配膳したという逆シズル感」が力なく皿から放たれていた.

 古久屋の料理人さんにお願いしたい.
 そういう場合は電子レンジでチンしてください.ごちそうさまでした.

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2016年5月13日 (金)

会津の旅 (二十一)

 前回の《会津の旅 (二十) 》からの続き.

 旅の二日目.
 御宿東鳳のツインベッドルームで目を覚まし,窓の外を見ると雪が降っていたので驚いた.
 昨日は晴れていたのに.

 朝食会場は昨日の夕食と同じバイキングレストランなのだが,あそこは窓がすごく大きかったはず.どんな景色なのだろうと,レストランに行ってみた.
 テーブルに案内されて《幅15mのパノラマウィンドウからの四季を感じる眺望》 (ホテル公式サイトから) に目を見張った.外は弱い風が吹いており,大きな,というか巨大な窓の外に雪が流れるように舞っていたのである.
 美しい光景だった.昨夜《窓は大きかったですね.以上.》などと思ってまことに済まぬ.

 で,腹ごしらえ.朝食の献立はどんなものか.
 レストランに入り,ありきたりの朝飯が並んでいるテーブルに沿って歩いていくと,女性スタッフがおむすびを拵えていた.
 炊き立てのご飯で,具はねぎ味噌とおかかその他.
 いやもう,このねぎ味噌おむすびの旨かったこと!
 ねぎ味噌おむすびはコンビニにもあるけれど,それとは食べ物としてのレベルが全く違うのだ.
 会津の米が旨いのか,地元産のねぎが香り高いのか,あるいはこの土地の味噌の功績であるのか,朝飯はこれだけで他に何もいらぬと思った.
 許されるものなら五個とか六個を食べてみたかったが,朝っぱらからその暴食は人としていかがなものか.今日は色々と食う予定があり,二つで諦めざるを得なかったのが,無念であった.
 昨夜《大した料理がないので》などと思ってまことに済まぬ.夕食の不満は,このねぎ味噌おむすびで全部帳消しにする.

 というわけだが,この降雪は八時過ぎには止み,なんとまあ,きれいに晴れ上がったのである.
 よかったよかったと出発する前に,ホテル内の土産物屋を覗いてみたら,こんなポップが.

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 これは「ネスレ キットカット ミニ 日本酒」というチョコレートのようで,おいしい!どこで売ってるの?と大評判らしい.
 大評判のことを炎上と書いたのは年輩の店員さんだろう.微笑ましい.

 さてホテルから会津若松駅へのバスに乗り,それから周遊バスで鶴ヶ城へ向かう.昨日は時間がなくて入れなかったアドリア北出丸カフェに行くのだ.

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 開店早々にカフェに入る.誰もいない.
 一人で窓際の席に着いてメニューを眺めていたら,サアッと空が暗くなり,雪が激しく降り始めた.
 そして十分ほど経つと,突然に青空が現れた.
 どういうことなんだろう.
 風花は,一般的には空が晴れているのに雪がちらちらと風に舞うように降ることだ.
 私の郷里の北関東辺りでは,日本海側に強い寒気が押し寄せて降雪している際,雪雲の一部が上越の山を越えて飛ばされてきたときに見られる現象だ.雪が下に降って来たときにはもう雪雲は消えているので,晴れているのに雪がちらちら飛ぶというわけである.
 類推だが,この妙な降雪は,風花の盛大なやつだろうか.

 それはそれとして,メニューだ.
 ケーキはシフォンケーキ,チーズケーキ,ガトーショコラがある.ガトーショコラを食べてみよう.

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 ケーキを食べている最中にも何度か盛大な風花が舞った.何か不思議なものを見たような気分であった.
 あまりゆっくりもしていられないので,コーヒーを飲み終えて店を出た.ごちそうさま.おいしいケーキでした.

 バス停は北出丸カフェのすぐ近く.「あかべぇ」に乗ってJR只見線七日町駅で降りた.この駅は七日町通りという観光コースの起点である.
 この↓駅舎,歴女や鉄子ではない普通の娘さんたちが喜びそうな外観で,中に喫茶室がある.

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 この七日町通りの観光ガイドサイトによると,コンセプトは「大正浪漫」であるらしい.(街中に散見される案内板には「七日町面影ろまん」とあるが,これは全然浸透していないようだ ^^;)

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七日町駅から近い
阿弥陀寺の境内にある案内板.
阿弥陀寺には,会津軍側戦死者が葬られている.


 といっても会津若松に大正時代の文化芸術,あるいは思潮が花開いた歴史があるかというとそんなことはない.ただ単に街並みが,明治,大正,昭和をひっくるめてレトロであるということらしい.

 でも,かつて栄えたことのある古い地方都市の街並みを,大正浪漫という言葉で代表させるのは悪くないと私は思う.
 例えば大正浪漫の通りに面して昭和レトロがあっても構わないだろう.
 これ↓どうですか.元は何かの商店だった建屋を改造したものだろう.ジャズ喫茶としては破天荒な店構えがとてもいい.

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 拡大 (下の画像) してもわかりにくいが,このジャズ喫茶店の主人は真空管アンプを製作販売しているようで,ショーウインドウには大型古典三極管や戦後のビーム出力管を使用した管球アンプが陳列してある.
 ただ,どう見ても大正浪漫に見えないせいか,観光ガイドサイトに取り上げられていないのがかわいそうだ.時間があれば入ってみたかったが,それは次の機会に.

 上の画像のジャズ喫茶店は,キリン生ビール一番搾りの幟はない方がいいが,レトロ感はでていると思う.
 ところが「レトロっぽい建物で町おこし」的に失敗している店がいくつもあって,例えばこれ↓みたいなのはいかがなものか.レトロでも浪漫でもない,ただのチープだ.

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 上にいささか侘しい例を挙げたが,しかし表通りを折れると,偽物ではない,趣のある建物がある.
 下は旅番組に時々登場する末廣酒造嘉永蔵の入口だ.

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 入口を入るとすぐ右に,会津出身の映画カメラマン高羽哲夫の資料館 (というか資料室;松竹映画ファン必見) があり,その奥の玄関を入ると左手にカフェ「杏」,さらに進むと展示室などがあって,この建屋全体が観光スポットとなっている.
 下はレトロモダン調のカフェ,杏の店の中.ここで暫し休憩した.

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 さて末廣酒造の次は,味噌田楽を食べさせる満田屋へ行く.

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 この満田屋も,七日町通りからは外れている.外観はさほど歴史的建造物には見えないが,店内は落ち着いた昭和レトロである.こことか末廣酒造などが七日町通りに面していれば観光振興策的にはもっといいのだろうが,それは無理というものだろう.

 満田屋にやってきたのは,味噌田楽は会津だけの食い物ではないが会津の名物ではある,という話なので,私も食べてみたいと思ったからである.
 カウンターの中に腰程の高さに作られた囲炉裏があり,そこで田楽を焼く.昼飯を食っていないので,コースを頼んで一通り焼いてもらう.
 焼く係は三人の若い娘さんたちである.
 彼女らの会話を聞いていると,今朝は猪苗代は吹雪だったよなんてことを言っている.なるほど.私が今朝目にした会津盆地の風花は,標高の高い猪苗代では吹雪になるということだろうか.

 味噌田楽のコースは,こんにゃく,厚揚げ,餅,身欠き鰊,さといも,郷土料理「しんごろう」の順に出てきた.いずれも,想像していたよりも,かなりネットリと甘い味噌ダレであった.
 そのため味噌田楽を食べ終えた頃には,私の唇は甘い味噌でぶ厚くコーティングされてしまっていた.
 舌で何度も舐めるのだが,唇の感覚が元にもどらない.冬眠に入る前の熊が,掌に厚く蜂蜜を塗るというが,そういう状態である.
 ちなみに,有名な中国のフルコース料理である満漢全席では熊の掌の料理が供されるが,それには熊の右の掌だけを使う.
 なぜ左の掌は料理に使わないかというと,冬眠中の熊は,トイレに行くのがめんどくさいので,左手で尻の穴を春が来るまでずっと押さえているからである.
 Wikipedia にはこのことが書かれていない.私も残念ながら出典を忘れてしまった.

 さて満田屋を出て,甘い唇を舐めながら東に歩く.
 七日町通りが終わり,突き当たって南に少し下ると,野口英世に所縁の会津壹番館がある.元は野口英世が手の手術を受けた医院であった建物で,現在は一階が喫茶店で,二階が野口英世の資料館になっている.

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 思うに,野口英世という人物は,世間に流布している虚像と実像のギャップが大きすぎる.人間性に問題があったことは問わないとしても,医学者としての業績に見るべきものがあまりないのは (全くないわけではない) 困ったことで,小さい子に英世がなぜ紙幣に肖像が描かれているかを説明するのは難しい.樋口一葉が日本の近代文学史に残したあまりにも大きな業績と,野口英世のそれとを比較するのは,一葉に失礼ではないかという気がするほどである.
 というわけで,私の七日町散策はここで終わり.

