会津の旅 (十五)
前回の《会津の旅 (十四)》からの続き.
[[ 飯盛ミヨセは吉川英治に何を語ったのか ]]
山口弥一郎は『白虎隊物語』の《あとがき》にこんなことを書いている.
《はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。》
ところが,これが嘘なのである.
《会津の旅 (九) 》で一度登場して頂いた元福島大学教育学部教授・九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》〈福島大学教育実践研究紀要第13号(1998年3月)〉には次のようにある.
《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。》
引用箇所冒頭の《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」》は少し説明が要る.
昭和二十年に戦争が終わると,進駐軍が飯盛山にやってきて,ドイツ碑の破壊を命じたという.
実は,進駐軍が誰にドイツ碑の破壊を命じたのかが史料的に明らかでない.
ハッソウ・フォン・エッツドルフ氏が碑を寄贈した相手は財団法人会津弔霊義会であるが,なぜか進駐軍が飯盛山に来た時に,ドイツ碑の所有者である会津弔霊義会は姿を見せず,進駐軍将校に応対したのは飯盛ミヨセであった.
これはなぜだろうか.以下に推理してみる.
山口弥一郎『白虎隊物語』(p.19) によれば,山口は終戦後のある日,飯盛山に行き,飯盛ミヨセから,次のようなドイツ碑の話を聞いた.
《(*進駐軍が) ドイツの記念碑だけはどうしても取り除いてこわせという。》 (*は当ブログの筆者註)
《「…… 折角遠い国から贈ってくれたこの碑に罪はあるまいて。…… それでドイツから贈られた碑は家の側に持ってきてかくしておきましたのでさ。みて下されや。」》
《みて下されや》と言うからには,飯盛ミヨセは《家の側》 (註1) に山口弥一郎を連れて行き,隠してあった碑を見せたのであろう.
しかしこれは,飯盛ミヨセの義理の娘である飯盛史子 (註2) が,ミヨセ没後に九頭見氏に語った証言によると,次のように芝居じみたものに変化する.(出典は九頭見氏の総説であるが,史子がミヨセから聞いた話であろうと思われる)
《ミヨセが「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」とのことである。》
《どうしても取り除いてこわせ》と命令しておきながら《石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた》というのは奇妙である.
これについて九頭見氏は総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》の中で次のように書いている.
《…… 記念碑撤去命令が口頭による命令であったことから,通訳の誤解に基づく命令ではなかったかという推測を会津の郷土史家の中には抱く者がある。》
私見では,ミヨセが山口弥一郎に語った
《ドイツの記念碑だけはどうしても取り除いてこわせ》
と命令されたという話は,通訳者の誤訳というより,飯盛ミヨセの創作であろう.
飯盛ミヨセは,有りもしない若松城に見立てた会津競輪場を指さしながら,声涙ともに下る白虎隊講談を語るようなインチキくさい人物であるから,話を盛ったとしてもおかしくないのである.
こうして飯盛ミヨセはドイツ碑を自宅の近くに隠したのであるが,本来この碑は財団法人会津弔霊義会の財産であるのに,飯盛ミヨセは自分の物に着服してしまったのだ.
九頭見氏の《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》はこのことに (おそらく「敢えて」) 触れていないが,合理的な説明はただ一つ,すなわち財団法人会津弔霊義会は飯盛家のダミーだったということである.つまり飯盛ミヨセの行為は財団法人会津弔霊義会の行為だったのである.そう考えれば,進駐軍との折衝にあたったのが会津弔霊義会ではなく飯盛ミヨセだったことの説明もつく.
この財団法人会津弔霊義会は,法改正によって公益財団法人会津弔霊義会となり,現在は総務省の監督下にあるので,こんなデタラメは許されない.
法改正によって財団法人が公益財団法人と一般財団法人に分けられる前は,財団法人は,官僚の天下りや,営利企業の脱税に使われることが多かった.逆に言うと,天下りや脱税を防ぐために法の改正がなされたのである.
この飯盛ミヨセによるドイツ碑の窃盗隠匿を,会津の観光史学の提唱者である宮崎十三八は『会津地名人名散歩』の中で次のように書いている.(p.189)
上の画像は『会津地名人名散歩』のp.189である.
この本は,ページの上段に註があり,下段が本文である.
このページの上に《ミヨセ婆さん談》があるが,これは山口の『白虎隊物語』から切り貼り改竄した文章で,著作権法違反の不当な引用である.切り貼りについて何の断りも書いておらず,とても物書きのやることとは思えない.
また下段に
《次にドイツ碑は …… これだけでご勘弁くださいと頼んだが駄目だった。》
とあるが,伝聞であるにもかかわらず出典が示されていない.
さらに,上段の註で
《それでドイツ碑は家の側に持ってきてかくしておきましたのでさ》
と書いておきながら,本文には
《破壊したことにして床下に隠しておいたというのは、このときだった。》
と,同じページ中なのに上段の《家の側》を下段では《床下》にしてしまっている.
この宮崎十三八という男の頭の中はどうなっているのか.ネジが何本も抜け落ちているとしか思えない.
さらにさらに,飯盛史子によれば
《アメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。》
のであるが,宮崎十三八は
《破壊したことにして》
としている.飯盛ミヨセの目の前には進駐軍将校がいるのに,どうやれば《破壊したこと》にできるのか.もうわけがわからない.
