十三年前の平成十五年,十二月に沖縄旅行をして,帰ってから旅の記録を個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した.(その個人サイトは更新を停止した.この同名ブログはその後身である)
今の若い諸君には想像もできないだろうけれど,十年以上も前は,情報源としてのネットはまだまだ発展途上だった.
Wikipedia にしてからが「日本の Wikipedia は芸能人情報ばかりだ」などと言われていて,専門的なことは信頼性が低く,欲しい情報を手に入れるには,検索サイトを駆使し,山ほどあるゴミ情報の中から,ある事柄の当事者とか専門家が建てた個人サイトを探し当てる必要があった.
あの頃,ひめゆり平和祈念資料館の公式サイトはとても内容貧弱で,旅行記を書くのには全然役に立たなかった.
それが私の沖縄旅行の翌年に館内の展示を大幅に模様替えし,それに合わせてガイドブックを改版し,さらには公式サイトが驚くほどきれいに整備された.隔世の感がある.
私が十三年前に書いた沖縄旅行記は,書くのに少し努力した思い出があるので,そのうちの沖縄戦に関わる部分を,下の破線 (-----) 間に,読みやすいようにフォントの色を変えて,このブログに転載する.(旅行記全体も,そう遠くない時期にこのブログに収載する予定である)
再掲載にあたって,旅行記原文中で,「ひめゆり学徒隊」とすべきところを「姫百合学徒隊」と書いていた誤りを訂正した.
自決した大田司令官の有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」は,旅行記原文ではあちこちの書籍やウェブ資料にある断片的な記述を寄せ集めて再構成したものであったが,現在は Wikipedia【大田実】にほぼ確からしい全文が掲載されているので,それに差し替えた.
同様に,牛島満の南京攻略時の有名な命令と,自決前に発して多数の犠牲者を生んだ最後の命令も,現在アクセスできる他のサイトへのリンクを張った.
また「平和の礎」と「沖縄県平和祈念資料館」へのリンクも,切れていたのを更新した.
旅行記の終わりに平成十五年時点の「戦没者刻名者数」を記述してあるが,これは「平和の礎」のサイトに毎年更新された数が記載されているので,そのままとした.
-----------------------------------------
さあいよいよ今度の旅行も大詰めである.
私が沖縄を訪れてみたいと思ったのは,まだ一度も来たことがないということもあったが,それよりも三年目を迎えたこのサイトのことがあったからである.
私はこのサイトを私の自分史にしたいと思っている.今現在のことも書くが,過去の様々なことも記してきた.その昔の事々の中でも,懐かしさを覚えるのは,私が大学生だった頃の思い出である.
この旅行記の上の方にも書いたが,私の学生時代は沖縄の祖国復帰運動が最高潮に達した時代にあたっている.沖縄返還運動の集会にも行ったし,沖縄の歴史に関する勉強会にも出た.しかし自分が見たこともない遠い土地とそこに暮らす人々に対する理解は,やはり難しかったと言わざるを得ない.
あれから三十余年.埋もれかかった記憶を掘り起こし,このサイトに少し記しておきたいと私は思ったのだった.
[ 沖縄南部戦跡へ ]
沖縄の歴史は,差別の歴史である.かつて十六世紀まで独立王国であった琉球は,慶長十四年(1609年),薩摩藩主島津家久の軍によって征服された.薩摩藩は征服後も琉球の王国体制を温存しつつ,王国の人事権を掌握し,かつ過酷な徴税もした.
その一方で琉球と中国との密接な関係は維持され,その結果琉球は,従属国として江戸幕府の体制の一部でありながら,対外的には独立国であるという二面性を持つこととなった.すなわち琉球は体制内の異国であった.
十八世紀半ばの幕末維新期,艦隊を率いて琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国・通商を迫り,琉球はやむなくアメリカとの間に琉米修好条約 (1854年) を締結した.