 会津若松の観光スポットで,戊辰戦争関係は飯盛山以外はあまり訪問できなかったが,まァいずれ再訪することもあるだろう.今回の旅はここまでとして,帰路につくことにした.

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(了)

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2016年5月12日 (木)

会津の旅 (二十)

 前回の《会津の旅 (十九) 》からの続き.

 さて私は飯盛山の白虎隊士墓前広場で暫し感慨に耽ったあと,飯盛分店からさざえ堂に向かい,山を降りて行くことにした.

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 するとさざえ堂の脇に古びた宇賀神堂があった.宇賀神は古くから民間で信仰された何だかよくわからない神様である.
 もっと何だかわからないのは,この堂の脇に,激動の昭和を風雨に打たれ続け (嘘),もはや壊れそうな「おみくじ自販機」が置かれていたことだ.「おみくじ自販機」って,昔は各地の観光地でよく見かけたなー.
 下の画像では全体がよくわからないが,ネット上によくできた動画があるので,それを示す.

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 ただし飯盛山のおみくじ自販機は,ガラスケースの中にいるボロボロの巫女様が,白虎隊の鉢巻をしているという,わけのわからないものになってしまっている.
 しかもこんなことが書いてある.

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 店主,字が下手すぎである.(笑)

 さざえ堂の前にある石段をおりると,厳島神社があった.

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Wikipedia【厳島神社 (会津若松市)】によると,

1700年(元禄13年)には会津藩主松平正容によって、飯盛山周辺の580間が寄進され鳥居や仁王門、青銅の大仏も建立された。明治期に大仏は市内の七日町にある阿弥陀寺へ移されたが、鳥居は今も残る。

だそうで,今でこそ山の陰でひっそりと淋しい雰囲気を漂わせているが,往時はなかなか立派な神社だったのであろう.上の引用中の《市内の七日町にある阿弥陀寺》には旅の二日目に行く予定だ.

 さて飯盛山観光を終えて,私は再び「街中周遊バスあかべぇ」に乗り,次に観光施設の「会津武家屋敷」に向かった.

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 この会津武家屋敷は,観光施設ではあるけれど手入れもよく,小さいながらも資料館などがあって,訪問しても損はないと思う.特に敷地内にある「旧中畑陣屋」というのは武家屋敷 (書院造) の実物を移設したもので,県の重要文化財だという.

 会津武家屋敷をざっくりと見て回り,場外に出るとすぐ「あかべぇ」のバス停があるので,ここから鶴ヶ城へ行く.

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 鶴ヶ城の桜は蕾だった.(翌月再訪した時はもう散っていた)
 鶴ヶ城は全国に建てられた観光城の一つにすぎないが,内部は会津藩の資料館になっている.展示史料を足早に閲覧した感想では,想像したほど会津怨念史観に毒されてはいないようだ.

 怨念史観といえば,東日本大震災のあと,義捐金を贈ってくれた萩市民に対する会津若松市長の幼稚で無礼極まる態度が思い出される.
 現在,会津地方に住む人々のほとんどは会津藩士の子孫でもなんでもないわけだから,若い人たちには冷静に郷土史を勉強して欲しいものであるが,市長や行政当局がこの体たらくでは道は遠いのかも知れない.

 ところで戊辰戦争から西南戦争に至る明治の歴史で最もわかりにくいのは,警視庁の抜刀隊だ.
 Wikipedia【抜刀隊】には次のように記述されている.

田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により、政府軍 (陸軍) では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において人員の大多数を占める鎮台の兵は、主に徴兵令によって徴兵された平民で構成されており、士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。
こうした状況下による事態を打開すべく、主に陸軍の後方支援をしていた警視隊 (警視庁警察官は薩摩士族を中心に全国の士族で構成) の川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部らが、征討参軍 (実質的総司令官) 山縣有朋陸軍中将に対し、植木口警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、彼らの力を借りることは不本意であったが、山縣はこれを許し、植木口警視隊から百十余名をもって第一次抜刀隊が編成された。

 ここに登場する《川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部ら》は皆,薩摩藩士族の出身である.
 それらの者が白兵戦部隊の臨時編成を発案したというのは別に構わないのだが,しかし大警部の上に大警視川路利良がいたはずで,その川路を飛び越えて川畑らが,陸軍の総司令官である山縣有朋陸軍中将に上申するということが可能だったのだろうか.川路はその時どうしたのか.それが最大の疑問.
 一方,Wikipedia【川路利良】

激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退ける。

と,わずか一行で片付けて,抜刀隊の創設に川路はあまり関与しなかったかのような書きぶりになっている.
 そういう史実としてよくわからない辺りが小説家の腕力の振るい所であるわけで,戦中派天才老人山田風太郎は『警視庁草紙』で,江戸幕府最後の南町奉行である駒井相模守信興に川路利良を絡ませ,大西郷下野の朝から,西南の役に向かう警視庁抜刀隊の銀座行軍の朝までを描いた.山田風太郎明治小説の白眉でありますな.

 次に通説というか俗説というか (NHK『堂々日本史』15巻など),警視庁抜刀隊には元会津藩士の巡査が多数応募し,西郷軍に「戊辰の復讐,戊辰の復讐っ」と叫んで切り込み,戊辰戦争の恨みを果たしたということになっている.
 福島県出身の私の知人なんかは「ということは会津一刀流薩摩示現流より強いのだ」と鼻から火を噴き耳から煙を吐いて自慢する.ほんとかよ,というのが二つ目の疑問.

 とはいうものの,ここで史料を持ち出して元会津藩士たちと警視庁抜刀隊の話に入ると旅行記が先に進まない.いずれ別に稿を立てて書くことにしたい.

 さて今の鶴ヶ城趾には麟閣という茶室がある.(下の画像)
 千利休が自害したあと,茶道の弟子である会津藩主蒲生氏郷が利休の子である千少庵を会津に招いた.その時に建てた茶室である.

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 鶴ヶ城に観光に来たら,ついでにこの茶室は必見かな.時季がよければきれいな庭を観ることができるはず.

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 城趾を出てバス停に行く途中に「北出丸カフェ」 (上の画像) というお店があって,ネットで評判がよかったのだが,そろそろ宿のチェックイン予定時刻が迫って来た.翌日また来ることにして,一旦会津若松駅に行き,ホテルからのお迎えバスに乗った.
 お泊りは東山温泉にある御宿東鳳で,宿をここにしたのは楽天トラベルで顧客満足度が非常に高かったことと,夕食がバイキングなので会津の郷土料理が食べられるかもと期待したからである.

 というわけで御宿東鳳のサイトを見てみよう.(下記の引用は,このブログ記事の日付現在のもの)

2011年春にオープンしたバイキングレストラン「あがらんしょ」は会津ならではのお料理を食べたいというご要望にお応えします。
名物の小汁(こづゆ)、馬刺し料理などの郷土色豊かなお料理をはじめ、食材の美味しさを生かした和洋のお料理や地元のB級グルメ料理、スイーツやフルーツなどのデザート等、豊富なメニューをお楽しみいただけます。

 そんなことはありません.「いかにんじん」も鰊の山椒漬もなかったです.ほんとにがっかりでした.

バイキングでも冷えたお料理ではありません。
各料理ブースがオープンキッチンに生まれ変わりました。
目の前で調理、ご提供するから出来たてのお料理が、あつあつの状態でお召し上がり頂けます。

 そんなことはありません.小汁 (こづゆ) は室温にまで冷めていて,ほんとにがっかりでした.

城下町を一望できる幅15mのパノラマウィンドウからの四季を感じる眺望で、会津の伝統を感じながらお食事をお楽しみ頂けます。

 窓は大きかったですね.以上.おい.
 このホテルのバイキングレストランは,地酒飲み放題があるのが取り柄だろう.
 大した料理がないので,馬刺の握り鮨を肴にずっと地酒の「栄川 純米」を飲み続け (お高めの酒は飲み放ではなく,別会計になる),何杯目だったか覚えていないが,お酒カウンターにお代わりを取りに行ったら,カウンターの中ににいたサーブ係の兄ちゃんに「そんなに栄川っておいしいですか」(顔に「これって安酒っすけど」と書いてあった) と言われた.
 何を言うか,君.郷土の酒に誇りを持ちたまえ.栄川は安いけど悪くないぞ.よくもないけどな.おい.

(続く)

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2016年5月11日 (水)

会津の旅 (十九)

 前回の《会津の旅 (十八) 》からの続き.

