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2016年4月

2016年4月30日 (土)

辻堂 すもも食堂

 ローカルな話だが,辻堂のテラスモールへ映画を観に行くとする.
 平日午前中の上映が観やすい席を選べるので,大抵はそうする.すると観終わってから,さて昼飯を食おうということになる.
 ところがショッピングモールというところは,平日でもレストランが女性客でいっぱいなのだ.
 フードコートは広いから席がすいているけれど,それにしてもご婦人がたがワイワイ楽しくお食事ご歓談している中で,爺さんが一人で飯を食う図は違和感を発散しまくりだ.

 そんなわけで,これまでは藤沢駅に戻ってきて昼飯を食っていた.
 ところが何の気なしに食べログを見ていたら,辻堂駅の南口に「すもも食堂」という定食屋があることを知った.

 まず,すもも食堂という名前がいい.かもめ食堂みたいだ.
 辻堂駅南口改札口から徒歩二分の場所もいい.
 先週早速出かけた.店内は清潔感があって,これが辻堂でなくて東京ならOLの娘さんたちの人気店になるだろう.
 献立は下調べしてあったから,店員のおねえさんが水のコップを持ってきたら即「鶏から揚げ定食」を注文.
 「ご飯は普通でいいですか?」と聞かれたので「はい」と答える.そして味噌汁を豚汁に変更してもらった.

 やがて鶏から揚げ定食が到着.
 揚げたての鶏から揚げを口に入れて私は驚いた.
 堅い.
 噛むとバリバリと音が立つ.いくらなんでも堅すぎだ.
 これは油温が高すぎるのだ.かすかに焦げ臭も感じられる.
 ご飯の盛りはよい.大衆食堂はこうでなくちゃ.
 だが豚汁の器は,丼よりも小さな薄手の陶器で,熱くて持てない.止むを得ず器を置いたまま食べた.食べログの写真では樹脂製の汁椀だったのだが.
 そういうわけで,すもも食堂の「鶏から揚げ定食,豚汁付き」はあまり良い点をあげられない.ここの料理人はきっと揚げ物が不得意なんだろう.

 昨日,またすもも食堂に行った.一度だけの訪問で店を評価するのはよくないと思ったのだ.
 前回は,すもも食堂が不得意にしていると思われる鶏から揚げ定食を頼んで失敗したから,今回は煮魚定食を注文した.本日の煮魚はカレイだ.
 前回,豚汁の器が熱くて懲りたので,汁は味噌汁のまま変更せず.
 サイドメニューの納豆を注文した.五十円也.
 ここで前回は「ご飯は普通でいいですか?」と訊かれたのに,今度は何も言われない.不安が募る.
 しかし募る不安のうちに,やがて煮魚定食が到着した.
 まずは味噌汁.まあまあである.
 ご飯は前回に比べるとかなり盛りが少ない.これって「普通」じゃなくて「小」なんじゃないか.おねえさんは「このお爺さんは小盛りでいいに違いないわ,そうよそうよきっとそうだわ」と思ったのかも知れないが,そこんとこは一応訊いてほしかった.
 納豆は,小さいカップ入りのものがぽんと盆の上に置かれている.刻んだ葱が付いてくるものと思っていた私が馬鹿だった.
 そしてカレイの煮付けは,味付けはよいが,煮過ぎて身がぐずぐずになっていた.
 そういうわけで,すもも食堂の「煮魚定食,納豆付き」はあまり良い点をあげられない.ここの料理人はきっと煮物が不得意なんだろう.

 すもも食堂の献立は,他に肉じゃが定食とか鯖塩焼き定食,豚ロースしょうが焼き定食などがあるのだが,たぶん刺身定食以外はみんな不得意なんだろうなと想像される.
 食べログで「繁盛しているのが不思議」と口コミを書いた人がいるが,そんな感じの大衆食堂だった.
 たぶんもう行きませんけど,ごちそうさまでした.

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2016年4月29日 (金)

会津の旅 (十五)

 前回の会津の旅 (十四)からの続き.

[[ 飯盛ミヨセは吉川英治に何を語ったのか ]]

 山口弥一郎は『白虎隊物語』の《あとがき》にこんなことを書いている.

はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。

 ところが,これが嘘なのである.
 《会津の旅 (九) 》で一度登場して頂いた元福島大学教育学部教授・九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》〈福島大学教育実践研究紀要第13号(1998年3月)〉には次のようにある.

破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。

 引用箇所冒頭の《破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」》は少し説明が要る.
 昭和二十年に戦争が終わると,進駐軍が飯盛山にやってきて,ドイツ碑の破壊を命じたという.
 実は,進駐軍が誰にドイツ碑の破壊を命じたのかが史料的に明らかでない.
 ハッソウ・フォン・エッツドルフ氏が碑を寄贈した相手は財団法人会津弔霊義会であるが,なぜか進駐軍が飯盛山に来た時に,ドイツ碑の所有者である会津弔霊義会は姿を見せず,進駐軍将校に応対したのは飯盛ミヨセであった.
 これはなぜだろうか.以下に推理してみる.
 山口弥一郎『白虎隊物語』(p.19) によれば,山口は終戦後のある日,飯盛山に行き,飯盛ミヨセから,次のようなドイツ碑の話を聞いた.

 《(*進駐軍が) ドイツの記念碑だけはどうしても取り除いてこわせという。》 (*は当ブログの筆者註)
 《…… 折角遠い国から贈ってくれたこの碑に罪はあるまいて。…… それでドイツから贈られた碑は家の側に持ってきてかくしておきましたのでさ。みて下されや。」

 《みて下されや》と言うからには,飯盛ミヨセは《家の側(註1) に山口弥一郎を連れて行き,隠してあった碑を見せたのであろう.

 しかしこれは,飯盛ミヨセの義理の娘である飯盛史子 (註2) が,ミヨセ没後に九頭見氏に語った証言によると,次のように芝居じみたものに変化する.(出典は九頭見氏の総説であるが,史子がミヨセから聞いた話であろうと思われる)

ミヨセが「子供がもらったものを大人がこわすとは何事か」と言って石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。」とのことである。

 《どうしても取り除いてこわせ》と命令しておきながら《石碑の上にかぶさったのを見たアメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた》というのは奇妙である.
 これについて九頭見氏は総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》の中で次のように書いている.

《…… 記念碑撤去命令が口頭による命令であったことから,通訳の誤解に基づく命令ではなかったかという推測を会津の郷土史家の中には抱く者がある。

 私見では,ミヨセが山口弥一郎に語った
ドイツの記念碑だけはどうしても取り除いてこわせ
と命令されたという話は,通訳者の誤訳というより,飯盛ミヨセの創作であろう.
 飯盛ミヨセは,有りもしない若松城に見立てた会津競輪場を指さしながら,声涙ともに下る白虎隊講談を語るようなインチキくさい人物であるから,話を盛ったとしてもおかしくないのである.

 こうして飯盛ミヨセはドイツ碑を自宅の近くに隠したのであるが,本来この碑は財団法人会津弔霊義会の財産であるのに,飯盛ミヨセは自分の物に着服してしまったのだ.
 九頭見氏の《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》はこのことに (おそらく「敢えて」) 触れていないが,合理的な説明はただ一つ,すなわち財団法人会津弔霊義会は飯盛家のダミーだったということである.つまり飯盛ミヨセの行為は財団法人会津弔霊義会の行為だったのである.そう考えれば,進駐軍との折衝にあたったのが会津弔霊義会ではなく飯盛ミヨセだったことの説明もつく.
 この財団法人会津弔霊義会は,法改正によって公益財団法人会津弔霊義会となり,現在は総務省の監督下にあるので,こんなデタラメは許されない.
 法改正によって財団法人が公益財団法人と一般財団法人に分けられる前は,財団法人は,官僚の天下りや,営利企業の脱税に使われることが多かった.逆に言うと,天下りや脱税を防ぐために法の改正がなされたのである.

 この飯盛ミヨセによるドイツ碑の窃盗隠匿を,会津の観光史学の提唱者である宮崎十三八は『会津地名人名散歩』の中で次のように書いている.(p.189)

P189

 上の画像は『会津地名人名散歩』のp.189である.
 この本は,ページの上段に註があり,下段が本文である.
 このページの上に《ミヨセ婆さん談》があるが,これは山口の『白虎隊物語』から切り貼り改竄した文章で,著作権法違反の不当な引用である.切り貼りについて何の断りも書いておらず,とても物書きのやることとは思えない.

 また下段に
次にドイツ碑は …… これだけでご勘弁くださいと頼んだが駄目だった。
とあるが,伝聞であるにもかかわらず出典が示されていない.
 さらに,上段の註で
それでドイツ碑は家の側に持ってきてかくしておきましたのでさ
と書いておきながら,本文には
破壊したことにして床下に隠しておいたというのは、このときだった。
と,同じページ中なのに上段の《家の側》を下段では《床下》にしてしまっている.
 この宮崎十三八という男の頭の中はどうなっているのか.ネジが何本も抜け落ちているとしか思えない.

 さらにさらに,飯盛史子によれば
アメリカ軍の将校がミヨセに石碑をくれた。
のであるが,宮崎十三八は
破壊したことにして
としている.飯盛ミヨセの目の前には進駐軍将校がいるのに,どうやれば《破壊したこと》にできるのか.もうわけがわからない.

 さらにさらに,もう一つさらに,
この話は後に飯盛山に取材に来た吉川英治が『週刊朝日』に書いて有名になった。》と書いているが,吉川英治の『随筆 新平家』にはドイツ碑のことは一言も書かれていないのである.
 これは当然である.吉川英治が飯盛山に来たとき,ドイツ碑は飯盛ミヨセが私物化して隠匿していたのであるから,吉川英治はドイツ碑を見ていないのである.
 宮崎十三八の『会津地名人名散歩』は,ドイツ碑のことだけでもこれだけ嘘が書いてある.細かく検証すれば他にもたくさん嘘があるものと想像される.

 さてこの記事の最初の所で,九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》から引用した部分を再掲する.

破壊をまぬがれた「ドイツ記念碑」は,昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて文字やマークを削ったまま元の位置に復元されることになる。しかし記念碑建設当時のドイツ文字やマークが完全に復活するのは昭和30年以降のことで,その頃たまたま飯盛山を訪れた西ドイツの青年団が当時の金で一万円を財団法人会津弔霊義会に送ってきてからのことである。

 上の引用の《昭和28年在郷軍人会の人たちが飯盛ミヨセの所にやってきて》は出典が九頭見氏の総説に書かれていない.文脈的に飯盛史子からの聞き書きと想像されるが明記されていないので確証はない.
 確証はないが,通称ドイツ碑に関する資料のうちで比較的信頼性が高いと思われるのは九頭見氏の総説であり,『会津地名人名散歩』や現在の飯盛山にあるドイツ碑の案内板にも「昭和28年」の文言があることからすると,ドイツ碑が元の位置に戻されたのは昭和二十八年のことだとしてよいだろう.

 ところが山口弥一郎は『白虎隊物語』の《あとがき》で次のように書いている.(この記事の冒頭に引用した部分を再掲)

はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。

 《あとがき》の文脈からすると,まるで飯盛ミヨセが吉川英治に
ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語
ったかのようである.
 しかしこれは事実に反する.嘘である.『随筆 新平家』にドイツ碑のことは全く書かれていないのだ.なぜなら,碑が元の位置に戻されたのは,吉川英治の飯盛山来訪から一年半後のことであるからだ.飯盛ミヨセが碑の再建のことなぞ語りようがないのである.山口弥一郎も宮崎十三八と一緒で,すぐばれる嘘を平気で書いている.まともな人ではない.『白虎隊物語』の史料的価値は無に等しい.

 ところで,ドイツ碑の再建に関しては,『白虎隊物語』の写真ページに,昭和三十四年頃に撮影されたと思われるドイツ碑の写真が掲載されている.この写真こそは,現在飯盛分店の公式サイトに書かれていること,およびドイツ碑の横に立てられている案内板に書かれている説明が嘘であることの証拠なのである.
 飯盛ミヨセと飯盛家,山口弥一郎,宮崎十三八,この三者が言ったり書いたりしたことが悉く嘘ばかりなので,そのデタラメぶりを理路整然と説明するのが難しい.話がややこしいが,次回はその写真ページの画像を掲載する.
(続く)

(註1) ここで《》とは,土産物屋である飯盛分店の公式サイトに,
こちらの碑も第二次世界大戦後、進駐軍 (米兵) 米軍司令官より碑文とマークを削られ撤去を命ぜられましたが、当時の二代目墓守が自宅(現飯盛分店)に隠し、昭和28年に再び同じ場所に戻されました。
とあることから,現飯盛分店のことであろう.

(註2) 同じく飯盛分店の公式サイトに飯盛フミという人物が飯盛ミヨセの後継者であると書かれているのだが,史子とフミが同一人物かどうかは明らかでない.飯盛フミについては次回にまた触れる.
 戦前は女性の戸籍名と通称が異なっているのは普通のことであった.女性の人権もへったくれもないが,例えば戸籍名「ヤヱ」を日常では「八重子」「やえ子」「八重」と書いたり呼んだりすることがあったのである.
 新島八重の戸籍名はどうだったのだろう.
 同志社女子大学の吉海直人教授は同大学のサイトに《<新島>の名前をめぐって 》と題したコラムを書いている.
 このコラムでは,新島八重の名前について,
妻の「八重」については、「八重子」と「子」を付けたものもあります。こちらは慣用表現で、本来「子」は付いてなかったのですが、付いていても気にしなかったという以上に、自身で「八重子」と表記したりもしています。これも許容範囲ということで、外野が目くじらを立てるほどのことではなさそうです。
ついでながら、八重は京都に来ても会津弁のままでした。それが表記にも反映しているようで、「二階」を「にかへ」と書いた例があります。また和歌で「長らえて」を「長らゐて」と表記しています。甚だしきは自分の名前を英語で「Yai」(やい)と綴っています。東北弁では「え(へ)」と「い」が曖昧というか入れ替わることもあったようです。また「Yaye」という表記もあり、これだと「やゑ」と発音することになります。面白いですね。

としている.
 吉海教授は《外野が目くじらを立てるほどのことではなさそうです》とか《面白いですね》などと書いているが,とても学者の書いた文章とは思えない.話は自分が教鞭をとっている大学の創設者のことではないか.戸籍名が漢字だったのか平仮名だったのかあるいは片仮名だったのかを調べてから書けと言いたい.
 この例は本当の名前と通称が似ているからまだいい.かなり昔に亡くなった私の母親 (昭和元年生まれ) は親族から「○□子」と呼ばれていて,自分でも葉書の差出人などそのように書いていたが,私が高校進学の時に戸籍謄本を見たら,母の本名が似ても似つかぬ「△※」だったので大変に驚いた.私の母は無学で字をろくに読み書きできず,戸籍謄本を見ても読めない人であったのだが,私に自分の本名が「△※」だったことを指摘されて驚いていた.というか,私の父もいい加減すぎる.(笑)

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2016年4月28日 (木)

熊本地震 業界団結

 今朝のNHKニュースによれば,熊本地震被災地における都市ガス復旧は,あと一歩のところにきているようだ.
 それで,西部ガスのサイトを見てみたら,一般家庭の状況は
  復旧対象戸数:100,884戸
  復旧済戸数 (累計) :78,191戸
  復旧率:77.5 %
となっていた.
 ニュース画面に,ようやく小さな子供たちを風呂に入れてやれるようになったお母さんの笑顔が映されたが,本当によかったと思う.

 西部ガスのサイトには,西部ガス復旧隊約2,000人と,日本ガス協会復旧応援隊の最大2,676人が復旧にあたっていると書かれている.
 きっと全国の都市ガス事業者で「俺,行きます!」と応援に立ち上がった人々がいたのだろうと思うと,元会社員として私の胸は熱くなる.