幕府が倒れ明治政府が発足するとただちに琉球の処遇 (廃藩置県) が問題となった.明治政府は王国体制を廃止して琉球藩とし,続いて沖縄県を設置しようとしたが,琉球はこれに抵抗した.また伝統的に琉球と深い関係にある中国 (清朝) も宗主権を主張して抗議したため,政府の対琉球政策は暗礁に乗り上げた.しかし明治十二年(1879年) 三月二十七日,政府は琉球処分官・松田道之を派遣し,松田は三百名の兵士と百六十余名の警官を率いて琉球藩を廃して沖縄県を設置すると国王に通告し,三月末で首里城を明渡すよう命じた.この強引な威圧の前に,琉球国王尚泰はやむなく王宮を明け渡し,ここに四百五十年に及ぶ琉球王国は滅亡した.
こうして琉球は沖縄県として日本の一部となったが,属国としての沖縄観は長く残った.例えば,琉球処分の直後から明治政府は清国の国内の通商権と引換えに宮古・八重山を割譲するという秘密外交交渉を進めたが,それはこのような沖縄観によるものと考えられる.
また沖縄県民が形式的に国政に代表を送ったのは,帝国議会が開設されて二十二年目の,ようやく1912年になってからであった.
明治・大正期の沖縄はサトウキビ以外の換金作物を持たない貧しい農業県であった.県民は高い税金を払うためにサトウキビ作を拡大し,これが自給食糧であるサツマイモや米の栽培を衰退させた.
この黒糖依存の農業生産構造は,第一次世界大戦後の不景気のために黒糖価格が暴落した時,県民の生活を悲惨の極みに陥れた.いわゆる「ソテツ地獄」である.
こうして沖縄は経済的疲弊から立ち直ることなく第二次大戦の戦時体制に突入して行くが,この頃作成された沖縄連隊区司令部の報告書「沖縄防備対策」(1934年) には,沖縄社会の性格について以下のように書かれている.(平凡社世界大百科事典「沖縄」項から引用)
《(1) 憂いの最大は県民の事大思想である。(2) 依頼心が強く他力本願である。(3) 一般に惰弱の気風がある。(4) 古来任惟の伝統がなく,団結,犠牲の美風に乏しい。(5) 武装の点でほとんど無力である。青年訓練所,在郷軍人においてすら銃器を有せず,有事の際の郷土防衛はきわめて困難。》
このような軍の対沖縄観には,体制内従属国・沖縄に対する偏見と差別意識が露骨に表れていると言える.戦争の激化に従い,沖縄県民に対する政府の差別は方言の使用をスパイ行為とみなす方言撲滅運動など,さらに理不尽なものとなっていった.
日本軍は昭和十七年(1942年) 六月五日のミッドウェー海戦で四隻の主力空母を撃沈され,太平洋における制海権と制空権を失った.これ以後,ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開され,遂に翌年二月七日,ガダルカナル島を放棄した.
ソロモン諸島を奪還した連合国軍は大攻勢を開始し,補給線を断たれた南方諸島の日本軍守備隊は相次いで全滅していった.
九月三十日,大本営は千島,小笠原,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマなどを含む地域を絶対国防圏と指定して死守せんとしたが,昭和十九年(1944)年六月十九~二十日のマリアナ沖海戦での敗北と七月八日のサイパン島陥落で構想は破綻した.
アメリカ軍は同年十月二十日,フィリピン南部のレイテ島に上陸し,日本の連合艦隊は続くフィリピン沖海戦でほぼ壊滅した.そして艦船を失った日本軍は以後,神風特別攻撃隊をもって絶望的抗戦に打って出た.
アメリカ軍は,この年十月十日,那覇市など島の人口密集地を空襲して,死者五百四十八人を出した.
この空襲で,沖縄防衛に任ずる陸軍の第三十二軍直轄の病院であった沖縄陸軍病院は病棟と兵舎を焼かれ,半分近い衛生器材を失い,病院長・陸軍軍医中佐広池文吉は病院を南風原 (はえばる) 国民学校 (現,南風原小学校) へ移転した.