 飯盛分店公式サイトに《石碑にはナチスのマークとドイツ語で》との記述があり,これが嘘であると前回の記事に書いた.
 その嘘とは《ナチスのマーク》との文言である.

 ここで昔々の話をする.
 私の父親の世代の男たちは,兵として戦場に行った.戦闘機や戦車に搭乗し,戦艦に乗り込んだから,軍備の実物を知っている.
 その息子たちが小学生の頃,週刊少年漫画誌が創刊された.少年マガジン (1959年創刊) や少年サンデー (1959年創刊) だ.漫画誌が月刊だった頃は,あまり軍備の記事はなかったような記憶があるが,週刊誌にはよく戦闘機や戦車の解説記事と,実物写真や精密なイラストが載っていた.
 当時の人気漫画としては,いわゆる団塊世代の思い出に残る『紫電改のタカ』が代表的作品として挙げられる.
 そして漫画週刊誌創刊と時期を同じくして,国産プラモデルの歴史が始まった.Wikipedia【プラモデル】に,

1950年代後期から1960年代は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが

とある通り,当時のプラモデルの主力製品は戦闘機,戦車,軍艦の模型であった.
 またちなみにテレビドラマも,漫画週刊誌および国産プラモデルのブームに少し遅れて,「コンバット!」が国内放送開始され,大きな評判となった.このテレビドラマによって,Wikipedia【コンバット!】の「装備品・車輌」「豆知識」「脚注」に書かれているような,戦争の実相に無関係な軍備と兵器のムダ知識が少年たちの頭に蓄積されたのである.ここに最初は「おたく」,次に「オタク」と呼ばれた一種のマニアが生まれたのであった.

20160510d_combat_1962
Wikipedia【コンバット!】から引用.
パブリックドメイン.


 それはともかく,軍備プラモデルの中でも人気があったのは国産戦闘機 (日本陸軍の戦車はあまりにもお粗末なものであったために不人気で,プラモデル製品はほとんどなかったと記憶している) であり,次いでドイツ空軍機と戦車であった.特にドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットは,第二次大戦に投入された戦闘機としては最も美しいフォルムのものとして,少年たちには零戦と並ぶ人気があった.
 上に時代背景を長々と書いたが,要するに今の日本の高齢者たちはドイツの紋章に関する知識があるのだということを以下にひけらかす.

 古くドイツやプロイセンで用いられてきた十字型の紋章をクロスパティーという.
 クロスパティーの中でもドイツ騎士団が用いたものが下の図である.

20160510e

Wikipedia【クロスパティー】から引用.
パブリックドメイン.


 そしてこれから派生したものが有名なバルケンクロイツ (黒十字) である.カタカナ語として発音するとハーケンクロイツと語感が似ているが,全くの別物であることに注意が必要である.
 下に示す二つの黒十字のうち,上は第二次大戦中にドイツ空軍機の機体に描かれたもので,下は現在のドイツ連邦軍の国籍標識に使用されているものである.

Balkenkreuz_svg

Wikipedia【黒十字】から引用.
パブリックドメイン.


Bundeswehr_kreuz_black_svg

Wikipedia【黒十字】から引用.
パブリックドメイン.


 上の黒十字とは別に,ドイツを中心に中世以来使用されてきた鉄十字と呼ばれる紋章があり,通常は鉄十字をデザインした勲章を指す.

Ic1870

普仏戦争時の鉄十字章.
Wikipedia【鉄十字】から引用.
パブリックドメイン.


Ironcross
ナチスが用いた鉄十字章.
Wikipedia【鉄十字】から引用.
パブリックドメイン.


 ここでドイツ碑に彫刻された紋章を見てみると,一本の線刻であり簡略されすぎているが,鉄十字章である.

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山口弥一郎『白虎隊物語』から引用.

 しかし私のような年代の者は,この碑は当時のドイツ大使館員が私費を寄贈して作られたものだという会津弔霊義会の説明と,そこに鉄十字が彫られていることに強い違和感を覚える.
 というのは,例えていえば,日本人が外国の施設に石碑を贈るとして,そこに菊花の紋章を刻むだろうか,ということである.鉄十字は,ドイツ国家が勲章に使用する紋章であって,一大使館員が勝手に石碑に彫刻するようなものではないはずなのである.
 だがこれについては可能な推測が一つある.
 ドイツ大使館員フォン・エッツ・ドルフ氏は石碑の製作費用を会津弔霊義会に依頼したあと本国に帰還したため,できあがった石碑を見ていない.もしかするとドルフ氏が会津弔霊義会に指示したデザインは碑文だけであり,鉄十字章はなかったのではあるまいか.
 しかるに会津弔霊義会は,既に建てられていたイタリア記念碑にファシスト党章が刻印されていたことから,これとドルフ氏の寄贈碑を対にして飯盛山山腹に日独伊三国同盟を演出せんがために,勝手に鉄十字章を付け加えたのではないだろうか.そしてさらにその上,ドルフ氏の経歴を,ドイツ大使館付武官の大佐であると捏造した.
 ところが会津弔霊義会はドイツの紋章に無知だったために,線刻の鉄十字章をナチスの党章だと思い込んでしまったのであると私は考える.(ナチス党章はハーケンクロイツであるし,ナチスが用いた鉄十字章は十字の中心にハーケンクロイツが描かれるものである.しかもナチスの鉄十字章が制定されたのは,飯盛山にドイツ碑が建てられた昭和十年から四年後の1939年であったのだ)
 この会津弔霊義会の勘違いが,今も飯盛分店公式サイトに《ナチスのマーク》という文言が残っている理由であるのだろう.

 飯盛ミヨセは山口弥一郎に《しかしね、こんどの戦争がどうしたか知らないけれど、折角遠い国から贈ってくれたこの碑に罪はあるまいて》と語った.(『白虎隊物語』p.19)
 飯盛ミヨセは進駐軍の目の前で,碑文が削られたドイツ碑におおいかぶさって抵抗し,自分が「ナチスのマーク」と信じていた鉄十字を守った.信じがたく愚かな女と言うほかはない.
 もしもドイツ碑に彫られた鉄十字が「ナチスのマーク」だとするならば,その碑自体が罪なのである.《こんどの戦争がどうしたか知らないけれど》とは何たる言いぐさか.この女の頭の中では,あの戦争があたかもなかったものであるかのようだ.

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飯盛分店公式サイトから引用.

 私がこの三月の下旬に会津若松を訪れたときは,会津戦争の一エピソードである白虎隊自刃の地である飯盛山をちょっと見学する程度の気持ちであった.
 しかし旅から帰って色々と勉強し,会津弔霊義会と飯盛家の歴代の女たちに憤激に近い感情を抱くに至った.
 飯盛山で自刃した少年たちの最大の悲劇は,国民を軍国主義に動員していくための材料に使われたことである.そして彼らの悲劇は軍国主義の時流に乗って私腹を肥やさんとした者たちにも利用された.
 会津弔霊義会と飯盛家は,軍国主義台頭の風潮に迎合して飯盛山の観光地化を図ろうとし,そのためには歴史の捏造を厭わなかった.そして飯盛ミヨセらが,軍国主義化した飯盛山の宣伝塔の役を担った.

 飯盛山で自刃した白虎隊士は,白虎隊全体からすれば,出陣翌日に敗走したほんの少数の少年兵たちであった.会津の郷土史家が書くところによれば,白虎隊の主力部隊は会津戦争開戦後に若松城外に出て奮戦を続け,後に籠城戦を戦い,そして明治まで生き延びた.
 武士として讃えられるべきは彼らのはずである.しかし,会津戦争の一エピソードに過ぎないわずかな隊士たちの自刃を称賛する立場の者たちにとって,白虎隊主力少年兵の歴史は抹消されねばならないものであった.そしてその者たちの意図した通り,白虎隊主力部隊の歴史は日本国民に忘れ去られた.
 白虎隊自刃隊士を称賛するとはどういうことか.
 少年兵たちは,敵に捕らえられる恥辱よりは潔く死を選ぶ,として自刃していった.これは後の昭和陸軍の『戦陣訓』に大きな影響を与えた.

『戦陣訓』のうち「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」は以下の通り.
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ

 昭和十八年七月三日,サイパン島守備隊南雲忠一中将は玉砕の際に「サイパン島守備兵に与へる訓示」を発した.いわく《断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし
 生きて虜囚の辱を受けず.そしてその結果は戦死約二万一千名,自決約八千名,捕虜九百二十一名であり,南雲自身も自決したと伝えられる.

 沖縄戦最後の六月十八日に第32軍司令官牛島満中将は,ひめゆり学徒隊に「爾後各個の判断において行動すべし」として解散を命じた.
 次いで二十三日,「生きて虜囚の辱を受くることなく悠久の大義に生くべし」との最後の命令を発して自決した.翌二十四日,沖縄守備軍主力の歩兵第22および第89連隊は軍旗を焼いて玉砕し,六月二十五日に沖縄本島における組織的な戦闘は終了した.そしてこの一週間に,ひめゆり学徒隊死亡者の八割が戦争の犠牲となり,このうち学徒隊九名と教師一人は沖縄最南端の荒崎で自決した.

