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2016年5月23日 (月)

沖縄の旅 戦争(1)

20160522a

 自称リベラルの評論家宮崎哲弥が週刊文春にコラムを連載して久しい.
 この評論家は,評論家の常として自分の立ち位置を少しずつ調整変更しながら現在に至るが,戦争というものに対する見解は大きくは変えていない.
 その宮崎哲弥が週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に掲載された《時々砲弾 連載204》の中で,彼の戦争観を再論している.

 宮崎の戦争観の基礎は「正戦論」である.
 正戦論とは,戦争には「正しい戦争」と「正しくない戦争」があるとする論理であるが,論者により意味するところに幅がある.
 宮崎の正戦論がどのようなものであるかについて,私は十三年前の春に短い記事を自分の個人サイトに載せた.その記事の十日前にイラク戦争が勃発し,戦闘開始直後に陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんなど五名の捕虜がイラクに捕らえられたのであるが,私の記事は,イラク戦争開始と同時に書かれた宮崎哲弥のコラムに異議を唱えたものである.下の破線 (-----) 間に,フォントの色を変えて転載する.
(原文は,このブログと同名の,既に更新を停止した個人サイト《江分利万作の生活と意見》のコンテンツ《雑事雑感》に掲載したものだが,近く@ニフティの個人サイトサービスが終了となるため,ココログの同じ日付に移植してある.またこの連載で既に書いたように,この年に私は初めて沖縄を訪れた)

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2003年3月31日
あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに

 先週発売の週刊文春4月3日号『宮崎哲弥の新世紀教養講座』のサブタイトルは「イラク戦争を読み破る〈1〉倫理的に正しい戦争の条件」である.ここで宮崎氏は 加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書)を引用して次のように書いている.《》に直接引用する.

戦争観には三つの種類がある。
(A) 正しい戦争と不正な戦争が分別可能とする正戦論。
(B) 国家主権の発動たる戦争に正も不正もないとする無差別戦争観。
(C) すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義。
 加藤は「9.11」以降、世界は(B)の無差別戦争主義に流されつつあると嘆く。国連憲章違反の疑いが濃厚な、新決議なしのイラク戦争はその現実的帰結といえよう。
 この状況に歯止めを掛けるのは、(C) の絶対平和主義ではない。それは理念としては正しいが現実的妥当性がない。(A)の正戦論こそが戦争抑止の決め手として期待できる。そうである以上、倫理的に正しい戦争はあり得る、といわねばならない。
 正戦の条件は大雑把にいって二点。(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じるものであること、(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること、である。


 三つの戦争観を挙げて正しい戦争の条件を示した部分は『戦争倫理学』に拠っているのだが,文脈から判断すると宮崎哲弥氏はこれに同意している.
 どうもおかしい.ヘンである.例えば,明白な自衛戦争であり,かつ相手の戦闘員に限定した攻撃であれば,どんな残虐な殺し方をしてもいいのか(殺すことはすべて残虐であるという立場に私は立つ者であるが,それはさておき,宮崎氏の議論の流れに沿ってそう書く).生物兵器や化学兵器を使用しても構わないのか (技術的には可能だろう).それを正しいと認めるのか.
 加藤尚武,宮崎哲弥の両氏の議論がヘンなのは,やむを得ず必要悪として許されることに「正」の字をあてていることである.絶対平和主義に現実的妥当性があるかどうかは見解の相違があるだろうから,仮に絶対平和主義は現実的でないとしよう.それでもそれは「倫理的な殺し合い」を認める根拠にはならないと私は思う.必要不必要ということと,倫理的であるか否かは別次元のことである.


 イラク側が捕虜米兵の映像を公開した.許されざることである.捕らえられた五人の兵士の一人に黒人女性の陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんがいる.放送されたテレビ映像で,ショシャーナさんは負傷しており,年齢を答えるのがようやくなほどに怯えていた.読売新聞《Yomiuri Online 3/27 01:10》によると,ショシャーナさんは二歳の娘を育てるシングルマザーで,家族のために料理を作ることと娘の世話が何よりの楽しみだったという.叔母のマーガレット・ヘンダーソンさんは「あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに」と語っている.
 イラク戦争はアメリカによる侵略戦争である.国内政治的に極悪非道のフセイン政権であるが,彼らは今,自衛戦争を戦っている.
 非戦闘員を殺戮しているのはむしろアメリカ軍の方である.しかし,ならばイラクの戦いは正義か.
 想像したくないが,ショシャーナさんは処刑されるかも知れない.ご飯を作りにいっただけの女性が殺されるかも知れない.それが戦争の非倫理性なのだ.