三月二十三日,南風原国民学校で速成の看護教育を受けていた沖縄県立第一高等女学校および沖縄県女子師範学校の寮生全員と自宅通学生の二百二十二名が「ひめゆり学徒隊」として動員され,教師ら職員十八名も第三十二軍司令部から陸軍臨時嘱託として沖縄陸軍病院勤務を命ぜられ,これにより総勢二百四十余名が沖縄陸軍病院に配置された.
南風原の病院に集められたひめゆり学徒隊は兵舎で寝起きし,本部指揮班・炊事班・看護班・作業班に編成され,当初は壕掘りと衛生材料の運搬に従事していたが,三月二十九日,兵舎で卒業式を終えたひめゆり学徒隊の女生徒達は三ヶ所の壕に分散して配置された.
アメリカ軍は,昭和二十年(1945年) 三月十七日に硫黄島守備隊を全滅させると共に,太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥指揮下のバックナー中将が率いる第10軍は,三月下旬から,約千五百隻の艦船と延べ五十四万八千人の兵力で沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った後,三月二十六日に慶良間諸島の座間味島に,翌二十七日に渡嘉敷島に上陸した.この攻撃で逃げ場を失った二島の村民は集団自決した.
続いて四月一日には沖縄本島中部嘉手納海岸 (読谷,嘉手納,北谷) に上陸した.日本国内唯一の地上戦闘であった約四ヶ月にわたる沖縄戦の開始である.
沖縄守備第三十二軍 (司令官牛島満中将) は,第二十四師団,第六十二師団,独立混成第四十四旅団の陸軍八万六千四百人,海軍約一万人,および現地徴集の防衛隊員,学徒隊員約二万人の合計約十二万人で構成されていたが,アメリカ軍戦力の約四分の一以下という圧倒的に劣勢な戦力しかなかった.
当初,大本営は沖縄を巨大な空母に見立てた航空作戦を方針としていたが,牛島司令官の部下であり実際の戦略策定を指揮していた八原高級参謀は,海岸線でアメリカ軍を迎え撃つのではなく,無数の洞窟がある沖縄の地形を利用した持久戦を主張した.
八原はアメリカ軍の近代的物量戦略の凄さを甘く見ていたのである.それは後に沖縄県知事となった大田昌秀の著作『これが沖縄戦だ』に記された次の八原の発言に伺うことができる.
《敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ》
初め沖縄には北支から転戦した第九師団他の精鋭部隊がいて,八原の持久戦論はそれを根拠にしていた.ところが大本営はフィリピン・レイテ沖の海戦に台湾の部隊を投入し,更にその穴を埋めるために第九師団をを台湾に派遣した.その結果,主戦力を失った八原の作戦は最初から齟齬をきたしていた.
上陸したアメリカ軍は沖縄本島を南北に分断し,そこから日本軍沖縄守備隊が待ち受ける首里戦線へと南下した.沖縄守備軍の司令官は牛島満中将,参謀総長は長勇中将であったが,この二人は多数の一般中国人を殺害し,略奪・強姦・放火を重ねたとされる南京攻略の指揮官でもあった.
****************************************************
昭和十二年(1937年)七月七日,日中戦争開始の時に
最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・
都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将
だった.
その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,
牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,
第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した
有名な攻撃命令は以下の通りであった.
(読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)
《一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京
城西南角を奪取せんとす。
一、古来、勇武をもって誇る薩隅日三州健児の意気を示す
は、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、
南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
チェスト行け。
昭和十二年十二月十二日 一〇時
旅団長 牛島満 》
(註;「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である)
****************************************************
八原らは米軍がある程度南進するまではさしたる反撃はせず,首里戦線に引き寄せてから和田孝助中将率いる砲兵隊の約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ,一挙にアメリカ軍主力部隊を殲滅しようと考えた.
この日本軍の楽観的な作戦を遙かに上回るアメリカ軍の猛攻を受け,沖縄守備軍は,じりじりと戦力を消耗し,前線で激戦を戦った藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力は半減した.しかしなお,和田中将指揮する第五砲兵隊,後方に控える雨宮中将麾下の第二十四師団,独立混成第四十四旅団の残存部隊,そして大田少将率いる海軍部隊などの兵力は健在であった.