 飯盛ミヨセは,戦前から土産物屋で会津戦争を矮小化した玩具の竹刀を売りながら,飯盛山を訪れる観光客を相手に,敵に捕らえられる恥辱よりは潔く死を選んだ白虎隊士中二番隊の自決を語って聞かせるのを生業とした.
 ミヨセらが意図した飯盛山の軍国主義的観光地化は,やがて昭和二十年六月,沖縄の少女たちの自決に繋がっていったのである.

 そろそろ飯盛家は,飯盛分店公式サイトにある虚偽の記述を削除して黒い過去を清算すべきではないか.私はそう思うし,会津の郷土史家が会津弔霊義会と飯盛家の歴史捏造に関心を持たれることを望む.

 さあ,長々と飯盛山について書いてきた.次回からは会津若松観光を書こうと思う.
(《会津の旅 (二十) 》に続く)

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2016年5月10日 (火)

会津の旅 (十八)

 前回の《会津の旅 (十七) 》からの続き.

 いつの世にも,どこにでも,時流に乗りたがる者たちがいる.
 飯盛山で自刃した少年たちの最大の悲劇は,国民を軍国主義に動員していくための材料に使われたことである.そして軍国主義の時流に乗って私腹を肥やさんとした者たちにも利用された.
 Wikipedia【観光史学】から引用する.

「軍都」会津若松の時代
1908年 (明治41年) 以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年 (昭和3年) にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。

 上の引用にある《ベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑》については,Wikipedia【下位春吉】から引用する.

この時期に下位は当時の若松市 (現・会津若松市) の市長に対して、「ムッソリーニが白虎隊の事績に感激して記念碑を建立したがっている」という進言をおこなった。これは下位の創作であったが、新聞報道がなされて有力者からの賛助も集まったため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた記念碑が若松市の飯盛山に実際に建立された。

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下井春吉像.Wikipedia【下井春吉】から引用.
パブリックドメイン


 すなわち通称イタリア記念碑は,下位春吉によって巧妙に作られたフィクションであった.
 次に,駐日ドイツ大使館員ハッソー・フォン・エッツドルフが寄贈した石碑を軍国主義に利用することが行われた.
 会津弔霊義会は最初,文民である大使館員のエッツドルフを意味不明な《ドイツの武士》とし,次に《ドイツ大使館付武官HASSO von ETZDOR 大佐》にエスカレートさせ,恥知らずにも事実を歪曲した.

 会津弔霊義会は,この二つの石碑と白虎隊士の墓の三点セットで日独伊三国同盟を宣伝し,もって飯盛山の観光資源として利用せんとしたのであろう.旧制度下においても公益性が要求されていた財団法人としては許されざる行為であった.

 しかしこの嘘は,昭和六十二年に宮崎十三八によって事実と異なることが指摘され,次に昭和六十三年に九頭見和夫氏の総説によって,会津弔霊義会による全くの創作であることがあきらかになった.
 しかるに会津弔霊義会は昭和六十二年に,時代錯誤としか言いようがないが,イタリア記念碑を復刻した (宮崎十三八は『会津地名人名散歩』に昭和六十二年だと明記している.ところがなぜか飯盛分店は現在も公式サイトに,これを昭和六十年であると記載している.昭和六十二年にドイツ碑寄贈者の経歴が虚偽だったことが明らかにされたため,イタリア記念碑の復刻時期を遡らせる必要が生じたのであろうか) .

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飯盛分店公式サイトから引用

 しかし当然ながらもはや日独伊三国同盟は観光資源として価値を失っていた.
 しかもドイツ碑の寄贈者がドイツの軍人だという嘘が公知になってしまった.
 それで会津弔霊義会は,時期は明確でないが『会津地名人名散歩』の出版時期から推定すれば平成元年以降のある時,ドイツ碑の説明を次のように変更した.

フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国 (現ドイツ連邦共和国) 大使館政治担当外交官Hasso von Etzdorf 氏が白虎隊精神を讃美して贈られた碑文と十字章である。
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

 旧制度下でも財団法人は,税法上の特典がある代わりに公益性を要求されていたから,それが日独伊三国同盟を顕彰するかのごとき石碑を保有していたのでは,発覚すれば財団法人認可を取り消されかねないからであろう.
 ただしドイツ碑再刻の時期については事実を捏造したままである.

 このように会津弔霊義会による歴史捏造は一部が修正されたが,一方の飯盛分店は会津弔霊義会と違って土産物を商う民間業者にすぎないから,↓のように言いたい放題である.

20160510a
飯盛分店公式サイトから引用

 上の飯盛分店公式サイトからのハードコピー (イタリア記念碑,ドイツ碑) は,この記事の掲載日 (2016/5/10) に作られたものである.
 さて上に示したドイツ碑の説明には嘘が三つ書かれている.
 一つは,寄贈者の経歴を《ドイツ大使館付武官》《大佐》であるとしていること.事実は,ドイツ大使館員であった.
 二つ目は,《石碑にはナチスのマークとドイツ語で》としていること.
 最後に《米軍司令官より碑文とマークを削られ》としていること.事実は碑文だけが削られたのであった.これは二つ目の嘘と関連があるので後述する.

 一番目と三番目の嘘は,既に史料を挙げて明らかにしてきたところである.
 それでは次に,二番目の虚偽について説明する.

(《会津の旅 (十九) 》に続く)

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2016年5月 9日 (月)

絵画鑑賞はとても大変

 週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に,福岡伸一先生と作家の原田マハさんの対談《フェルメールをめぐる冒険》が載っている.
 この対談の中で,原田マハさんは,次のように語っている.

要するに、アートワークを一枚のピースとしてだけではなく、それ以外の背後にあるものまで含めて、全部視界の中に入ってくるように鑑賞する体験が大事。だから絵は、ぜひ外に出かけて、身体的な体験として鑑賞していただきたい。

 原田さんは,この引用の前の文章で,絵画の画像を見たのでは単なる「点」としての体験であって,鑑賞したことにならないという趣旨のことを言っている.この「点」体験に対して,絵画の本物の作品を見たり,さらには画家がその絵を描いた土地を訪問したりするのは「面」の体験であり,それが大事だと主張している.

 たくさんの絵画を観てきて,しかも美術館学芸員であった人にそう言われると,はいそうですか,と引き下がる他はないが,もし原田さんが言う通りであるとするなら,つまりゴッホの絵を鑑賞するには,本物の絵を観ることはもちろんであるとしても,その上さらにフランスのアルルやサン=レミに行く必要があるとするなら,なんと絵画という芸術は普遍性のないものだと思わざるを得ない.
 例えば日本のあまりお金のない若い画学生が,今開催されている展覧会でルノワールを観て感動したとする.彼に対して原田さんは「フランスに行かないと本当の感動はできません.あの絵を鑑賞するには,ムーラン・ド・ラ・ギャレットを実際に見てみることが大事なのです」と言うわけだ.
 しかし,画家が絵を描いた土地は物理的なものだが,時代のことはどうするのだ.タイムマシンに乗らない限り,画家が絵を描いた時代を体験することはできないが,それは構わないのか.画家が住んだり絵を描いたりした土地が時代と共に大きく変貌してしまったとしても,それは無視していいのか.なぜだ.

 音楽分野で,こんなことを言う人はいないのではないだろうか.音楽には物理的実体がないから,例えば「ベートーヴェンの交響曲第5番の〈本物〉」という概念すらない.
 文学も同じ.レイモンド・チャンドラーの作品を理解するために私たちは二十世紀半ばのロサンゼルスに行かねばならない,なんてことはない.
 原田さんの言う通りだとすると,私たち普通の日本人は遂に,日本国内で絵を描いた画家以外の作品を鑑賞することとは無縁で終わることになる.そうだと言われれば,はいと言って引き下がるが.

 ところで,先日の記事でも紹介した中野京子先生の『名画の謎 旧約・新約聖書篇』(文春文庫) に,ミケランジェロの『アダムの創造』を解説する次の文章がある.