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(〈上記の文章に関する註〉 ニューヨーク通信によれば,ショシャーナさんは生還してこの年の N.Y. 市の大晦日イベントにゲストとして招かれたとある)

 宮崎哲弥の言う正戦の条件は次の二点である.
(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か,それに準じるものであること
(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること

 上の二条件が満たされていれば,宮崎はその戦争「正しい戦争」と呼ぶ.
 その観点で先の戦争 (アジア・太平洋戦争) を見てみよう.
 まず条件 (1) は,極めて恣意的な判定が可能な条件であるといえる.
 なぜなら,敗戦まで日本政府は大東亜戦争を自衛戦争でありアジア解放戦争であるとしていたが,敗戦後は村山談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって 平成7年8月15日」と小泉談話「内閣総理大臣談話 平成十七年八月十五日」により,先の戦争は侵略戦争であったとする政府公式見解を明確にした.
 しかし昨年,終戦の日前日に安倍晋三は「安倍内閣総理大臣談話」を発表し,その文中で,先の戦争は侵略戦争であったとする従前の政府見解を覆し,同時に外務省のサイトから村山談話と小泉談話の痕跡を消し去った.
 つまり,ある戦争が自衛戦争であるか侵略戦争であるかなどということは,どうにでもなる空論なのである.

 次に条件 (2) はどうか.
 広島と長崎への原爆投下は非戦闘員を無差別殺戮したものであるが,原爆投下を正当化する論者は,戦後ずっと,あれは日本本土全体が焦土と化すのを避けるためであったとしてきた.これは,原爆投下は非戦闘員の殺傷を最小限度に留めるためのものであったとする正戦論に他ならない.
 視点をミクロに,先の戦争の局地戦としての沖縄戦,その最終段階における,ひめゆり学徒隊の伊原第三外科壕の悲劇を見てみよう.
 生徒らや引率教師らが潜む壕に,米兵は投降を呼びかける.

この壕に住民はいないか。兵隊はいないか。いたら出て来い。出ないと爆破するぞ。いいか》 (ガイドブック『ひめゆり平和祈念資料館』p.102 から引用)

 恐怖におののく少女たちは出て行かない.そしてガス弾が打ち込まれる.
 宮崎哲弥の正戦論によれば,殺傷を最小限度に留めるために非戦闘員への投降が呼びかけられているから,これは「正しい戦争」の行い方に則っている.その結果,

壕にいた96名 (うち教師5名・生徒46名) のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。》 (Wikipedia【ひめゆりの塔】から引用)

 だがしかし私は,私以外の多くの戦中戦後世代の人々と同じく,伊原第三外科壕における殺戮を「正しい」とは認めない.「非戦闘員の殺傷を避けるか最小限度に留めること」などという屁理屈はどうでもよい.認めるなと私の良心が命ずるのだ.

 したり顔に正戦論を説く自称リベラルの宮崎哲弥は,その正戦論に基づいて沖縄戦を,ひめゆり学徒隊の悲劇を,評論してみせるがよい.もし恥を知らぬのであれば,生き残ったひめゆり学徒に向かって「倫理的に正しい殺戮はあり得る」と語るがいい.

 かつてフセインの戦いを倫理的に正しい戦争であると言った宮崎哲弥のごとき鈍摩した感性の持ち主に,私たちがならぬためには,宮崎がどう言おうと,《すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義》に立たねばならない.それが,亡くなったひめゆり学徒の遺言であり,生き残った学徒たちが戦後を生きた志であると信ずる.

20160520c
『ひめゆり平和祈念資料館』 (ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック)
『生き残ったひめゆり学徒たち ― 収容所から帰郷へ ―』(ひめゆり平和祈念資料館編)

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