 九州新幹線は昨日,博多―鹿児島中央の全線で運転を再開した.やはり今朝のNHKニュースで,インタビューに答えた乗客の笑顔が印象的であった.
 JRも,各社挙げての応援があったものと思う.

 実は,私は地震の前に,福岡から知覧まで鉄道旅をしたいと思っていた.知覧は,私たちの世代が訪れてみたいと思う土地の一つなのだ.
 予想よりも早い復旧の様子なので,旅行プランの検討を再開しようと思う.

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2016年4月27日 (水)

なしのつぶて その二

 少し前の記事《源氏山から~♪》に次のように書いた.(当ブログの通常の引用表記にすると《》が二重になって見にくいので,色を赤に変えることで引用表記に代える)

 葛原岡神社は,葛原岡のこの地で日野俊基が処刑されたことに因んで明治二十年(?)に創建された神社で,鎌倉ではかなり新しいものであるが,ハイキングの途中で一休みするのにちょうどいい場所にある.上の石碑画像には「明治21年に創建された」と書かれているが,葛原岡神社のサイトの《葛原岡神社について 》では

明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。

とあり,創建は明治二十年だとしている.この神社の関係者は誰一人この矛盾に気が付いていないのだろうか.

 この件,放置しても別段構わぬことだろうが,神社にある石碑に書かれている神社創建の年が,ウェブサイトにある神社創建の年と食い違っていることを封書で指摘してみた.
 宛先は,神社のウェブサイト管理者である俊基卿遺蹟保存会の常務理事である今田正廣氏と長岡仁志氏である.
 手紙の本文は以下の通りで,これに石碑を写した画像と,ウェブサイトのプリントを添付した.(この記事の末尾に,添付資料のそのまた一部を貼り付けておく)

拝啓
 桜花の候、貴会益々御清栄のこととお慶び申し上げます。
さて先日、私は葛原岡神社に参拝致しましたが、その折に疑問に思ったことがございます。
 そのことについて一つ御教示頂ければ幸いと思い、失礼とは存じながら突然にお手紙を差し上げる次第でございます。

 まず添付資料の一枚目は,葛原岡神社の鳥居の傍にある石碑の文面を撮影した画像であります。
 次に同二枚目は,葛原岡神社のホームページ中、「葛原岡神社について」を印刷したものであります。

 これらを見ますに、石碑では葛原岡神社の創建は明治21年であるとし、ホームページの記述では、創建は明治20年であるとしています。
 いずれが正しいのか、お差し支えなければ教えて頂きたく、お願い申し上げます。

 末筆ながら貴会の御発展をお祈り申し上げます。

平成28年4月10日
□□□□□□□□□□□□□□ 
(←このブログ筆者の実住所と氏名)

 この手紙を投函してから二週間余りになるが,返事はない.
 例えば企業なら,会社概要のパンフレットとウェブサイトの記載とが食い違っていたら大問題になる.正確な企業情報の提供は,企業の社会的責任の一つだからである.

 まして俊基卿遺蹟保存会はパブリックな性格の団体であろう.それが外部からの問い合わせを完全無視というのは,何か心得違いをしているとしか思えぬ.

 私は手紙に《お差し支えなければ教えて頂きたく》と書いたが,俊基卿遺蹟保存会は世間に知られたくない「お差し支え」があるので無視を決め込んだのかも知れない.どんな「お差し支え」があるのだろう.

 あるいはひょっとしたら,この俊基卿遺蹟保存会は,何らかの目的で作られた葛原岡神社のダミーであり,実態がないのかも知れない.それなら私の手紙は,読まれずにごみ箱へ直行したのだろう.
 その場合,宗教法人がダミーを作る目的とは何か.興味があるなあ.

[石碑の画像の一部;明治二十一年に創建されたと彫られている]
Sekihi_no_echibu

[葛原岡神社サイトの一部をハードコピー;明治二十年に創建されたと書いてある]
Website_no_echibu

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2016年4月26日 (火)

会津の旅 (十四)

 前回の《会津の旅 (十三)》からの続き.

 山口弥一郎『白虎隊物語』の《あとがき》の内容には,首を傾げざるを得ない.《あとがき》から一部引用を再掲する.

この小著の前版「白虎隊物語」は昭和二十七年秋、吉川英治、朝日新聞社幹部一行が「新・平家物語」の取材に会津に来訪され、私が、二日間案内した縁につながる。はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。

 上の引用箇所に《昭和二十七年》とあるのは事実ではなく,正しくは「昭和二十六年」であることは前回の記事で述べた.
 また,山口弥一郎は《私が、二日間案内した縁につながる》と書いているが,吉川英治一行の会津取材旅行を案内したのは,実は山口弥一郎と会津高校教諭の平山武美の二人である.これは『随筆 新平家』に記載されている.

 山口弥一郎と平山武美の案内で会津若松を旅した吉川英治は,会津若松の有様にかなりがっかりした様子である.
 まず山口と平山に《白虎隊の旧跡と聞かされ》た飯盛山.『随筆 新平家』から以下の《》に引用する.

さらに、山頂、飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋があり、おもちゃの竹刀を売っていた。ああ、おもちゃの竹刀、昨日の日本、ムッソリニ碑。――名所とはおおむね世紀の皮肉であり、そして、その皮肉を反省するに適する地である。

 《ムッソリニ碑》は,現存する通称「イタリア碑」のことである.
 《飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋》は飯盛家の家業のことである.
 そして昭和二十六年秋に《おもちゃの竹刀》が吉川英治をして慨嘆させた事情は,平成二十八年の現在も変わらない.私が飯盛山を訪れたときの印象も,一言で言えば胡散臭い「チープ感」である.
 次が会津若松城.

《…… まず若松城の城跡へ行く。
 あきれたことになっている。
 公園の中央、元の本丸跡が、なんと競輪場になってしまった。
 これが焼工場の跡とか、近郊の新開地とかいうなら、地方自治のお勝手というものだろうが、ぼくらだけではない、修学旅行の学生団体やら、一般の旅行者も一応はやって来よう。また来るように、若松市観光案内も書いている。
 来てみれば、これだ。
 蒲生氏郷から上杉景勝、松平容保までの城址として、残り少ない日本中の古城址のうちでも、かなり形式の鮮明な方である。ばかりでなく、樹姿、風致もよい。四季、市民の憩い場所としても、郷土の象徴としても、旅行者から見れば、羨ましい地域を持つ市なのにと惜しまれる。
 それになお、いけなかったのは、前日、飯盛山の名物婆さんにお目にかかっていたことだった。お婆さんが声涙ともにくだる調子で、維新史の会津籠城の惨を語りながら、指さしていた、そのお城址がこれなんである。――その史蹟公園では、今日、今日だから、まあいいとしても、なにもケイリン場を展開しなくっても、なんとか、ほかに細々でも市の暮らし方はないものか。
 白虎隊のあわれは、なんだか、きょうも胸に尽きない。維新の白ゆりの塔、昭和のひめゆりの塔、もう、第三のゆりの塔を、日本のどこの地上にも作らないことだ。歴史の訓える帰結は、かくの如しである。それを訓えるための大皮肉を世に示すためだとすれば、ケイリンをここへ持って来た市当局のあたまも決してばかにはできない。
》(下線は当ブログの筆者が付したものである)

 地元会津の人間も旅行者も,粛然として思いを馳せるべき会津戦争の歴史を,《おもちゃの竹刀》と《ケイリン場》にしてしまった会津若松.会津戦争を戯画化する《おもちゃの竹刀》を商う土産物屋の婆さん (飯盛ミヨセ) が,まるで講釈師の如き調子で白虎隊を語りながら指さす彼方には競輪場があったのだ.(註)
 『随筆 新平家』のこの箇所には,会津の戦後のインチキくさい現実に対する吉川英治の嘆きが書かれている.

 しかるに山口弥一郎は,吉川英治の皮肉を読み取ることができなかった.『随筆 新平家』に吉川が書いたリップサービス,

とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。

を真に受けて,週刊朝日を持って飯盛家を訪問する.
 山口弥一郎が『白虎隊物語』の《あとがき》で次のように書いているのを再掲する.

朝日新聞東京本社より、この増刊号が送りとどけられると、まず婆さんを喜ばせようと、飯盛山にかけつけた。それが何んと婆さんが世を去って四十五日目の御法事の当日であったとは。

 既に《会津の旅 (十三)》において引用した部分にあるように,この日の訪問が契機となって山口弥一郎は『白虎隊物語』と同じ書名の前作を,飯盛家の依頼で書くことになったわけだが,この記述の信憑性にも疑問符が打たれるのである.それは後でまた触れることにして先に進む.
(続く)

(註)
 Wikipedia【競輪】
自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年 (昭和23年) 8月に成立。
 自転車競技法は戦災都市の復興財源創出を目的とする法律であり,会津若松は戦災を受けていないにもかかわらず,なぜか福島県との共催で競輪を開催できることとなった.
 競輪場は,国の文化財保護委員会に陳情し,若松城本丸跡に穴を掘って建設してしまった.郷土の歴史に敬意を払わぬこと,この上ない所業である.

かつてこの辺りに競輪場があった
Photo

 昭和三十三年,競輪場を若松城から少し離れたところに移転したが,競輪衰退の流れの中で昭和三十八年に会津競輪は廃止となった.

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なしのつぶて その一

 会津戦争や白虎隊に関する古い書物によれば,明治新政府軍が,会津藩戦死者の死骸を埋葬してはならぬと命令したとされている.
 しかしこれは当時の流言飛語の類であり,事実ではない.
 実際には,昭和二十年の敗戦後,会津若松市の観光担当部門 (部門長は宮崎十三八) や,インチキ学者,小説家たちが観光資源として「会津藩の悲劇」を作り上げるために,この嘘を広めたのである.
 その結果,この作り話を信じた会津の人々が強い反長州感情を持つに至った.
 後に会津若松市が市史を刊行するに際して,さすがにこれはまずいと思ったか,『会津若松市史 7【歴史編7 近世ー4】会津の幕末維新』に事実を書かざるを得なかった.

 私はその『会津若松市史 7【歴史編7 近世ー4】会津の幕末維新』を入手しようとして,会津若松市のサイトを調べたところ,ここから注文すればよいことを知った.

 それで「書籍のご注文はコチラ」のリンク先にあるフォームで『会津若松市史 7』を注文した.それがもうかれこれ二ヶ月以上前のことになる.
 ひと月経って何のリプライもないので問い合わせメールしたのだが,それでも返事はない.ふざけた話である.

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2016年4月25日 (月)

福島観光点描 (四)

 ツアー三日目の最終日は,花見山公園の散策と三春滝桜を見物する予定.
 いずれもとうに桜花の時季は過ぎているが,花見山公園は桜の他に色々な樹が花を咲かせていると添乗員さんが言う.
 ただし,行ってみたらアマノガワはまだ咲いてました.

20160424b

 私は黄色い花が好きで,レンギョウもその一つ.
 あとはキクモモが目に鮮やかであった.

20160424a

 花見山公園一帯は,民家の庭にも見事な樹がありましたな.

20160424c

 さて花見に欠かせぬものは露店屋台である.

20160424e

 福島県内の観光地,至る所に「焼だんご」あり.これって,群馬の焼饅頭が群馬県民のソウルフードであるように,福島県民のソウルフードなのであろうか.
 みたらし団子などの普通の団子に比べると,かなり大きい.食事代わりにできそうだ.小腹がすいていれば食べてみたかったのだが,朝飯を食ったばかりなのであきらめた.

 銘菓の類も店が出ていて,創作菓子「いもくり佐太郎」と,「柏屋薄皮饅頭」を買い食いした.
「いもくり佐太郎」は何の変哲もないスイートポテトだが,「柏屋薄皮饅頭」の餡はうまい.
 旅から帰って,薄皮饅頭を食いながら柏屋のサイトを閲覧したところ,私たちのツアーが福島を訪れる数日前(4/16) に「日本三大まんじゅうサミット」が開催され,翌日に《 「日本三大まんじゅう宣言」を採択しました》という.私は知らなかったのだが,何だか饅頭界はすごいことになっているようなのだ.

 花見山公園散策あたりまではよかったのだが,次第に雲行きがあやしくなってきた.三春滝桜に到着したところで,ポツポツと降り始めた.

20160424f

 滝桜は全くの葉桜.
 これを眺めていても仕方ないので,近くの屋台で売られていた「三春名物 三角油揚」を食べてみた.形こそ変わっているが,油揚以外の何物でもない.でも頑張ってください.

 以上で福島の桜見物ツアー終了.
 観光バスは郡山駅に向かい,現地バスガイドさんたちとお別れしたあとは,駅ビルでお土産購入の自由時間.

 私は駅ビル一階にある大きな土産物屋で福島の地酒「特別純米酒 栄川」を買い,柏屋の「薄皮職人手づくり薄皮饅頭」(通常品より少しお高め) のバラ売りを買って立食いし,ついでに同じく柏屋の「くるみゆべし もちずり」を購入.
 いったん店を出て隣にあった駅蕎麦に入って,かけ蕎麦を食った.北関東以北の立食い蕎麦ってのは,東京のようにつゆが甘ったるくなくてレベルが高いなあ.

 それから駅ビル一階のカフェに入ったのだが,そこは,ちょっと変わった福島県内企業である向山製作所がやっている店だった.コーヒーを注文したら同社製品の生キャラメルが一つ付いてきたので食べてみたら,これが割とおいしかったので,カフェ隣接の売店でたくさん買い込んだ.
 カフェの店内に置かれていた原発事故関連書籍を読んだら,同社の生キャラメル事業の奮闘が紹介されていた.福島県内産の食品は今もまだ苦しい状況にあるだろう.風評に負けぬよう,向山製作所の健闘を祈る.

(了)

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2016年4月24日 (日)

福島県富岡町,南相馬市

 今日放送のNHK「小さな旅」は,花見客でにぎわう埼玉県幸手市の権現堂堤だった.
 千本の桜が並木を作る権現堂堤には,福島県夜ノ森公園から移植された桜が一本ある.この桜が福島県の富岡町から運ばれてきたときの町職員だったかたが呼びかけて,埼玉に今も避難を続ける被災者たちが花見を楽しむ姿が放送された.

 同じく今日のNHK「復興サポート 放射能汚染からのふるさと再生 ~福島・南相馬市 Part3~」は,NPO法人チェルノブイリ救援・中部理事の河田昌東さんがサポートしている南相馬市における菜種栽培の現況報告と,近いうちに避難指示が解除される福島県南相馬市小高区の人々の話し合いの様子だった.
 今回の放送では,録画会場に来た高校生らが,小高で何かイベントをやりたいとの希望を語っていた.
 お笑いでも音楽でもプロレスでも,高校生たちが何か企画すれば助けてくれるタレントやアーティストやレスラーたちがきっといるはず.そしたら私も寝袋かついでそのイベントに行きたいと思う.

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福島観光点描 (三)

 ツアー二日目の昼食は,会津若松の七日町通りに店を構える渋川問屋で.

 この渋川問屋,会津若松の観光ガイド的サイトには必ず書いてあるといっていい有名店だ.会津戦争の東軍墓地がある阿弥陀寺のすぐ近くにある.

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 七日町通りのことは別稿《会津の旅》で触れる.

 前回の会津若松旅行の時には,渋川問屋は予約客で混雑していて,私は一人客であったから入れなかった.
 この店は料理旅館という飲食店ジャンルで,そもそもは海産物問屋として財を成したらしいが,現在は郷土料理店を営む.宿泊もできるし食事だけの利用もできる.
 宿泊施設としてのことは知らないので,ここでは初めて訪問した郷土料理店としての印象を記す.

