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2016年4月21日 (木)

会津の旅 (十三)

(本稿は予約投稿です.ブログ筆者はただ今東北旅行中です)

 前回の《会津の旅 (十二) 》からの続き.

 私が所有している山口弥一郎『白虎隊物語』は,昭和四十年五月五日発行の第六版である.この第六版の《あとがき》の日付は昭和四十年三月になっている.
 サイズはB6で,写真ページ16枚のあとに本文と《あとがき》および奥付がある.
 本文の表題は「戊辰悲話」としてあり,「白虎隊物語」「なよたけ物語」「娘子軍物語」の三部構成になっている.全体は薄い冊子の体裁である.
 前回の記事に『白虎隊物語』の奥付を示したが,これを見ると頻繁に改版を重ねており,最終的に第何版まで作られたかは不明である.
 そして第六版《あとがき》(p.46-47) には次のように書かれている.

この小著の前版「白虎隊物語」は昭和二十七年秋、吉川英治、朝日新聞社幹部一行が「新・平家物語」の取材に会津に来訪され、私が、二日間案内した縁につながる。はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。翌二十八年三月の、「週刊朝日」春季増刊号に「新・平家今昔紀行」(「吉川英治・随筆新平家」に再掲)として詳しい会津の旅の模様を書いてくださった。その中にミヨセ婆さんの案内姿を杉本健吉画伯が、半頁大に描いて、吉川氏は「とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。」と書いておられる。
 朝日新聞東京本社より、この増刊号が送りとどけられると、まず婆さんを喜こばせようと、飯盛山にかけつけた。それが何んと婆さんが世を去って四十五日目の御法事の当日であったとは。遺族の方々から「お婆さんの話を一番詳しく聞いているのはあなただから、白虎隊の今様の案内記を書いてくれ。」と頼まれた。一応はことわったが、位牌の前で、週刊朝日の婆さんに関する記事に赤鉛筆で、アンダーラインを引いて読み上げてきた感激がさめきらず、一夜まんじりともしないで、一気に書き上げたのが、後章にみえる戊辰悲話の第一部「白虎隊物語」である。

 上に引用したように,この『白虎隊物語』には前著がある.
 これには『白虎隊物語』の第一部「白虎隊物語」だけが収められていた.版型がわからないが,B6であるとすればわずか16ページの,薄いパンフレットのようなものであったと思われる.
 《あとがき》の後半に書いてあるが,これは数万部も発行されたらしい.
 また上の引用箇所に,飯盛家からの要請によって書いたと著者が記しているので,おそらく飯盛家が経営する土産物店で観光客に配付されたものと想像される.

 『白虎隊物語』は,この旧版に「なよたけ物語」「娘子軍物語」,写真ページなどを加え.薄い新書本のそのまた半分程度の厚みの冊子として出版された.
 《あとがき》の後半には,旧版「白虎隊物語」と『白虎隊物語』は,共に会津若松市商工課長 (課長は第六版刊行当時;後に会津若松市商工観光部長) の宮崎十三八が編集協力者であると書かれている.
 このことと,『白虎隊物語』の発行人が,飯盛山で土産物店を営む飯盛家 (飯盛正康) であることを考え合わせると,『白虎隊物語』は,営利を目的とする白虎隊の観光資源化と無縁ではない.
 では,『白虎隊物語』の史料としての問題点を指摘していく.

[[ 吉川英治の会津取材旅行はいつだったのか ]]
 まず,日付の問題である.
 吉川英治が『随筆 新平家』中で明記しているように,吉川ら一行が飯盛山を訪れたのは昭和二十六年十月十一日である.その時の旅行記が週刊朝日に掲載されたのは一年半後の昭和二十八年三月発行増刊号である.
 しかし山口弥一郎は,吉川らの旅行は昭和二十七年秋であり,半年後に増刊号を手にしたとしている.これが単なる不注意の誤記あるいは誤植でないことは《二十八年三月》と書いていることから明らかである.六回の改版を重ねたあともなお訂正せずに「半年後」だと明記しているのだ.
(続く)

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