神は今しもアダムに命を吹き込むところだ。互いの指はもう少しで触れ合うところまできている。
『旧約聖書』を思い出してほしい。神は土を捏ねて造ったアダムの鼻の孔に、風船みたいに息を吹き込んだのだった。ミケランジェロは、それではとてものことに絵にならない、と思ったのだろう (確かに、そんなシーンはあまりパッとしない) 。鼻は指へと変えられた。指から指へ、命は電流のように伝えられる。
 何と印象的な、美しいシーンだろう。
『E.T.』(スティーブン・スピルバーグ監督) のポスターがこれを引用していたことを、誰もが覚えているに違いない。

 覚えているに違いないも何も,私はそもそもあの指が触れ合うシーンが『アダムの創造』からの引用だとは知らなかった。(恥)
 このような指摘を読んで,知的な刺激を受けることは本当に楽しい.
 私は,観光ツアーならともかく,ミケランジェロを鑑賞しに一人でイタリアに行く気力はもうないが,『アダムの創造』の画像から『E.T.』に想像力を馳せるようなことなら,この老いた頭でもまだできるだろうと思う.原田マハさんに,そんなことは絵の鑑賞とは無関係だと言われるであろうことは間違いないが.

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2016年5月 8日 (日)

会津の旅 (十七)

 前回の《会津の旅 (十六) 》からの続き.ただし前回の末尾行から再掲する.

 飯盛分店歴代の女主人による話の創作については,まだ突っ込みどころがたくさん残っているが,次にドイツ碑のことに話題を変える.次の画像は山口弥一郎が『白虎隊物語』に残した貴重な写真である.

20160503b
山口弥一郎『白虎隊物語』の巻頭写真ページから引用.

[[ 歴史を捏造する会津弔霊義会と飯盛分店 ]]

 私が持っている山口弥一郎『白虎隊物語』は昭和三十四年九月に発行されたものである.
 この『白虎隊物語』の《あとがき》に

この丸八印刷所の主人佐藤彦八氏が、私の要望に従って、車を走らせて自分得意とする写真の殆んど全部を撮ってくれた。

とあるから,上の写真は昭和三十四年九月以前,たぶん発行の数ヶ月前に撮影されたものであろうと思われる.
 この写真を見ると,ドイツ碑の表の文字がグラインダーで削られているが,鉄十字章は残されていることがわかる.

 《会津の旅 (十) 》で既述であるが,九頭見氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》には,ドイツ碑の横に会津弔霊義会が設置した案内板に書かれた文言が,次に示すように変遷したと記されている.

(1) (縦書き)
ドイツの武士より会津の少年武士
に贈る
ハッソフォンエッツドルフ

(2) (横書き)
フォンエッツドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ大使館付武官
HASSO von ETZDOR 大佐が白虎隊精神を
讃美して贈られた碑文と十字章で
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」 ― ドイツ人
第二次世界大戦後占領軍の手によって碑面を削り撤去された
ものを,昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

(3) (横書き)
フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国 (現ドイツ連邦共和国) 大使館
政治担当外交官Hasso von Etzdorf 氏が白虎隊精神
を讃美して贈られた碑文と十字章である。
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面
を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復
元されたものである。

 次に宮崎十三八『会津地名人名散歩』(平成元年刊行の初版第一刷) の 191 ページに掲載されているドイツ碑の写真と,189 - 190 ページに書かれている説明を下に示す.

20160507a

こうして消滅を免れたドイツ碑は、文字を削ったままで昭和二十八年に元の位置に復活し、三十七年頃には西独から来訪した青年団が帰国後に費用を送って来たので、ドイツ文字は前と同じく刻み直され、戦傷だけは消えた。
 しかしその後もこの碑の説明文は、「贈り主はナチスの将校で、三国同盟華やかなりし頃の遺物」とされていた。これでは会津観光の表舞台にあげることは難しく、やや肩身を狭くしながら、墓前広場の隅に立っていた。

 この宮崎十三八による説明は,『白虎隊物語』に載っている写真が昭和三十四年に撮影されたものであることと整合しており,おそらく事実である.
 また,九頭見氏の総説にある三種の案内板文章の他に,《贈り主はナチスの将校で、三国同盟華やかなりし頃の遺物》という趣旨のものがあったことになるが,掲示されていた時期が不明である.おそらく上記の (1) と (2) の間の時期であろうと思われる.

 以上を整理すると次のようになる.
 昭和二十年に飯盛山に進駐軍が来た際に,ドイツ碑は文章だけ削られて鉄十字章はそのまま残された.鉄十字章が削られなかった事実については後述する.
 昭和二十八年 (飯盛史子によれば,飯盛ミヨセが死去する直前の二十八年一月) に実態不明の者 (飯盛史子によれば,在郷軍人会であるが,それは明らかな虚偽である) により,飯盛ミヨセが私物化して飯盛分店に隠匿していたドイツ碑を,碑面の文章は削られたままにして元の位置に戻された.その時の碑の状態が,『白虎隊物語』に載っている写真である.
 その後の昭和三十七年頃,削られたままになっていたドイツ碑の文章は再刻された.これが『会津地名人名散歩』に掲載されている写真である.

 この事実経過に対して,会津弔霊義会が設置した案内板では

* 『会津地名人名散歩』の写真にある案内板 (平成元年時点で設置されていたもの)
第二次世界大戦後占領軍の手によって碑面を削り撤去されたものを,昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

* 平成二十八年現在も設置されている案内板
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

と,いずれも《昭和28年再刻のうえ復元された》と虚偽の記載をしている.復元 (元の位置に戻すこと) されたのは昭和二十八年だが,再刻されたのは昭和三十七年頃なのである.

 会津弔霊義会が,このような調べればすぐばれる嘘を今も飯盛山のドイツ碑案内板に掲示し続けている理由はなんだろうか.
 前に書いたように,私は旧制度下の財団法人に出向していたことがあり,会社を定年退職したあと新制度下の公益財団法人にいたこともある.その経験からして,上の謎を説明できる物語が一つ考えられる.

 以下はその物語であり,実際にある団体とは一切無関係である.
 財団法人は監督官庁に毎年の事業計画書と事業報告書および決算書類を提出しなければならない.
 某財団法人の昭和二十八年度事業報告書に,外国人から贈られた石碑の文面を再刻し,元の位置へ復元しましたと記載されていたとする.そして決算書類にはその費用が記載されたとする.
 ところが実際には,予算に計上した必要費用よりも少ない資金を使って元の位置に戻すことだけはやったが,碑の再刻は実行しなかったとする.(なぜそんなことをしたのか,予算額との差額は何に使われたのかは別の問題としてここでは触れない)
 さて,滅多にないことだが,監督官庁は財団法人の監査を行うことがある.
 このとき,事業報告書に,碑を再刻のうえ復元したと記載されているのに,碑の現物が再刻されていなかったら厄介なことになる.報告書および決算書類と事実の祖語を説明できなければ不正とされて,何らかの処分を受ける恐れがある.
 その事態を避けるために昭和三十七年頃に碑を再刻したものの,それだけではだめで,再刻した時期を過去に遡って昭和二十八年度だったと言い張る他はないのである.

 以上はあくまでフィクションであり,実在の団体とは無関係である.
 なぜ会津弔霊義会が《昭和28年再刻のうえ復元された》との虚偽を今も主張し続けているのか,本当の理由は想像するしかない.
(続く)

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2016年5月 7日 (土)

海軍ベーコンカレー

 今週の水曜日の四日,関東地方に猛烈な南風が吹いて,道を歩いてると吹き飛ばされそうなお天気だった.快晴なのに洗濯物は部屋干しにせざるを得ないし,街歩きも億劫なくらいな風なので,飯は自炊することにした.そうなると何となくカレーが食いたい雰囲気だったので,カレーに決めた.

[材料]
  新じゃがいも 中 二個
  玉ねぎ    大 半分
  ベーコン切り落とし (プリマハム) 100g
  グリコジャワカレー スパイシーブレンド 二片

 特に変哲もない材料だが,先日スーパーでプリマハム製ベーコンの切り落としが安かったので何個も買った.これを肉じゃがの肉の代替に使ったら結構うまかったので,常備しようかと思っている.
 にんじんが入っていないのは,にんじんを切らしていただけで他意はない.

 作り方も特に工夫などはない.グリコジャワカレーのスパイシーブレンドは初めてなので様子 (辛さとトロミ) がわからない.テキトーに,ふたかけらをぶち込んだ.

 で,味見をしてみたら,かなり辛く,粘度は低くサラサラ状態だった.
 私の好みではもう少し粘度が高いほうがいいので,辛さと粘度を調節するためにレトルトカレーをぶち込むことにした.
 被災時のためにレトルトカレーはかなり備蓄してあるが,ローリングストックする必要があるので,こういう時にどんどん消費したいものだ.