 さて店の前には観光バスが停められる駐車場があり,昼飯時にはバスが何台も駐車し,団体客がぞろぞろと店に入っていく.もうこの辺で,例によって例の如き団体飯なんだろうなという予感がした.

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 私たち一行は立派な玄関の暖簾をくぐり,キリンビールの大きな看板が掛けられているカフェを左に見て進み,中庭から店に入った.

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 不愛想なおねえさんから「靴は,ここからここまでのあいだに脱いでください,はみ出すと他の団体さんの靴にまじってしまいますっ」と御指示を頂いて,その通りにする.

 二階にあがって椅子席の部屋に通されると,既に配膳済みである.

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 献立は〈祭り御膳「鶴」〉というもので,二千二百円也.
 先付の松前漬,鰊の山椒漬,鰊の昆布巻,棒鱈煮は常備菜だから冷たいのは承知の上だが,椀の「こづゆ」,鰊の天ぷら,御飯,蕎麦粒粥は,すべて冷め切っており,温かい料理は一品もなし.
 しかもあとで,バスの中で気が付いたが,水菓子は配膳落ちであった.

 鰊の山椒漬は,前回の旅の際に他店で口にして,なかなか酒肴としてよいものだと思ったのだが,渋川問屋のそれは堅いだけで旨くも何ともない.
 要するにこの渋川問屋,団体客用の食事は大層お粗末である.とても二千二百円の価値はない.千円でも私は嫌だ.もしも明子がこんな料理を食膳に載せたら,父一徹は,ちゃぶ台返しをしているはずだ.何の話だ.
 二,三人で予約を取って出かければ,作り置きではない,まともな料理が提供されるのかも知れないが,ツアーの昼食としては「輝け!世界三大がっかりランチ大賞」の本戦トーナメント出場資格ありだと私は思う.
 旅行者が,質素でも心温まる福島の郷土料理を食べてみたいと思うなら,市中の居酒屋を探索するがよいだろう.私も次回はそうしたい.

 昼食を済ませた私たち一行は,観光バスに乗り,会津の桜の名所「米沢の千歳桜」を見物に向かった.
 この桜の古木は,会津若松駅のほぼ真西にあたる会津美里町にある.会津若松駅を出た只見線がいったん南下し,再び北上する辺りである.
 今回は見学しなかったが,野口英世の母シカの信心で知られる普門山弘安寺,通称中田観音が近い.
 高校出てガイドになって今年で三年目なんですと自己紹介してくれたバスガイドさん (推定年齢四十六歳) の説明によると,シカは英世の手の火傷治療回復を弘安寺の観音様に祈願するため,毎日,猪苗代から歩いて参拝したという.
 今なら健脚この上ない女性トップアスリートである.
 これにはツアー一行から,おおー,という声があがったが,あとで弘安寺のサイト を読んだら,シカの参拝は月に一度であった.以下に引用する.

会津が生んだ世界的な医聖・野口英世の母シカもこの金銅造十一面観音立像を信仰し、毎月17日午前1時頃になるとはるばる猪苗代から歩いて一晩観音堂におこもりをして帰っていく月詣りをして英世の無事を祈願し続け後に、大正4年9月15日郷里に帰った英世が母シカ、小林先生と3人で深々と頭を下げ一心に祈り立身出世ができたお礼まいりをしたことで知られています。

 しかし祈願が月に一度でも,子を思って猪苗代から中田観音まではるばる歩き続けた母の心の尊さに変わりはない.
 野口英世は人格的にかなり問題のある人間であった上に,医学者として業績を上げたとは言いにくい.だから英世はいつか歴史から忘れ去られるだろうが,しかしその母シカのことは日本人の記憶にいつまでも残るであろう.

 話が逸れた.
 千歳桜は,うれしいことに,まだ花をつけていた.

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 古樹の傍らに立てられた案内板によれば,昭和の終わり頃に樹齢七百年である.
 しかし観光サイト,例えばここでは樹齢八百年となっている.
 まあ,あちこちの木の「樹齢〇百年」は,大抵こんなもんである.
 私の学生時代の恩師から聞いた話.「ある日のこと安房の清澄寺を訪れたら,樹齢五,六百年と案内板に記された杉の木が境内にあったんだが,数年後に再訪したら樹齢千年になっていたので驚いたよ」
 いくら何でも千年はあんまりだということだろうか,今は清澄寺のサイトでは《樹齢およそ800年といわれています》と書かれている.しかし名称は千年杉のままだ.あとまだ二百年もある.頑張ってください.南無妙法蓮華経.

 千歳桜鑑賞のあと,バスは再び会津若松市内へ.
 鶴ヶ城の桜は一輪の花もなく葉桜であったので特段の感想なし.
 ちなみに鶴ヶ城天守閣の中を見学していたら,展示物に「会津藩士池上四郎は秋篠宮妃の曽祖父である」と書かれていた.そういえばそうでしたなあと思い出したことである.

 鶴ヶ城をあとにして,途中の車窓から猪苗代の山里の桜を見ながら,バスは再びホテルへ.

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(次回完結)

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2016年4月23日 (土)

福島観光点描 (二)

 観音寺川の土手には,茎の背が低いタンポポがたくさん咲いていた.それを見た老婦人 (推定年齢七十六歳) が,他の老婦人たち (同推定年齢六十代) に「あーらこの辺はセイヨウタンポポばっかりなのねー」と言いながら,花をひっくり返して総苞片をみんなに見せ,「ここが反り返っているのが外来種のタンポポなんですよー」と解説した.
 私が「でもセイヨウタンポポにしては背が低いですね」と言うと,「いいえっ,セイヨウタンポは茎が短いのが特徴なんですっ」と語気を強めた.
 どうやらこの人は,総苞片の形だけをもって,その他の形質がどうあろうと強引にタンポポとセイヨウタンポポの二種類に勝手な分類をしてしまう人のようであり,私が何か言うとそれ以上に嘘解説を始めそうな気配がしたので,やめておいた.観光ツアーだもんね.

 観音寺川の土手を散策したあと,やはり猪苗代町にある観光名所,旧有栖川宮邸「天鏡閣」へ行った.私たちの一行以外の観光客は少なかった.
 邸内には中を案内してくれる係の女性がいて,この天鏡閣はルネサンス様式ですと解説した.Wikipedia【天鏡閣】にも《一部3階建てのルネサンス様式を巧みに取り入れた和洋折衷の建築様式》とあるが,天鏡閣は板壁なので,どこがルネサンスなのか素人の私にはわからなかった.

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 一度しか行ったことがないけれど,アリゾナ州の州都フェニックスには,アメリカ建国当時のアーリーアメリカンな建物が何棟も保存されていて,天鏡閣の白い板壁とバルコニーはそれを思い出させた.

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 ここの庭の桜も見頃に咲いていた.庭には軽食売店があり,コロッケレーなるものを売っていた.食べそびれてしまったので,あとで調べたらカレーコロッケのことらしい.カレーはケレーと言うらしく,コロッケ+ケレー=コロッケレーのようだが「有栖川宮が好んで食べたことにちなむものです」とかの由緒正しい言葉かどうかが,調べてもわからない.
 カレーコロッケは私の好物の一つで,スーパーの惣菜売場で五ついっぺんに買って食ったりするのだが,デパート地下の惣菜店ではみかけないような気がする.
 山下清画伯の言葉によるとカニクリームコロッケは兵隊の位でいうと大将で,カレーコロッケは二等兵だという.だからデパートにはないんだな,なるほどねーと思った.嘘.
 しかし有栖川宮が好んで口にされたとすれば,カレーコロッケは実は兵隊の位で近衛師団長なのかも知れず,今度から直立不動で食べなければいけないわけで,それはちょっと困ったことになったなあと思った.嘘.

 高田純次は揚げ物,とりわけハムカツが好きで,「じゅん散歩」のロケで肉屋をみかけるとハムカツを買って食うのであるが,日刊ゲンダイDIGITAL によると,揚げ物を食べるのがつらくなってきた高齢視聴者に「じゅん散歩」が不評だという.高田純次がハムカツを好きなのが気に入らないって,わけわかんないこと言うなあ.無理矢理なでっちあげ記事のような感じだが,まあいいや.
 余談だが,Wikipedia【カツ】には

ハムカツ - スライスしたスパム缶詰や、豚肉のハムを、油で揚げたもの

なんてことが書いてある.高齢者各位におかれては既に御案内の如く,これはあやまりである.
 ハムカツは安物の畜肉ソーセージを揚げたフライである.
 沖縄を除く各地方にスパムが普及する遥か以前から,庶民にハムカツは親しまれてきた.それを言うならせめて「スライスしたランチョンミート」と言え.
 高田純次はもちろんそれを知っているから,昭和の由緒正しいハムカツを売っている肉屋の旦那には「これ,これ,ハムカツはこれでなくちゃ」と言う.視聴者から文句が出ても,ハムカツを食い続けて,純正ハムカツはこういうものだということを放送で広めてほしいものである.

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 昭和天皇と皇后は大正十三年,新婚の一夏を天鏡閣で過ごした.後に昭和三十六年にも,当時は迎賓館として使われていた天鏡閣に宿泊した.その際の御製歌碑が庭にある.歌碑を建てるほどの歌とは思えぬが,そこはまあそういうことで.

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(続く)

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2016年4月22日 (金)

福島観光点描 (一)

 今週の火曜から木曜までの三日間,福島県の桜を見物するツアーに参加した.
 東京駅から東北新幹線で郡山へ行き,磐越西線に乗り換えて猪苗代で降りた.

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 猪苗代駅舎↑を出るとホテルの送迎バスが待っている.
 宿泊地は裏磐梯にあるホテル・グランデコ.

 ここは,スキー客を相手にする冬場がシーズンのリゾートホテルだ.

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 部屋は広くてきれいで全く文句ないのだが,今回のツアーは食事がかなり悲しいものだった.ツアー参加者異口同音に「夕ご飯がちょっとがっかりですねー」とのこと.

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 朝食もビジネスホテル程度の内容だった.旅行会社によるとは思うが,ク○ブ○ーリ○○催行の二泊三日八万円台のツアーで宿泊がホテル・グランデコだったら行かないほうがいいかも.もっと安くて良い宿泊施設は探せばあると思う.

 とはいうものの,さすがリゾート裏磐梯.標高 1040m の自然環境はすばらしい.汚れた私の心が洗われていくような気がした.あー,気がしただけだと思う.

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 ツアー二日目.
 ツアー参加者は御婦人十名,爺さん五名の構成.最高齢者九十歳で全員高齢者.
 添乗員さんから,観光予定の桜の名所は既に花が散ったあとですと知らされるが,皆さんそれほどの落胆はない様子.みんな人生既に花が散った人たちだからだろう.こらこら.

 山間地を別として,それでも一ヶ所だけ満開に咲いているとの情報があり,予定変更して観音寺川の桜並木を観に行く.旅の脚は現地の観光バスだ.磐越西線川桁駅から数キロ東側にある.猪苗代湖に近い.
 会津盆地に比べると猪苗代の春は少し遅く訪れるものらしい.
 川向こうの桜並木,枝のあいだに見えるのは磐梯山.

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 山形名物玉コンニャクを煮て売っていたので,買い食いした.紙コップに五つ入って二百円.別段高いとは思わないが,味付けがかなり塩っぱい.水なしで五個も食うのは大変だ.
(続く)

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熊本地震 自己中あるいは強欲

 旅先の一昨日,福島県のローカルテレビ局のニュース番組を観た.
 その報道によれば,熊本市の熊本県民総合運動公園陸上競技場には,全国からの支援物資がたくさん集まっていたが,熊本市周辺の小さい自治体の被災者は依然として不自由な生活を強いられていた.
 テレビリポーターの阿部祐二が出ていたからキー局である日本テレビの『スッキリ!!』がソースだと思われるが,阿部リポーターが熊本市の市職員 (画面に管理職と思われる職名が出たがメモできなかった) に「他の自治体では物資が届いていないようですが,熊本市に来た支援物資を困っているところに送るというのはできませんか」と質問したところ,その熊本市職員は「この物資は熊本市に来たものですから,熊本市民に分けます」と答えた.

 昨日 (4/21),熊本市は同市のサイトに

地震に関する支援物資の搬送について
最終更新日:2016年4月21日
市民局 市民生活部 地域政策課
この度は、多くの企業や団体、個人の皆様方に、様々な救援物資をいただき、誠にありがとうございました。
お蔭様で、当面、必要となる物資を確保することができましたので、4月21日正午を持って、一旦、救援物資の受けいれを中断させていただくことといたしました。
 皆様方の善意に感謝申し上げます。

と掲示した.
 阿部リポーターの質問に「この物資は熊本市に来たものですから,熊本市民に分けます」と回答した熊本市は,自分のところの物資が足りたので,もう要りませんと断ることにしたのである.
 熊本市の周辺には,益城町ほか,職員自身が被災したために行政能力が大きく落ち込んだ小規模自治体がいくつもあると報道されている.それら自治体は,支援物資の受け入れ,仕分け,配送にも困難があるという.
 熊本市は,そのような周辺自治体に支援の手を差し伸べる気がないらしい.

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2016年4月21日 (木)

会津の旅 (十三)

(本稿は予約投稿です.ブログ筆者はただ今東北旅行中です)

 前回の《会津の旅 (十二) 》からの続き.

 私が所有している山口弥一郎『白虎隊物語』は,昭和四十年五月五日発行の第六版である.この第六版の《あとがき》の日付は昭和四十年三月になっている.
 サイズはB6で,写真ページ16枚のあとに本文と《あとがき》および奥付がある.
 本文の表題は「戊辰悲話」としてあり,「白虎隊物語」「なよたけ物語」「娘子軍物語」の三部構成になっている.全体は薄い冊子の体裁である.
 前回の記事に『白虎隊物語』の奥付を示したが,これを見ると頻繁に改版を重ねており,最終的に第何版まで作られたかは不明である.
 そして第六版《あとがき》(p.46-47) には次のように書かれている.

この小著の前版「白虎隊物語」は昭和二十七年秋、吉川英治、朝日新聞社幹部一行が「新・平家物語」の取材に会津に来訪され、私が、二日間案内した縁につながる。はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と、氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじもしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。翌二十八年三月の、「週刊朝日」春季増刊号に「新・平家今昔紀行」(「吉川英治・随筆新平家」に再掲)として詳しい会津の旅の模様を書いてくださった。その中にミヨセ婆さんの案内姿を杉本健吉画伯が、半頁大に描いて、吉川氏は「とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。」と書いておられる。
 朝日新聞東京本社より、この増刊号が送りとどけられると、まず婆さんを喜こばせようと、飯盛山にかけつけた。それが何んと婆さんが世を去って四十五日目の御法事の当日であったとは。遺族の方々から「お婆さんの話を一番詳しく聞いているのはあなただから、白虎隊の今様の案内記を書いてくれ。」と頼まれた。一応はことわったが、位牌の前で、週刊朝日の婆さんに関する記事に赤鉛筆で、アンダーラインを引いて読み上げてきた感激がさめきらず、一夜まんじりともしないで、一気に書き上げたのが、後章にみえる戊辰悲話の第一部「白虎隊物語」である。

 上に引用したように,この『白虎隊物語』には前著がある.
 これには『白虎隊物語』の第一部「白虎隊物語」だけが収められていた.版型がわからないが,B6であるとすればわずか16ページの,薄いパンフレットのようなものであったと思われる.
 《あとがき》の後半に書いてあるが,これは数万部も発行されたらしい.
 また上の引用箇所に,飯盛家からの要請によって書いたと著者が記しているので,おそらく飯盛家が経営する土産物店で観光客に配付されたものと想像される.

