会津の旅 (四)
慶応四年(1868年) 八月二十二日,戸ノ口原方面へ進軍した白虎士中二番隊は,翌二十三日の開戦に備えて途中野営した.この時,隊長の日向内記は友軍との連絡のために一人で隊を離れるが,敵軍と遭遇した上に道に迷ったために若松城に帰還したという.副隊長格の水野佑之進らは戦闘中に少年兵たちとはぐれたという.
残された白虎士中二番隊の少年兵三十七名は,実戦経験なく装備は旧式銃,しかも隊長は行方不明.このような状況下,鳥羽伏見の戦い以来,会津藩士に予め約束された敗北の運命に,少年たちは戦いを挑んだのである.
翌二十三日未明,隊長他指揮官たちの不在に呆然とする隊士たちを,十七歳の篠田儀三郎が立ち上がって鼓舞した.
この時の様子は,士中二番隊士のうち,会津戦争を生き延びて後世に白虎隊自刃の経緯を伝えた飯沼貞吉の手記『白虎隊顛末略記』によれば
《此の時早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、腰抜け隊長何の狗□、吾は教導の首席なるを以て、代わりて隊長の任務を執らんと直に気を付けの号令を□し、人員点呼を行えり。其の点呼終わらずや否や、進めの号令を発せり。流石に死を決したる隊士、一人として篠田の進軍の令に違背するものなく、全軍粛然として戸ノ口差して行進す》 (ブログ筆者註;引用中の「□」は不明字)
であったという.(以下,士中二番隊の状況は『白虎隊顛末略記』の記述による)
戸ノ口原に到達する前に,士中二番隊は敵の銃声を耳にした.既に敵兵は戸ノ口原に出兵した友軍を破り,銃を撃ちながら進軍してきたものと思われた.ちょうどそこに溝があったので士中二番隊は溝に潜んだが,その敵が百メートルほどに迫った時,突然横方向にも敵兵の姿が現れた.
これを見て,隊の指揮を執る篠田儀三郎が撃てと命ずるや,隊士たちは銃撃を開始した.
敵軍は一度は散乱するも,やがて態勢を整えて反撃に移った.再び『白虎隊顛末略記』から引用する.
《茲に隊士死力を尽くし、銃身熱し手にすること能わざる迄発射すれども、僅かに一個中隊の能く防御し、得べきにあらず。味方の死傷、殊に多く、殆ど全滅に垂んとす。茲に於いて、流石に篠田も最早当り難きと思いけん、引け引けの号令を為し、白刃を振りて真先に立ち、退却す。》
篠田儀三郎に率いられて二十丁ほど退却すると,ようやく敵の追撃を逃れることができたが,それでもまだ砲声は遠くに聞こえていた.ここで一旦足を休め,人員点呼したところ,わずか十六名であった.退却の途中で副隊長格の山内蔵人と遭遇したが,少年たちと意見を異にしたため去った.(山内のことは,自刃した少年たちとはぐれてしまった少年兵酒井峰治が後に書き残した『戊辰戦争実歴談』に記載されている)
ここまで生き延びた隊士十六名は疲労と空腹を覚えたが,前夜の残り飯を持っていた者がいたので,これを水に加えて混ぜ,交互に手ですくって口に入れた.これでようやく気力が回復したので,若松城へ戻るべく南進したが,道を誤って若松街道滝沢坂の麓に出た.
ここで隊士たちは若松城を目指して行軍する隊列を目にした.友軍か敵軍か不明であったため試みに合言葉を発したところ,これに応えぬどころか銃撃を受けたので,ただちに南側の山腹に沿って退却した.
敵の射撃を逃れて飯盛山に登って遠く若松城を望めば,その方角には黒煙が立ちのぼり,また街道には幾多の敵軍の進むのが見えた.
これを『白虎隊顛末略記』は次のように記す.
《今や満目の有様、斯の如し。血気の少年、茲に始て悄然たり。》
ここにはじめて悄然たり.立ち尽くした少年兵たちの心中はいかばかりか.『白虎隊顛末略記』中,読者の胸を打つ下りである.
やがて合流した者を加えて隊は二十名となったが,この隊士二十名について Wikipedia【白虎隊】は,
《このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉 (のち貞雄と改名) のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災 (もしくは城周辺から上がる湯気) を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの) によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。》
と記述している.
上の引用中に《一般に白虎隊は若松城周辺の火災 (もしくは城周辺から上がる湯気) を目にし落城したと誤認して悲観したとされている》とあるが,確かにネット上にもこの風説が散見される.
この風説の出処だが,白虎隊自刃の直後から埋葬に関わり,後に彼らの悲劇を明治大正昭和三代にわたり流布してきた飯盛家ではあるまいか.事実,飯盛家が経営する「飯盛分店」の公式サイトには次のように書かれているのである.
《会津藩は、15歳から17歳の少年で「白虎隊」を 編成し、その中でも、二番隊は、明治元年(1868)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、 負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。
だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を鶴ヶ城が落城したものと早計し総勢20名が自刃。》
(続く)
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