南風原の陸軍病院には,アメリカ軍の本島上陸後,負傷兵が続々と送られてきた.南風原では手掘りの横穴壕が掘られ,壕には通路と二段ベッドがあった (どのようなものかは『ひめゆり平和祈念館』で再現展示されているのを見ることができる).壕の数や規模から想定すると二千名が収容でき,延べ一万名がここに送られたという.
沖縄守備軍司令部では,八原高級参謀が最後まで持久戦をとるべきだと主張したのに対し,長参謀総長や若手参謀らは全軍を挙げて総攻撃に出るべしとして意見の対立が生じたが,最終的な幕僚会議における採決の結果,牛島満司令官は五月四日早朝を期して総反撃攻勢に転じることを決断した.
五月四日午前四時五十分,首里の沖縄守備軍の総攻撃が開始された.
九州本土の知覧や鹿屋から飛び立った神風特別攻隊機も海上のアメリカ艦船群を攻撃した.この時の日本軍砲兵隊の攻撃の凄まじさは米兵が初めて体験するほどのものだったというが,アメリカ軍はただちに応戦した.攻撃開始と共に防衛線から前に出た守備軍主力部隊は,アメリカ軍の重砲火を浴びて退路を断たれて立ち往生した.
村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊は,アメリカ軍の集中砲火のために進退極まり,大半の兵員が戦車と共に為すすべもなく戦死した.
守備軍が誇った四百門の巨砲は,アメリカ軍艦載機の攻撃の前にその威力をほとんど発揮することなく破壊し尽くされた.こうして午前八時頃までに沖縄守備軍の攻撃はほぼ鎮圧された.
五月五日の午後六時,牛島満中将は自室に八原高級参謀を呼んだ.総攻撃の失敗を認めて攻撃中止の決定を告げ,残存兵力と島民とをもって南部に兵を引き,最後の一人まで持久戦を戦い抜くよう指示したとされる.莫大な島民犠牲者を出すことになった作戦が始まったのである.
アメリカ軍第十軍司令官バックナー中将は,沖縄守備軍の反撃が失敗に終わったのを見届け,全軍に五月十一日を期して総攻撃を開始せよと命令した.
アメリカ軍の攻撃が開始されたこの日,神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団に体当たり攻撃を敢行し,米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与えた.僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると,他の特攻機がそのエンタープライズも大破させた.
しかしアメリカ軍上陸部隊は総攻撃開始後,じりじりと首里司令部に迫った.第六海兵師団主力部隊は多くの損害を出しながら,首里北側の沢岻,大名,石嶺の各高地守備陣を陥落させ,遂に司令部に直撃弾を浴びせ始め,首里の陥落は時間の問題となった.
五月二十二日夜の首里司令部協議で,三つの案が検討された.守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する,知念半島に撤退する,首里陣地で最後まで徹底抗戦する,の三案である.
第六十二師団の上野貞臣参謀長は部隊の大部分を首里戦線で失った上,移送困難な何千人もの重傷者がいるので最後まで首里で戦うべきだという意見を述べた.
第二十四師団の木谷美雄参謀長は喜屋武方面への撤退案を述べた.
独立混成第四十四旅団の京僧参謀は,喜屋武地区ではなく知念半島方面への撤退案を支持した.
八原高級参謀は,かねて首里から南下して喜屋武岬方面への撤退を考えており,結局,牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを決断した.
司令部には島田叡沖縄知事も加わっており,島田知事は,軍が首里で玉砕せず南に撤退して住民を道連れにするのは愚策であると憤ったとされる.
南風原の陸軍病院では,五月二十三日から負傷者と弾薬の後送が開始され,二十五日,南部へ移動を開始して伊原地区の自然壕に移った.南部への撤退に際して,多くの重傷患者が置き去りにされた.
五月二十四日,首里はアメリカ軍に占領された.後退した守備軍は二十七日夕刻から二十八日にかけて,強制動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を軍に同行させ,豪雨の降る中で本島南部への撤退を開始した.残存兵力は一説に四万という.
