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2016年4月26日 (火)

会津の旅 (十四)

 前回の《会津の旅 (十三)》からの続き.

 山口弥一郎『白虎隊物語』の《あとがき》の内容には,首を傾げざるを得ない.《あとがき》から一部引用を再掲する.

この小著の前版「白虎隊物語」は昭和二十七年秋、吉川英治、朝日新聞社幹部一行が「新・平家物語」の取材に会津に来訪され、私が、二日間案内した縁につながる。はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。

 上の引用箇所に《昭和二十七年》とあるのは事実ではなく,正しくは「昭和二十六年」であることは前回の記事で述べた.
 また,山口弥一郎は《私が、二日間案内した縁につながる》と書いているが,吉川英治一行の会津取材旅行を案内したのは,実は山口弥一郎と会津高校教諭の平山武美の二人である.これは『随筆 新平家』に記載されている.

 山口弥一郎と平山武美の案内で会津若松を旅した吉川英治は,会津若松の有様にかなりがっかりした様子である.
 まず山口と平山に《白虎隊の旧跡と聞かされ》た飯盛山.『随筆 新平家』から以下の《》に引用する.

さらに、山頂、飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋があり、おもちゃの竹刀を売っていた。ああ、おもちゃの竹刀、昨日の日本、ムッソリニ碑。――名所とはおおむね世紀の皮肉であり、そして、その皮肉を反省するに適する地である。

 《ムッソリニ碑》は,現存する通称「イタリア碑」のことである.
 《飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋》は飯盛家の家業のことである.
 そして昭和二十六年秋に《おもちゃの竹刀》が吉川英治をして慨嘆させた事情は,平成二十八年の現在も変わらない.私が飯盛山を訪れたときの印象も,一言で言えば胡散臭い「チープ感」である.
 次が会津若松城.

《…… まず若松城の城跡へ行く。
 あきれたことになっている。
 公園の中央、元の本丸跡が、なんと競輪場になってしまった。
 これが焼工場の跡とか、近郊の新開地とかいうなら、地方自治のお勝手というものだろうが、ぼくらだけではない、修学旅行の学生団体やら、一般の旅行者も一応はやって来よう。また来るように、若松市観光案内も書いている。
 来てみれば、これだ。
 蒲生氏郷から上杉景勝、松平容保までの城址として、残り少ない日本中の古城址のうちでも、かなり形式の鮮明な方である。ばかりでなく、樹姿、風致もよい。四季、市民の憩い場所としても、郷土の象徴としても、旅行者から見れば、羨ましい地域を持つ市なのにと惜しまれる。
 それになお、いけなかったのは、前日、飯盛山の名物婆さんにお目にかかっていたことだった。お婆さんが声涙ともにくだる調子で、維新史の会津籠城の惨を語りながら、指さしていた、そのお城址がこれなんである。――その史蹟公園では、今日、今日だから、まあいいとしても、なにもケイリン場を展開しなくっても、なんとか、ほかに細々でも市の暮らし方はないものか。
 白虎隊のあわれは、なんだか、きょうも胸に尽きない。維新の白ゆりの塔、昭和のひめゆりの塔、もう、第三のゆりの塔を、日本のどこの地上にも作らないことだ。歴史の訓える帰結は、かくの如しである。それを訓えるための大皮肉を世に示すためだとすれば、ケイリンをここへ持って来た市当局のあたまも決してばかにはできない。
》(下線は当ブログの筆者が付したものである)

 地元会津の人間も旅行者も,粛然として思いを馳せるべき会津戦争の歴史を,《おもちゃの竹刀》と《ケイリン場》にしてしまった会津若松.会津戦争を戯画化する《おもちゃの竹刀》を商う土産物屋の婆さん (飯盛ミヨセ) が,まるで講釈師の如き調子で白虎隊を語りながら指さす彼方には競輪場があったのだ.(註)
 『随筆 新平家』のこの箇所には,会津の戦後のインチキくさい現実に対する吉川英治の嘆きが書かれている.

 しかるに山口弥一郎は,吉川英治の皮肉を読み取ることができなかった.『随筆 新平家』に吉川が書いたリップサービス,

とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。

を真に受けて,週刊朝日を持って飯盛家を訪問する.
 山口弥一郎が『白虎隊物語』の《あとがき》で次のように書いているのを再掲する.

朝日新聞東京本社より、この増刊号が送りとどけられると、まず婆さんを喜ばせようと、飯盛山にかけつけた。それが何んと婆さんが世を去って四十五日目の御法事の当日であったとは。

 既に《会津の旅 (十三)》において引用した部分にあるように,この日の訪問が契機となって山口弥一郎は『白虎隊物語』と同じ書名の前作を,飯盛家の依頼で書くことになったわけだが,この記述の信憑性にも疑問符が打たれるのである.それは後でまた触れることにして先に進む.
(続く)

(註)
 Wikipedia【競輪】
自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年 (昭和23年) 8月に成立。
 自転車競技法は戦災都市の復興財源創出を目的とする法律であり,会津若松は戦災を受けていないにもかかわらず,なぜか福島県との共催で競輪を開催できることとなった.
 競輪場は,国の文化財保護委員会に陳情し,若松城本丸跡に穴を掘って建設してしまった.郷土の歴史に敬意を払わぬこと,この上ない所業である.

かつてこの辺りに競輪場があった
Photo

 昭和三十三年,競輪場を若松城から少し離れたところに移転したが,競輪衰退の流れの中で昭和三十八年に会津競輪は廃止となった.

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