 『白虎隊物語』は,この旧版に「なよたけ物語」「娘子軍物語」,写真ページなどを加え.薄い新書本のそのまた半分程度の厚みの冊子として出版された.
 《あとがき》の後半には,旧版「白虎隊物語」と『白虎隊物語』は,共に会津若松市商工課長 (課長は第六版刊行当時;後に会津若松市商工観光部長) の宮崎十三八が編集協力者であると書かれている.
 このことと,『白虎隊物語』の発行人が,飯盛山で土産物店を営む飯盛家 (飯盛正康) であることを考え合わせると,『白虎隊物語』は,営利を目的とする白虎隊の観光資源化と無縁ではない.
 では,『白虎隊物語』の史料としての問題点を指摘していく.

[[ 吉川英治の会津取材旅行はいつだったのか ]]
 まず,日付の問題である.
 吉川英治が『随筆 新平家』中で明記しているように,吉川ら一行が飯盛山を訪れたのは昭和二十六年十月十一日である.その時の旅行記が週刊朝日に掲載されたのは一年半後の昭和二十八年三月発行増刊号である.
 しかし山口弥一郎は,吉川らの旅行は昭和二十七年秋であり,半年後に増刊号を手にしたとしている.これが単なる不注意の誤記あるいは誤植でないことは《二十八年三月》と書いていることから明らかである.六回の改版を重ねたあともなお訂正せずに「半年後」だと明記しているのだ.
(続く)

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2016年4月20日 (水)

国民食生活の史料

(本稿は予約投稿です.ブログ筆者はただ今東北旅行中です)

 別稿の連載《会津の旅》を書くために吉川英治『随筆 新平家』(講談社;吉川英治歴史時代文庫 補4) を読んだ.
 その最初の辺り (p.55) に次のような箇所がある.

《…… 日本歴史に欠けたものは何かと訊かれれば、女性史と庶民史と答える。
 最近でも、太平洋戦争に関する記録物とか現代史的な出版は、ずいぶんあったが、陸海空の戦史、外交史、政界史などのいわゆる舞台正面だけが歴史の全部のごとく思惟された著述ばかりで、まだ、おたがい無数の小生命が飢えおののいて来た“めし茶碗の中の戦史”というものは一書も出ていない。
 史観に立つと、そして、動乱を過ぎると、動乱の中の庶民生態史なんてものはくだらなく思えるのかしら。ぼく自身が「新・平家」を書くにあたって不便と痛惜を感じるのでいうわけではないが、戦時戦後のあの生々しい庶民生態は、重要なきのうの歴史ではないかと思う。現に、ぼくらを初め一般もそろそろ、あのころの体験を忘れかけ始めているにつけても痛切にそう思う。
 終戦に近い断末魔のころ、疎開先の山村に配属されて来た彰義隊式の兵隊が、幽鬼の歌みたいに歌っていたのが思い出される。“――かねの茶わんに、竹の箸、一ぜん飯とは情けない――” その一ぜん飯さえ食えなかった庶民史の方こそ、じつは歴史の主流なのだ。ところが、いつの時代の史料にも、日本ではそこが脱落している。

 まさにその通りだと思う.
 作家が時代小説を書くに際して,庶民の日常生活がどのようなものであったかを知ることは非常に大切である.殿様しか出てこない話であれば作家は楽かも知れないが,そんな時代小説はない.
 昔の庶民の日常生活のうち,住環境については絵が残されている.衣服は現物が残っている.しかるに食い物は,食ったらなくなってしまうから,後世の人間からすると昔の人たちは何を食っていたかよくわからぬという事態となる.
それをいいことに,関西の料理屋などが「和食」を外国人観光客を対象とするビジネスにしようとして,ユネスコ無形文化遺産への登録を企んだ.その動きに農水省と一人の御用学者とが加わり,ユネスコを騙して「一汁三菜は日本の伝統的食事である」という嘘をでっち上げることに成功した.でっち上げ成功の原因は,我が国の国民食生活の史料がなかったことである.

 ここで突拍子もない話を持ち出すが,百年後の時代小説作家が,現在の私たちの暮しを小説にしようとすると,やはり吉川英治のような苦労をするのではなかろうか.
 そこで私は思うのだが,国の機関,例えば国会図書館とか総務省統計局辺りが,「食べログ」他のグルメサイトのアーカイブを作れば,これは国民の食生活に関する貴重な史料になるのではないか.
 総務省がやる場合は,グルメサイトだけでなく,価格.com も対象にすればよい.「家計調査」を補強する資料になるだろう.もし役人に知恵者がいるなら,既に立案しているかもしれないが.

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熊本地震 知恵と善意

(本稿は予約投稿です.ブログ筆者はただ今東北旅行中です)

 テレビ各局の熊本地震報道を観ていると,避難所で中学高校の生徒たちが先頭に立って物資の配布をしたり,老人の面倒をみている姿があった.テレビのインタビューに,避難所担当の行政職員が「子供たちには感謝している」と答えていた.

 大きく報道されたが,熊本市中央区の熊本国府高の校庭にパイプ椅子を並べて,ヘリから見えるように大きく,物資支援を求めるメッセージが作られた.
 これは避難所になっている同高校生徒たちが発案したものだという.このSOSはすぐに拡散され,物資が届いた.
 テレビ局のインタビューに,椅子を並べた生徒が答えて言うには,初めは体育で使う石灰で校庭に書いたのだが,避難所にいるお年寄りに「それでは雨が降ったら消える」とアドバイスされ,パイプ椅子を並べることを思いついたのだという.「お年寄りのアドバイスがなかったら,こんなにうまくいかなかったと思う」とその生徒は言っていた.

 災害時には,強欲や諍いなど人間の醜い部分があからさまになってしまうものだが,しかしそれを遥かに上回る人々の知恵や善意を目にする機会でもあるとしみじみ思う.

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2016年4月19日 (火)

汁かけ飯

(本稿は予約投稿です.ブログ筆者はただ今東北旅行中です)

 私は,子供の頃にはNHK大河ドラマをよく観ていたが,高校に入って大学受験勉強を始めてからはテレビ番組をあまり観なくなった.大学に入ってからは白黒テレビすら持っていなかったのでNHKとは無縁となり,以後はどんな大河ドラマが放送されたのか全く知らない.
 今でもNHKはほとんど観ない.ところがネットの情報というものは勝手に目に入ってくる.その一つに,現在放送中の大河ドラマ「真田丸」の話題がある.

 昔からよく知られた作り話で,北条氏政の二度汁かけの逸話というのがある.
 Wikipedia【北条氏政】から下に引用する.

汁かけ飯の話
氏政の有名な逸話として2度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。氏政が結果的に北条家の滅亡を回避できなかったことが、この逸話を有名なものにし、氏政の評価を一般的に低いものにしている。この逸話は後世の創作で、同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている。

 いまネット上の話題になっているのは,「真田丸」作者の三谷幸喜が,この逸話に新しい解釈をしてみせた,ということだ.
 三谷幸喜によれば,北条氏政が飯に汁を二度かけたのは,適切な汁の量を量れなかったからではなく,そういう食べ方が氏政の好みだったからだとしたのだそうである.(私は「真田丸」を観ていないので,伝聞として書く)

 というわけで,どういうわけかわからんが,久しぶりに汁かけ飯を食ってみた.
 茶漬けも汁かけ飯も食べ方は一緒で,茶碗 (あるいは「真田丸」中で氏政が使ったような椀でもよい) のフチに口をつけて,箸で飯粒を流し込む.
 この際に空気を吸い込む馬鹿がいるが,そうすると ズブブブブ グワシャシャシャシャ という永谷園のCMみたいな汚らしい音が立つので,空気は吸い込まない.息は鼻ですればよい.
 また,空気を吸い込んで茶漬けと一緒に胃に送り込むとゲップとなる.このゲップを我慢すると、腸を経由して屁となる.放屁を我慢すると便秘になり,便秘を我慢す (以下略).
 閑話休題.このようにして汁かけ飯を食うと,実験してみるとわかりやすいが,汁が足りなくなることはない.

 ということは,汁を二度がけするためには,途中で汁だけを飲む必要がある.
 敢えてそのようにして食わなければ,汁の二度がけはできない.
 従って三谷幸喜が示したように,氏政が汁を二度がけをしたのは,無能だったからではなく,汁二度がけ方式が好きだったからだとするのが妥当であろう.
 ごちそうさま.

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熊本地震 物資

 NHKの報道 (4/18 21:30 頃) によれば,相変わらず熊本県の被災地では物資が全く足りていないとのことである.行政による組織立った支援はまだこれからだというのである.  

 NHK報道の解説では,全国からの救援物資は熊本市内の一か所に届けられ,それが五つの区に分配される.
 各区への輸送も困難な状況らしいが,さらに大きな問題はそのあとで,物資は指定避難所に配送されており,避難所外の例えば自家用車の中で避難している膨大な数の人々には届いていないという.

 昨日午後のニュースショー「情報ライブ ミヤネ屋」で宮根誠司が,阪神から東日本まで何度もあった大災害のたびに,何度同じことを繰り返しているのだと語った.これは救援物資が末端に届かないことを言っている.
 行方不明者の捜索救命などは警察,消防,自衛隊が行うとしても,被災者の生活支援は,そのためのノウハウを持った常設組織が必要ではないかと宮根誠司は言う.
 数年おきに大地震が発生する現状を見るに,宮根の言う通りだと私は思う.
 以前から防災専門家は,被災者の生活支援のために「防災省」設置を政府に提案しているというのだが,政府は動かないようだ.( 4/18, 石破地方創生相が「防災省」を設置したらどうかとの発言をした.ただし,石破氏自身がそのために動くというのではなく「首相が考えたらいいんじゃないか」という程度のことらしい.それはただちに地方創生につながることに私にはおもわれるのだが…)

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2016年4月18日 (月)

桜だけど六菖十菊

 今週は明日から福島県の桜見物ツアー (二泊三日) に行くのだが,もう三春滝桜は散ってしまったのを観る破目になった.

 会津の桜はどうかというと,会津若松観光ビューローのサイトに昨日「4/15 鶴ヶ城の桜は散り始めた」と書いてあった.
 昨日から今日にかけて強い風が東日本を襲ったから,たぶん鶴ヶ城の桜も散っているだろう.
 ツアーの予定表に書いてある他の二ヶ所の桜も,既に散ったとネットには書いてある.
 これじゃ何しに行くのかわからない.テンションだだ下がり.
 ホテルがAランクだからかなり高かったのだ,このツアーは.(五月下旬に行く予定の沖縄二泊三日ツアーより六万円も高い)
 一泊でツアー料金が半額なら「損したなー」と諦めもつくであろうに,これは食事もごく普通の内容のようなので「大損したなー」という感じ.二日間,ただもう移動してるだけで,行った先には何もないのだ.
 そもそも催行日の設定が間違ってるんじゃないですか,ク○ブ○ーリ○○さん.よくよく調べてみると,最近は四月下旬には桜前線は本州北端に到達してるようですよ.

 さらに追い打ち.
 かなり前に申し込んで旅行代金を支払い済みの,五月ゴールデンウィーク出発の東北ツアーは,参加希望者が少なくて催行中止だという連絡が昨日きた.勘弁してください,ク○ブ○ーリ○○さん.

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2016年4月17日 (日)

熊本地震 政府対応

 ネット情報によれば,熊本地震で自宅全壊の被害を受けたタレント・井上晴美さんがブログで,もう食料がないと訴えている.NHKの現地からの報道でも,被災者たちの水と食料が尽きつつあるらしい.小さな女の子が,NHKのインタビューに「水を飲みたい」と言っていた.

 自衛隊が炊き出しに奮闘している様子がテレビ画面に出ているが,行きわたっていないのかも知れない.

 つい先ほど (4/17 16時過ぎ) のNHK報道によれば,米軍の支援は必要ないと考えると言明していた安倍総理が,ようやく米軍の輸送支援を受け入れる考えを示したという.

 しかも驚いたことに,今日(4/17) の夕方十七時から,被災者の生活支援について最初の会議をするのだという.幼児が「水を飲みたい」と訴える事態になるまで,何をしていたのだ.

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熊本地震

 東日本大震災からわずか五年にして今度は九州かとの思いがする.

 NHKの報道と解説を聴くと,九州は北方向と南方向に引っ張られていて,その運動によって生じた大きな地溝帯 (別府 - 島原地溝帯) が,熊本県から大分県にかけて存在しているという.またそこを複数の活断層が走っているのだという.この地溝帯と活断層のことは,被災地の方々は知っていたことなのだろうか.それとも,地震発生確率を低く見積もっていた地震学者の後出し情報なのだろうか.
 テレビ画面に映された地図を見ると,熊本県内 (と西側の沖) および大分県に明瞭に活断層が描かれている.それならば「あなたの家は活断層の上にあります」と行政から教えてもらっていたのだろうか.

 私が住んでいる神奈川県内の活断層は公表されている.しかしそれを見れば位置はわかるが,その活断層が動いたときにどれくらいの地震になるかは,素人には全くわからない.
 その他に首都直下型地震のこともあるし,私の生きているうちに大地震に被災することを覚悟してはいるが,日々の防災意識 (というか,地震は防げないから被災後の対策だけれど) に怠りはないかというと,大丈夫だと言いきれない気もする.

 うちは飼い犬がいるので,避難所に入れない (註1)
 そのために水と食料,電池や燃料等の必需品は二週間程度の孤立に耐える備えをしている (註2) が,東日本大震災のあとに購入した救急医薬品の中には,期限切れのものがあるだろう.点検しなければ.
 一般医薬品はまだいい.医師に処方箋を書いてもらっている薬は,残り少ないときに被災したらアウトだ.こんど掛りつけの医師に相談してみようと思う.

(註1)
 環境省と地方自治体は,災害時にはペットと同行避難するよう推奨しているが,実際には避難所に被災者のコミュニティができて,それが避難所を「仕切る」から,ペットがいる人間は拒否される可能性が高い.東日本大震災の教訓の一つだ.
 今回の熊本地震でも,テレビ報道を見ていたら,犬をリードで庭に固定して避難し,二日後に自宅が大丈夫か見に来て「あ,生きてる」と言っていた飼い主がいた.
 ペット同行で避難所に入れるなら連れて行っただろうが,白眼視されることがわかっているから置いて行ったに違いない.
 テレビ画面に映ったその家は完全倒壊に近く,倒壊したらその犬は死んでいたであろう.そして遺骸をみつけて飼い主は「あ,死んでる」と言うのか.私はいやだ.
 私は私の犬と必ず同行避難する.避難所に入れなければ,どこか安全なところにテントを張って救援を待つつもりだ.

(註2)
 東日本大震災の教訓の二つめ.避難所にできた被災者のコミュニティは,避難所に届けられた救援物資が,避難所外の被災者に配付されるのを拒否することがある.いい悪いではない.ほんのわずかな食べ物を分け合い助け合う人々がいれば,その対極に自分の分け前を減らしたくない人もいる.それが人間というものだ.
 東日本大震災のとき,犬づれでは避難所に入れてもらえず,そのため食べるものをもらえず,しかしかといって愛犬を捨てることができず,ガレキの中で犬と共に死を覚悟した老女のことを私は忘れない.(この人は,避難所外で孤立した人を捜索したボランティアに救出された)
 要するに,災害時にペットと同行する飼い主は,公的支援が始まるまで,たぶん二週間くらいは孤立してでもペットを守る気概と備えが要る.

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2016年4月16日 (土)

会津の旅 (十二)

 前回の 会津の旅 (十一) から少し日が開いてしまったが,ここで会津飯盛山の白虎隊墓碑前の広場に立つ通称ドイツ碑について,関連する資料を整理してみよう.

 まず吉川英治『随筆 新平家』から.