守備軍首脳陣は小隊に分かれて南下し,第三小隊までは摩文仁方面へ直行し,牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らの第五小隊は津嘉山に移動してそこを一時的戦闘司令部にした後,三十日に摩文仁に撤退した.
第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下を始め,翌日,最前線に位置していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も戦闘司令部に合流するため撤退を開始した.
五月三十一日,首里陥落.
守備軍の撤退によって戦場の中に取り残された傷病兵達は,毒薬や手榴弾で自決していった.また迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感で恐慌に陥った老人や子供,婦女子ら島民の群れが軍のあとを追って南へ逃げた.
既に戦闘能力をほとんど失った正規軍に,動員部隊,老人や子供,婦女子が混じり合って敗走する群れは,追撃するアメリカ軍の砲撃の犠牲となった.何千もの死体が雨でぬかるみとなった道に置き去りにされていたという.
これに遡る五月二十六日,小禄半島にいた大田海軍司令官の部隊約一万人は砲台や機関銃座を爆破し南部へ撤退したが,それを知った守備軍首脳は大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう命令した.そして小禄へ戻った海軍部隊はほとんど武器もないままアメリカ軍の攻撃にさらされた.
六月五日,ようやく守備軍司令部は大田海軍司令官に南部への撤退を促したが,既にその時,海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲されており,脱出不可能と知った大田司令官は同日,司令部に電信を送り小禄地区にて最後まで戦うと通告した.
玉砕を覚悟した大田司令官は翌日,海軍次官宛に沖縄県民の健闘を伝える訣別の電報を送った.(Wikipedia【大田実】から全文を引用;電文中□は不明字)
****************************************************
《発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ》
****************************************************
アメリカ第六海兵師団は六月十一日午前七時三十分を期して戦車部隊を先頭に総攻撃を開始した.
その晩,大田司令官は牛島守備軍司令官に宛てて「敵戦車群ハワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と打電し,翌日,大田少将以下の海軍部隊首脳は自決した.
多くの民間人犠牲者を出しながら喜屋武岬から摩文仁岳一帯に逃げ込んだ守備軍を,海上を覆い尽くした艦船群からの砲撃が襲い,航空機による銃爆撃と陸上からアメリカ戦車部隊と地上軍が守備軍に迫った.
アメリカ軍司令官バックナー中将は,沖縄出身の一世や二世兵士のうち沖縄弁の得意な者にハンドスピーカーを渡し,洞内や壕内に潜む人々に投降を呼びかけた.また大量の降伏勧告ビラを撒いた.
六月十日以降,バックナー中将は三度にわたり牛島満中将宛に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを無視した.
六月十七日,第六十二師団が摩文仁北方で激戦を繰り広げたが,これが最後の組織的戦闘であった.同日,米軍は国吉~与座岳~真栄平~仲座の陣地線を突破.
この日,現在『ひめゆり平和祈念資料館』の南にあった陸軍病院第一外科壕に米軍機の直撃弾が命中し,多数の看護婦や学徒が即死した.
六月十八日の午後一時頃,戦況の視察と部隊を督励するために第二海兵師団第八連隊の前線監視所 (旧高嶺村真栄里) に出向いたバックナー中将は,守備軍側の狙撃兵の放った銃弾が胸に命中して戦死した.またこの日,沖縄県知事島田叡が,摩文仁の丘のどこかで倒れ,消息を絶った.
同日,守備軍司令部は突然,一切の責任を放棄して,軍病院とひめゆり学徒隊に解散を命令した.それまで重傷者で阿鼻叫喚の有様の中,水汲み,傷病兵の排泄の世話,死体の処理などの過酷な任務を負わされていた少女達は戦場に孤立した.
翌十九日,ひめゆり学徒隊の生き残りは第三外科壕 (現在「ひめゆりの塔」がある場所) に集合した.
アメリカ軍は壕を攻撃する前に中の者に壕外に出てくるよう説得工作を試みたが,当時十四,五歳の少女達は捕虜になると米兵に暴行されて殺されるという守備軍の宣伝を信じて最後まで壕の奥に立てこもり続けた.
