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2016年3月30日 (水)

会津の旅 (六)

 会津へ観光に出かける前から,飯盛山へ行く計画だったので,白虎隊について一応の知識は頭に入れておいたのだが,帰って旅行記を書く段になってまた色々と調べてみると,これは迂闊なことは書けないなあと思うようになった.
 知人にも「白虎隊のことはデリケートだからあまり書かないほうがいいのでは?」とアドバイスされた.
 その「デリケートなこと」の一つに会津側戦死者の埋葬問題がある.
 詳しくいうと,会津戦争後,新政府軍側が会津側戦死者の埋葬を禁止したため,遺骸が鳥獣に荒らされて悲惨な状態となったと会津では固く信じられている.そしてこれが,埋葬禁止は人間にあるまじき振る舞いであるとして,会津人の薩長に対する憎悪を甚だしく掻きたてた.
 しかし会津側戦死者の埋葬を禁じたとされる新政府軍側の通知にはそのような記述が見られないことから,これは事実ではないとする冷静な批判が行われた.しかるに埋葬禁止を信ずる側からの再反論があり,歴史家ではない一般人同士の論難は泥仕合の様相を呈した (ネット上では今も互いの論難が行われている).

 私の観るところ,その原因は信用できる資料が少ないことである.考えてみれば,インタビューとノンフィクションの方法論を弁えたライターが登場するのは,はるか後世の1960年代である.戊辰戦争当時は,事実だろうが伝聞や嘘であろうがお構いなく文字で記録され,現代に伝えられたと思われるのだ.
 甚だしきは,当事者なのに矛盾した言説を弄する人がいるのである.何度も登場してもらって申し訳ないが,例の飯盛家の見解を「飯盛分店」の公式サイトから二ヶ所を引用する.

[飯盛山のみどころ]
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ(埋葬禁止令』埋葬の許可がされませんでした。風雨に晒される少年たちの遺体は、衣服遺留品は盗賊に盗られ、動物に食べられ酷い状態でした。不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました。しかし、このことが西軍にわかり、正信爺は伊惣次と共に処罰され、その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました。
 (ブログ筆者註;文中最初の一行の〈(埋葬禁止令』〉は原文のまま)

[会津若松・飯盛山 歴史のおはなし]
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされ白虎隊士の遺骸も埋葬を許可されず、密かに妙国寺に仮埋葬されておりました
明治2年にようやく飯盛山の中腹に合葬がゆるされ、私ども飯盛一族は、土地三反歩を旧藩主に献納し、自刃19士の白虎隊墓地が新設されたことで、「飯盛山は、わしが守る」と、初代「飯盛キン」が慰霊を尽してから、 二代目・三代目と継承し、現在で四代目となりました。

 自刃した隊士たちの遺骸は《今の墓前広場の一角に仮埋葬》されたのか,それとも《密かに妙国寺に仮埋葬》されたのか.同じサイト内の記述なのに,飯盛家の見解はこの有様なのである.(妙国寺は,現在の飯盛山墓前広場から500mほど離れたところにある)

 ちなみに,今井昭彦 (1983年成城大学文芸学部文芸学科卒,同大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修士課程修了後,埼玉の県立高等学校社会科教員) という人物が「会津少年白虎隊士の殉難とその埋葬」という論文 (成城大学常民文化専攻紀要『常民文化』第24号,2001年3月発行;これは pdf をネットで検索して閲覧可能) を書いている.

 この論文は,白虎隊士の遺骸が埋葬禁止されたとする人たちが論拠の一つとしているものであるが,いくつも問題点がある.
 例えばその一つに,今井論文は平成になってから書かれたものであるのにもかかわらず,引用文献として,基本的資料である飯沼貞吉『白虎隊顛末略記』と酒井峰治『戊辰戦争実歴談』ではなく,何を血迷ったかNHK取材班『堂々日本史』(中央出版) を挙げている〈爆〉.これでは論文の体を成しておらず,ほとんど雑文であるので以下では今井雑文と呼ぶ (大学の紀要というのは学術論文誌が受理してくれないものを掲載するのが通り相場であるとはいえ,成城大学はよくまあこんなものを大学紀要に載せたものだ) .
 また今井雑文は,自刃した白虎隊士の遺骸を埋葬したのは,滝沢村の肝煎である吉田伊惣次の曽孫である吉田赴夫の証言を根拠 (ただし出版物からの孫引き) として,伊惣次の妻左喜であるとしている.埋葬地は吉田家の菩提寺である妙国寺であり,遺骸は四体だったらしいとしている.さらに今井雑文は《また妙国寺だけではなく飯盛山にも埋葬されたともいわれているが、その数も明らかではない》(上記紀要の p.80) としており,これはつまり飯盛正信の白虎隊士埋葬への関与を無視し,飯盛家側の主張を否定するものである.前述の「飯盛分店」サイトの体たらくを見れば飯盛家を信用できないのかも知れぬが,それならそれとはっきり書けばよい.
 さらにまた今井雑文は妙国寺の位置を《飯盛山から2キロ離れた》(上記紀要の p.80) としているが,Google マップ上で計測すると,既に上に述べたように飯盛山からの距離は約500mである.つまり今井昭彦氏は「会津少年白虎隊士の殉難とその埋葬」を書くに際して現地へ行っていないようなのである〈爆〉.
 要するに,白虎隊士の遺骸の埋葬一つとっても事実関係が確定していないのだ.
(続く)

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