 吉川英治は昭和二十五年(1950年) から同三十二年(1957年) まで,『新・平家物語』を「週刊朝日」に連載した.『随筆 新平家』は,『新・平家物語』連載と並行して週刊朝日上に掲載された「新平家落穂集――筆間茶話――」「新平家雑感」「新・平家今昔紀行」をまとめたものである.

 私が持っている『随筆 新平家』は講談社の「吉川英治歴史時代文庫 補4」(奥付には「一九九〇年十月十一日第一刷発行」とある) であるが,《はしがき》の日付は昭和三十三年五月一日となっている.これは『随筆 新平家』単行本の《はしがき》をそのまま文庫版に転記しているからであろう.
 上に挙げた『随筆 新平家』に含まれる三作品のうち,「新・平家今昔紀行」は取材旅行記で,この中に飯盛山を訪れたときのことが書かれている.

 ここで少し横に逸れる.
 吉川英治は数多くの時代小説を遺した作家である.昭和二十年の秋,吉川の疎開先である青梅に訪ねてきた昔なじみの吉田満に「あなたの通って来た生命への記録を書いておくべきだ」と言った〈出典;関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(集英社文庫)〉.
 これが契機となって吉田満はほぼ一晩で「戦艦大和ノ最後」を書いた.関川夏央は『おじさんはなぜ時代小説が好きか』の中で,このことを吉川英治の《もうひとつの業績》であると書いている.
 Wikipedia【吉川英治】には,この事実に関する記載がなく,Wikipedia【吉田満】へのリンクが張られているだけなので付記しておく.

 さて「新・平家今昔紀行」は初回の昭和二十六年から二十九年まで書かれたようだ.収められた各紀行文の文末に日付が付してあるが,同じ日付の文章がいくつもあるため,この日付の意味が不明確である.しかしおそらく旅行記が掲載された週刊朝日の発行日であろうと推測される.

 で,昭和二十六年十月十日,吉川英治一行 (挿絵画家杉本健吉と週刊朝日編集者ら) は鬼怒川から北会津,新潟,北越,北信濃という七日間の取材旅行に出た.この日付は,吉川英治歴史時代文庫版『随筆 新平家』の p.329 に明記されている.
 二日目の十月十一日に一行は飯盛山に行き,翌十二日に会津若松市内を観光している.一行の会津旅行記の文末日付は《二八・三・二〇》である.(註) 

 ここで一旦,『随筆 新平家』から離れ,通称ドイツ碑に関する重要資料である山口弥一郎『白虎隊物語』の信憑性について触れる.
 山口弥一郎の経歴については,(1) アマゾンの商品説明ページにある著者略歴と,(2)『白虎隊物語』の奥付にある記載とで異なっている点が二ヶ所あるので,比較のため以下の破線間に転記しておく.

(1) アマゾンの商品説明ページにある著者略歴
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山口/弥一郎
1902年、福島県大沼郡新鶴村の旧肝煎の農家の長男として生まれる。地理学を田中館秀三より、民俗学を柳田国男より学び、東北地方の研究に約60年間専念し、2000年に死去。1953年、東北地方農村生活研究所創設、1959年、河北文化賞受賞、1960年、東京文理科大学・東京教育大学より理学博士の学位取得、1964年、福島県文化功労賞受賞、1970年、文化庁長官より表彰、1986年、平和と文化の貢献によるSGI平和文化賞受賞

(2) 『白虎隊物語』の奥付
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著者紹介
明治35年5月13日会津新鶴村の旧肝煎宅の長男として生る。福島県立会津中学校を卒業後、地理学、民俗学を専攻し、東北大学農学研究所等に勤務、現在東北地方農村生活研究所を主宰し、福島県文化財専門委員、福島県史編纂委員を兼務。亜細亜大学にて地理学地誌学を講じている。
 昭和34年1月17日 河北文化学術賞を受く
 昭和34年1月18日 理学博士
 昭和39年4月1日  亜細亜大学教授
 昭和39年11月3日 福島県文化功労賞を受く

昭和三十四年九月二十三日 発行
昭和三十五年五月五日 再版
昭和三十六年五月五日 三版
昭和三十七年五月五日 四版
昭和三十八年五月五日 五版
昭和四十年五月五日  六版

〈白虎隊物語〉  定価 百円

著者   山口弥一郎
発行人 会津飯盛山上
     飯盛正康
印刷所 会津若松市馬場上一之町
     株式会社 丸八商店
印刷人  佐藤彦八
 》
--------------------------------------------------------

 上の記述で,アマゾンの著者略歴では,著者の博士号は《1960年、東京文理科大学・東京教育大学より理学博士の学位取得》とあるが,昭和二十四年(1949年) 五月に東京文理科大学は廃止されて東京教育大学となったのであるから,この記載は誤りで,《東京文理科大学》が余分である.

 また『白虎隊物語』の奥付にある著者紹介では《昭和34年1月18日 理学博士》とあるが,昭和三十四年は1959年であるから,アマゾンの記載《1960年》と食い違っている.

 さて次に,『白虎隊物語』の信憑性を疑わせる問題点について述べる.
(続く)


―――――――――――――――――――――
(註)
 吉川英治は,『新・平家物語』の取材旅行をなかなか原稿にしなかった.それについて「新・平家今昔紀行」の冒頭に次のように書いている.

 《…… おりあるごとに清遊濁遊をかね歩いておりましたが、紀行文の方は、帰京後いつも約束をたがえ、頬かむりを続けてしまいました。
 ここを品よくいえば、“いつか筐底の古反故になん成りけるを――”というわけなんです。けれど、別冊編集子はなかなか諦めない。時期は遅れたが、それでも書かないでいるよりは、ましですぞ、としきりにいう。
 そういわれると、そんな気もして、六菖十菊のうらみは覚えながら、とにかく書きました。しかしはなはだ陽気のずれた「御無沙汰原稿」たることは、どうしようもありません。怠慢の罪をお詫びしておく次第です。

  昭和二十六年十月に出かけた取材旅行記の週刊朝日掲載が,昭和二十八年三月にまでずれ込んだのは,以上の事情による.

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2016年4月15日 (金)

仁和寺

 テレビ東京の『和風総本家』で時折,料理人を志して地方から上京し,ホテルのレストランや料亭の厨房で修行に励む若者の姿が紹介されることがある.
 それを観ていると心底思うが,ちゃんとした料理人の世界は苛酷なものである.会社員の趣味がこうじて始めた暇な蕎麦屋なんぞとはわけが違う.

 料理人の修行時代は,あからさまに言えば労働基準法もへったくれもなく,朝は普通に仕事を始めるとしても,夜は客の食事時間帯が過ぎる九時十時になるまで働き続けだ.
 時間外労働のことについては労基署の立入が心配になるが,一人前になれば「料亭○○で修行した」腕と経歴は一生ものの財産になるのだから,お上に「おそれながら」と訴え出る見習い職人はいないのだろう.

 私自身の会社員時代のことを振り返ってみると,三十代の時は月に二百時間くらいの時間外労働は平気だった.しかしこれが四十代,五十代になると気力も体力も右肩下がりで,いつしか「お先に~」と言って部下より早く帰るようになった.時代が某ドリンク剤のCM「24時間戦えますか」ではなくなっていたこともあるが,やはり,辛い修行や長時間勤務に耐えるには若さが必要なのだと思う.

 さて四年近く前まで仁和寺 (京都市右京区) 境内の宿泊施設「御室会館」で働いていた元料理長の男性 (五十八歳) が,過酷な労働で精神疾患を発症したとして仁和寺に慰謝料と時間外手当の支払を求めた訴訟の判決があった (京都地裁,4/12).
 詳細は新聞各紙の報道に譲るが,仁和寺によってこの男性が強いられた労働は極めて異常なものである.三年前に労災認定もされているし,若者でも耐えられない労働条件である.ブラック企業でもこれほど酷くはないだろう.今回の判決が男性のほぼ全面勝訴となったのは当然と思われる.

 しかし勝訴とはいえ,若い時の修行ならともかく,元料理長の男性は人生働き盛りの十二年間を過酷な労働で失い,後遺症が残った.
 すなわち仁和寺は寺にあらず.鬼の住みかである.必ずや仁和寺に仏罰あるべし.

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2016年4月14日 (木)

永谷園が嫌いだ

 Wikipedia【永谷園】に,

永谷園のCMは、食事のシーンをダイナミックなカメラワークと音で表現したものが多い。特に1998年頃より放送された熱々のお茶漬けをひたすら掻き込むCMは話題となり、以後他商品でも似た様なCMがつくられた。

とある.
 もう二十年近くになるのか,あの永谷園のCMは.
 上に引用した部分を書いた人間は,下品な音を立てて物を食うのが好きだと見えて《話題となり》などと書いているが,当時の視聴者の反応は「物議を醸した」あるいは「非難を浴びた」と言うのが近い.

 永井荷風『濹東綺譚』に次のような箇所がある.(岩波文庫版『濹東綺譚』から引用)

わたくしはお雪さんが飯櫃を抱きかかえるようにして飯をよそい、さらさら音を立てて茶漬を搔き込む姿を、あまり明くない電燈の光と、絶えざる溝蚊の声の中にじっと眺めやる時、青春のころ狎れ暱しんだ女たちの姿やその住居のさまをありありと目の前に思浮べる。

 上の引用にあるように,茶漬けを食べるときの音を荷風は「さらさら」と書いている.
 戦後の昭和歌謡曲に「お茶漬けさーらさら たーくあんぽーりぽり」と歌うコミックソングがあったと思うが,曲名を忘れた.
 また同じく手元に資料がなくて出典を示せないのだが,江戸時代に書かれた料理本にも茶漬けを食う音は「さらさら」とされていた記憶している.

 このように昔から,「お茶漬けをさらさらと食べる」と表現してきた私たちの感性を,横っ面から張り倒したのが永谷園だった.

 ぶじゃじゃじゃじゃじゃじゃ ぐわしゃしゃしゃしゃしゃ

 人間が物を食う音とは思えぬ下品でけたたましい音と映像に驚いた視聴者は,永谷園に抗議したが,同社は完全に無視したのだった.
 (ちなみに,このCMの初期バージョンでは,恥知らずな食い方をする男の後ろで,それをうっとりと眺める若い女がいた.これは,ハウス食品の広告担当者がその無知故に批判を浴びたことで知られる「私作る人 僕食べる人」というCM (1975年) の,巧妙な変奏曲でもあった)

 さて最近のある朝,テレビをつけたらテレビ東京で《歴史の道 歩き旅》という新番組をやっていた.永谷園のCMが流れたので嫌な予感はしたのだが,果たしてCMに登場した男が,味噌汁「あさげ」を汚らしい音を立てて飲み,さらには,あろうことか卵かけご飯をすすり食った (註)

 企業のテレビCMは経営戦略的に非常に重要だから,その会社の経営者の承認を得てから放送される.つまりあのCMを良しとしてきた永谷園の歴代経営者は,普通の日本人が普通に食べるようには食事ができないのだ.卵かけご飯をすすり食い,下手をすると,くちゃくちゃと咀嚼して物を食うのかも知れない.
 テレビ番組は録画してから見ればCMを見ないで済むが,《歴史の道 歩き旅》はそこまでして見るほどの内容とも思えなかった.永谷園の提供でなければ流し見してもいいのだが.

(註) 茶漬けでも卵かけご飯でも,箸をゆっくり落ち着いて遣うこと,ハムスターのように頬が膨らむほど口いっぱいに詰め込まないこと,この二つを心掛ければ,さらさらと軽い音で食べることができる.普通の人はことさら意識せずにそのようにしている.
 永谷園の宣伝部に言いたい.社長が下品で落ち着いて食事ができない人間なら,品のよいCMを社長に拒否されないように,CMでは箸でなく匙で一口ずつ食わせるようにするんだ! 消費者の永谷園に対する生理的嫌悪感を減らせば売上の増加が見込める (かも知れない) ぞ.

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2016年4月13日 (水)

サンドイッチ初心者

 日本の英語教育は全くだめだ,という論をよく聞く.中学高校で英文法を教える必要なんかないというのである.
 言いたいことはよくわかるが,全面的には納得しにくい.
 明治以来,普通の日本人には英語圏の人と会う機会がなく,必要なのは書物やカタログを読むこと,手紙や論文を読み書きすることであったから,それが可能となる英語教育が行われてきた.英語の読み書きは職業教育であったのだ.
 それでは日本人のどれくらいが不自由なく英語を読み書きできるかというと,かなり少ないことは間違いないだろう.その意味では日本の英語教育は全くだめであるが,会話だけできればいいんだという考えにも賛成できない.義務教育では,読み書きと会話をバランスよく教えて欲しいものだと思う.

 さて私の英語はどうかというと,四十年近く前にアメリカに最初の出張をした.
 今と違って,駅前には必ず英会話学校があるという時代ではなく,読み書きにそれなりの自信はあったが,会話は全くだめであった.相手の言うことが聞き取れないのである.

 そんな有様だから,米国でのある日,サンドイッチ屋に入ったときに難儀した.
 そもそもサンドイッチ屋なる業態を知らなかったのが問題なのだが,ショーケースの向こうにいる陽気なアメリカ娘が "〇△$♯≒※?" とか言うのでまずパンを選んで指さした.いくつもあるパンの名前を知らなかったからである.
 次にまた彼女が "♯〇≒△※$?" と言うから,わけわからぬままにローストビーフを指さした.ちなみにこれが私の人生で最初のローストビーフだった.
 またさらに彼女が何か言うから野菜を選ばなければいけないらしいとは理解したが,私の発音が通じたのはトマトだけだった.

 あとでわかったのだが,それから野菜の量を普通か大盛かを指定し,ソースを選ぶ工程などが続くのであったが,もはや私の気力が続かなかった.トンチンカンな顔で「お勧めはなんですか」を連発し,フレンドリーで陽気なアメリカ娘もさすがに肩をすくめるポーズをとり,私はようやくサンドイッチを一つ手に入れたのであった.

 以上の経験がトラウマとなり,この歳になるまでサンドイッチ屋は敬して遠ざけてきた.
 しかし最近,老い先短い私は,やり残したことのないようにして静かに死んでいきたいと思うようになった.
 サンドイッチ屋トラウマ (註) を克服するのである.幸いにして藤沢駅の南側にサブウェイ SUBWAY があるので行ってみようと思う.たぶん英会話力は必要ないはずだ.

 しかし心配なので,一応「サブウェイ 注文の仕方」でウェブを検索してみた.
 するとサブウェイのサイトに《なれてきたらトッピング〈有料〉にもトライしてみよう!》と書いてあるではないか.
 やはりサンドイッチ屋では,《なれてきたら》でないとできない《トライ》が必要らしいのだ.
 それで次に,二番目にヒットした《初心者も怖くない!SUBWAY(サブウェイ)のオーダー方法まとめ 》を読んでみた.
 このサイトはとても親切に書いてくれているのだが,

「BLTをハニーオーツでトマト抜きね!それから、ハムをプレーンで野菜ましまし!」などと一気に言うとアテンダントさんも焦ってしまいますし、オーダーミスをしかねません。ひとつひとつ聞いてくれるので、丁寧に注文しましょう。

とあるのが気になる.
 丁寧にひとつずつ注文するのはいいが,問題は《野菜ましまし!》だ.
 客の若い娘さんたちに混じって,この年寄りがどの面さげて「ましまし!」などと言わにゃならんのだ.うう.

(註) 私にはその他にラーメン二郎トラウマもある.しかし驚いたことに《「ラーメン二郎」は怖くない!初心者のための楽しみ方 》というサイトがある.さらにもっとすごいのは《ラーメン二郎初心者も戸惑わずどんな注文もクリアできるコールジェネレーター 》だ.ネット社会は至れり尽くせりである.