アメリカ軍の最終的攻撃の直前に水汲みに壕外に出た三人と,攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人を除く多数の女子生徒と教師ら非戦闘員四十六人がガス弾によって非業の死を遂げた.ここを生き延びた者は荒崎海岸に逃げたが多数が砲撃で死亡し,あるいは自決した.
戦後の調査によれば,何らの法的根拠もなく動員されてから解散命令を受けるまでの九十日間のひめゆり学徒隊死者は二十一名であるが,全犠牲者百九十四名のうち,解散命令後の死者は百二十八名であった.
生存者の証言によれば,第三外科壕の中で女学生達は白衣を制服に着替え,別れにそれぞれの校歌を歌いながら死を迎えたという.
一方,摩文仁の断崖にある洞窟では,八原高級参謀が牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りを進めていた.
残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて展開しているアメリカ軍に一斉突撃を行い,その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きであったという.
しかし摩文仁岳山頂の奪回は失敗し,牛島と長の二人は洞窟入口付近で相次いで自決した.自決の数日前に牛島司令官が発した最後の命令は,
《全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)
であった.
全島民三分の一に相当する十五万人を死なせた地獄のごとき作戦を立案主導してきた八原高級参謀みずからは「最後まで敢闘し悠久の大義に生」きることなく,牛島の自決を見届けると,壕を出て投降した.
六月二十日 牛島司令官,陸軍大将に昇進
二十二日 大本営,沖縄での組織的戦闘の終了発表
米軍,第10軍本部で沖縄島占領式典
二十三日 牛島司令官,長参謀長,摩文仁で自決
二十六日 米軍,久米島上陸
七月二日 米軍,沖縄作戦終結宣言
八月六日 米軍,広島に原爆投下
九日 米軍,長崎に原爆投下
十五日 天皇,終戦詔書ラジオ放送
九月二日 日本政府,米艦ミズリー号上で降伏文書に調印
牛島司令官の自決後も多くの兵や住民が,あたかも牛島の最後の命令に呪縛されたように二,三ヶ月も死線をさ迷った後,九月七日,日本軍残存部隊は嘉手納の米第10軍司令部で降伏文書に調印し,沖縄戦は終結した.
(以上の部分を書きまとめるにあたっては,手元の資料の他,ウェブを「沖縄戦」や「ひめゆり」などのキーワードで検索してヒットする多数のサイトの記述を参照させて頂いた.ここで逐一URLを挙げないが,深く感謝申し上げる)
おきなわワールドを出て私達は,そこからわずかな距離にある平和祈念公園へ向かった.公園のある一帯が摩文仁の丘である.
バスを降りて駐車場から歩いて行くと左手に平和祈念塔が望まれる.
さらに海に向かって行くと,案内図 (上の画像) の上方,扇形のように見える所に沖縄戦死者の名を刻んだ石碑がある.これが沖縄戦の終結五十周年を記念して建設された『平和の礎 (いしじ)』である.
この『平和の礎』については沖縄県庁のサイトのトップページから《平和》のリンク先にある《平和の礎 》をたどって詳細を知ることができる.
その他に資料として次の二つのサイトを挙げる.
沖縄県営平和祈念公園 平和の礎
沖縄県平和祈念資料館
『平和の礎』は,海岸へ向かう通路の左側に沖縄県県民,右側に他県出身者,そのさらに右に外国人の石碑が並んでいる.
沖縄県は,『平和の礎』に刻銘される対象者は国籍を問わず沖縄戦で亡くなったすべての人々とするとしている.従って沖縄守備軍司令官・牛島満の名も,鹿児島県出身者のところにある.
公園内にあるパネルに,この『平和の礎』に刻まれた沖縄戦死者の数が記載されていた.平成十五年六月二十三日現在で以下の通りである.
日本
沖縄県 148,446
県外 75,457
外国
米国 14,008
英国 82
台湾 28
朝鮮民主主義人民共和国 82
大韓民国 326
合計 238,429
平和祈念公園の海に面した広場には円錐状の小さなモニュメントが置かれ,その先に私達を案内したガイドさんは,向こうに見える断崖を指さした.
