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2016年3月31日 (木)

会津の旅 (七)

 風評というものの怖さは,一旦信じてしまうと,なかなか頭から追い出しにくいことだ.例えば福島県の農産物や食品は私たちの身近にある例の一つだ.今これを忌避している人たちは,誰に何を言われようと今後も忌避し続けるだろう.
 風評は,正しい情報が適切に提供されない時に発生する.会津戦争が終わったあと,新政府軍から遺骸埋葬の禁止が命令されたという風評が広まった時に,世の中には新聞もラジオもなかったから誰もそれを打ち消さなかった.埋葬禁止の件だけでなく他の事情もあるのだが,こうして会津人のあいだに根付いた薩長への憎悪,特に長州に対する怨念は消えることなく現在にも続いている.例えば Wikipedia【会津戦争】は,後世への影響例として以下のことを挙げている (抜粋).

1986年 (昭和61年) には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
2007年 (平成19年) 山口県の衆議院議員で山口県第4区選出の内閣総理大臣安倍晋三は、会津若松市を訪問したときに「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った。
2011年 (平成23年) 3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問したが、会津若松市長は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた。

 上記の最後に挙げた会津若松市長の例などは,子供じみているとしか言いようのない無礼さであるが,そう言わないと選挙に響くことを恐れたのかも知れない.
 そういえば什の掟には「礼儀を欠いてはなりませぬ」がない.「戸外で物を食べてはなりませぬ」とか「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」なんぞより余程大切かと思うぞ.

 さて話が旅行記から会津の怨念史観へと横道に逸れてしまった.この辺りのことは Wikipedia【宮崎十三八】Wikipedia【観光史学】に譲って,白虎隊士の墓前広場のことを書く.

 まず第一に自刃白虎隊士の墓.

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 この白虎隊士墓前広場から少年たちが自刃した場所に至る一帯は現在,大正六年に設立認可された財団法人会津弔霊義会が管理している.会津弔霊義会は平成二十四年の法改正により公益財団法人の認定を受け,公益財団法人会津弔霊義会となった.
 ほとんどの公益財団法人は,時代の要請を受けて法人情報の開示に努めており,公式サイト上で理事等の役員名,事業報告書と決算報告書等を開示しているが,この会津弔霊義会は一切の情報を開示していない.理由は不明.所在地は飯盛山だから,私が会津若松市民なら直接出向き,同会の役員会構成,決算報告書および資産台帳の開示を求めるところである.どなたか近くにお住いの定年退職者で,興味とお暇のある向きは,個人的に公益財団法人運営の監査をやってみたらいかがだろう.

 次に会津藩殉難烈婦碑.

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 会津藩の殉難烈婦といえば,この連載の最初《会津の旅 (一) 》に書いた中野竹子が有名だ.他には家老西郷頼母の家族と,同じく家老梶原平馬の実家である内藤一族の婦女子がよく知られるところ.
 ちなみに,歌人であった飯沼貞吉の母は,貞吉に与えた
    梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士の道
で知られるが,会津戦争後まで生きたと思われるものの,その後はよくわからない.

 郡上藩凌霜隊之碑.

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 慶応四年,美濃国郡上藩の国元は朝廷に帰順すると決めたが,江戸家老朝比奈藤兵衛は佐幕派であり,息子茂吉を隊長とする藩士四十七名を脱藩させて凌霜隊を結成し,同年四月十日,会津に差し向けた.
 凌霜隊は江戸から現在の千葉,群馬,栃木各県を経て同年九月四日に会津城下に入った.時既に若松城は籠城戦に入っていたが,九月六日に凌霜隊は城内に入った.
 若松城内ではこの時,白虎隊士中二番隊のうち,自刃した隊士たちと別に作戦戦闘していたと思われる少年兵たちが帰還しており,これと一番隊とを合わせて再編成した新たな一番隊が結成されていた.これには八月二十三日の戦闘に参加しなかった旧二番隊長日向内記が再び隊長となっていたので,凌霜隊はただちに日向内記の配下に編入され,再編された白虎隊士らと共に籠城防衛戦を戦った.
 会津戦争終結後,隊士の三分の一を失った凌霜隊は故郷の郡上八幡に護送された後,罪人として死罪を言い渡された.しかし郡上領内の寺の住職たちの尽力により,牢内で生き残った隊士たちは明治三年二月に釈放された.

 篤志碑 (吉田伊惣次).

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  白虎隊士殉難予飯盛山
  也牛墓里正吉田伊惣次
  悼之私葬其屍官賜金若

と碑面に彫られている.里正は庄屋のこと.
「白虎隊士殉難は予め飯盛山なり 牛ヶ墓の里正吉田伊惣次は之を悼み 其の屍を私葬すること官賜金の若し」と読めばいいのだろうか.「官賜金若」がよくわからない.埋葬費用は新政府軍に任命されて戦後処理にあたった会津藩士が有志を募って拠出したとの文献がある.だとするならば官賜金ではなく私費だが,それを敢えて官費と呼んだところが会津人の矜持であろうか (会津人は新政府を「官」とは認めない).「私費を投じてあたかも会津公から官費を賜ったかのように立派に葬った」と私は解釈したのだが,それでよかろうか.この「官賜金若」についてご存じのかた,ご教示頂ければ幸いです.
 案内板には,自刃した白虎隊士の遺骸を,滝沢村牛ヶ墓の肝煎であった吉田伊惣次が飯盛山と妙国寺の二ヶ所に仮埋葬したと記されている.これが会津弔霊義会の筆による白虎隊士中二番隊殉難の「正史」であろう.ここに飯盛正信の名はない.
(続く)

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