 レトルトカレーはエイ・エイ・ピー・シー・ジャパン株式会社の「よこすか海軍カレー」である.これはホテルチェーン企業らしく,食品業界ではあまり知名度のない会社だ.レトルトカレー業界には OEM を受ける専門の会社があり,レシピとパッケージを供給すれば誰でも作ってもらえる.この「よこすか海軍カレー」はたぶんそれだ.
 買ったときの記憶がないが,たぶんスーパーで叩き売,もといワゴンセールされていたものだろうと思う.
 このカレーは,レトルトパウチを開封したら,中身はクリームシチューのような白っぽい色をしていた.箱に《大日本帝國海軍版「海軍割烹参考書」 (*) 参考》とあるからには,インド風ではなく,小麦粉でルーを作って加えた海軍式カレーで,見た目からしてあまり辛くないものと推測された.今回の用途には最適であろう.

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(*) 海軍割烹参考書とあるが正しくは「海軍割烹術参考書」である.
  その誤りを示すためにパッケージの表の面を引用する.
  この書名を正しく知らないということは,このメーカーが
  カレー業界の素人さんであることを示している.

 さて最終的に三人前になったこのカレー,味はかなりうまかった.
 切り落としベーコンが功を奏したかグリコジャワカレーのスパイシーブレンドが良かったのか,はたまた「よこすか海軍カレー」の功績なのかわからぬが,それはともかく件の「よこすか海軍カレー」はアマゾンで入手できる.お試しくだされ.

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 じゃがいもをゴロゴロと盛り付けてみた.こうすると翌日また食べるときは玉ねぎばかりになる.つまり一度の調理で二種類のカレーができる.これが私の工夫だ.どんな工夫だよ.

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2016年5月 6日 (金)

藤沢 かつや南口店

 先月末のこと.財布の中の不要なレシートをゴミ箱に捨てようとしたら,その中に有効期限が四月三十日の「かつや」の百円割引券があるのを見つけた.
 たぶん一ヶ月くらい前に,かつやでカツ丼を食ったときにもらったものだ.期限切れの日に目にとまったのは,これも何かの御縁であろう,かつや藤沢南口店へ昼飯を食いに出かけた.

 先日,辻堂のすもも食堂で昼飯を食べたときに味噌汁を豚汁に変更してもらった.すもも食堂の豚汁は味噌汁とあまり変わらない量であり,その時に思ったのは,豚汁は大きな椀とか丼で食べたいものだということ.せっかくの具沢山汁なのだから,普通の味噌汁椀では私は物足りない.

 最近の首都圏の定食屋,例えばやよい軒大戸屋のような業態の店では「豚バラ生姜焼き定食」とか「おろし鶏から揚げ定食」など,店側が設定した定食をたくさん献立に並べ,その中から客が選択する形である.
 しかし昔の定食屋は,店内の棚に並べられたおかずを客が勝手に組み合わせて盆に載せ,オリジナルの定食を作るのが普通だった.だから,塩鮭と刺身と焼いた鱈子をおかずにして,これに丼飯とお新香を付けて味噌汁なし,なんてこともできた.貧しい学生の場合は,飯と味噌汁とお新香ということもあった.これが赤貧青年の最終兵器「お新香定食」だった.

 話は横道に逸れるが,お新香定食で思い出したことがある.
 阪急デパートが開店してすぐの昭和五年頃,世間は大不況 (昭和恐慌) で,大阪梅田の近辺で働いていた会社員は,デパートの大食堂にきて昼飯を食うときにライスだけを注文し,これにテーブルに置いてあるウスターソースをかけて食べていたという.
 これに困った大食堂担当の幹部が,この手の客を締め出そうとしたところ,阪急社長の小林一三は反対し,逆に付け合わせの福神漬けを増量して「ライスだけのお客様歓迎」と書いた貼り紙を食堂入口に出させたという.これは小林一三の顧客志向を物語るエピソードとしてよく知られ,花森安治の『一銭五厘の旗』にある.
(余談だが,NHK朝ドラの影響でか,トンデモ系ライターの船瀬俊介が花森安治関係本を出した.船瀬があまりにも機を見るに敏なので悲しいくらいだ)
 昔の定食屋のおばちゃんは,まるで小林一三みたいに,貧乏学生が食べるお新香定食にはお新香を増量してくれたりした.昭和四十年代,東京の高円寺に住んでいた頃の思い出である.

閑話休題
 昔の定食屋では,何を食うかの自由度が高かったという話だ.
 そういう店では,豚汁は御馳走なおかずの一品であり,豚汁と丼飯と漬物で立派な食事になるのであった.
 この画像一覧を見れば一目瞭然であるが,豚汁は味噌汁ではなく,おかずなのである.
 だが残念なことに,藤沢駅周辺でこのような正調豚汁は,かつやにしかないようである.
 それが,これだ.
 大ぶりの椀に盛られた豚汁にヒレカツが二枚も付いて,たったの税込七百二円.
 しかも割引券使用で百円が引かれて,六百二円になる.
 コスパの良さも嬉しいが,大きな器に盛られて湯気の立つかつやの豚汁は,たいへん満足感が大きかった.かつやで飯を食うときは次回も豚汁定食にしようと思う.

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 ところで,かつやはレジで代金を払うと次回の百円割引券をくれる.
 つまり一日三食をかつやで食う常連客は,三百円も一見さんよりお得なのである.一ヶ月なら九千円,一年なら一万円以上も得をする勘定である.かつやに住み込みの客になる勇気がある人はどうぞ.

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2016年5月 5日 (木)

孤独のグルメ

 昨日『孤独のグルメ』を話題にしたので,Kindle 版のコミックを買って少し読んでみた.

 よくわからない作品だというのが感想.
 食い物を正面から題材にした薀蓄漫画といえば『美味しんぼ』だが,これは巻数を重ねるに従って説教臭くなり,さらにはフードファディズム的なあほらしさも加わって全くおもしろくなくなった.
 食い物薀蓄漫画とは少し趣向が異なるのは『深夜食堂』.これはテレビドラマの評判がよかったと思う.
 その他にも食い物漫画は数々あるが,『孤独のグルメ』はそれら多くとは異なり,原作者の食い物に対する「熱」が全く感じられない奇妙な味の作品だ.
 主人公の井之頭五郎は,店で何を食べても,別段食レポをするわけでもなく,淡々と飯を食ってそのまま店を出ていくのだ.

 作画は谷口ジローで,絵は弘兼憲史調.ただし井之頭五郎は,やたらと腹を減らしてばかりの風采の上がらぬ個人事業主である.弘兼の島耕作は,見た目はいいが頭は悪く,仕事はできないが世渡り上手で出世階段を登り詰め,女にモテて下半身がだらしない男だが,井之頭五郎はそういう人間には全然見えない.五郎は好感度抜群だ.こらこら.

 なのに第5話「群馬県高崎市の焼きまんじゅう」では,小雪 (「さゆき」と読む) という女優 (女優なのにまるっきりのオッサン顔で気持ち悪い〈←新装版 p.49 の右肩のコマ〉) とパリで別れたりしていて,似合わないことこの上ない.もう少しいい男に描かれれば,女にフラれても様になるだろうが.というか,オッサン顔の女優を先に何とかして欲しい.

 さて,この「群馬県高崎市の焼きまんじゅう」で井之頭五郎は,「やきそばクリタ」という店に入る.この店の入り口の横には「焼きまんじゅう」と書かれた立て看板がある.
 これを見て井之頭五郎は

しかし妙だぞ……立て看板は焼きまんじゅうなのに……本看板は焼きそばとはいったいどっちがメインなんだろう? 焼きそばと焼きまんじゅう……不思議な組み合わせだ よし! その組み合わせを試してみるかな

と思う.
 ところがこの店は看板と異なり,おかみさんの体調が悪くなったために人出が足りなくて,焼きそばは作れないと店の主人が言うのであった.

 と言う具合に話は進行するのだが,それは横に置いて,焼きまんじゅうと焼きそばの組み合わせを私は懐かしく思う.ここでいう焼きそばは,中華料理の焼きそばではない.キャベツしか入っていない,高校生が小遣いで気軽に食べることのできる軽食のソース焼きそばのことである.
 私が高校生だった昭和四十年頃の群馬県前橋市.
 あちこちの中学や高校の前にはよく生徒相手の食べ物屋が商売をしていた.牛乳や菓子パンや,夏になればかき氷が売り物であったが,焼きまんじゅうと焼きそばは定番であった.学校の前だけでなく,市内の商店街や公園の中の茶店にも焼きまんじゅうと焼きそばを売る店はあった.
 焼きまんじゅうと焼きそばの組み合わせには,両方とも軽食であるという以外には何ら共通する意味も趣向もないのだが,しかしだからといって,関係のない食い物を同じ店で売るのは不思議だという井之頭五郎の感覚は私には理解し難い.そんなことをいったら大衆的な蕎麦屋にカツ丼があるのも不思議だということになる.それのどこがいけないのかわからない.
 もっとヘンなのは,井之頭五郎が頭の中で

それに……あのまんじゅうの中にはアンコが入っているわけで……まんじゅうとアンコという組み合わせがなんだかデタラメすぎて……頭が混乱する

と考える場面だ.
 まんじゅうとアンコという組み合わせがなんだかデタラメ,とはどういうことだ.まんじゅうにアンコが入っていて何が悪い.頭が混乱するのは読者のほうだ.