その断崖は,希望を失った多くの島民が身を投げたところだという.その光景を目撃したアメリカ軍の兵士達は,崖を“Suicide Cliff”と呼んだ.
私達一行は『平和の礎』でそれぞれに黙祷し,バスに戻った.
次にバスは『ひめゆりの塔』へ向かった.
『ひめゆりの塔』は漠然と思っていたのよりもずっと小さな石の碑であった.そして塔の横にはひめゆり学徒隊員の名を刻んだ納骨堂と,少女達が死を迎えた壕の入り口があった.
ガイドさんは「ここはひめゆり部隊の鎮魂の場所ですから,大きな声での説明は致しません」と言って,静かに昭和二十年六月の悲劇について語った.そして『ひめゆりの塔』という小さな鎮魂碑をここに置いたのは,一人の学徒隊員の父親であることを私は初めて知った.
『ひめゆりの塔』の周りで黙祷を捧げる人々の真摯な様子に,塔そのものにレンズを向けるのは不謹慎のように思われ,塔の後ろにある少女らの名が刻まれた石碑を,遠くから望むだけにとどめた.
ここで黙祷した後,それから一行は『ひめゆりの塔』の脇を通ってその奥にある『ひめゆり平和記念資料館』を見学した.
資料館の展示室に掲げられたパネルの文章と遺品の数々は,沖縄守備軍によって戦場に棄てられたに等しい学徒隊犠牲者の鎮魂と,軍の無責任に対する怒りを,圧倒的な迫力で見学者に訴えかけているようだった.
この『ひめゆり平和記念資料館』のサイト (下記の URL) はあるが,残念ながら資料館に収蔵された展示物の詳細を知ることはできない.学徒隊の悲劇を知るにはこの資料館に来て欲しいということであれば,それも見識であるかと思う.
五つの展示室について資料館のサイトにある紹介を抜粋要約すれば以下の通りである.
第一展示室/沖縄戦前夜
「沖縄への皇民化政策」「皇民化教育と師範学校」そして敗退を重ねる十五年戦争の状況下に,学校が急速に軍事化され,職員や生徒達が戦場へ動員されていくまでの様子を描いている.また「捨て石」とされた沖縄戦の意味を太平洋戦争の経過の中で解説する.
第二展示室/南風原陸軍病院
南風原陸軍病院壕内部の状況が展示され,南風原の地形模型,米軍上陸後首里陥落までの戦況地図,写真,現物資料が展示され,沖縄戦の中の姫百合学徒隊の献身を描いている.
第三展示室/南部撤退
南部撤退の状況を南風原陸軍病院とその分室の撤退図とジオラマで展示している.
第四展示室/鎮魂
広い壁三面に二百余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記載したパネルが並んでいる.展示室中央には生き残りの生徒たちの証言の本二十九冊が展示されている.また『ひめゆりの塔』の前にある第三外科壕が実物大に複製されている.
第五展示室/回想
この部屋は見学者がこれまでの展示を回想し,感想文を寄せるために設けられている.
特別展示室/ひめゆりの青春
ここには当時の学園生活の資料が展示されている.
『ひめゆり平和記念資料館』からツアー解散の那覇空港へ戻る途中で,ガイドさんがひめゆり学徒隊員達の校歌を歌ってくれた.彼女が歌い終わると,自然に車内に拍手が湧いた.
この三日間,彼女は沖縄の基地問題や環境破壊のことについて,そして沖縄戦の悲劇について私の知らなかったことを幾つも教えてくれた.目取真さんという,いかにも沖縄っ子らしい名のそのガイドさんに深く感謝して,この旅行記を終える.
【補遺】
昨年暮れ,この一文を書いている時のノートとして『雑事雑感』に三つの記事を掲載した.
2003年12月23日 沖縄旅行ノート(1)
2003年12月23日 沖縄旅行ノート(2)
2003年12月29日 沖縄旅行ノート(3)
また関連記事として1月5日に次のことを書いた.
2004年1月5日 毅然ということ
-----------------------------------------
最近のコメント