« 沖縄の旅 戦争(3) | トップページ | 沖縄の旅 戦争(5) 〈工事中〉 »

2016年5月26日 (木)

沖縄の旅 戦争(4)

Okinawa_flamethrower
日本軍の潜む洞窟を火炎放射器で攻撃するアメリカ兵
Wikipedia【沖縄戦】から引用 (パブリックドメイン画像)


 八原博通高級参謀について,さらに続ける.
 八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書き残した「牛島満の最後の命令」を,再度下に書けば,次の通りである.
 
 「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘実に三か月、すでにその任務を完遂せり。諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。
 今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし
 
 近年書かれたブログ記事の中には,『沖縄決戦 高級参謀の手記』の記述を読み誤り,かつ勝手な改変を加えたものが多い.例えばこの記事にはこんなことが書かれている.
 
6月18日、組織的戦闘は不可能となり、最後の命令がでます。
「親愛なある
(ママ)諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに三ヶ月、すでにその任務を完遂せり。自今諸子、おのおのその陣地に拠り所在上級者の指揮に従い、祖国のために最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり」
「諸子よ、生きて虜囚の辱めをう来る
(ママ)こと無く、悠久の大儀に生くべし」
これは長野参謀が起案し、「生きて虜囚の・・・」は長参謀長が加筆したと言われています。


20160526b
 (↑は上に引用したブログのスクリーンショット)
 
 この文章が,八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書いた「牛島満の最後の命令」を下敷きにしていることは明白であるが,元の命令文章から無断で《諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》を削除し,《さらば、この命令が最後なり」》の後に《「諸子よ、生きて虜囚の辱めをう来る(ママ)こと無く、悠久の大儀に生くべし」》を繋げるという乱暴を行っている.
 筆者はおそらく若い人であろう.これはブログからブログへ不正確な引用が繰り返されると元の文章が失われる好例で,この文章が書かれた時期 (2010年7月11日) から推測すると,絶版で入手困難となっていた八原の『沖縄決戦 高級参謀の手記』を参照していないと思われる.
 
 それは余談として,八原が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書いた「牛島満の最後の命令」に戻ると,私はこの命令の文章に強い違和感を覚える.
 八原による「牛島満の最後の命令」の書き出しは《親愛なる諸子よ》であるが,これでは全く軍司令官の命令になっていない.司令官が兵に対して,親愛の情を込めて呼びかけてどうするのか.命令の文語文としては誤りであると言わざるを得ない.
 また,八原が記した「牛島満の最後の命令」作成の場面には,次のようにある.
 
参謀長は両翼概ね同時に崩れつつあるのを見て、これでよいのだと独言し、満足そうである。軍の統帥が至当に実施された責任感よりする喜びだ。今や一々軍命令を発して、諸隊を指揮するには戦線はあまりにも混乱している。通信連絡もまたこれを許さない。
 
 このあとに《沖縄の旅 戦争(3) 》に書いた《軍司令官は麾下各部隊に下すべき最後の命令の起案を命ぜられた。……》が続く.
 ところがこの時点では,八原自身が書いているのだが,摩文仁で戦闘状態にある各兵団との連絡は,電話は完全に途絶したが,無線はまだ生きていた.そして徒歩伝令もまだ可能であった.
 
 八原の悪文のために解説が要るが,《参謀長は両翼概ね同時に崩れつつあるのを見て、これでよいのだと独言し、満足そうである》は,「司令部洞窟から見て左右両翼が同時に崩れ始めた=両翼共にまだ司令部の指揮下にあった」ということの逆説的表現なのである.片方がもし指揮下になければ,そちらがもっと早く崩れたはずだというわけである.それ故に長参謀長は《軍の統帥が至当に実施された責任感》から喜んだというのだ.
 
 しかし常識的な感覚からすると,自軍が崩れつつあるのに長参謀長が《これでよいのだと独言し、満足そう》に喜んだというのは奇妙である.重要なのは戦闘が優勢か敗勢かということであって,司令部の統帥下にあるか否かではないからだ.
 
 摩文仁の戦闘をここまで実質的に指揮してきた八原は,この無能な参謀長に対して怒りを覚えたに違いない.しかし,戦後になっても旧軍人のままであった八原には,かつての上官を著書中で公然と非難することができず,それがこのわかりにくい文章となって表れている.
 しかしそれはまた別のこととして,《通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》はおかしい.ここは《沖縄戦を考える 》に記載されている《すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり》でなければならぬところである.(下のスクリーンショット)
 
Photo_20191219191501
 
 上に,八原による「牛島満の最後の命令」の文章に違和感を覚えると書いたのは,まず《親愛なる諸子よ》では命令の形になっていないということ,次に《通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり》では,指揮系統が崩壊してしまっており,最後の命令を出すことができないし,出す意味もない,ということである.当然ながら,最後の命令は指揮系統崩壊の直前に発せられねばならないのである.

 八原による「牛島満の最後の命令」は,戦後二十五年も経ってから不確かになった記憶を辿って書いた作文であろう.そのため無意識的に,指揮系統崩壊の時制が進行形でなく過去形で書かれてしまったものと推測される.実際に下達された命令は別の文章であったはずだ.
 
 さて最後に,Wikipedia が「牛島満の最後の命令」をどのように書いているかを見てみる.
 Wikipedia【沖縄戦】の「その後の戦闘」から引用する.
 
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦い悠久の大義に生きよ」であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
 
 摩文仁における組織的戦闘が終わったあともなお九月まで沖縄戦が続いたことに関する,この項の記述に異論はないが,しかし「牛島満の最後の命令」が《最後の一兵まで戦い悠久の大義に生きよ》であったとの記述は.明らかな誤りである.
 命令に《最後の一兵まで戦い》と書かれていたとしているのは,私が調べた限り,ネット上の資料としてこのWikipedia【沖縄戦】の「その後の戦闘」だけである.この項の筆者がなぜ「最後まで敢闘し悠久の大義に生きよ」を勝手に改変し,最後の一兵云々の文言に書き換えたのか,意図がわからない.
 Wikipedia【牛島満】の「評価」から引用する.
 
また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったり自決に追い込まれたことへの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。
 
 この記述も誤りである.既に述べたように,《生きて虜囚の辱めを受くることなく》は単なる降伏否定ではない.この言葉は,会津戦争における白虎隊自刃が軍国主義に利用されたことに起源がある.意味は,戦闘で行動不能となって結果的に捕虜になることも許さない,捕虜になるくらいならその前に自ら命を絶てということなのである.
生きて虜囚の辱めを受くることなく》は沖縄戦以外を扱う歴史書にも登場するから,Wikipedia【牛島満】の筆者のように読み誤ることのないよう注意したいものである.
 
 以上,八原高級参謀が『沖縄決戦 高級参謀の手記』に書き残した「牛島満の最後の命令」についての考察を終わる.

|

« 沖縄の旅 戦争(3) | トップページ | 沖縄の旅 戦争(5) 〈工事中〉 »

冥途の旅の一里塚」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 沖縄の旅 戦争(4):

« 沖縄の旅 戦争(3) | トップページ | 沖縄の旅 戦争(5) 〈工事中〉 »