 というわけで,買ってはみたが『孤独のグルメ』は読み進むのが辛い作品である.

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2016年5月 4日 (水)

とりあえず飯だ

 つい数日前まで,不明にして私は『孤独のグルメ』を知らなかった.原作漫画もテレビドラマも.

 最近テレビばっかり観ていると昨日の記事に書いたが,そんな状態だと色んなCMが目に入ってくる.それらのCMの中でも放送頻度が高いのがグランブルーファンタジーだ.
 このゲームはどんどん新作CMが出てくるのだが,最近作は松重豊という俳優が出演するもの.
仕事しに来ているのか飯食いに来てるのか分からないようなヤツだけにはなりたくないと思っていたが,暇なので……》というモノローグが入るやつだ.

 実は私は松重豊を知らなかったのだが,このCMが妙に気にいったので出演俳優名を調べてみたら,YAHOO! 知恵袋に「このCMは『孤独のグルメ』へのオマージュだろうか」という質問があり,それで松重豊と『孤独のグルメ』を知った.

 さて『孤独のグルメ』がどんな作品か,とりあえず Wikipedia を読んでみたのだが,グランブルーファンタジーCMの松重バージョンと『孤独のグルメ』とでは,状況設定が随分違うなあと思った.
 CMでは,松重豊は窓際族という設定で,何も仕事がないので,外回りの営業に出るフリをして,とりあえず飯を食ってからグラブルのだが,これにはすごくリアリティーがある.
 というのは,私も会社員時代に社長のパワハラを受けて全く仕事を干され,何もすることがないのでとりあえず飯を食ってゲームしていた時期があるのだ.その頃のことを思い出しながら松重豊バージョンCMを見ていると胸が痛い.このCMのシナリオを書いた人は,きっと組織で干された経験があるはずだと思うのである.しみじみ.

 ところで最近,一日三食を家で食うのに飽きて,一日一回は外食するよう努めている.栄養士さんが「外食ばかりでは栄養が偏ります.一日一回は自炊しなさい」と言うのと逆方向だ.自炊ばかりでは味覚が偏ります.一日一回は外食しなさい.間違っているような気がしないでもないが,まアいいや.
 私が飯を食いに行くのは大衆的な店が多く,これってよく知らないけどもしかしたら『孤独のグルメ』みたいじゃね?と思って,外食放浪記と題したカテゴリを左サイドバーに新設してみた次第だ.
 食い物の思い出話や,自炊のことなどもこのカテゴリにブチ込む.

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2016年5月 3日 (火)

会津の旅 (十六)

 前回の《会津の旅 (十五) 》からの続き.

[[ 飯盛フミ 語りすぎる女 ]]

 飯盛家が経営する土産物屋「飯盛分店」の公式サイトは,コンテンツが散らかっていて一覧性が非常に悪い.継ぎ足しのようにして制作したあとは手入れができなくなっているのかも知れない.
 あちこちに矛盾した記述があるのはそのせいかも知れないのだが,ともかく《歴史のおはなし 》と題したカテゴリにある《飯盛フミ (三代目) 奮闘記》には,昭和四十年にアサヒグラフ (この「奮闘記」では,アサヒグラフはアサヒグラビアと書かれている) に掲載された記事へのリンクが張られている.(これが少々わかりにくいため見落としやすい)
 以下の前提として,前回の記事の註記で触れたが,飯盛ミヨセの次男の嫁である飯盛フミと,九頭見氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》(昭和六十三年発表) に登場する飯盛史子 (総説中では義理の娘とされている) は同一人物の可能性があることをまず書いておく.
 九頭見氏の総説に書かれている飯盛史子からの聞き書きは次の二点.

(1)《ミヨセが「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」とのことである。
(2)《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。

 ところがアサヒグラフに掲載された飯盛フミの談話は以下の通りである.(但し,飯盛分店の公式サイトに載っている《飯盛フミ (三代目) 奮闘記》には,幼稚な誤字と誤り ―― アサヒグラフをアサヒグラビアと書いたり,吉川英治の『新・平家今昔紀行』を新日本紀行と書いたりしていて突っ込みどころ満載だ ―― があることから推測すると,《アサヒグラビア 昭和40年掲載記事より》と書いてあるが,実際にはアサヒグラフの記事を基にしてリライトしたものと考えられる.その際にアサヒグラフの記事に飯盛家が脚色を加えた可能性があるが,私は昔のアサヒグラフの記事を入手できていないので確証はない)

終戦直後に、おそれていた占領軍が地元の警察官同道でやってきた。まず白虎隊の墓近くに立つ独伊両国からの顕彰碑の撤去だ。昭和三年イタリアが贈ってくれたボンペイの古代宮殿の石柱がぶっ倒された。このときだ。先代ナヨタケが家人手を振り放って占領軍の前に飛び出した。
「オラもいっしょに殺せ。戦争に勝ったものは、こんな墓地まで荒らしていいとは、どこの国の法律にぇ。さあ、白虎隊にケチつけるなら、オラを殺せ。しゃべっちゃいらんに (しゃべってはいられない=問答無用の意)」
 怒りと土地なまりに通訳は逃げ出した。MPはおこる。警官はなだめる。業をにやして、指揮官が威嚇射撃を一発。
「よし、跡始末はお前に任せる。だが、これを建てることは許さんぞ」
 飯盛家にかくしていた石柱が会津黎明会の協力で再建されたのは昭和二十八年。二代目の死後だ。黎明会の男たちにまじって片棒をかついで墓地へ百七十八段の石段を一歩一歩のぼりながら、三代目はなんどもつぶやいた。
「おばんちや、あんたの遺志はフミがしっかりになって行きますがにぇ」

 以上が,飯盛フミがアサヒグラフの記者に語ったとされている話である.
 この談話によれば,飯盛山にやってきた進駐軍がイタリア碑を倒したときに飯盛ミヨセが進駐軍に対峙して険悪な状態になったが,ミヨセの剣幕に驚いた進駐軍側が折れて引き上げたことになっている.驚いたことに,進駐軍はドイツ碑には何もせずに帰ったことになっているのである.

 山口弥一郎『白虎隊物語』と宮崎十三八『会津地名人名散歩』の両書には一致して,進駐軍は最初にイタリア碑に取りつけられていた伊ファシスト党の党章であるマサカリの装飾を破棄し,さらに石柱に刻まれていた文章を削り取ったが,このとき応対していた飯盛ミヨセらは抵抗しなかったと書かれている.
 次に進駐軍がドイツ碑の破壊を命じたところ,ミヨセらはイタリア碑と同じく碑文を削り,これで勘弁して欲しいと望んだが,聞き入れられなかったという.
 それから何がどうなったか『白虎隊物語』にも『会津地名人名散歩』にも書かれていないので不明であるが,結局,ドイツ碑は現在の飯盛分店 (土産物屋) の側に持ってきて隠して置かれたとのことだ.
 山口弥一郎も宮崎十三八も飯盛ミヨセと面識があってこのように書いているのだから,事実関係は二人が書いている通りなのだろう.
 ということは,昭和四十年頃,飯盛フミがアサヒグラフ記者に語った談話は,フミの創作なのである.
 それはそうだろう.当時の進駐軍は,天皇よりも偉かったのである.その将校が,土産物屋の婆さんの剣幕に驚いて引き上げていったなどということがあるはずがないのだ.
 今の日本の高齢者たちは,連合軍最高司令官マッカーサーと昭和天皇が並んで写っている写真を知っている.

20160503a
Wikipedia から転載.この画像はパブリックドメインである.

 軽装の夏服を着て手を尻に回したマッカーサーと礼装着用で直立不動のヒロヒト.
 これこそが,Wikipedia【ダグラス・マッカーサー】

右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。

と書かれているところの,彼我の地位を歴然と表して敗戦国民の心を打ち砕いた有名な写真である.
 また昭和三十二年のジラード事件は,一般人でも米兵に射殺される可能性があることを日本国民に知らしめたのであるが,ましてや進駐軍将校の公務執行にケンカを売ればただちに射殺されてもおかしくない.
 おそらく飯盛フミは,進駐軍の,あるいは敗戦の何たるかを知らなかったのであろう.それよりは姑の武勇伝を拵えることに関心があったのだろうと思われる.
 さらにつけ加えると,飯盛フミ談話で,飯盛フミがイタリア碑を《飯盛家にかくしていた》としているが,飯盛家すなわち飯盛分店は白虎隊墓前広場からちょっとさがったすぐ近くにある.従って

黎明会の男たちにまじって片棒をかついで墓地へ百七十八段の石段を一歩一歩のぼりながら、三代目はなんどもつぶやいた。》 (下線は当ブログ筆者が付した)

は全くの嘘である.
 またこの奮闘記に唐突に登場する「会津黎明会」の正体が不明であることも指摘しておかねばならない.
 これではいくら何でも創作が甚だしすぎると反省したのか,ずっと後の昭和六十三年,飯盛史子が九頭見氏に語ったと思われる話では,前記のように飯盛ミヨセが《「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」

という話になり,イタリア碑のことには触れず,また進駐軍との折衝はケンカ沙汰ではなくドイツ碑の《石碑の上にかぶさった》ことにトーンダウンしている.