さらにさらに,もう一つさらに,
《この話は後に飯盛山に取材に来た吉川英治が『週刊朝日』に書いて有名になった。》と書いているが,吉川英治の『随筆 新平家』にはドイツ碑のことは一言も書かれていないのである.
これは当然である.吉川英治が飯盛山に来たとき,ドイツ碑は飯盛ミヨセが私物化して隠匿していたのであるから,吉川英治はドイツ碑を見ていないのである.
宮崎十三八の『会津地名人名散歩』は,ドイツ碑のことだけでもこれだけ嘘が書いてある.細かく検証すれば他にもたくさん嘘があるものと想像される.
さてこの記事の最初の所で,九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》から引用した部分を再掲する.
《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。》
上の引用の《昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて》は出典が九頭見氏の総説に書かれていない.文脈的に飯盛史子からの聞き書きと想像されるが明記されていないので確証はない.
確証はないが,通称ドイツ碑に関する資料のうちで比較的信頼性が高いと思われるのは九頭見氏の総説であり,『会津地名人名散歩』や現在の飯盛山にあるドイツ碑の案内板にも「昭和28年」の文言があることからすると,ドイツ碑が元の位置に戻されたのは昭和二十八年のことだとしてよいだろう.
ところが山口弥一郎は『白虎隊物語』の《あとがき》で次のように書いている.(この記事の冒頭に引用した部分を再掲)
《はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。》
《あとがき》の文脈からすると,まるで飯盛ミヨセが吉川英治に
《ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語》
ったかのようである.
しかしこれは事実に反する.嘘である.『随筆 新平家』にドイツ碑のことは全く書かれていないのだ.なぜなら,碑が元の位置に戻されたのは,吉川英治の飯盛山来訪から一年半後のことであるからだ.飯盛ミヨセが碑の再建のことなぞ語りようがないのである.山口弥一郎も宮崎十三八と一緒で,すぐばれる嘘を平気で書いている.まともな人ではない.『白虎隊物語』の史料的価値は無に等しい.
ところで,ドイツ碑の再建に関しては,『白虎隊物語』の写真ページに,昭和三十四年頃に撮影されたと思われるドイツ碑の写真が掲載されている.この写真こそは,現在飯盛分店の公式サイトに書かれていること,およびドイツ碑の横に立てられている案内板に書かれている説明が嘘であることの証拠なのである.
飯盛ミヨセと飯盛家,山口弥一郎,宮崎十三八,この三者が言ったり書いたりしたことが悉く嘘ばかりなので,そのデタラメぶりを理路整然と説明するのが難しい.話がややこしいが,次回はその写真ページの画像を掲載する.
(続く)
(註1) ここで《家》とは,土産物屋である飯盛分店の公式サイトに,
《こちらの碑も第二次世界大戦後、進駐軍 (米兵) 米軍司令官より碑文とマークを削られ撤去を命ぜられましたが、当時の二代目墓守が自宅(現飯盛分店)に隠し、昭和28年に再び同じ場所に戻されました。》
とあることから,現飯盛分店のことであろう.
(註2) 同じく飯盛分店の公式サイトに飯盛フミという人物が飯盛ミヨセの後継者であると書かれているのだが,史子とフミが同一人物かどうかは明らかでない.飯盛フミについては次回にまた触れる.
戦前は女性の戸籍名と通称が異なっているのは普通のことであった.女性の人権もへったくれもないが,例えば戸籍名「ヤヱ」を日常では「八重子」「やえ子」「八重」と書いたり呼んだりすることがあったのである.
新島八重の戸籍名はどうだったのだろう.
同志社女子大学の吉海直人教授は同大学のサイトに《<新島>の名前をめぐって 》と題したコラムを書いている.
このコラムでは,新島八重の名前について,
《妻の「八重」については、「八重子」と「子」を付けたものもあります。こちらは慣用表現で、本来「子」は付いてなかったのですが、付いていても気にしなかったという以上に、自身で「八重子」と表記したりもしています。これも許容範囲ということで、外野が目くじらを立てるほどのことではなさそうです。
ついでながら、八重は京都に来ても会津弁のままでした。それが表記にも反映しているようで、「二階」を「にかへ」と書いた例があります。また和歌で「長らえて」を「長らゐて」と表記しています。甚だしきは自分の名前を英語で「Yai」(やい)と綴っています。東北弁では「え(へ)」と「い」が曖昧というか入れ替わることもあったようです。また「Yaye」という表記もあり、これだと「やゑ」と発音することになります。面白いですね。》
としている.
吉海教授は《外野が目くじらを立てるほどのことではなさそうです》とか《面白いですね》などと書いているが,とても学者の書いた文章とは思えない.話は自分が教鞭をとっている大学の創設者のことではないか.戸籍名が漢字だったのか平仮名だったのかあるいは片仮名だったのかを調べてから書けと言いたい.
この例は本当の名前と通称が似ているからまだいい.かなり昔に亡くなった私の母親 (昭和元年生まれ) は親族から「○□子」と呼ばれていて,自分でも葉書の差出人などそのように書いていたが,私が高校進学の時に戸籍謄本を見たら,母の本名が似ても似つかぬ「△※」だったので大変に驚いた.私の母は無学で字をろくに読み書きできず,戸籍謄本を見ても読めない人であったのだが,私に自分の本名が「△※」だったことを指摘されて驚いていた.というか,私の父もいい加減すぎる.(笑)
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