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2016年4月12日 (火)

パン屋と迷惑客

 藤沢の さいか屋デパートの地下には,神奈川県下ではよく知られたパン屋のポンパドウルがある.
 私は若いときからポンパドウルのパンが好きだった.
 藤沢駅の周辺では,小田急百貨店に以前はドンク (余談だが入口の看板に大きく DONQ って書いてある店もあり,DQN みたいで驚きます夜露死苦) があったが今は撤退してメゾントロワグロが昨年オープンしたし,南口の駅ビルには昔からリトルマーメイドがあるけれど,私はずっとポンパドウルのパンばかり食べてきた.
 長く勤めた会社を退職し,再就職して東京国分寺市の賃貸マンションに住んでいた時も,国分寺駅ビルの地下にポンパドウルがあったので,仕事帰りによく立ち寄ったものだ.

 ところが最近,さいか屋地下のポンパドウルに元気がないと感じる.昼間の客がすごく少ない.
 職人の質が落ちたのだろうか,明らかに焼成を失敗したとしか思えないクロワッサンが棚に並べられていたりする.

 客層がわるくなった.
 先日は年輩 (推定年齢七十歳過ぎ) のばあさんが,トングで菓子パンや調理パンをつかみ,裏側を点検して自分のトレーに載せるのだが,すぐに思い直して元の棚に戻し,また別のパンの裏側を点検してトレイに載せて戻すという作業を,延々と,片っ端からやっていた.
 ポンパドウルのパンの裏側には何か重大な秘密がかくされているのかと思い,私もトングでパンをつかんで裏側を見てみたのだが,よくわからなかったので元に戻した.あ嘘です嘘です.

 店内に客の姿があまりなくなると,このテの傍若無人な迷惑客が他人の目を憚らずに済むようになり,ますます大胆に商品をいじり回すようになる.こうなると負のスパイラルで,迷惑客を目撃した客は購入意欲を失い,そして客足はさらに遠のくことになる.

 そんなこんなで最近,気分が変わってリトルマーメイドに行ってみた.
 すると昼間でも店内に客が多く,レジには列ができて,繁盛している.
 藤沢駅南口のリトルマーメイドは,フランスパン系統の品揃えが貧弱だけれど,それを除けば,元気な店のパンはおいしいと思う.
 小田急百貨店の地下のパン屋はどうなんだろう.辻堂のテラスモールには DONQ があるので今度行ってみようと思ったぜ夜露死苦.

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2016年4月11日 (月)

思考の柔軟性

 読売新聞の「発言小町」に《彼がやかんを拒否する》というトピが立っている.
 たぶん若いと思われる女性からの相談トピだ.
 彼の部屋に行ったら鍋はあるけれどヤカンがない.そこでヤカンを買おうと提案したら彼に「無駄だ」と拒否されたという.この彼はケチなんでしょうか,という内容である.
 相談の結果は実にかわいそうなもので,トピ主はボロボロに叩かれた.「鍋があればヤカンがなくても何の不都合もないのだから,彼にそんな無駄を強制するなら別れろ」とか,「結婚前なのに男の部屋に入るのはフシダラだ」とまで言われた.
 これを見て,ああまたやってるな,と思った.
 これは例えば,「彼の部屋に行ったらヤカンはあるけれど鍋がない」という相談でも同じことで,別れろとかフシダラだと罵られてトピ主は叩かれるのである.
 なぜかというと「発言小町」の編集者は,トピ主に対して攻撃的なレスだけを掲載して炎上状態にするのが大好きなのである.
 私は以前,これを確認するために,友人たちを募ってトピの流れと逆のレスを投稿したのだが,一つも掲載されなかった.それで,「発言小町」は編集者によって情報操作されていると確信した.

 ということは以前にも書いたから横に置いて,実際のところ,独身者がヤカンと鍋のどっちか一つだけ選べと言われたら,どっちがいいのだろう.

 もう四十年以上昔の学生時代,東京は中央線高円寺駅の南口から少し歩いたところにあった木造ボロアパートで私は暮らしていた.
 当時の私の持っていたものは,東芝製電気釜,アルミ片手鍋,ナショナル製電気ポット (ここにたくさん並んでいる昭和レトロの電気製品だ),ポケットラジオ,電気炬燵,布団,小さな本箱一つとポリバケツであった.下着のパンツとか一張羅のジーパンなどは別とすれば,電気釜や片手鍋などが私の全財産だった.つまり私は,いわば歩く赤貧だった.所持金が心細くなるとバイト代が入るまで部屋に閉じこもるから,歩かない赤貧になった.
 ちなみに,昔の言葉で「赤貧洗うが如し」というが,本当に金がなくなると銭湯にも行かなくなるから,「赤貧洗わぬが如し」というのが正しい.(違)

 冷蔵庫や洗濯機は言うまでもないが,白黒テレビでも持っている友人は一人もおらず,世の中ではカラーテレビ,クーラー,自動車が「新・三種の神器」として喧伝されたが,私の部屋には昭和三十年頃の旧・三種の神器である白黒テレビ,洗濯機,冷蔵庫すらなかった.

 しかし,そんなに貧乏な私でも,鍋とヤカン (電気ポット) は両方とも所有していた.鍋は明星チャルメラを作る時に,電気ポットはネスカフェインスタントコーヒーを飲む時に,と使い分けていたのだ.さらには,米の飯は鍋でも炊けるのに電気釜を使っていた.
 なぜだろう.固定観念に囚われて思考の柔軟性に欠けていたのだろうか.今となってはよくわからない.

 その頃の友人のN君は,電気ポットでチキンラーメンを作って食べていた.電気ポットでお湯を沸かし,その中にチキンラーメンを割って入れるのだ.これは確かに柔らかな発想だと思う.だから彼が私よりも思考の柔軟性を有していたということには同意するが,ただし「電気ポットでラーメン」は,スープを飲むとき,電気ポットのフチに唇が貼りついて火傷するのが難点で,思考が柔軟ならよいというわけでもなさそうだった.

 私が高校性だった頃,生物のK先生に聞いた話.先生は,今はない東京教育大学 (昭和五十三年にその輝かしい伝統を閉じた) の学生寮にいた頃,ブリキの洗面器しか持っていなかった.
 ブリキの洗面器は万能で,朝の洗面はもちろん,風呂でも使うし,洗濯にも使う.洗濯に使うというのは,洗面器に水を入れて石油コンロで湯を沸かし,洗濯石鹸を削って溶かし入れ,そこにじっくりと履きこんで熟成したパンツを漬けて煮ることにより殺菌洗浄したという話であった.
 それだけならいいが,K先生および先生と同室の学生たちは,腹が減ると先生の万能洗面器で素麺を茹でて食べていたという.思考が柔軟すぎるのは如何なものかと思う.

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2016年4月10日 (日)

源氏山から~♪

 菜種梅雨と呼ばれる天気予報が当たらない季節である.
 週間天気予報で「〇日は曇り一時晴れ」とあるので出かける算段をしていると,当日の朝に予報士のお嬢さんが何食わぬ顔で「今日は一日中雨です」などと言う.まことにけしからんが,でもかわいいから許す.

 そういうわけで,運よく晴れあがった先日の六日,水曜日の朝に思い立って源氏山に花見にでかけた.
 鎌倉の源氏山というところは基本的にはハイキングに行くところであるから,公共交通機関が現地まで通っているわけではない.近くまで行ってそこから源氏山公園まで歩くのだ.
 源氏山公園 (葛原岡神社や頼朝像がある一帯) に行く道は次のようにいくつもある.
(1)北鎌倉駅→浄智寺→源氏山公園
(2)建長寺→亀谷坂切通し→化粧坂→源氏山公園
(3)鎌倉駅→寿福寺→源氏山公園
(4)鎌倉駅→佐助稲荷→銭洗弁天→源氏山公園
(5)長谷大仏→源氏山公園
(6)バス停「源氏山入口」→源氏山公園
 これをどういう組み合せで歩いてもいいので,鎌倉の自然を楽しみたいとか,あるいは女の子とデートしたいとかの目的に応じた道を選べばいい.

 ここで注意しなければいけないのは (1) の道で,デートの時についでだからと東慶寺に立ち寄るのは,それダメ!NGである.
 さだまさし がグレープ時代の最後にリリースしたアルバム『コミュニケーション』(1975年) に収録された「縁切寺」は,今の若い人たちにも知られているんじゃなかろうか.
 「縁切寺」がヒットした頃,鎌倉は押し寄せた若い男女でごった返した.みんな列を作るようにして源氏山 (今は縁結びで有名になった葛原岡神社) から北鎌倉へ歩いた.そして東慶寺で一枚だけ写真を撮り,三年後に別れたのである.二十五歳の私も例外ではなかった.あの頃の私を叱ってやりたい.

 さて今回の花見では,私は大船駅までJRに乗り,大船の駅ビルから出るとすぐ近くのバスターミナルから,11:30 発の京浜急行バス ([船50]系統/桔梗山行き,マイクロバス) に乗った.「源氏山入口」バス停で降りるとすぐ葛原岡神社へ行く坂道の入口がある.葛原岡神社へは,この道が最短だ.
 坂を上ると,こんな案内板と小さな公園がある.
 案内板の右下の道に「×」がついているが,私はその道から来たのだ.なぜバツなのかわからない.

20160408a

20160408b

 公園のすぐ先にある分岐点を左に行くと地図板がある.

20160408c

 地図を見て葛原岡神社方向に歩くと,桜の木と鳥居が見えてきた.

20160408d

20160408e

 葛原岡神社は,葛原岡のこの地で日野俊基が処刑されたことに因んで明治二十年(?)に創建された神社で,鎌倉ではかなり新しいものであるが,ハイキングの途中で一休みするのにちょうどいい場所にある.上の石碑画像には「明治21年に創建された」と書かれているが,葛原岡神社のサイトの《葛原岡神社について 》では

明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。

とあり,創建は明治二十年だとしている.この神社の関係者は誰一人この矛盾に気が付いていないのだろうか.ちなみに会津飯盛山の白虎隊墓前広場に立てられている「ドイツ碑」も,管理者自ら嘘デタラメを広めて恥じるところがない.情けないことである.

 鳥居の周辺はベンチがたくさんある広場になっていて,ベンチに腰かけて弁当を使っている数人のグループや,シートを広げて楽しそうに昼ごはんを食べている子供連れの家族がいた.

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 鳥居に向かって左側に置いてあるのは「恋みくじ」の箱である.

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 ウェブをちょっと探すと「葛原岡神社は恋のパワースポット」なんて書いてあるが,いつからパワースポットになったのだろう.
 昔は「恋みくじ」なんてなかったしなあ.

 もう四十年近く前のことになるが,私は,結婚してくれたらいいなと思う女性を連れてこの神社に詣でたことがある.今でも記憶が鮮明なのだが,その時はこの「恋みくじ」の場所に,今の私と同じ歳ほどの爺さんが,イスと台だけの小さな小さな露店を出していた.

 爺さんは低い丸イスに腰掛け,横にプロパンガスのボンベ,狭い台の上にガスコンロを置いて,フライパンで山形名産玉こんにゃくを調理して売っていた.葛原岡名物と書かれた小さな看板も立てていた.
 調理といっても簡単なことで,まずフライパンに玉こんにゃくを入れて醤油で炒める.醤油が焦げそうになったら油を回し入れて,さらにジリジリと炒める.こうすると,煮詰まった醤油がからまって,鍋で煮たのでは時間がかかるこんにゃくの味付けが簡単にできるのであった.

 当時の私は,玉こんにゃくが山形県の名産品だとは知らなかったので,葛原岡神社の由緒に関係ある食べ物かと思って,その爺さんに訊ねた.
「葛原岡名物ってことは,これは何か葛原岡神社と縁があるものですか.日野俊基と何か関係が?」
 すると爺さんは短く答えた.
「なんにも関係ないよ」
 聞けばこの爺さんは定年で勤めをやめたあと,小遣い稼ぎに玉こんにゃく売りを思いついたのだそうで,たばこ代くらいにはなるよと言った.そういう事情の葛原岡名物なのであった.

 まだ若かった日の恋を偲びつつ鳥居をくぐると,すぐ左に「縁結び石」があった.葛原岡神社のサイトには

良縁を望まれた方々の願いを広く叶えるため、平成二十二年冬、改めて 御霊を「男石」「女石」にお迎えして ご参拝の皆様に良きご縁を結ぶ「縁結び石」としてお祀り致しました

とあるから「縁結び石」は平成二十二年に設置したもののようだが,二つの石はどこから持ってきたものだろうか.もとからこの辺りにあった石をもっともらしく祀ったものかも知れない.

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 向かって右の石が男石で,左が女石だ.そのあいだから見えるのは「縁結び石」の祭神である大黒様である.その両側にたくさんぶら下がっているものは,ハート型の絵馬である.女子中学生あたりが恋のお願いを書いたりするのだろうが,大黒様ってのはちょっと子宝系秘宝館方面なので,清純乙女が拝むのはなんだかなあと思う.女子が守護神にしたくなるような神様はいないのかと思って検索してみると,《恋の状態別オススメパワースポット》に,赤坂氷川神社などの奇稲田姫 (クシナダヒメ) とか,センスよさそうな神様がおられると書いてある.奇稲田姫を祀る氷川神社はあちこちにあるし,奇稲田姫は倭撫子 (ヤマトナデシコ) の語源だとも言うし,いいことばっかりなので私はそちらをお勧めしたい.なんなら萌系もある.

 それはそれとして,「縁結び石」からさらに先に行くと,本殿などがある.

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 案内板↓には
俊基卿御終焉之地
鎌倉幕府に捕らわれた日野俊基卿は
元弘二年 (一三三二) 六月三日
この地で悲しい最後を遂げられる。

とある.

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 葛原岡神社の祭神である日野俊基という人は,後醍醐天皇の廷臣ではあるが,後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕運動の中ではかなり影が薄い.元弘の乱は,御本人の稀代の怪物後醍醐天皇を除けば,何といっても楠木正成や足利高氏,新田義貞ら武士の物語なのである.
 日野俊基の辞世の歌は
    秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん
である.このように恨みを残して死んだ人は,祟りを恐れた後世の人が神様に祀り上げてくれるのであるが,日野俊基は菅原道真ほどの大物ではないから,祟りも実際にあったかどうか私は知らない.

 葛原岡神社から歩いて数分のところに源頼朝の像が建てられている.頼朝の人相は,昔は神護寺三像の一つ「伝源頼朝像」とされていたものだが,今は伝源頼朝像は別人だとする説が定着しつつある.従って下の像の容貌もテキトーである.

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 さて盛りの桜を満喫したので,銭洗弁天への道を辿って鎌倉駅に行く.弁天様の境内はかなりの人出であった.

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 朝飯のあとは何も食べていないので,この茶店でソフトクリームを買って昼飯代わりにした.三百円でお安いが,それなりのお味.

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 銭洗弁天から,佐助一丁目の交差点に出て,御成隧道から鎌倉駅西口まで歩いた.

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 この日の鎌倉駅周辺には,高校の入学式でもあったのだろうか,きちんとスーツでおめかしした母と,その子の姿が目立った.どこかの店で二人仲良く食事をするのだろうか.いいですなあ.桜四月,がんばれ青少年.

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2016年4月 9日 (土)

幼児退行してきました

 今週月曜日の記事《幼児退行 おいおい》に,私は次のように書いた.