 またドイツ碑を元の場所に戻したのは,イタリア碑を元のところに運んだ「会津黎明会」ではなく,在郷軍人会であるという話に変化している.だがこれも変な話だ.在郷軍人会は昭和二十年八月に解散しているからである.飯盛フミの頭の中では昭和二十八年になってもまだ戦争が続いていたのだろうか.

 飯盛分店歴代の女主人による話の創作については,まだ突っ込みどころがたくさん残っているが,次にドイツ碑のことに話題を変える.次の画像は山口弥一郎が『白虎隊物語』に残した貴重な写真である.

20160503b
山口弥一郎『白虎隊物語』の巻頭写真ページから引用.

(続く)

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上流老人

 テレビというメディアは恐ろしいもので,私は会社員時代にはほとんどテレビを観なかったのだが,仕事をやめて暇になった今は,やたらとテレビを観る.
「じゅん散歩」と「昼めし旅」なんかはもう中毒化して毎日視聴しているし,「和風総本家」は録画保存までしている.まことに我が身のあまりの変わりように驚き呆れている.
 しかしさすがにNHKの大河ドラマや朝ドラを観るところまではテレビ漬けは進行しておらず,関心を引くものがあったときにだけ観ているのが救いだ.

 先月のことであるが,NHK『団塊スタイル』は「孤独よさらば!シニアの友だちづくり」というテーマで放送された (4/29).
『団塊スタイル』を観るのはこれが二回目だ.(最初に観たのはやはり先月放送された腰痛の話の回で,これは録画してある)

 で,今回の「孤独よさらば!シニアの友だちづくり」は,福祉ジャーナリストの村田幸子さんがゲストだった.
 村田幸子さんを福祉ジャーナリストと呼ぶのは違和感がある.村田さんは言うまでもなくかつてNHKの名アナウンサーであり,解説委員になってからは福祉分野を担当されていたかたである.
 その村田幸子さんは,仲の良い独身の友人たちと同じマンションに暮らしている.シェアしているのではなく,それぞれが独立して購入した部屋で独り暮らしをしている.シェアハウスよりも緩やかな距離感を持った,この友人関係を村田さんは「近居」と呼ぶ.
 そして村田さんが言うには,高齢期の友人たちとの「近居」付き合いは,経済的基盤が似ていることが大切だとのことである.経済的に差があると,相手の懐具合を斟酌して遠慮が生じたり,あるいは逆に経済基盤が弱いと友人に依存したりしがちだからだそうである.

 村田さんは御自分の生活を「近居」の成功例として紹介しているのだが,私にはどうも釈然としない部分がある.
 というのは,村田さんがNHKの解説委員まで勤めあげたということは,彼女は大変な資産家であることを意味する.彼女と同じマンションに「近居」している御友人たちも,村田さんと経済的基盤が似ているというのだから,資産家である.つまりそのような人たちだから優雅な「近居」が成立するのではないか.そんなレアケースを高齢世代の暮らし方として参考に紹介されても,ほとんどの人は困惑するだろうと思うのだ.

 有名になったNHKによる造語「無縁社会」のあと,「下流老人」とか「老後破産」という言葉がはやっている.はやらせているのはNHKと読売新聞 (特集記事を御覧あれ) だ.
 読売は団塊世代の老後の経済的破綻を煽っているだけだが,NHKはその一方で資産家の老後を『団塊スタイル』のような番組で持ち上げてみせる.
 観終わって,「孤独よさらば!シニアの友だちづくり」は,何とも後味の悪い番組であった.

 しかし何ごとも悪い面ばかりではない.
 『団塊スタイル』は司会が風吹ジュンさんなのだ.彼女は私よりも二歳年下である.彼女の笑顔がとても素敵なので,番組の後味が悪くても全く構わぬ.おい.
 『団塊スタイル』の最後にはいつも,風吹ジュンさんが趣味にしているお茶を淹れて飲むようなのだが,今回の放送ではビンテージな中国茶 (聞き間違いかも知れないが,1980年代のものと言っていたような気がする) を紹介していた.これがほんとにおいしそうな茶で,同じく司会の国井雅比古さんが声をだして旨いといっていた.
 茶の名をメモできなかったのが残念だ.茶名がわかっても私には買えないくらい高いのかも知れないが.(泣)

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2016年5月 2日 (月)

証言記録 宮城県石巻市

 東日本大震災のあの日にあったことを記録し続けるNHKのプロジェクト「証言記録・東日本大震災」.昨日放送の第52回は《「宮城県 石巻市」~3000枚の命のカード~》だった.

 震災直後から,地域FM局のラジオ石巻は,連絡が取れなくなった親兄弟,妻,夫,子供たちなど近親者を捜す人たちから寄せられた約三千枚の「安否カード」を放送し続けた.
 大切な人が生きてあることを祈り続けた被災者の願いと,その願いを伝えるべく奮闘したラジオ局の姿に,私は居住まいを正して見入った.

 福島の原発事故被災地を除けば,いつか東日本大震災被災地のハードウェアの復興は進んで行くだろう.
 しかし遂に帰らなかった人への,生き残った人々の思いは,今も,いつまでも,あの日と変わらない.
 NHKのインタビューに対して声を詰まらせながら答える二人のラジオ石巻女性アナウンサーの姿を見て,私はそう思った.

 この第52回は,今週の金曜日14:05から再放送される.

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2016年5月 1日 (日)

アダムのヘソ

『怖い絵』シリーズで知られる中野京子先生の文庫最新刊『名画の謎 旧約・新約聖書篇』(文春文庫2016年3月刊;単行本は2012年12月刊) を読んでいる.
 私のような美術素人が「あっ」と驚くような中野先生の名画鑑賞の方法,知的な文章,そして美貌.いつもただただ恐れ入り平伏して先生の御著作を拝読しているのであるが,しかし,私は遂に先生の弱点を『名画の謎 旧約・新約聖書篇』に発見した.
 それは,ギャグが古いことである.

『名画の謎 旧約・新約聖書篇』の最初の節「鼻はやめて指に」は,ミケランジェロ『アダムの創造』の解説である.
『アダムの創造』に限らず,アダムとイヴを描いたほとんどの絵において,描かれた二人に臍が描き込まれているという.臍は母の胎内にいたことを示すのだから,神が作り給うた人間であるアダムとイヴに臍があるのは明らかにおかしい.しかしこれは神学上で未解決な難問なのだという.
 それでは臍を描かなければ問題解決かというと,そうではない.中野先生は次のように書いている.

それで改めて気づくのは、もし人間の長い胴体に臍という凹状の丸 (ときに凸状) が無ければ、決定的にアクセントに欠け、間が抜けて見えるということ。どのヌード画も――ボッティチェリのヴィーナスでもゴヤのマハでも――臍を隠せば、カエルの腹のようになってしまう (「おまえ、ヘソねえじゃねえか!」)。

 古すぎてすべってしまったのは「おまえ、ヘソねえじゃねえか!」である.
おまえ、ヘソねえじゃねえか!」は昭和三十九年に放映されたコルゲンコーワのテレビCMのコピーである.これを記憶しているのは,たぶんみんなもう還暦過ぎの老人である.先生御自身も小学校にあがったばかりの頃ではないだろうか.これはいつの時代のものか確かめずにうっかり書いてしまったものと思われるが,今後はもう十年位あとのCMの話を持ち出されるようお勧めしたい.

 ちなみに「おまえ、ヘソねえじゃねえか!」の時代は,まだテレビ広告の黎明期.表現としてのテレビCMが私たちの関心を集めるようになるのは,もっとあとのことだ.
 その黎明期に,テレビ広告の可能性を見抜けなかった若い政治家がいた.森喜朗である.テレビ広告の規制を意図する国会参考人質問で,参考人の発言を聞いても相手の言うことを理解できず,とうとう参考人を怒らせた森の質問がこれ

 もう一つ余談.トーキー時代に『マダムとイボ』というタイトルの映画があったと書いているエッセイを読んだ記憶がある.私が中学の頃に読んだ本だが,誰が書いた話か思い出せない.思い出したところで大した意味はないが.

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