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2016年4月 3日 (日)

会津の旅 (九)

 Wikipedia【観光史学】には次のようにある.

1908年 (明治41年) 以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年 (昭和3年) にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。

 また Wikipedia【白虎隊】には次のように記載されている.

また、1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や

 上の引用中に記載されている「ハッソー・フォン・エッツドルフ氏が寄贈して飯盛山に設置されている記念碑」=ドイツ碑については,二つの謎がある.(上の引用文中の下線は,このブログの筆者江分利万作が付した)
 第一に,Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】 が記載しているところの,ドイツ大使館員エッツドルフ氏が飯盛山を訪れた時期《1935年》は正しいかどうかということ,
 第二に,両項目ともに《個人的に寄贈した記念碑》としているが,果たして本当だろうかということ,

の二つである.

 まず,寄贈された時期について.
 碑の脇に立てられている案内板には

フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 Hasso Von Etzdorf 氏が白虎隊精神を讃美して贈られた碑文と十字章である。
碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

と書かれている.
 実はこのドイツ碑には,寄贈者の氏名と身分が彫られていない.
 その寄贈者が誰であるかを調査して明らかにしたのは,元福島大学教育学部教授で同大名誉教授の九頭見和夫氏である.
 そしてドイツ碑に関する幾つかの事実関係については,九頭見和夫氏が,福島大学教育実践研究紀要第13号(1998年3月)に載せた総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》に詳しく書かれている.
 その総説によると,九頭見和夫氏が昭和六十二年にフォン・エッツドルフ氏と会って直接確認した「フォン・エッツドルフ氏の履歴書」に書かれていた記載事実は,

1900年生まれ.ゲッティンゲン大学法学博士.1928年,ドイツ外務省に入省.1931年,東京駐在ドイツ大使館付書記官.1934年,ベルリーン駐在帝国外務大臣フォン・ノイラート私設秘書.1936年,ローマ駐在ドイツ大使館付書記官.1945年,ジェノーヴァ駐在総領事.1947年,シュットガルト駐在,平和問題のためのドイツ事務局付協力員,最後にその事務局長.1950年,ベルリーンに再開された外務省に局長補佐として入省.1954年,パリ駐在公使兼 EDC (欧州防衛共同体) のための暫定委員会ドイツ派遣団代表.1955年,ロンドン駐在 WEU (西欧同盟) 事務局長代理.1956年,オタワ駐在ドイツ連邦共和国大使.1958年,ボン駐在外務省局長.1956―1965年,ロンドン駐在ドイツ連邦共和国大使.(後略)》

である.
 余談だが,飯盛山のドイツ碑の横に会津弔霊義会が設置している案内板には,エッツドルフ (Etzdorf) をエッツ・ドルフと記載するという低レベルな誤りがある.
 この会津弔霊義会の杜撰な仕事振りはお笑いで済ませるとして,重大なのは,Wikipedia である.Wikipedia【観光史学】および Wikipedia【白虎隊】には

1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に》 (Wikipedia【観光史学】)
1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に》 (Wikipedia【白虎隊】)

と書かれているが,九頭見和夫氏がエッツドルフ氏本人に確認した事実では,エッツドルフ氏が飯盛山を訪れたのは1934年であり,1935年にはドイツ本国にいたのであるから,Wikipedia の記載は明白な誤りなのである

 では Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】の誤りの原因は何か.
 ドイツ碑に関する資料としては,九頭見和夫氏の総説の他に,山口弥一郎『白虎隊物語』と,『会津地名・人名散歩』など宮崎十三八の著書があるのだが,Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】の間違った記載は,これらの資料から確認せずに孫引きした結果である可能性が高い.
 『白虎隊物語』は,白虎隊を観光資源としてきた飯盛家が発刊に関与している疑いがある (未確認) ことと,古書として流通していないため国会図書館で調べる必要があるため,この旅行記を書くための資料の範囲を超えるので,機会があれば調査することにして調査は先送りとする.
 『会津地名・人名散歩』は,会津若松市商工観光部長として,史実を明らかにすることよりも,白虎隊の観光資源化を推進した張本人 (の一人) であるとされる宮崎十三八の著書であるから信用性に大きく欠けるが,古書の入手は容易なので現在注文中である.

 以上,ドイツ碑に関する二つの謎のうち,九頭見和夫氏が調査によって明らかにしたところによれば,ハッソー・フォン・エッツドルフ氏が飯盛山を訪れたのは1934年であり,碑の建設費用がエッツドルフ氏から会津弔霊義会に寄贈された時期は1934年秋である.また実際に飯盛山に設置されたのは翌1935年の6月であると確定してよいようだ.
(続く)

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