辻村さんの煽り《私たち人間が重ねてきた時間の重みを舐めるなよ!》に私は浮き足立って,『新・のび太の日本誕生』を観たくなった.
二十年前,うちの息子や娘が大きくなって,もう親と一緒になんか映画を観に行かなくなってしまったあと,私は一人で藤沢の映画館へジブリの作品を観に行った.『もののけ姫』だったかな.そしたらチケット窓口の女性に「これは子供の映画ですけど,いいですか?」と言われた. (--;)屈辱.
 そういうトラウマがあるので,観に行こうか行くまいか今悩んでいる.ネットでチケットを買っても,しかしモギリのお嬢さんはいるから,その眼が「なにこのじじい」とか言ってたりするだろうと思うと怖くて行けない.

 それでここ数日,辻堂のテラスモールにある 109シネマズのチケット販売状況をチェックしていたのだが,火曜日まで売れていたチケットが水曜日,木曜日と,売れ残ったようであった.
 どうやら満席の子供たちの中で『新・のび太の日本誕生』を鑑賞しなくても済むようだったが,それでも用心して木曜日の夜,翌金曜日最初の上映回 (10:00~) のチケットをネット購入した.

 昨日朝十時少し前に 109シネマズに行ったら,ロビーには開演待ちの人たちが十数人,所在無げに立っていた.
 やがて上映案内があり,掲示パネルにシアター番号が二つ表示された.すると待っていた人たちがゲートにぞろぞろと移動を始めた.
 おお,二つのシアターが同時に開場だ.これならロビーにいる他の観客の視線を浴びずに何食わぬ顔で『新・のび太の日本誕生』に入館できる.
 ところが,ゲートに立っているモギリのおねえさんにチケットを渡すと,彼女は横に置かれた箱から何かゴソゴソと取り出して,私に手渡した.
 どうやら 109シネマズは,ドラえもん映画を見に来た不審な爺が何食わぬ顔で入館するのを,他の観客にもわかるように識別告知する方針であるらしかった.

これが不審爺識別アイテムだ! 防犯カラーボールみたいなものか!
後に並んでいたカップルに見られたぞ!

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 さて『新・のび太の日本誕生』が上映されるシアター6に入ると,観客は私だけだった.
 午後になると,半日授業を終えた小学校低学年の子供が来るかも知れないが,さすがに朝一番ではそんなことはないのだ.
 と思ったら,三歳児くらいの小さな子を連れたママさんが入って来た.そして私が購入したシートから一つ間をあけて座った.
 ガランとしたシアター6の観客は私を入れて三人しかいないのに,私,空席,三歳児の女の子,ママさん,という横並び状態なのである.
 そのママさんは,こんなにたくさんあるシートの中で,どうしてその席を買ったのか!
 もしかして私に好意を持っているのか!
 違うような気がするが!

 で,物語のクライマックス.
 ドラえもんは二十三世紀から来た歴史改竄者ギガゾンビと戦う.そして,あのヨーダとシスの暗黒卿ダース・シディアスの戦闘シーンを彷彿とさせる場面で,ドラえもんは叫ぶ.
 偽物の歴史は 本物の歴史に勝てないんだ! (言い回しは少し違うかも知れない)

 おお,このドラえもんの台詞こそ,辻村深月さんが週刊文春に
強敵ギガゾンビとの最後の戦いに注目して欲しい。私たち人間が重ねてきた時間の重みを舐めるなよ! と言わんばかりの脚本に、劇場で鳥肌が立ちました
と書いたことなのであった.

 ラストシーン.
 のび太が,一緒に戦ったペットのペガサス,グリフォン,ドラゴンたちと悲しい別れをするところで,三歳児の女の子はとうとう泣き出した.
 上映が終わって照明がついてもママさんは席を立たず,シクシク泣いている少女の肩を抱いてなぐさめていた.

 のび太はやさしい子だから,君がずっとのび太のことを忘れないでいるといいね.
 そう思いながら私は,あふれる涙をこらえつつシアター6を後にした.

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2016年4月 8日 (金)

ダメ偉人

 一昨日の水曜日,TBSテレビの番組「世界を変えたダメ偉人」を観た.
 番組の内容は,夏目漱石,エイブラハム・リンカーン,葛飾北斎,サルバドール・ダリ,リヒャルト・ワーグナーらの私生活における変人ぶりを紹介するというもので,出演者はオードリーの若林正恭,高畑淳子の長男の高畑裕太,宮澤元総理の孫の宮澤エマら.
 変人ぶりの紹介というのは,彼らの子とか孫が登場して暴露するという設定だ.子孫は映画試写会のようなシートに腰掛けていて,これはNHK「ファミリーヒストリー」のパロディだ.

 漱石,リンカーン,北斎,ダリの私生活のエピソードは割とよく知られているが,私はワーグナーのデタラメな人生については詳しいことを知らなかったので,そこはへぇ~と思って面白かった.

 それぞれの偉人について専門家が解説するのだが,その専門家が出演者に質問をする.
 これに高畑裕太がボケて,宮澤エマが正解するという進行だったのだが,高畑裕太のボケ味がなかなかよかった.
 例えば解説の先生が「北斎はマネやモネなどの印象派の画家に大きな影響を与えました」と言うと,高畑裕太が「マネとモネって,グリとグラみたいなのですか」と言う.彼は俳優を目指しているのだろうが,本腰でお笑いの道に進んだらどうかと思った.

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2016年4月 7日 (木)

会津の旅 (十一)

 長年の会社勤めを定年で終えた皆さんが何をするかというと,まず第一に旅行らしい.確かに私の会社員時代の先輩たちから定年後のお話を拝聴していると,芭蕉の辿った奥州路を旅したとか,昔の東海道を歩いた,四国を遍路したなどの旅の話が出てくる.
 私にはそんな長丁場の旅に出かける体力が残ってないのであるが,せいぜい数日の旅ならなんとか行けるだろうし,それに東日本大震災のこともあって,東北各地に行ってみたいと常々思っていた.

 今は仕事を完全にやめて,心臓手術後の経過にも問題がないようなので,そろそろ旅行に出てみようというわけで,まずは福島県から,スパリゾートハワイアンズのショーを鑑賞に行き,それから会津に行った.(今月下旬には三春ほかの桜見物に行き,来月は北上する予定)
 それで,会津観光といえば何はなくとも飯盛山であるが,実際に行ってみて私は飯盛山の有様に強い違和感を覚えた.
 それは通称ローマ碑とドイツ碑から受けた違和感である.なんでここに,こんなものが,と思ったのだ.白虎隊自刃は戊辰戦争の局地戦である会津戦争における一つのエピソードとしか私は認識していなかったから,ローマ碑とドイツ碑のことまでは知らなかったのである.

 旅行から帰って,旅行記をこのブログに書く段になって資料を調べ始めたら,次第に私は腹が立ってきた.この飯盛山に立てられたローマ碑とドイツ碑の物語は,話を盛りまくりの嘘つき野郎たち (女性一人を含む) と,彼らに騙された善意の人による事実無根の話の拡散によって出来上がったものだと思われたのだ.

 一昨日の記事の終わりに

これまでに飯盛山のドイツ碑案内板に書かれたことのある説明文で判明しているのは,現時点で上の三つである.さてこの三つの説明文からドイツ碑の謎を追う.

と書いたが,昨日になって,古書店からメールで山口弥一郎『白虎隊物語』の在庫があったと連絡があった.この本はドイツ碑に関する資料の一つだ.それは同書中にドイツ碑に関する記述があるからだが,その箇所だけならネットに資料がある.日本の極右活動家にして「在日特権を許さない市民の会」(在特会) の会員,そして驚いたことに福島県人でありながら原発推進を主張し,かつまた疑惑の渦中にある元航空幕僚長の田母神俊雄を選挙応援し,さらにはヒトラーの礼賛者である瀨戸弘幸のブログの,この記事である.(在特会の示威行動でハーケンクロイツが掲げられた記事と写真は全国紙にも掲載された.ドイツ碑の周辺にはこのような人物もいて,私は飯盛山で自刃した少年たちが哀れでならない)
 一目瞭然,著作権法に対してここまで大胆に違反するブログは珍しいが,法の無視は瀨戸弘幸のポリシーなのだろうからさておき,記事の文中に不審な点があり,コピペではないかも知れない (歪曲が疑われる) と思われた.
 であるからして,『白虎隊物語』の原本にあたる必要があるのだが,国会図書館にあることはわかっているものの,いささか面倒なので古書を探していた.そうしたら古書店から『白虎隊物語』の在庫があると連絡があったのだ.すぐに送金したが,手元に届くのは一週間後になるだろう.
 それから,吉川英治の『随筆新平家』にもドイツ碑に関する記述があるのだが,『随筆新平家』は一両日中にも入手できる.
 来週『白虎隊物語』が手に入れば,ドイツ碑に関する基本的な資料はまず揃ったとしてよいと思う.《会津の旅 (十二)》のアップは来週の予定だ.
(続く)

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2016年4月 6日 (水)

客観性は要らない

 このあいだ私の娘と雑談していたら,ある店で食事をしていたときに○○さんらしい人を見かけた,と彼女が言った.○○さんというのは,うちのエリアの「食べログ」の「クチコミ」で有名な人である.娘から聞いたところでは,彼のレビューは女性たちにかなり信頼されているらしい.食べログは匿名の投稿だけれど,有名人は食事中でもそれとわかるオーラを放っているのだろうか.
 その○○さんとは別の人だが,思考回路が私にはよく理解できない人がいる.
 仮に◇◇さんとする.
 食べログにおける◇◇さんのレビューの冒頭は,例えばこんな具合だ.

じつはここの店の前に△△ (当ブログ筆者註;店の所在地を明記している) の▲▲ (同左註;店名を明記している) に伺いましたがやっちまいまして。。次は絶対しくじれない思いがあり、ウォーキングを兼ねてこちらへやってきました。

 《やっちまいまして》が唐突すぎる.一体何を《やっちまいまして》なのか読んだ者には皆目わからないのだが,◇◇さんは食べログを自分のブログと勘違いしていて,自分のレビューを読む人は《やっちまいまして》が何を意味しているか理解できるはずだという思い込みのもとに書いていると思われる.で,《やっちまいまして》だが,無断で料理を撮影するなどが原因で店側と何かトラブルになったのだろうか.《次は絶対しくじれない思いがあり》もすごい.飲食店へ行くのは,食事よりも食べログに投稿するために行くのだという強い思いが伝わってくる.消化にすごく悪そうだなあ.

 上の◇◇さんは極端な例だが,自分勝手な造語を用いて主観的なことを書いているレビューはよく見かける.それで「レビューに客観性がないと他の食べログユーザーの役に立たないじゃん」と思って,遅ればせながら「クチコミのガイドライン」を読んでみた.そして私は自分が食べログについて今まで誤解していたことを知った.ガイドラインには次のように書かれていたのである.

お店で実際にお食事されたユーザーによる主観的な感想や評価をご提供いただいた写真等とともにインターネット上に公開することで、お店選びの参考となる信頼できるレストランガイドとして多くの皆様にご活用いただくことを目的としています。》 (下線は当ブログ筆者が付した)

 食べログの運営者は《主観的な感想や評価》のほうが,客観的な感想や評価よりも《レストランガイドとして多くの皆様にご活用》してもらえると主張しているのだ.ブログに書けよと言いたくなるような投稿が多いのは,そういうわけだったのかと,腑に落ちた.

 余談だけれど,食べログのクチコミガイドラインには《衛生管理面のクレームはしかるべき当局へご連絡ください》と《お店の法律違反・契約違反に関する内容はしかるべき当局または関係者へご連絡ください》と書かれていて,この種の投稿は禁止されている.
 私の生活圏内に,非常に不潔な飲食店があり,集団食中毒を起こして報道されたこともあるのだが,食べログの評価は非常に高い.どうしてかなと思っていたら,衛生面のことは投稿禁止事項だったのだ.なるほどねー.

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2016年4月 5日 (火)

会津の旅 (十)

 飯盛山にあるドイツ碑の話をもう少し続ける.

 既に平成十年(1998年) に福島大学名誉教授の九頭見和夫氏が総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》を執筆し,ドイツ碑に関して種々の事実を明らかにしたにもかかわらず,未だに Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】には誤った情報が記載されているということを,一昨日の記事で述べた.
(Wikipedia 日本語版誕生後のかなりの間,芸能人情報以外の項目に関しては,周知のように信頼性の極めて低い情報源であったわけだが,しかし現在では改善著しく,まず Wikipedia の内部の関連項目を参照して矛盾がないかを確認し,「ノート」タグを閲覧し,さらに本分中に引用されている出典にもできるだけあたることを行えば,極めて有用な百科事典である.私がこのブログで Wikipedia を多用するのはそういう理由である)

 さて九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》を読んで驚いたことの一つは,旧財団法人・会津弔霊義会すなわち現在の公益財団法人・会津弔霊義会の手によってドイツ碑の案内板に書かれた説明文にまつわる,いわゆる黒歴史である.

 ドイツ碑の横には会津弔霊義会が設置した案内板が立っている.案内板に書かれた説明文の変遷を,時代順に以下に記す (太字部分).
 下記の (1) と (2) の出典は九頭見和夫氏の総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》である.宮崎十三八『会津地名・人名散歩』の p.191 にも (2) の写真画像が掲載されているので,それも参照した.
 また (3) は現在飯盛山に存在する案内板に書かれている説明文であるが,九頭見和夫氏の総説には改行位置の間違いがあるので,案内板の写真画像から転記したものである.

(1) (縦書き)
ドイツの武士より会津の少年武士
に贈る
ハッソフォンエッツドルフ

(2) (横書き)
フォンエッツドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ大使館付武官
HASSO von ETZDOR 大佐が白虎隊精神を
讃美して贈られた碑文と十字章で
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」 一ドイツ人
第二次世界大戦後占領軍の手によって碑面を削り撤去された
ものを,昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

(3) (横書き)
フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国 (現ドイツ連邦共和国) 大使館
政治担当外交官Hasso von Etzdorf 氏が白虎隊精神
を讃美して贈られた碑文と十字章である。
  碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後進駐軍の手によって碑面
を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復
元されたものである。

 これまでに飯盛山のドイツ碑案内板に書かれたことのある説明文で判明しているのは,現時点で上の三つである.さてこの三つの説明文からドイツ碑の謎を追ってみる.
(続く)

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2016年4月 4日 (月)

幼児退行 おいおい

 『ドラえもん 新・のび太の日本誕生』が大ヒットして,三週連続で観客動員首位なんだそうだ.興行収入は二十億円を突破.これは『魔女の宅急便』クラスだね.
 近場で辻堂テラスモールの中にある 109シネマズのサイトを覗いて,今朝(4/4 月曜日) のシート予約状況をみたら,他の洋画邦画はみんな全部の上映回が○なのに『新・のび太の日本誕生』だけに△が二つ付いている.

 先週発売の週刊文春に,辻村深月さんが次のように書いている.
強敵ギガゾンビとの最後の戦いに注目して欲しい。私たち人間が重ねてきた時間の重みを舐めるなよ! と言わんばかりの脚本に、劇場で鳥肌が立ちました
 今のオジサンオバサンや爺さん婆さんと,若い人 (辻村深月さんみたいな三十代を含む) では,「鳥肌が立つ」の意味が全く異なっていて,いまや誤用が優勢になっているのはよく知られているところであるが,しかし当然ながら作家である辻村さんは本来の意味を知りつつも敢えて誤用しているものと想像される.ま,それはさておき辻村さんの煽り《私たち人間が重ねてきた時間の重みを舐めるなよ!》に私は浮き足立って,『新・のび太の日本誕生』を観たくなった.

