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2016年4月16日 (土)

会津の旅 (十二)

 前回の 会津の旅 (十一) から少し日が開いてしまったが,ここで会津飯盛山の白虎隊墓碑前の広場に立つ通称ドイツ碑について,関連する資料を整理してみよう.

 まず吉川英治『随筆 新平家』から.

 吉川英治は昭和二十五年(1950年) から同三十二年(1957年) まで,『新・平家物語』を「週刊朝日」に連載した.『随筆 新平家』は,『新・平家物語』連載と並行して週刊朝日上に掲載された「新平家落穂集――筆間茶話――」「新平家雑感」「新・平家今昔紀行」をまとめたものである.

 私が持っている『随筆 新平家』は講談社の「吉川英治歴史時代文庫 補4」(奥付には「一九九〇年十月十一日第一刷発行」とある) であるが,《はしがき》の日付は昭和三十三年五月一日となっている.これは『随筆 新平家』単行本の《はしがき》をそのまま文庫版に転記しているからであろう.
 上に挙げた『随筆 新平家』に含まれる三作品のうち,「新・平家今昔紀行」は取材旅行記で,この中に飯盛山を訪れたときのことが書かれている.

 ここで少し横に逸れる.
 吉川英治は数多くの時代小説を遺した作家である.昭和二十年の秋,吉川の疎開先である青梅に訪ねてきた昔なじみの吉田満に「あなたの通って来た生命への記録を書いておくべきだ」と言った〈出典;関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(集英社文庫)〉.
 これが契機となって吉田満はほぼ一晩で「戦艦大和ノ最後」を書いた.関川夏央は『おじさんはなぜ時代小説が好きか』の中で,このことを吉川英治の《もうひとつの業績》であると書いている.
 Wikipedia【吉川英治】には,この事実に関する記載がなく,Wikipedia【吉田満】へのリンクが張られているだけなので付記しておく.

 さて「新・平家今昔紀行」は初回の昭和二十六年から二十九年まで書かれたようだ.収められた各紀行文の文末に日付が付してあるが,同じ日付の文章がいくつもあるため,この日付の意味が不明確である.しかしおそらく旅行記が掲載された週刊朝日の発行日であろうと推測される.

 で,昭和二十六年十月十日,吉川英治一行 (挿絵画家杉本健吉と週刊朝日編集者ら) は鬼怒川から北会津,新潟,北越,北信濃という七日間の取材旅行に出た.この日付は,吉川英治歴史時代文庫版『随筆 新平家』の p.329 に明記されている.
 二日目の十月十一日に一行は飯盛山に行き,翌十二日に会津若松市内を観光している.一行の会津旅行記の文末日付は《二八・三・二〇》である.(註) 

 ここで一旦,『随筆 新平家』から離れ,通称ドイツ碑に関する重要資料である山口弥一郎『白虎隊物語』の信憑性について触れる.
 山口弥一郎の経歴については,(1) アマゾンの商品説明ページにある著者略歴と,(2)『白虎隊物語』の奥付にある記載とで異なっている点が二ヶ所あるので,比較のため以下の破線間に転記しておく.

(1) アマゾンの商品説明ページにある著者略歴
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山口/弥一郎
1902年、福島県大沼郡新鶴村の旧肝煎の農家の長男として生まれる。地理学を田中館秀三より、民俗学を柳田国男より学び、東北地方の研究に約60年間専念し、2000年に死去。1953年、東北地方農村生活研究所創設、1959年、河北文化賞受賞、1960年、東京文理科大学・東京教育大学より理学博士の学位取得、1964年、福島県文化功労賞受賞、1970年、文化庁長官より表彰、1986年、平和と文化の貢献によるSGI平和文化賞受賞

(2) 『白虎隊物語』の奥付
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著者紹介
明治35年5月13日会津新鶴村の旧肝煎宅の長男として生る。福島県立会津中学校を卒業後、地理学、民俗学を専攻し、東北大学農学研究所等に勤務、現在東北地方農村生活研究所を主宰し、福島県文化財専門委員、福島県史編纂委員を兼務。亜細亜大学にて地理学地誌学を講じている。
 昭和34年1月17日 河北文化学術賞を受く
 昭和34年1月18日 理学博士
 昭和39年4月1日  亜細亜大学教授
 昭和39年11月3日 福島県文化功労賞を受く

昭和三十四年九月二十三日 発行
昭和三十五年五月五日 再版
昭和三十六年五月五日 三版
昭和三十七年五月五日 四版
昭和三十八年五月五日 五版
昭和四十年五月五日  六版

〈白虎隊物語〉  定価 百円

著者   山口弥一郎
発行人 会津飯盛山上
     飯盛正康
印刷所 会津若松市馬場上一之町
     株式会社 丸八商店
印刷人  佐藤彦八
 》
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 上の記述で,アマゾンの著者略歴では,著者の博士号は《1960年、東京文理科大学・東京教育大学より理学博士の学位取得》とあるが,昭和二十四年(1949年) 五月に東京文理科大学は廃止されて東京教育大学となったのであるから,この記載は誤りで,《東京文理科大学》が余分である.

 また『白虎隊物語』の奥付にある著者紹介では《昭和34年1月18日 理学博士》とあるが,昭和三十四年は1959年であるから,アマゾンの記載《1960年》と食い違っている.

 さて次に,『白虎隊物語』の信憑性を疑わせる問題点について述べる.
(続く)


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(註)
 吉川英治は,『新・平家物語』の取材旅行をなかなか原稿にしなかった.それについて「新・平家今昔紀行」の冒頭に次のように書いている.

 《…… おりあるごとに清遊濁遊をかね歩いておりましたが、紀行文の方は、帰京後いつも約束をたがえ、頬かむりを続けてしまいました。
 ここを品よくいえば、“いつか筐底の古反故になん成りけるを――”というわけなんです。けれど、別冊編集子はなかなか諦めない。時期は遅れたが、それでも書かないでいるよりは、ましですぞ、としきりにいう。
 そういわれると、そんな気もして、六菖十菊のうらみは覚えながら、とにかく書きました。しかしはなはだ陽気のずれた「御無沙汰原稿」たることは、どうしようもありません。怠慢の罪をお詫びしておく次第です。

  昭和二十六年十月に出かけた取材旅行記の週刊朝日掲載が,昭和二十八年三月にまでずれ込んだのは,以上の事情による.

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