 二十年前,うちの息子や娘が大きくなって,もう親と一緒になんか映画を観に行かなくなってしまったあと,私は一人で藤沢の映画館へジブリの作品を観に行った.『もののけ姫』だったかな.そしたらチケット窓口の女性に「これは子供の映画ですけど,いいですか?」と言われた. (--;)屈辱.
 そういうトラウマがあるので,観に行こうか行くまいか今悩んでいる.ネットでチケットを買っても,しかしモギリのお嬢さんはいるから,その眼が「なにこのじじい」とか言ってたりするだろうと思うと怖くて行けない.
 神奈川県の小中学校の春休みは今日か明日で終わるらしいのだが,そのあとの水曜日はレディースデイで,小心者の爺さんはこれまた怖くて行けない.その次の木,金曜日の予約状況をみて決めることにする.

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2016年4月 3日 (日)

会津の旅 (九)

 Wikipedia【観光史学】には次のようにある.

1908年 (明治41年) 以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年 (昭和3年) にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。

 また Wikipedia【白虎隊】には次のように記載されている.

また、1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や

 上の引用中に記載されている「ハッソー・フォン・エッツドルフ氏が寄贈して飯盛山に設置されている記念碑」=ドイツ碑については,二つの謎がある.(上の引用文中の下線は,このブログの筆者江分利万作が付した)
 第一に,Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】 が記載しているところの,ドイツ大使館員エッツドルフ氏が飯盛山を訪れた時期《1935年》は正しいかどうかということ,
 第二に,両項目ともに《個人的に寄贈した記念碑》としているが,果たして本当だろうかということ,

の二つである.

 まず,寄贈された時期について.
 碑の脇に立てられている案内板には

フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 Hasso Von Etzdorf 氏が白虎隊精神を讃美して贈られた碑文と十字章である。
碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

と書かれている.
 実はこのドイツ碑には,寄贈者の氏名と身分が彫られていない.
 その寄贈者が誰であるかを調査して明らかにしたのは,元福島大学教育学部教授で同大名誉教授の九頭見和夫氏である.
 そしてドイツ碑に関する幾つかの事実関係については,九頭見和夫氏が,福島大学教育実践研究紀要第13号(1998年3月)に載せた総説《「ドイツ記念碑」と日新館の教育》に詳しく書かれている.
 その総説によると,九頭見和夫氏が昭和六十二年にフォン・エッツドルフ氏と会って直接確認した「フォン・エッツドルフ氏の履歴書」に書かれていた記載事実は,

1900年生まれ.ゲッティンゲン大学法学博士.1928年,ドイツ外務省に入省.1931年,東京駐在ドイツ大使館付書記官.1934年,ベルリーン駐在帝国外務大臣フォン・ノイラート私設秘書.1936年,ローマ駐在ドイツ大使館付書記官.1945年,ジェノーヴァ駐在総領事.1947年,シュットガルト駐在,平和問題のためのドイツ事務局付協力員,最後にその事務局長.1950年,ベルリーンに再開された外務省に局長補佐として入省.1954年,パリ駐在公使兼 EDC (欧州防衛共同体) のための暫定委員会ドイツ派遣団代表.1955年,ロンドン駐在 WEU (西欧同盟) 事務局長代理.1956年,オタワ駐在ドイツ連邦共和国大使.1958年,ボン駐在外務省局長.1956―1965年,ロンドン駐在ドイツ連邦共和国大使.(後略)》

である.
 余談だが,飯盛山のドイツ碑の横に会津弔霊義会が設置している案内板には,エッツドルフ (Etzdorf) をエッツ・ドルフと記載するという低レベルな誤りがある.
 この会津弔霊義会の杜撰な仕事振りはお笑いで済ませるとして,重大なのは,Wikipedia である.Wikipedia【観光史学】および Wikipedia【白虎隊】には

1935年 (昭和10年) に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に》 (Wikipedia【観光史学】)
1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ (Hasso von Etzdorf) が飯盛山を訪れた時に》 (Wikipedia【白虎隊】)

と書かれているが,九頭見和夫氏がエッツドルフ氏本人に確認した事実では,エッツドルフ氏が飯盛山を訪れたのは1934年であり,1935年にはドイツ本国にいたのであるから,Wikipedia の記載は明白な誤りなのである

 では Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】の誤りの原因は何か.
 ドイツ碑に関する資料としては,九頭見和夫氏の総説の他に,山口弥一郎『白虎隊物語』と,『会津地名・人名散歩』など宮崎十三八の著書があるのだが,Wikipedia【観光史学】と【白虎隊】の間違った記載は,これらの資料から確認せずに孫引きした結果である可能性が高い.
 『白虎隊物語』は,白虎隊を観光資源としてきた飯盛家が発刊に関与している疑いがある (未確認) ことと,古書として流通していないため国会図書館で調べる必要があるため,この旅行記を書くための資料の範囲を超えるので,機会があれば調査することにして調査は先送りとする.
 『会津地名・人名散歩』は,会津若松市商工観光部長として,史実を明らかにすることよりも,白虎隊の観光資源化を推進した張本人 (の一人) であるとされる宮崎十三八の著書であるから信用性に大きく欠けるが,古書の入手は容易なので現在注文中である.

 以上,ドイツ碑に関する二つの謎のうち,九頭見和夫氏が調査によって明らかにしたところによれば,ハッソー・フォン・エッツドルフ氏が飯盛山を訪れたのは1934年であり,碑の建設費用がエッツドルフ氏から会津弔霊義会に寄贈された時期は1934年秋である.また実際に飯盛山に設置されたのは翌1935年の6月であると確定してよいようだ.
(続く)

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2016年4月 2日 (土)

小町通りの素敵なカフェ roomlax Cafe

 一昨日の朝に買い物に出かけ,午後遅くになって帰宅したのだけれど,うちの近所の桜並木が朝は三分咲きくらいだったのに,夕方には五分咲きになっていて驚いた.
 ひょっとすると鎌倉の桜がもう見頃かも知れないと思い,それで昨日鎌倉へ花見に行ってみた.

 藤沢から大船経由で北鎌倉へ.北鎌倉に来たのは随分久しぶりだ.
 横須賀線の車内はそれほど混んでいなかったけれど,北鎌倉駅から円覚寺にかけて,かなり人がいた.

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 平日だから,人波がすこし途切れた時をねらってシャッターを押す.土,日曜日には人の波が途切れることはない.

 拝観券売場のすぐ近くに猫がいて,観光客をお出迎え.
 猫写真を掲載するのは,このブログ開設以来,初めてのこと.

 ぼくは瑞猫山円覚寺の管長だにゃー (←お約束のコメント)
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 ベンチに腰掛けて,何も考えずボケーっ放心.少し歩き回って,また放心.そんなこんなで小一時間を過ごした.

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 円覚寺の境内を出て,鶴岡八幡への道を歩いて行く.
 途中に小さなカフェ Cafe Evergreen があったので,入ってお茶をする.
 画像はないけど,ホットカフェラテにはハートのキャラメルアートがしてあった.
 どうということもない小さなカフェだが,食事もできるようだ.今度はご飯を食べに来てみよう.

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 鎌倉はもうすっかり春の陽気で,Tシャツの上にアーミージャケットだけという軽装でも,歩いていると少し汗ばむ.

 しばらく歩いて小町通りに到着.
 小町通りをほんの少し歩くとローソンがあり,その二階に,ざっと百席くらいの広さのカフェがあった.
 時計は十二時を少し過ぎて,お腹も減った.ここで昼飯にしよう.
 店は roomlax Cafe という.店内には数人の客がいて,テラス席には犬連れの人がいた.
 平日とはいえ,鎌倉のランチタイムでこんなにすいているのはラッキー.これならすぐ食べられそうだと私は喜んだ.

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 すごくかわいらしい女子スタッフが水とおしぼりを持ってきたので,オムライスとサラダ,スープのセットを注文した.

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 それから約二十分経った頃,ようやくスープとサラダがやってきた.
 さらに二十分経過してもオムライスが出てこなかったので,あとから来た客たちにどんどん料理を運んでいたとてもかわいい女子スタッフに声をかけた.

「えーとそろそろオーダーしてから四十分経つのね.まだ作り始めてないんだったらキャンセルするけど」
「はい,確認してきます」

 すると彼女はオムライスの皿を持ってすぐに戻って来た.
すぐお出しできましたから,キャンセルはしないということでいいでしょうか」

 うん,「すぐ食べられそうだ」と思った通りだ.オーダーしてから,わずか四十分待っただけで,オムライスはすぐに出てきた.
 スプーンで一口食べたら,そのオムライスはすっかり冷たくなっているのがわかった.
 ああ,そっか.たぶん料理は二十分で出来たんだけど,きっと私が猫舌に違いないと思って,さらに二十分,厨房のどこかに放置して冷ましてくれていたんだね.私は猫舌じゃないけれど,その お・も・て・な・し の気持ちが嬉しい.
 桜満開の観光シーズンなのにとてもすいていて,心配りも行き届いているし,なんて素敵なカフェなんだろう.
 ありがとう,roomlax Cafe . よかったよかった.
 でも残念だけど,味は…私でも作れるよ,この程度なら,と思った.うう (ToT).
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 段葛の桜は満開だった.明日はもう散り始めるだろう.近いうちにもう一度桜を見に来るなら,今度は源氏山かなあ.

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2016年4月 1日 (金)

会津の旅 (八)

 昨日,記事をアップしたあとで,注文しておいた中村彰彦『増補決定版 白虎隊』(PHP研究所,2016年1月19日第1版第1刷) が届いた.たぶん白虎隊関連の書籍では今一番新しいものだ.
 中村彰彦という小説家の書いたものを私は初めて読んだ.Wikipedia【中村彰彦】には

自身ではいずれのジャンルに属するかは拘らないが、飽くなき史実第一主義者を自称しており、従来の順逆史観排除の姿勢を採っている。
自身の検証による新説を次々と打ち立てているが、都合のいい資料だけを選出して批判的な資料を無視する傾向があり「史実ではなく小説」と批判されることも多い。
会津に対して並々ならぬ思いを寄せており、会津関係の著作が多く、星亮一とともに会津観光史学の一翼を担っている。

と書かれている.
 私が『増補決定版 白虎隊』を購入したのは,中村が《飽くなき史実第一主義者を自称》しているのならば『増補決定版 白虎隊』には,白虎隊士中二番隊のうち自刃者十九人の遺骸埋葬に関する最新情報が書かれているのではないかと期待したからである.
 ところが,同書の《吉田伊惣次の活躍》と見出しを立てた節 (p.228~232) に書かれていることは自刃白虎隊士の埋葬人数も埋葬場所も時期も全く支離滅裂で,まるでお話にならぬ有様なのであった.
 さらに,会津若松市史(* 末尾註) が「新政府軍側によって会津軍側遺骸の埋葬禁止が命令された事実はない」と指摘しているにもかかわらず,これを無視して埋葬が禁止されたと書いているのである.
 この中村彰彦という作家は実証性,論理性の欠如が甚だしい.Wikipedia【中村彰彦】に《都合のいい資料だけを選出して批判的な資料を無視する傾向》《史実ではなく小説》《会津観光史学の一翼》と書かれてしまうだけのことはあるなあ.少額の八百円とはいえ,つまらぬ本を買ってしまった.

 さて昨日の記事では,自刃白虎隊士の墓,会津藩殉難烈婦碑,郡上藩凌霜隊之碑,篤志碑 (吉田伊惣次) について書いた.
 これらの碑と,墓前広場から少し離れた隊士自刃の地記念碑および飯沼貞吉の墓を合わせれば,飯盛山史跡は「白虎隊士中二番隊の殉難」というコンセプトでまとめられる.
 ところがこの広場には「なぜこんなものが?」と唐突感あふれる記念碑が二つ存在する.《会津の旅 (二)》で,

山上には石碑の類がたくさん建っているのだが,この中に,昭和三年にムソリーニから寄贈された「ローマ碑」と,昭和十年にドイツ大使館書記官から贈られた「ドイツ碑」と呼ばれる二つの石碑がある.
 ローマ碑はかなり大きい石柱状のモニュメントだが,ドイツ碑は普通の大きさのものだ.
 この二つの石碑の由緒については
ここに書かれている.それはそれでよいのだが,ドイツ碑には鉄十字章彫刻されているので,ちょっとびっくりした.しかしよく見ると鉄十字の中心に鉤十字が刻まれていないので,これはナチスドイツの鉄十字章ではなく,現在も使われている伝統的なドイツの鉄十字章であることがわかる.
 しかるに,ところが,である.

と書いた「ローマ碑」と「ドイツ碑」だ.以下は《しかるに,ところが,である》の続きである.

 まず「ローマ碑」から.

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(出典;Wikipedia【白虎隊】)

 白虎隊士中二番隊の墓前広場を管理する会津弔霊義会は,事業内容を紹介するコンテンツ中で
霊域にはイタリア・ローマ市寄贈の石柱碑など数多くの記念碑も寄せられています。
と書いているが,それ以上は触れていない.

 これに対して,観光客レベルの人が記した個人サイト《飯盛山のローマ碑などでは,

ムッソリーニはイタリアの東洋語学教授で、詩人でもあるダヌンチョと親交があった下位春吉を通じて日本武士道、白虎隊士の忠勇物語を聞く機会を得、ますます感銘を深くし、白虎隊の為に記念碑を贈ってもよいとの意向をもらし、下位春吉が帰国後の講演会で、この話しをしたそうです。
ただ、その後この話しは具体的な進捗がなく、年月が流れ関係者が焦慮していたところ、山川健次郎がこの話しを聞き、郷土会津の誇り白虎隊の墓所にイタリア記念碑が建てられるのは、この上ない名誉であり、日伊両国親善のきづなになると喜び、イタリア大使館を訪れ、促進の申し入れをしました。

と書かれていることが多い.というか,ネット上ではこのように記述されていることがほとんどである.
 しかしここに登場する下位春吉という男は誇大広告的言説を弄する怪人物のようで,

Wikipedia【下位春吉】 
Wikipedia【白虎隊】 
福家崇洋『日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち』 ( 河出書房新社,2012/6/9)

など,多くの資料によると,飯盛山のローマ碑は,下位春吉の嘘言が発端となって瓢箪から駒が出たような経緯で実現してしまったものとされる.
 公益財団法人会津弔霊義会の公式サイトが《霊域にはイタリア・ローマ市寄贈の石柱碑など数多くの記念碑も寄せられています》とわずか一行で片付けているのは,そのせいだろう.この石碑が,恥ずべき経緯でここに建てられ,しかもファシストからの贈物とあっては,これは白虎隊を軍国主義的に祀り上げるものであり,泉下の白虎隊士たちの顔に泥を塗るものと言わざるを得ないのだ.

 しかも実は現在の飯盛山ローマ碑は,戦後すぐに連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の命令により碑文の一部を削って消した上で横倒しにさせられたものを,碑文を彫刻し直して立て直したものだ.立て直したのはともかく,復刻とはまた非常識なことをしたもので,つまりその歴史資料としての価値は大きく損なわれてレプリカ化してしまったのである.

 昔の財団法人は,天下り官僚の隠れ蓑だったり実体のない脱法幽霊団体だったりが紛れ込んでいる「何でもあり」状態だった (当ブログの筆者は所属企業からその種の財団法人に出向した経験を持つ) のであるが,関連法案が改正されて,旧い財団法人は公益財団法人と一般財団法人に分離された.一般財団法人は普通の会社と同じと考えてよい.しかし公益財団法人は,運営上の優遇措置があるが,その一方で総務省の監督下に置かれる.財団の「公益性」に問題があれば行政指導が行われ,改善ができなければ最悪は解散の憂き目にあうこともあり得る.

 実は私は会社を定年退職したあと公益財団法人にいたことがあり,その経験からすると,日本軍国主義の残滓,しかもレプリカに過ぎないものを維持し続けることの公益性を総務省から問われたら,会津弔霊義会はかなり苦しい弁明を強いられると思われる.
 さて次は「ドイツ碑」だ.

(* 末尾註) 会津若松市は市史を刊行頒布している.現在注文中のため未読.

(続く)

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